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* 石田尚豊『聖徳太子辞典』 柏書房 ISBN 4760115404
* 石田尚豊『聖徳太子辞典』 柏書房 ISBN 4760115404
* 新川登亀男『聖徳太子の歴史学』2007 講談社 ISBN 4062583828
* 新川登亀男『聖徳太子の歴史学』2007 講談社 ISBN 4062583828
*[[谷沢永一]] 「聖徳太子はいなかった」2004 新潮新書 ISBN-13: 978-4106100628
*[[谷沢永一]] 「聖徳太子はいなかった」2004 新潮新書 ISBN 978-4106100628
* 家永三郎ほか『聖徳太子論争』2006 新版 新泉社 ISBN 4787706055
* 家永三郎ほか『聖徳太子論争』2006 新版 新泉社 ISBN 4787706055
* 梅原猛『聖徳太子』2003 小学館、1993 集英社文庫
* 梅原猛『聖徳太子』2003 小学館、1993 集英社文庫

2016年11月15日 (火) 19:22時点における版

聖徳太子
聖徳太子像(菊池容斎前賢故実』より)
続柄 用明天皇第二皇子

全名 厩戸皇子、厩戸王
称号 上宮王、豊聡耳、
上宮之厩戸豊聡耳命、法主王、豊聡耳聖
徳豊聡耳法大王、上宮太子聖徳皇、
厩戸豊聰耳聖徳法王、
上宮厩戸、厩戸皇太子
敬称 皇子、太子
出生 574年2月7日敏達天皇3年1月1日
死去 622年4月8日推古天皇30年2月22日
埋葬 叡福寺北古墳
配偶者 菟道貝蛸皇女
  刀自古郎女
  橘大郎女
  膳大郎女
子女 山背大兄王財王日置王白髪部王
長谷王三枝王伊止志古王麻呂古王
片岡女王手島女王春米女王
久波太女王波止利女王馬屋古女王
父親 用明天皇
母親 穴穂部間人皇女
役職 皇太子
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聖徳太子(しょうとくたいし、敏達天皇3年1月1日574年2月7日) - 推古天皇30年2月22日622年4月8日))は、飛鳥時代皇族政治家厩戸王または厩戸皇子の後世の呼称。用明天皇の第二皇子、母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女

推古天皇のもと、蘇我馬子と協調して政治を行い、国際的緊張のなかで遣隋使を派遣するなど大陸の進んだ文化や制度をとりいれて、冠位十二階十七条憲法を定めるなど天皇を中心とした中央集権国家体制の確立を図った他、仏教を取り入れ神道とともに厚く信仰し興隆につとめた。

呼称

本名は厩戸(うまやど・うまやと)であり、戸の前で出生したことによるとの伝説がある[注 1]。また、母が実母である蘇我小姉君の実家、つまり叔父・蘇我馬子の家で出産したため、馬子屋敷が転じて厩戸と付けられたとする説や、生誕地の近辺にある厩戸という地名から名付けられたとする説もある。

厩戸皇子と呼ばれているが、この頃はまだ天皇号ではなく大王号だった可能性が高く、厩戸王だったとされる説が有力である。

別名として豊聡耳(とよとみみ、とよさとみみ)、上宮王(かみつみやおう)とも呼ばれ、顕真が記した『聖徳太子伝私記』の中で引用されている慶雲3年(706年)頃に作られた「法起寺塔露盤銘」には上宮太子聖徳皇、『古事記』(和銅5年、712年)では上宮之厩戸豊聡耳命、『日本書紀』(養老4年、720年)では厩戸皇子のほかに豊耳聡聖徳豊聡耳法大王法主王東宮聖徳と記されている。

聖徳太子という呼称は生前にはなく、没後100年以上を経て天平勝宝3年(751年)に編纂された『懐風藻』が初出と言われる[注 2]。そして、平安時代に成立した史書である『日本三代実録[1]』『大鏡』『東大寺要録』『水鏡』等はいずれも「聖徳太子」と記載し、「厩戸」「豐聰耳」などの表記は見えないため、遅くともこの時期には「聖徳太子」の名が一般的な呼称となっていたことが伺える。

713年-717年頃の成立とされる『播磨国風土記』印南郡大國里条にある生石神社の「石の宝殿」についての記述に、「池之原 原南有作石 形如屋 長二丈 廣一丈五尺 高亦如之 名號曰 大石 傳云 聖徳王御世 廄戶 弓削大連 守屋 所造之石也」(原の南に作石あり。形、屋の如し。長さ二(つえ)、廣さ一丈五尺(さか、または)、高さもかくの如し。名號を大石といふ。傳へていへらく、聖徳の王の御世、弓削の大連の造れる石なり)とあり、「弓削の大連」は物部守屋、「聖徳の王(聖徳王)」は厩戸皇子[2]と解釈する説もある。また、大宝令の注釈書『古記』(天平10年、738年頃)には上宮太子の諡号聖徳王としたとある。

現代において一般的な呼称の基準ともなる歴史の教科書においては長く「聖徳太子(厩戸皇子)」とされてきた。しかし上記のように存命中の呼称ではないという理由により、たとえば山川出版社の『詳説日本史』では2002年(平成14年)度検定版から「厩戸王(聖徳太子)」に変更されたが、この方針に対して尊皇派が反発し批判を展開している[注 3][注 4][注 5]。2013年(平成25年)3月27日付朝日新聞[3]によれば清水書院の高校日本史教科書では2014年(平成26年)度版から聖徳太子虚構説をとりあげる。

紙幣の肖像など

聖徳太子の肖像が描かれた一万円札(C一万円券)
聖徳太子の肖像が描かれた500円収入印紙(1948年発行)

聖徳太子の肖像画は1930年(昭和5年)、紙幣日本銀行券)の絵柄として百円紙幣に初めて登場して以来、千円紙幣五千円紙幣一万円紙幣と登場し、累計7回と最も多く紙幣の肖像として使用された。また、長きに渡って使用されたため、「お札の顔」として日本国民に広く認識されるようになった。特に高度成長期に当たる1958年(昭和33年)から1984年(昭和59年)に発行された「C一万円券」が知られており、高額紙幣の代名詞として「聖徳太子」という言葉が使用された。なお、この肖像は太子を描いた最古のものと伝えられる唐本御影から採られている。1948年(昭和23年)発行の500円収入印紙にも聖徳太子の肖像画が採用されている。

日本書紀に見られる記述

聖徳太子立像(飛鳥寺

敏達天皇3年(574年)、橘豊日皇子と穴穂部間人皇女との間に生まれた。橘豊日皇子は蘇我稲目の娘堅塩媛を母とし、穴穂部間人皇女の母は同じく稲目の娘・小姉君であり、つまり厩戸皇子は蘇我氏と強い血縁関係にあった。厩戸皇子の父母はいずれも欽明天皇を父に持つ異母兄妹であり、厩戸皇子は異母のキョウダイ婚によって生まれた子供とされている。

幼少時から聡明で仏法を尊んだと言われ、様々な逸話、伝説が残されている。

用明天皇元年(585年)、敏達天皇崩御を受け、父・橘豊日皇子が即位した(用明天皇)。この頃、仏教の受容を巡って崇仏派の蘇我馬子と排仏派の物部守屋とが激しく対立するようになっていた。用明天皇2年(587年)、用明天皇は崩御(死去)した。皇位を巡って争いになり、馬子は、豊御食炊屋姫(敏達天皇の皇后)の詔を得て、守屋が推す穴穂部皇子を誅殺し、諸豪族、諸皇子を集めて守屋討伐の大軍を起こした。厩戸皇子もこの軍に加わった。討伐軍は河内国渋川郡の守屋の館を攻めたが、軍事氏族である物部氏の兵は精強で、稲城を築き、頑強に抵抗した。討伐軍は三度撃退された。これを見た厩戸皇子は、白膠の木を切って四天王の像をつくり、戦勝を祈願して、勝利すれば仏塔をつくり仏法の弘通に努める、と誓った。討伐軍は物部軍を攻め立て、守屋は迹見赤檮に射殺された。軍衆は逃げ散り、大豪族であった物部氏は没落した。

戦後、馬子は泊瀬部皇子を皇位につけた(崇峻天皇)。しかし政治の実権は馬子が持ち、これに不満な崇峻天皇は馬子と対立した。崇峻天皇5年(592年)、馬子は東漢駒に崇峻天皇を暗殺させた。その後、馬子は豊御食炊屋姫を擁立して皇位につけた(推古天皇)。天皇家史上初の女帝である。厩戸皇子は皇太子[注 6]となり、馬子と共に天皇を補佐した。

同年、厩戸皇子は物部氏との戦いの際の誓願を守り、摂津国難波四天王寺を建立した。四天王寺に施薬院、療病院、悲田院、敬田院の四箇院を設置した伝承がある。推古天皇2年(594年)、仏教興隆の詔を発した。推古天皇3年(595年)、高句麗の僧慧慈が渡来し、太子の師となり「は官制が整った強大な国で仏法を篤く保護している」と太子に伝えた。

推古天皇5年(597年)、吉士磐金を新羅へ派遣し、翌年に新羅が孔雀を贈ることもあったが、推古天皇8年(600年新羅征討の軍を出し、交戦の末、調を貢ぐことを約束させる[注 7]

推古天皇9年(601年)、斑鳩宮を造営した。

推古天皇10年(602年)、再び新羅征討の軍を起こした。同母弟・来目皇子を将軍に筑紫に2万5千の軍衆を集めたが、渡海準備中に来目皇子が死去した(新羅の刺客に暗殺されたという説がある)。後任には異母弟・当麻皇子が任命されたが、妻の死を理由に都へ引き揚げ、結局、遠征は中止となった。この新羅遠征計画は天皇の軍事力強化が狙いで、渡海遠征自体は目的ではなかったという説もある。書生を選び、来日した観勒を学ばせる。

推古天皇11年(603年12月5日、いわゆる冠位十二階を定めた。氏姓制ではなく才能を基準に人材を登用し、天皇の中央集権を強める目的であったと言われる。

推古天皇12年(604年4月3日、「夏四月 丙寅朔戊辰 皇太子親肇作憲法十七條」(『日本書紀』)いわゆる十七条憲法を制定した。豪族たちに臣下としての心構えを示し、天皇に従い、仏法を敬うことを強調している。9月には、朝礼を改め、宮門を出入りする際の作法を詔によって定めた。[注 8]

推古天皇13年(605年)、諸王諸臣に、褶の着用を命じる。斑鳩宮へ移り住む。

推古天皇15年(607年)、屯倉を各国に設置する。高市池、藤原池、肩岡池、菅原池などを作り、山背国栗隈に大溝を掘る。小野妹子鞍作福利を使者とし随に国書[注 9]を送った。翌年、返礼の使者である裴世清が訪れた[注 10]。日本書紀によると裴世清が携えた書には「皇帝問倭皇」(「皇帝 倭皇に問ふ」)とある。これに対する返書には「東天皇敬白西皇帝」(「東の天皇 西の皇帝に敬まひて白す)[注 11]とあり、隋が「倭皇」とした箇所を「天皇」[注 12]としている。この返書と裴世清の帰国のため、妹子を、高向玄理南淵請安ら留学生と共に再び隋へ派遣した。

推古天皇20年(612年)、百済人味摩之が伎楽を伝え、少年たちに伎楽を習わせた。

推古天皇21年(613年)、掖上池、畝傍池、和珥池を作る。難波から飛鳥までの大道を築く。日本最古の官道であり[4]、現在の竹内街道とほぼ重なる。

推古天皇22年(614年)、犬上御田鍬らを隋へ派遣する。最後の遣隋使となる。

厩戸皇子は仏教を厚く信仰し、推古天皇23年(615年)までに三経義疏を著した。

推古天皇28年(620年)、厩戸皇子は馬子と議して『国記』、『天皇記』、『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』を編纂した。

推古天皇30年(622年)、斑鳩宮で倒れた厩戸皇子の回復を祈りながらの厩戸皇子妃・膳大郎女が2月21日に没し、その後を追うようにして翌22日、厩戸皇子は亡くなった。(日本書紀では、同29年2月5日621年))

そのほかの伝説

16歳の聖徳太子像(新井薬師寺

以下は、聖徳太子にまつわる伝説的なエピソードのいくつかである。

なお、聖徳太子の事績や伝説については、それらが主に掲載されている古事記日本書紀の編纂が既に死後1世紀近く経っていることや記紀成立の背景を反映して、脚色が加味されていると思われる。 そのため様々な研究・解釈が試みられている。平安時代に著された聖徳太子の伝記『聖徳太子伝暦』は、聖徳太子伝説の集大成として多数の伝説を伝えている[注 13]

出生について

「厩の前で生まれた」、「母・間人皇女は西方の救世観音菩薩が皇女の口から胎内に入り、厩戸を身籠もった」(受胎告知)などの太子出生伝説に関して、「記紀編纂当時既に中国に伝来していた景教キリスト教ネストリウス派)の福音書の内容などが日本に伝わり、その中からイエス・キリスト誕生の逸話が貴種出生譚として聖徳太子伝説に借用された」との可能性を唱える研究者(久米邦武が代表例)もいる[注 14]

しかし、一般的には、当時の国際色豊かな中国の思想・文化が流入した影響と見なす説が主流である。ちなみに出生の西暦574年の干支甲午(きのえうま)でいわゆる年であるし、また古代中国にも観音神仙により受胎するというモチーフが成立し得たと考えられている(イエスよりさらに昔の釈迦出生の際の逸話にも似ている)。出生地は橘寺、またはその付近とされる。橘寺タヂマモリ垂仁天皇の御世に常世の国から持ち帰った橘の実の種を植えた場所といわれる。

豊聡耳

ある時、厩戸皇子が人々の請願を聞く機会があった。我先にと口を開いた請願者の数は10人にも上ったが、皇子は全ての人が発した言葉を漏らさず理解し、的確な答えを返したという。この故事に因み、これ以降皇子は豊聡耳(とよとみみ、とよさとみみ)とも呼ばれるようになった[注 15]

上宮聖徳法王帝説』、『聖徳太子伝暦』では8人であり、それゆえ厩戸豊聰八耳皇子と呼ばれるとしている。 『日本書紀』と『日本現報善悪霊異記』では10人である。また『聖徳太子伝暦』には11歳の時に子供36人の話を同時に聞き取れたと記されている。一方、「豊かな耳を持つ」=「人の話を聞き分けて理解することに優れている」=「頭がよい」という意味で豊聡耳という名が付けられてから上記の逸話が後付けされたとする説もある[要出典]

兼知未然

『日本書紀』には「兼知未然(兼ねて未然を知ろしめす、兼ねて未だ然らざるを知ろしめす)」とある。この記述は後世に「未来記(日本国未来記、聖徳太子による予言)」の存在が噂される一因となった。『平家物語』巻第八に「聖徳太子の未来記にも、けふのことこそゆかしけれ」とある。また、『太平記』巻六「正成天王寺の未来記披見の事」には楠木正成が未来記を実見し、後醍醐天皇の復帰とその親政を読み取る様が記されている。これらの記述からも未来記の名が当時良く知られていたことがうかがわれる。しかし、過去に未来記が実在した証拠が無く、物語中の架空の書か風聞の域を出ないものと言われている。江戸時代に、人心を惑わす偽書であるとして幕府により禁書とされ、編纂者の潮音らが処罰された『先代旧事本紀大成経』にある『未然本記』も未来記を模したものとみることができる。

南嶽慧思の生まれ変わり

南嶽慧思後身説(慧思禅師後身説)」と呼ばれる説。聖徳太子は天台宗開祖の天台智顗の師の南嶽慧思(515年 - 577年)の生まれ変わりであるとする。『四天王寺障子伝(=『七代記』)』、『上宮皇太子菩薩伝』、『聖徳太子伝暦』などに記述があるかもしれない。

中国でも、「南嶽慧思後身説」は知られており鑑真渡日の動機となったとする説もある[5]

飛翔伝説

聖徳太子伝暦』や『扶桑略記』によれば、太子は推古天皇6年(598年)4月に諸国から良馬を貢上させ、献上された数百匹の中から四脚の白い甲斐の黒駒を神馬であると見抜き、舎人の調使麿に命じて飼養する。同年9月に太子が試乗すると馬は天高く飛び上がり、太子と調使麿を連れて東国へ赴き、富士山を越えて信濃国まで至ると、3日を経て都へ帰還したという。

片岡飢人(者)伝説

『日本書紀』によると次のようなものである。

推古天皇21年12月庚午(613年)皇太子が片岡(片岡山)に遊行した時、飢えた人が道に臥していた。姓名を問われても答えない。太子はこれを見て飲み物と食物を与え、衣を脱いでその人を覆ってやり、「安らかに寝ていなさい」と語りかけた。太子は次の歌を詠んだ。

「斯那提流 箇多烏箇夜摩爾 伊比爾惠弖 許夜勢屡 諸能多比等阿波禮 於夜那斯爾 那禮奈理鷄迷夜 佐須陀氣能 枳彌波夜祗 伊比爾惠弖 許夜勢留 諸能多比等阿波禮」
しなてる 片岡山に 飯(いひ)に飢(ゑ)て 臥(こ)やせる その旅人(たびと)あはれ 親無しに 汝(なれ)生(な)りけめや さす竹の 君はや無き 飯に飢て臥せる その旅人あはれ

翌日、太子が使者にその人を見に行かせたところ、使者は戻って来て、「すでに死んでいました」と告げた。太子は大いに悲しんで、亡骸をその場所に埋葬してやり、墓を固く封じた。数日後、太子は近習の者を召して、「あの人は普通の者ではない。真人にちがいない」と語り、使者に見に行かせた。使者が戻って来て、「墓に行って見ましたが、動かした様子はありませんでした。しかし、棺を開いてみると屍も骨もありませんでした。ただ棺の上に衣服だけがたたんで置いてありました」と告げた。太子は再び使者を行かせて、その衣を持ち帰らせ、いつものように身に着けた。人々は大変不思議に思い、「聖(ひじり)は聖を知るというのは、真実だったのだ」と語って、ますます太子を畏敬した。

万葉集』には上宮聖德皇子作として次の歌がある。

上宮聖德皇子出遊竹原井之時見龍田山死人悲傷御作歌一首
(小墾田宮御宇天皇代墾田宮御宇者豐御食炊屋姫天皇也諱額田謚推古)
「家有者 妹之手將纏 草枕 客爾臥有 此旅人[立心偏+可]怜」

[注 16]

家にあらば 妹(いも)が手纒(ま)かむ 草枕客(たび)に臥やせる この旅人あはれ

また、『拾遺和歌集』には聖徳太子作として次の歌がある[注 17]

しなてるや片岡山に飯に飢ゑて臥せる旅人あはれ親なし

後世、この飢人は達磨大師であるとする信仰が生まれた。飢人の墓の地とされた北葛城郡王寺町に達磨寺が建立されている[注 18]

箸の奨励について

へ派遣した小野妹子からの報告をきっかけに、宮中でのの使用を奨励したという[6]

ゆかりの寺院

夢殿(法隆寺

日本各地には聖徳太子が仏教を広めるために建てたとされる寺院が数多くあるが、それらの寺院の中には後になって聖徳太子の名を借りた(仮託)だけで、実は聖徳太子は関わっていない寺院も数多くあると考えられており、境野黄洋は聖徳太子が建立した寺院について「法隆寺と四天王寺は確実である」と述べている[7]

四天王寺
大阪市天王寺区。『日本書紀』によれば、蘇我氏物部氏の戦いにおいて、蘇我氏側である聖徳太子は戦いに勝利すれば、四天王を安置する寺院を建てると誓願を立てた。見事勝利したので、摂津国難波四天王寺を建てた。『書記』によれば593年(推古天皇元年)のことという。四天王寺には、敬田院、施薬院、療病院、悲田院の4つの四箇院を設置したという。なお、聖徳太子の佩刀とされる七星剣丙子椒林剣が現在、四天王寺に保管されている。本尊は救世観音で、四天王寺では聖徳太子の念持仏の如意輪観音とも同一視される。
法隆寺(斑鳩寺)
奈良県生駒郡斑鳩町金堂薬師如来像光背銘によれば、法隆寺用明天皇が自らの病気平癒のため建立を発願したが、志を遂げずに崩御したため、遺志を継いだ推古天皇と聖徳太子が推古天皇15年(607年)に寺と薬師像を造ったという。『日本書紀』には天智天皇9年(670年)に法隆寺が全焼したとの記事がある。この記事をめぐり、現存する法隆寺(西院伽藍)は聖徳太子の時代のものか、天智天皇9年(670年)以降の再建かについて長い論争があったが(法隆寺再建・非再建論争)、若草伽藍の発掘調査により、聖徳太子時代の伽藍は一度焼失し、現存の西院伽藍は7世紀末頃の再建であることが定説となっている。「夢殿」を中心とする東院伽藍は太子の営んだ斑鳩宮の旧地に建てられている。
斑鳩寺(播磨)
兵庫県揖保郡太子町。聖徳太子は推古天皇から賜った播磨国揖保郡の地を「鵤荘」と名付け、伽藍を建立し、法隆寺に寄進をした。これが斑鳩寺の始まりと伝えられている。斑鳩寺は創建から永らく法隆寺の別院(支院)であったが、焼失、再建の後に天台宗へ改宗した。現在も「お太子さん」と呼ばれて信仰を集めている。なお、俗に「聖徳太子の地球儀」と呼ばれる「地中石」という寺宝が伝わっている。聖徳太子生誕地の橘寺と、墓所の叡福寺を結んだライン延長上にこの太子町の斑鳩寺が位置している。
太子建立七大寺 
四天王寺法隆寺中宮寺(中宮尼寺)、橘寺、蜂岡寺(広隆寺)、池後寺(法起寺)、葛木寺(葛城尼寺)は『上宮聖徳法王帝説』や、『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』によって聖徳太子が創建した七大寺と称されている。
河内三太子
聖徳太子ゆかりの寺院とされる叡福寺野中寺大聖勝軍寺はそれぞれ上之太子(かみのたいし)、中之太子(なかのたいし)、下之太子(しものたいし)と呼ばれ、「河内三太子」と総称されている[注 19]

ゆかりの神社

敬神の詔を推古15年(607年)に出したことからわかるように、聖徳太子は神道の神をも厚く祀った。四天王寺境内には鳥居があるほか、伊勢遥拝所・熊野権現遥拝所、守屋祠がある。

  • 四天王寺七宮 - 聖徳太子創建。 小儀神社(四天王寺東門前)、土塔神社(同南門前)、河堀稲生神社(天王寺区大道)、久保神社(同勝山)、大江神社(同夕陽丘町)、堀越神社(同茶臼山町)、上之宮神社(同上之宮町)
  • 玉造稲荷神社(大阪市中央区玉造) - 聖徳太子がこの地に布陣して戦勝を祈願し、戦勝後当地に観音堂を建てたという伝承がある。
  • 龍田神社(奈良県生駒郡斑鳩町龍田) - 聖徳太子が法隆寺の建設地を探していたとき、白髪の老人の姿をした龍田大明神が「斑鳩の里が仏法興隆の地である。私はその守護神となる」と託宣したので、その地を選び、鎮守社とした。
  • 御影の綱敷天満宮(神戸市東灘区御影) - 四天王寺創建の際、六甲山の御影石を切り出し、その際、蒼稲魂神を合せ祠る。その御神体と、聖徳太子の所持していた笏と駒角が現存する。
  • 竜王宮(滋賀県竜王町鏡山) - 山頂付近に聖徳太子26歳の時、自ら観音像を彫られ創建された雲冠寺(うんかんじ)跡がある。 雨の神・水の神ともいわれる八大竜王が龍王宮として祀られ、寺院の守護をした。
  • 飽波神社(生駒郡安堵町) - 聖徳太子が牛頭天王を祀ったのが創建と伝えられ、飽波宮のあった場所と比定する説もある。主祭神は素戔嗚尊。
  • 森之宮神社(鵲森宮〈かささぎもりみや〉、大阪市中央区森之宮) - 用明天皇間人皇后を祀る。聖徳太子創建。
  • 福王神社(三重県三重郡菰野町田口) - 聖徳太子の命により毘沙門天が安置され、国の鎮護と伊勢神宮の守りとしたと伝わる。
  • 御沢神社(おさわじんじゃ、滋賀県東近江市上平木町) - 主祭神は市杵嶋姫命、弁財天女、聖徳太子、八大龍王。聖徳太子が蘇我馬子に命じてこの一帯を開墾されたとき、用水の溜め池として清水(きよみず)池・白水(はくすい)池・泥水(にごり)池をつくり、神社を創建したと伝わる。
  • 白龍大神天宮塚(宝塚市) - 円錐形の山容をした天宮塚は中山連山の一つで、聖徳太子御修行遺跡。聖徳太子創建の中山寺[要曖昧さ回避]と関わる。

墓所

聖徳太子墓(叡福寺

宮内庁により、大阪府南河内郡太子町叡福寺にある「叡福寺北古墳」が墓所に比定されている(聖徳太子御廟・磯長陵 しながりょう)。ただし、後世に定められたものとする説もある。日本書紀には磯長陵とあるが、磯長墓と呼ばれることもある。穴穂部間人皇女膳部菩岐々美郎女を合葬する三骨一廟である。なお、 明治時代に内部調査した際の記録を基にした横穴式石室の復元模型が大阪府立近つ飛鳥博物館に存在する。

直径約55メートルの円墳。墳丘の周囲は「結界石」と呼ばれる石の列によって二重に囲まれている。2002年に結界石の保存のため、宮内庁書陵部によって整備され、墳丘すそ部が3カ所発掘された。2002年11月14日、考古学、歴史学の学会代表らに調査状況が初めて公開された。墳丘の直径が55メートルを下回る可能性が指摘されている[8][注 20]

系譜

天皇系図 26-37代
先祖

神武天皇応神天皇継体天皇-欽明天皇-用明天皇-聖徳太子

兄弟姉妹
妻子

著作

法華義疏

ここでは、以下の著作をいくつかとりあげる。ただ、聖徳太子の名を借りた(仮託)偽書も多い[注 21]ため注意が必要である。

  • 三経義疏』。このうち『法華義疏』は聖徳太子の真筆と伝えられるものが御物となっており、現存する書跡では最も古く、書道史においても重要な筆跡である。
  • 四天王寺縁起』は、聖徳太子の真筆と伝えられるものを四天王寺が所蔵しているが、後世(平安時代中期)の仮託と見られている。
  • 十七条憲法』は、『日本書紀』(推古天皇12年(604年))中に全文引用されているものが初出。『上宮聖徳法王帝説』には、乙丑の年(推古13年(605年)の七月に「十七餘法」を立てたと記されている。
  • 天皇記』、『国記』、『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』は、『日本書紀』中に書名のみ記載されるが、現存せず内容は不明。
  • 先代旧事本紀』は、序文で聖徳太子と蘇我馬子が著したものとしているが、実際には平安時代初期の成立と見られる。その中には全85条からなり、神職、僧侶、儒者、政治家、公務員へ向けた5種類の十七条憲法が掲載されている。(十七条五憲法)
  • 未来記』は、特定の書ではなく、聖徳太子に仮託した「未来記」を称する鎌倉時代に頻出する偽書群。

太子信仰

太子堂鶴林寺

聖徳太子の聖人化は、『日本書紀』に既にみえており、8世紀には「本朝(日本)の釈迦」と仰がれ、鎌倉時代までに『聖徳太子伝暦』など現存するものだけで二十種以上の伝記と絵伝(中世太子伝)が成立した[9]。こうした伝記と絵伝により「聖徳太子信仰」は形成されていった。

太子自身を信仰対象として、聖徳太子像を祀った太子堂が各地の寺院にある。なお、「聖徳太子は観音菩薩の生まれ変わりである」とする考えもあり、親鸞が、太子信仰を有していたことは著名で、親鸞を観音の化身としたことが、既に妻・恵信尼の書状によって知られる。さらに親鸞は『正像末和讃』「皇太子聖徳奉讃」に11首、『皇太子聖徳奉讃』に75首、『大日本国粟散王聖徳太子奉讃』に114首、と和讃を著している。

その他、室町時代の終わり頃から、太子の忌日と言われる2月22日を「太子講」の日と定め、大工や木工職人の間でが行なわれるようになった。これは、四天王寺法隆寺などの巨大建築に太子が関わり諸職を定めたという説から、建築、木工の守護神として崇拝されたことが発端である。さらに江戸時代には大工らの他に左官や桶職人、鍛冶職人など、様々な職種の職人集団により太子講は盛んに営まれるようになった[10]。なお、聖徳太子を本尊として行われる法会は「太子会」と称される。

現在は、聖徳太子を開祖とする宗派として聖徳宗(法隆寺が本山)が存在している。

後世の評価

関晃は次のように解説する。「推古朝の政治は基本的には蘇我氏の政治であって、女帝も太子も蘇我氏に対してきわめて協調的であったといってよい。したがって、この時期に多く見られる大陸の文物・制度の影響を強く受けた斬新な政策はみな太子の独自の見識から出たものであり、とくにその中の冠位十二階の制定、十七条憲法の作成、遣隋使の派遣、天皇記 国記 以下の史書の編纂などは、蘇我氏権力を否定し、律令制を指向する性格のものだったとする見方が一般化しているが、これらもすべて基本的には太子の協力の下に行われた蘇我氏の政治の一環とみるべきものである」[11]

田村圓澄は次のように解説する。「推古朝の政治について、聖徳太子と蘇我馬子との二頭政治であるとか、あるいは馬子の主導によって国政は推進されたとする見解があるが、572年(敏達天皇1)に蘇我馬子が大臣となって以来、とくに画期的な政策を断行したことがなく、聖徳太子の在世中に内政・外交の新政策が集中している事実から考えれば、推古朝の政治は太子によって指導されたとみるべきである」[12]

内藤湖南は『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」に記述された多利思北孤による「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」の文言で知られる国書は聖徳太子らによる創作と推定している[注 22]

虚構説

研究史

唐本御影」聖徳太子が描かれた肖像画。(この肖像画は8世紀半ばに別人を描いた物であるとする説もある。)

近代における実証的研究には久米邦武の『上宮太子実録』[13]がある。

また、十七条憲法を太子作ではないとする説は江戸後期の考証学狩谷鍵斎らに始まり、津田左右吉十七条憲法を太子作ではないと主張した[14]。戦後、井上光貞坂本太郎関晃らは津田説に反論している[15][注 23]。一方、森博達十七条憲法を『日本書紀』編纂時の創作としている[16]

高野勉の『聖徳太子暗殺論』(1985年)は、聖徳太子と厩戸皇子は別人であり、蘇我馬子の子・善徳が真の聖徳太子であり、後に中大兄皇子に暗殺された事実を隠蔽するために作った架空の人物が蘇我入鹿であると主張している。また石渡信一郎は『聖徳太子はいなかった—古代日本史の謎を解く』(1992年)を出版し、谷沢永一は『聖徳太子はいなかった』(2004年)を著している。近年は歴史学者の大山誠一らが主張している(後述)。

大山誠一による聖徳太子虚構説

1999年、大山誠一『「聖徳太子」の誕生』が発表された[17][18]。大山は「厩戸王の事蹟と言われるもののうち冠位十二階遣隋使の2つ以外は全くの虚構」と主張。さらにこれら2つにしても、『隋書』に記載されてはいるが、その『隋書』には推古天皇も厩戸王も登場しない、そうすると推古天皇の皇太子・厩戸王(聖徳太子)は文献批判上では何も残らなくなり[注 24][注 25]、痕跡は斑鳩宮と斑鳩寺の遺構のみということになる。また、聖徳太子についての史料を『日本書紀』の「十七条憲法」と法隆寺の「法隆寺薬師像光背銘文法隆寺釈迦三尊像光背銘文、天寿国繍帳、三経義疏」の二系統に分類し、すべて厩戸皇子よりかなり後の時代に作成されたとする。

大山は、飛鳥時代に斑鳩宮に住み斑鳩寺も建てたであろう有力王族、厩戸王の存在の可能性は否定しない。しかし、推古天皇の皇太子として、知られる数々の業績を上げた聖徳太子は、『日本書紀』編纂当時の実力者であった、藤原不比等らの創作であり、架空の存在であるとする。以降、『聖徳太子の真実』(平凡社、2003)や『天孫降臨の夢』(NHK出版、2009年)など多数の研究を発表している[19]

大山説の概要「有力な王族厩戸王は実在した。信仰の対象とされてきた聖徳太子の実在を示す史料は皆無であり、聖徳太子は架空の人物である。『日本書紀』(養老4年、720年成立)に最初に聖徳太子の人物像が登場する。その人物像の形成に関係したのは藤原不比等長屋王、僧 道慈らである。十七条憲法は『日本書紀』編纂の際に創作された。藤原不比等の死亡、長屋王の変の後、光明皇后らは『三経義疏』、法隆寺薬師像光背銘文、法隆寺釈迦三尊像光背銘文、天寿国繍帳の銘文等の法隆寺系史料と救世観音を本尊とする夢殿、法隆寺を舞台とする聖徳太子信仰を創出した。」[20][注 26]

大山説は雑誌『東アジアの古代文化』102号で特集が組まれ、102号、103号、104号、106号誌上での論争は『聖徳太子の実像と幻像』(大和書房 2001年) にまとめられている。石田尚豊は公開講演『聖徳太子は実在するか』の中で、聖徳太子虚構説とマスコミの関係に言及している[18]。『日本書紀』などの聖徳太子像には何らかの誇張が含まれるという点では、多くの研究者の意見は一致しているが、聖徳太子像に潤色・脚色があるということから「非実在」を主張する大山説には批判的な意見が数多くある。三浦佑之など大山説に賛同を表明する研究者もいる[注 27]

また、岡田英弘、宮脇淳子は大山説とは異なる視点から聖徳太子虚構説を論じている[21]

大山説への反論

仁藤敦史国立歴史民俗博物館研究部教授)は、『日本書紀』や法隆寺系以外の史料からも初期の太子信仰が確認され、法隆寺系史料のみを完全に否定することは無理があると批判している[注 28]。また「推古朝の有力な王子たる厩戸王(子)の存在を否定しないにもかかわらず、後世の「聖徳太子」と峻別し、史実と伝説との連続性を否定する点も問題」としている[22]

遠山美都男は「『日本書紀』の聖徳太子像に多くの粉飾が加えられていることは、大山氏以前に多くの研究者がすでに指摘ずみ」としたうえで、「大山説の問題点は、実在の人物である厩戸皇子が王位継承資格もなく、内政・外交に関与したこともない、たんなる蘇我氏の血を引く王族に過ぎなかった、と見なしていることである。斑鳩宮に住み、壬生部を支配下におく彼が、王位継承資格も政治的発言権もない、マイナーな王族であったとは到底考えがたい。」「『日本書紀』の聖徳太子はたしかに架空の人物だったかもしれないが、大山氏の考えとは大きく異なり、やはり厩戸皇子は実在の、しかも有力な王族だった」と批判している[23]

ほか、和田萃[注 29]や、曽根正人[24][注 30]らの批判がある。

龍谷大学平林章仁は、日本書紀はそもそも 舎人親王が監督した正式な朝廷編纂の国史書であり、個人の意図で大幅に内容が変えられるものでないとして、日本書紀は虚構説の資料には、ならないと指摘している。

聖徳太子虚構説に対する反論としては、直木孝次郎「厩戸王の政治的地位について」、上田正昭「歴史からみた太子像の虚実」(『聖徳太子の実像と幻像』所収)(2001年)、森田悌『推古朝と聖徳太子』(2005年)、などがある。

大山は2009年、これまでに十分な学術的な反論はないとしている[25]

虚構説の論点と歴史的資料

天寿国繍帳

聖徳太子の存在を傍証する資料は、『日本書紀(巻22推古紀)』及び「十七条憲法」、『古事記[注 31]、『三経義疏』、『上宮聖徳法王帝説』、天寿国繍帳(天寿国曼荼羅繍帳)、法隆寺薬師像および釈迦三尊像の光背銘文、同三尊像台座内墨書、道後湯岡碑銘文法起寺塔露盤銘、『播磨国風土記』、『上宮記』などの歴史的資料がある。これらのなかには厩戸皇子よりかなり後の時代、もしくは日本書紀成立以降に制作されたと考えられるものもあり、現在、決着してはいない。

日本書紀における聖徳太子像

大山説は藤原不比等と長屋王の意向を受けて、僧道慈(在唐17年の後、718年に帰国した)が創作したとする。しかし、森博達は「推古紀」を含む日本書紀巻22は中国音による表記の巻(渡来唐人の述作)α群ではなく、日本音の表記の巻(日本人新羅留学僧らの述作)β群に属するとする。「推古紀」は漢字、漢文の意味及び用法の誤用が多く、「推古紀」の作者を17年の間唐で学んだ道慈とする大山説には批判がある[誰?]。森博達は文武天皇朝(697年-707年)に文章博士山田史御方がβ群の述作を開始したとする[26]

勝鬘経義疏

  • 勝鬘経の注釈書である「勝鬘経義疏」について藤枝晃は、敦煌より出土した「勝鬘義疏本義」と七割が同文であり、6世紀後半の中国北朝で作られたもので[27]、大山はこれが筆写されたものとしている[28]
  • 「法華経義疏」巻頭の題箋(貼り紙)について、大山は僧侶行信が太子親饌であることを誇示するために貼り付けたものとする。
  • 安本美典は題箋の撰号「此是大委国上宮王私集非海彼本」中の文字(是・非など)の筆跡が本文のそれと一致しており、題箋と本文は同一人物によって記されたとして、後から太子親饌とする題箋を付けたとする説を否定している。また、題箋に「大委国」とあることから海外で作られたとする説も否定している。
  • 王勇は三経義疏について「集団的成果は支配者の名によって世に出されることが多い」としながらも、幾つかの根拠をもとに聖徳太子の著作とする。ただし、「法華経義疏」の題箋の撰号については書体と筆法が本文と異なるとして後人の補記であるとする[29]。また花山信勝は「法華経義疏」行間の書込み、訂正について、最晩年まで聖徳太子が草稿の推敲を続けていたと推定している[30]

『上宮聖徳法王帝説』の系譜

『上宮聖徳法王帝説』巻頭に記述されている聖徳太子の系譜について、家永三郎は『おそくとも大宝(701-704年)までは下らぬ時期に成立した』として、記紀成立よりも古い資料によるとしている[31]

天寿国繍帳

天寿国繍帳について大山は天皇号、和風諡号などから推古朝成立を否定している。また、金沢英之は天寿国繍帳の銘文に現れる干支が日本では持統4年(690年)に採用された儀鳳暦(麟徳暦)のものであるとして、制作時期を690年以降とする。一方、大橋一章は図中の服制など、幾つかの理由から推古朝のものとしている[32]義江明子は1989年に天寿国繍帳の銘文を推古朝成立とみてよいとする[33]石田尚豊は技法などから8世紀につくるのは不可能とする。

法隆寺釈迦三尊像光背銘文

法隆寺釈迦三尊像光背銘文について、大山説が援用する福山敏男説では後世の追刻ではないかとする[34]。一方、1979年に志水正司は「信用してよいとするのが今日の大方の形勢」とする[35]

道後湯岡碑銘文

道後湯岡碑(伊予湯岡碑文)についてはこれまで推古天皇四年に建てたものとされてきた(牧野謙次郎,1938年[注 32])。

大山は、道後湯岡碑銘文[36][注 33]における法興6年という年号について、法興は日本書紀に現れない年号(逸年号、私年号)であり、法隆寺釈迦三尊像光背銘文にも記されていると指摘している[37]

また大山は仙覚『万葉集註釈』(文永年間(1264年-1275年)頃)と『釈日本紀』(文永11年-正安3年頃(1274年-1301年頃))の引用(伊予国風土記逸文)が初出であるとして、鎌倉時代に捏造されたものとする。一方、荊木美行は伊予国風土記逸文を風土記(和銅6年(713年)官命で編纂)の一部としている[38]

法起寺塔露盤銘

慶雲3年(706年)に彫られたとされる法起寺塔露盤銘に「上宮太子聖徳皇」とあることについて、大山説では露盤銘が暦仁一年(1238年)頃に顕真が著した『聖徳太子伝私記[39]』にしか見出せないことなどから偽作とする。

但し、大橋一章の研究では、嘉禄三年(1227年)に四天王寺東僧坊の中明が著した『太子伝古今目録抄(四天王寺本)』には「法起寺塔露盤銘云上宮太子聖徳皇壬午年二月廿二日崩云云」と記されている[40]

また直木孝次郎は『万葉集』と飛鳥・平城京跡の出土木簡における用例の検討から「露盤銘の全文については筆写上の誤りを含めて疑問点はあるであろうが、『聖徳皇』は鎌倉時代の偽作ではない」と述べている[41]。また「日本書紀が成立する14年前に作られた法起寺の塔露盤銘には聖徳皇という言葉があり、書紀で聖徳太子を創作したとする点は疑問。露銘板を偽作とする大山氏の説は推測に頼る所が多く、論証不十分。」と批判している[42]

『播磨国風土記』の記述

播磨国風土記』(713年-717年頃の成立とされる)印南郡大國里条にある生石神社の「石の宝殿」についての記述に、「池之原 原南有作石 形如屋 長二丈 廣一丈五尺 高亦如之 名號曰 大石 傳云 聖徳王御世 廄戶 弓削大連 守屋 所造之石也」(原の南に作石あり。形、屋の如し。長さ二(つえ)、廣さ一丈五尺(さか、または)、高さもかくの如し。名號を大石といふ。傳へていへらく、聖徳の王の御世、弓削の大連の造れる石なり)とある。「弓削大連」は物部守屋、「聖徳王」は厩戸皇子と考えるなら[43]、『播磨国風土記』は物部守屋が大連であった時代を、「聖徳の王(厩戸皇子)の御世」と表現していることになる。また、大宝令の注釈書『古記』(天平10年、738年頃)には上宮太子の諡号を「聖徳王」としたとある。

脚注

注釈

  1. ^ 『日本書紀』に生年は記していないが、「生れましながら能く言ふ。聖の智有り」という記述があり、出産間近の間人皇女が宮中の厩の前を通りかかったとき、突然産気づき、少しも苦しまずに安産したという。参考文献:小学館週刊『新設戦乱の日本史 第27号 蘇我・物部の決戦』
  2. ^ 懐風藻序「逮乎聖徳太子。設爵分官。肇制礼儀。然而専崇釈教。未遑篇章。」
  3. ^ 小林よしのりは自身の著書「天皇論」にて「聖徳太子」という諡号をカッコ括りの記述にするのは皇室を蔑ろにするものと批判している(120頁にて)
  4. ^ 「厩戸王」は大山説でも使用されているが、史料には見られない。日本書紀は「厩戸皇子」。日本書籍の教科書を執筆した吉村武彦は「皇子を表記するに当たっては生存中の名前を使うのが一般的。『聖徳太子の時代』という表現にも違和感があり、『蘇我氏と厩戸皇子が政治をおこなう』と表記した」とする(2004年/平成16年1月10日日本経済新聞)。
  5. ^ ただし、歴史記述の際に、君主や皇族について、没後に定められた諡や追号を使用するのはよくあることである。「推古天皇」「後白河天皇」「武帝」など。また、平安時代以降は後白河天皇を後白河院と院号で呼ぶのが一般的であったし、長慶天皇や仲恭天皇のように同時代には即位自体が公認されず、没後数百年を経て政治的に追認された例もある。また、当時の正式名称ではない呼称を、後日の区別のために用いる例もあり、中国の王朝名の「前漢」「後漢」「蜀漢」「南漢」はみな国号は「漢」である
  6. ^ 荒木敏夫は皇太子制を飛鳥浄御原令での成立として厩戸皇子の立太子に疑問を呈する(『日本古代の皇太子』(吉川弘文館、1985年))が、河内祥輔は皇太子の称の有無とは別に、厩戸皇子の父・用明天皇は非皇族(蘇我氏)を母に持った皇族であったため、敏達天皇の后からの所生である竹田皇子の成人までの「中継ぎ」の天皇の地位に留まり、本来ならば厩戸皇子ら子孫への直系継承権を有していなかった。だが、竹田皇子の急死後に竹田皇子の母后(推古天皇)が自己に最も近い皇族であった甥の厩戸皇子を新たな後継者とするために、自ら即位して厩戸皇子を後継者に指名(後世の立太子に相当)する必要があったとする。これによって用明天皇系である厩戸皇子(聖徳太子)は直系(敏達天皇系)に準じる者として皇位継承権を得たが、指名者である推古天皇が没するまでその地位に留まらざるを得なくなった(結果として即位することなく死去した)とする。(『古代政治史における天皇制の論理』(吉川弘文館、1986年))
  7. ^ 開皇20年(600年)『隋書』に、國の「王姓阿毎 字多利思北孤 號阿輩彌」から初めて遣隋使がきた記事がある。なお『日本書紀』には同記事はない。「倭」を誤って「」と表記したとする説が有力である。
  8. ^ 日本書紀では十七条憲法の直後の記事に「推古天皇十二年(604年)秋九月 改朝礼 因以詔之曰 凡出入宮門 以両手押地 両脚跪之 越梱則立行」とある。日本書紀は、十七条憲法と共に、役人は宮門を出る時、宮門に入る時は土下座、四つんばいになるように命じられたとしている。
  9. ^ 日本書紀は随を大唐国としている。また、日本書紀には国書の内容(「日出る処…」)の記述はない。
  10. ^ 『日本書紀』には遣隋使、隋という文字はない。『隋書』によれば、遣使の国書は「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す(「聞海西菩薩天子重興佛法」「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」)」との文言があり、没落を表す日没する処という表現は隋の煬帝(開皇11年(591年)菩薩戒により総持菩薩となる)を「無礼である、二度と取り次がせるな」(「帝覧之不悦 謂鴻臚卿曰 蠻夷書有無禮者 勿復以聞」)と大いに不快にさせた。なお太子の使った「日出處」「日沒處」は『摩訶般若波羅蜜多経』の注釈書『大智度論』に「日出処是東方 日没処是西方」とあるなど、単に東西の方角を表す仏教用語であるとする。)。この国書は國が隋との対等の外交を目指したものであり、冊封体制に入らないことを宣言したものである。当時、隋は高句麗との戦争を準備しており、背後の國と結ぶ必要があった。
  11. ^ 『隋書』にこの記述はない。
  12. ^ どの時代から「天皇」という語が使用されているかについては諸説ある。
  13. ^ 田村圓澄は「その太子像は荒唐無稽な異聞奇瑞(きずい)で満たされている」とする。作者を藤原兼輔とする説が有力であったが、今日では疑問視されている(日本大百科全書(小学館) )。
  14. ^ 久米邦武は、学僧が日本に持ち帰った景教(ネストリウス派)の知識が太子誕生説話に付会されたのだろうと推定している。佐伯好朗は、1908年に論文「太秦を論ず」において聖徳太子と関係の深い秦氏と景教とユダヤ人の関わりについて論じ景教博士と呼ばれた。さらに空想をたくましくして秦氏と古代イスラエル民族と直接に関連するという日ユ同祖論を唱える極端な仮説(手島郁郎太秦の神-八幡信仰とキリスト景教』(1971年)が代表例)も存在する。
  15. ^ 妙法蓮華経法師功徳品(ほっしくどくほん)は「千二百の耳の功徳」について説いている。(爾時仏告常精進菩薩摩訶薩。若善男子善女人。受持是法華経。若讀若誦若解説若書寫。是人当得八百眼功徳。千二百耳功徳。八百鼻功徳。千二百舌功徳。八百身功徳。千二百意功徳。以是功徳荘厳六根皆令清浄。是善男子善女人。父母所生清浄肉眼。見於三千大千世界。内外所有山林河海。下至阿鼻地獄上至有頂。亦見其中一切衆生。及業因縁果報生処。悉見悉知。爾時世尊。欲重宣此義。而説偈言。)(無数種人聲。聞悉能解了。)
  16. ^ 万葉集(『萬葉集』巻三 415)では片岡山ではなく龍田山とある。
  17. ^ 拾遺和歌集巻20哀傷1350 この歌と返し歌をもって『拾遺和歌集』最終巻は終わる。『源氏物語』 第20帖 朝顔(あさかほ)にて、光源氏が老婆となった今も衰えぬ源典侍にかけた言葉「その世のことは みな昔語りになりゆくを はるかに思ひ出づるも 心細きに うれしき御声かな 親なしに臥せる旅人と 育みたまへかし(あのころのことは皆昔話になって、思い出してさえあまりに今と遠くて心細くなるばかりなのですが、うれしい方がおいでになりましたね。『親なしに臥(ふ)せる旅人』と思ってください。 与謝野晶子訳)」はこの歌をふまえたものである。返し歌は「いかるがや富緒河の(とみの小川の)絶えばこそ我が大君の御名をわすれめ」
  18. ^ 『日本書紀』編纂当時は、死穢・触穢を忌避する観念、風習は未発達であると考えられるが(『日本書紀』皇極天皇元年五月乙亥日条参照)、疫病は恐れられていた。『荘子』大宗師篇第六に「真人」について詳説する部分がある。また、遺体の消滅は仙人尸解仙(しかいせん)にも類似し、『新約聖書』も想起させる。大山誠一は、『日本書紀』の推古紀と道教に関心が深かった長屋王や道慈との関係について仮説を提示している。
  19. ^ 叡福寺の「聖徳太子絵伝(しょうとくたいしえでん)」七幅(南北朝-室町時代に制作された)は2008年に修復が完成した。
  20. ^ 徒然草第六段に次の一文がある。「聖徳太子の御墓(みはか)を、かねて築(つ)かせ給(たま)ひける時も、「ここをきれ、かしこを断て。子孫あらせじと思ふなり。」と侍(はべ)りけるとかや。」
  21. ^ 1675年延宝3年)、聖徳太子の憲法には「通蒙憲法」「政家憲法」「儒士憲法」「釈氏憲法」「神職憲法」の五憲法が存在し、「通蒙憲法」が十七条憲法であると説く『聖徳太子五憲法』と称する書が現れた。『聖徳太子五憲法』は1679年(延宝7年)に現れた偽書先代旧事本紀大成経』巻七十「憲法本紀」と同じ内容である。
  22. ^ 「それに國書の如きも隋書に載れる 日出處天子致書日沒處天子無恙云々 の如きは、其の語氣から察するに、恐らく太子自ら筆を執られたものであつたらしく、全然對等の詞を用ひられたので、隋の煬帝の如き、久しく分離した支那を統一したと謂ふ自尊心を持つて居る天子をして、從來に例の無い無禮な國書だと驚かしめたのである。」「聖徳太子」『内藤湖南全集第九巻』(筑摩書房 1976年)
  23. ^ 関晃は偽作説の根拠はあまり有力とはいえない」とする。『世界大百科事典第二版』平凡社
  24. ^ 高森明勅(國學院大學講師)は「大山氏の方法論の致命的な欠陥は、「日本書紀以前に確実な史料がなければ、日本書紀に描かれた人物であっても虚構だ」、と言っていること」と述べている(「歴史教科書10の争点」レポート 高森明勅「日本の国柄をつくった聖徳太子」 )。
  25. ^ 安本美典は次のように述べている。「失敗をくり返してきた19世紀的文献批判学に対して、海外では、すでに多くの再批判がおこなわれ、たとえば、『数理哲学の歴史』の著者のG・マルチンは、「自分自身に対して無批判な批判」と鋭く論評してる。しかし、日本では、いまもなお、津田左右吉流の擬古派的な主張をする学者が少なくない。擬古派的な考え方は、くりかえし、事実によって粉砕されてきたが、日本では、第二次世界大戦中の『古事記』『日本書紀』をそのまま信ずべしとする教育に対する反動から、擬古的な考えがいまだに強く、結果的に世界の趨勢からいちじるしくたちおくれた議論が、あいかわらず強調される傾向が続いている。「聖徳太子は実在しなかった」「大化の改新は偽りである」など、擬古派の立場でさまざまな本が出版される背景には、日本のこのような事情があるのである。」(邪馬台国の会 講演会記録第249回聖徳太子は実在した (2006.9.24))
  26. ^ また、用明、祟峻、推古の王朝とされる時期には蘇我馬子の王権が存在したとする仮説(蘇我王権説)を提示している
  27. ^ 三浦佑之(立正大学教授)は大山の聖徳太子論に賛成している[1]
  28. ^ 「奈良時代の前半には上宮太子を「聖徳」と称するのは死後に与えるとする理解があり、さらに、慶雲3(706)年以前に「聖徳皇」と呼ばれていたとする金石文もある。加えて『古事記』には没後の名前と考えられる「豊聡耳」の称号、および「王」号ではなく後に即位した王子にのみ与えられる「命」表記を含む「上宮の厩戸豊聡耳命」の記載があり、遅くとも『日本書紀』成立以前の天武朝までには偉人化が開始されていた」と指摘した。
  29. ^ 和田は、聖徳太子が日本書紀の編纂段階で理想化されたことは多くの人が認めており、厩戸王と(脚色が加わった)聖徳太子を分けて考えるべきとする指摘は重要としながらも、そのことが「聖徳太子虚構説」や「蘇我王権説」につながるわけではないとする。日本経済新聞2004年1月10日
  30. ^ 「後世に造形され、肥大化した聖徳太子がいなかったという点では大山説に反対しない。厩戸王の実像をどう考えるかでは見解が違う。歴史物語の研究によれば、全くのゼロから記事がつくられた例がない。素材となった記録・記事が何であるかは今後の課題だが、皆無とは考えにくい」とする(毎日新聞東京夕刊2007年6月4日)。
  31. ^ 用明天皇の子として名前(上宮之厩戸豊聰耳命)が記されている。
  32. ^ 「碑文の古きものは、伊豫道後温泉の碑、山城宇治橋の碑、船首王の墓誌等がその最なるもの」「道後温泉碑 推古天皇の四年に建てたもので碑は今日亡びてない。文は『續日本紀』に引く所にして、もと『伊豫風土記』に載せてあつた」。牧野謙次郎 述/三浦叶 筆記『日本漢學史』(世界堂書店 1938年)
  33. ^ 「法王大王」は聖徳太子を指す。万葉集巻三239 柿本人麻呂の詠める「八隅知之 吾大王 高光 吾日乃皇子乃 馬並而・・」のように大王は皇子に使用される例がある。山部赤人が伊豫温泉(道後温泉)を訪れて詠んだ歌(万葉集巻三 322)について、道後湯岡碑銘文または伊予国風土記の内容を踏まえたものとする説がある[要出典]

出典

  1. ^ 巻二貞観元年(859年)五月十九日甲戌条、巻八貞観6年(864年)正月十四日辛丑条、巻卅八元慶4年(880年)十月廿日庚子条など。
  2. ^ 『日本古典文学大系 風土記』(岩波書店 1977年/平成9年)、間壁忠彦 間壁葭子『石宝殿―古代史の謎を解く』(神戸新聞総合出版センター 1996年/平成8年)
  3. ^ “聖徳太子は実在せず? 高校日本史教科書に「疑う」記述”. 朝日新聞. (2013年3月27日). オリジナルの2013年3月27日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20130327130342/http://www.asahi.com/national/update/0327/TKY201303270082.html 2015年8月31日閲覧。 
  4. ^ 浅井建爾『道と路がわかる辞典』(初版)日本実業出版社、2001年11月10日、86頁。ISBN 4-534-03315-X 
  5. ^ 『聖徳太子時空超越―歴史を動かした慧思後身説』王勇 大修館書店、1994年
  6. ^ 一色八郎 『箸の文化史 世界の箸・日本の箸』 御茶の水書房, 1998年、p.54
  7. ^ 境野黄洋 『聖徳太子伝』 (丙午出版社、1917年)、p.128
  8. ^ 「聖徳太子墓はやや小さめ 宮内庁が研究者に公開」 共同通信 2002年11月14日、「「聖徳太子墓」を初めて研究者に公開 宮内庁」 asahi.com 2002年11月15日
  9. ^ 『日本大百科全書』(小学館)聖徳太子の項
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  21. ^ 岡田英弘『日本史の誕生』(筑摩書房、2008年)、宮脇淳子『淳子先生の歴史講座―こんなの常識!日本誕生①つくられた聖徳太子』(WiLL2009年7月号別冊 『歴史通』 NO.2)
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  25. ^ 『天孫降臨の夢』(NHK出版、2009年)
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  35. ^ 志水正司『古代寺院の成立』(六興出版 1979年)
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参考文献

  • 坂本太郎『聖徳太子』 人物叢書:吉川弘文館 ISBN 4642050019
  • 曽根正人『聖徳太子と飛鳥仏教』2007 吉川弘文館 ISBN 4642056289
  • 瀧藤尊教『以和為貴 聖徳太子の信仰と思想』 善本社
  • 前田恵学、引田弘道『人間聖徳太子』講談社
  • 石田尚豊『聖徳太子辞典』 柏書房 ISBN 4760115404
  • 新川登亀男『聖徳太子の歴史学』2007 講談社 ISBN 4062583828
  • 谷沢永一 「聖徳太子はいなかった」2004 新潮新書 ISBN 978-4106100628
  • 家永三郎ほか『聖徳太子論争』2006 新版 新泉社 ISBN 4787706055
  • 梅原猛『聖徳太子』2003 小学館、1993 集英社文庫
  • 梅原猛『隠された十字架 法隆寺論』1986 新潮社 ISBN 4101244014
  • 遠山美都男『聖徳太子はなぜ天皇になれなかったのか』2000 角川書店 ISBN 4043551010
  • 森田悌『推古朝と聖徳太子』2005 岩田書院 ISBN 4872943910
  • 吉村武彦『聖徳太子』2002 岩波新書 岩波書店 ISBN 4004307694
  • 王勇『聖徳太子時空超越―歴史を動かした慧思後身説』1994 大修館書店 ISBN 4469290696
  • 梅原猛・黒岩重吾・上田正昭ほか『聖徳太子の実像と幻像』2001 大和書房 ISBN 4479840591
  • 小林惠子『聖徳太子の正体 英雄は海を渡ってやってきた』1990 文藝春秋 ISBN 4163447202
  • 田中英道『聖徳太子虚構説を排す』2004 PHP ISBN 4569638279
  • 宮東斎臣『聖徳太子に学ぶ十七絛五憲法』1995 文一総合出版 ISBN 482991100X
  • 恵美嘉樹『図説 最新日本古代史』 2008 学習研究社 ISBN 4054038344
  • 大山誠一『長屋王家木簡と金石文』 ISBN 4642023259
  • 大山誠一『長屋王家木簡と奈良朝政治史』1992 吉川弘文館 ISBN 4642021671
  • 大山誠一『「聖徳太子」の誕生 歴史文化ライブラリー』1999 吉川弘文館 ISBN 4642054650
  • 大山誠一『聖徳太子と日本人』2001 風媒社 ISBN 4833105209
  • 大山誠一(編集・共著)『聖徳太子の真実』2003 平凡社 ISBN 4582469043
  • 大山誠一『聖徳太子と日本人 ― 天皇制とともに生まれた<聖徳太子>像』2005 角川書店 ISBN 4043782012
  • 『聖徳太子の実像と幻像』2001 大和書房 ISBN 4479840591

関連項目

外部リンク