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「汎ヨーロッパ・ピクニック」の版間の差分

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このような状況の中で既に[[ハンガリー社会主義労働者党]]の改革派が[[ハンガリー民主化運動|民主化]]を進めていたハンガリーでは、[[1989年]][[5月2日]]に改革派の[[ネーメト・ミクローシュ (政治家)|ネーメト・ミクローシュ]][[ハンガリーの首相|首相]]がオーストリアとの国境にある[[鉄条網]]の撤去に着手した<ref>三浦元博・山崎博康『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』(岩波新書 1992年 ISBN 4004302560)P78-79</ref>。これによって[[鉄のカーテン]]に穴が開けられたのである。


翌3日、ドイツ社会主義統一党(SED)の政治局会議でホーネッカーは、「このハンガリーの連中は、一体何をたくらんでいるんだ!」と怒鳴っていた。それが何を意味するのかホーネッカーには分かっていたからである<ref>マイケル・マイヤー 著、早良哲夫訳『1989 世界を変えた年』(作品社 2010年)P129</ref>。案の定この[[ニュース]]が東ドイツに飛び込んでくると、多くの東ドイツ市民はハンガリー・オーストリアを経由して[[西ドイツ]]に行けるのではないかと考え始めた。
翌3日、ドイツ社会主義統一党(SED)の政治局会議でホーネッカーは、「このハンガリーの連中は、一体何をたくらんでいるんだ!」と怒鳴っていた。それが何を意味するのかホーネッカーには分かっていたからである<ref>マイケル・マイヤー 著、早良哲夫訳『1989 世界を変えた年』(作品社 2010年)P129</ref>。案の定この[[ニュース]]が東ドイツに飛び込んでくると、多くの東ドイツ市民はハンガリー・オーストリアを経由して[[西ドイツ]]に行けるのではないかと考え始めた。

2016年11月15日 (火) 18:59時点における版

汎ヨーロッパ・ピクニック(はんヨーロッパ・ピクニック、ハンガリー語: Páneurópai piknikドイツ語: Paneuropäisches Picknick)は、1989年8月19日オーストリア共和国ブルゲンラント州に食い込むハンガリーショプロンで開かれた政治集会。ピクニック事件ヨーロッパ・ピクニック計画とも呼ばれる。

この政治集会には西ドイツへの亡命を求める1000人程の東ドイツ市民が参加した。この時彼らは一斉にハンガリー・オーストリア国境を越え亡命を果たした。後にベルリンの壁崩壊へと繋がる歴史的事件である。

背景

1980年代後半になると、ポーランドハンガリーでは民主化への模索がはじめられ、東側社会主義国の盟主であるソビエト連邦でもゴルバチョフによってペレストロイカが始まっていた。しかし東ドイツは未だマルクス・レーニン主義的で最高指導者のエーリッヒ・ホーネッカードイツ社会主義統一党書記長国家評議会議長)は国家保安省(シュタージ)秘密警察)を用いて国民に対する締め付けを強くしていた。分断国家である東ドイツでは「社会主義のイデオロギー」だけが国家の拠って立つアイデンティティであり、政治の民主化や市場経済の導入といった改革によって西ドイツとの差異を無くすことは、国家の存在理由の消滅を意味することを東ドイツ首脳部は知っており、東欧に押し寄せる改革の波に抗い続けていた[1]。1988年にはソ連の雑誌さえ発禁処分にし、言論統制を強めていた[2]

このような状況の中で既にハンガリー社会主義労働者党の改革派が民主化を進めていたハンガリーでは、1989年5月2日に改革派のネーメト・ミクローシュ首相がオーストリアとの国境にある鉄条網の撤去に着手した[3]。これによって鉄のカーテンに穴が開けられたのである。

翌3日、ドイツ社会主義統一党(SED)の政治局会議でホーネッカーは、「このハンガリーの連中は、一体何をたくらんでいるんだ!」と怒鳴っていた。それが何を意味するのかホーネッカーには分かっていたからである[4]。案の定このニュースが東ドイツに飛び込んでくると、多くの東ドイツ市民はハンガリー・オーストリアを経由して西ドイツに行けるのではないかと考え始めた。

当時の東ドイツでは、旅行は許可制で、当然西側への旅行は許可されなかったが、東側への旅行が許可される可能性は高かった。ハンガリーまでは秘密警察に睨まれることなく、合法的に国境を越えられて、ハンガリーに辿り着けば何とかオーストリア経由で西ドイツに越境できるのではないかと考え、多くの人がハンガリーへの旅行許可書を持って、ハンガリーへ向かい、そのままハンガリー・オーストリア国境も越えて西ドイツに行こうと計画して実行に移した。

しかし、ハンガリー・オーストリア国境が開放されたと言っても、通行を許可されるのはハンガリーのパスポートを持った人達だけで、東ドイツ市民がこの通行を許可される可能性は殆ど無かった。このことは彼らがハンガリー・オーストリア国境まで行って初めて明らかになった事であった。結果として1989年8月初め頃にはハンガリー・オーストリア国境地帯には、越境を求める東ドイツ市民で溢れるようになった。

汎ヨーロッパ・ピクニックの開催

こうした状況の中、ハンガリーで民主化を求める民主フォーラムや他の民主化を求める勢力は、多少強引にでも彼らを越境させてしまおう、と考えるようになった。既に非共産党政治勢力の活動が認められていたハンガリーではこうした民主化を求める運動が活発になっていた。

それが「ピクニック」という形になったのは、軽い冗談がきっかけだった。1989年の夏、オーストリア=ハンガリー帝国最後の皇太子であるハプスブルク・ロートリンゲン家当主のオットー・フォン・ハプスブルクは、デブレツェンの大学で講義を行った。その日、オットーを歓迎する夕食会で、デブレツェン在住の民主フォーラム活動家メサロシュ・フェレンツが、ハンガリーが鉄のカーテンによる分断から解放されたことを祝おうと冗談を言ったところ、周囲の出席者からは様々なアイディアが出てきた。その中からオーストリア・ハンガリーの国境地帯でたき火をしてバーベキュー・パーティを行い、ハンガリー人オーストリア人が国境のフェンスを囲んで食べ物を交換し合うことで、欧州の東西を分断するフェンスが地理や歴史(オーストリアとハンガリーは20世紀初頭まで同じ国家だった)を無視している事実を世界に示そう、という案が出たのである[5]

この話で夕食会は盛り上ったが、その時はパーティの席での冗談であった。メサロシュが夕食会の10日後に民主フォーラムの会議の席上でこの話をした時も、多くの出席者は冗談と受け止めたが、フィレプ・マリアという女性はこれを本格的に実行することをメサロシュに提案し、二人で準備を始めた。二人はまずオットー・フォン・ハプスブルクと、ハンガリー社会主義労働者党改革派として民主化を主導していたポジュガイ・イムレハンガリー語版政治局員に支援を要請した。オットーはこれを受諾し、ポジュガイもこの支援要請を快諾すると、ネーメト首相と共に話し合い「そのピクニックを単なるピクニックではなく、もっともっと大きな出来事にしよう」と決めた。既にオーストリア国境を開放していた彼らは、ハンガリーが共産圏から離脱することを世界にアピールする良い機会だと思ったのである。ネーメトは後に「これこそ、我々が抱えているドイツ民主共和国問題に対する解決策でした」と語っており、東ドイツ政府が市民の国外移住を制限していることにある程度打撃を与えることまで考えていたことも示唆している[6]

ネーメト、ポジュガイは秘密裏に慎重に計画を実行に移した。ハンガリー内務省指揮下の治安組織は内務大臣ホルバットが改革派なので信頼できたが、東ドイツのシュタージ(ハンガリー国内にもメンバーを送り込んでいた)や社会主義労働者党の保守派が率いる準軍事組織などに妨害されないようにする必要があったのである[7]

こうして1989年8月19日に、ハンガリー・オーストリア国境地帯に属するショプロンで汎ヨーロッパ・ピクニックが開かれた。ショプロンが選ばれたのはこの町がハンガリーから飛び抜けて、オーストリア領に食い込むような形になっており、三方をオーストリアに囲まれていたため、比較的オーストリアに脱出しやすいと考えられたためである。

この集会は厳密には二つに分かれており、公的行事と民間行事の2つを同時に行う形式を取っていた[8]。まず、公式のイベントが午後2時ころから始まり、ショプロンで主催者たちの記者会見が行われた。その後、民間主催のピクニックが開催されている場所まで関係者や取材陣はバスで移動したが、開催地にはオーストリア側から予想以上の人々が集まり、主催者にも関わらず近寄れない状態であった。

一方、ポジュガイが手配したバスがショプロン郊外のホテルやキャンプ地から東ドイツ市民を乗せ、ピクニックの開催地まで送り届けた。バスには東ドイツ市民が殺到し、それをハンガリー側と西ドイツの領事館のスタッフが誘導した。東ドイツ市民の中には既に西ドイツが用意したパスポートを持った者もいた[9]。また、オーストリア側にはバスが何台も用意されていた。これはオーストリア側のザンクト・マルガレーテンドイツ語版の市長が西ドイツ政府の要請を受けて手配したもので、その日のうちに西ドイツに移動できるようになっていた[10]

集会は名目としては「ヨーロッパの将来を考える集会」であった。会場ではブラスバンドが演奏し、食べ物やビールが出され、チロル民謡やハンガリー民謡に合わせて人々が踊っていた。そこをハンガリーとオーストリアの外交官が挨拶をして周り、見た目は単なる青空の下での祭典にしか見えない様子であった。ハンガリーの国境警備隊は1キロ以内に近づかないよう命じられていた[11]

ファイル:Paneuro01.jpg
ハンガリー・オーストリア間の国境を越える東ドイツ市民(1989年8月19日)

午後3時、国境の検問所の一部が壊された。そこへ東ドイツ市民を乗せたバスが到着し、人々を降ろしはじめると、東ドイツ市民はお祭り騒ぎには目もくれずに一目散に国境へ向かった。国境検問所のゲートは大きく開かれ、東ドイツ市民は走ってゲートを抜けて行った。ハンガリーの国境検問所の係官は、これ見よがしに東ドイツ市民には背を向け、入国してくるオーストリア人パスポートを入念にチェックしていた。オーストリア人旅行者たちは、その光景を見て大笑いし、東ドイツ市民が通りやすいように道を開けた。

この日のうちに、続々と東ドイツ市民が到着し600人以上が国境を越えた。こうして真夏の週末のピクニックは成功裏に幕を閉じた。ネーメトは首相執務室で特設された連絡回線を使って、現場の様子をモニターしていたが、ピクニックの成功を受けて胸をなで下ろしていた[12][13]


事件の余波

東ドイツへの影響

その日のハンガリー国営放送はピクニックの様子を報道したが、600人以上の東ドイツ人が脱出したことには触れなかった。当時ホーネッカーは急性胆のう炎で療養生活に入っており、東ドイツ指導部は有効な手立てを講じることが出来なかった。治安問題担当の書記で政権ナンバー2と目されていたエゴン・クレンツはピクニックの8日前である8月11日、一時的に職務に復帰したホーネッカーに対し、出国者数を報告し、国民の大量出国問題を党の政治局で討議するよう進言していた。しかし、ホーネッカーは「それで、どうするつもりかね。なんのために出国者の統計など出すのか。それがどうした。壁を築く前に逃げた連中ははるかに多かったよ」と言って、クレンツの進言を意に介さず、それどころか進言したクレンツに長期休暇を命じて政権中枢から遠ざけていた[14]

ところが、西ドイツのテレビの中継映像でピクニックの様子を見ていたホーネッカーは駐東独ハンガリー大使に激しく抗議し、東ドイツ市民を強制送還するよう要求した[15]。しかし、ハンガリーはこれには応じず、後の祭りであった。

ネーメトらはソ連の反応を窺ったが、ソ連政府は何も言ってこなかった。これで、次の段階に進んでも大丈夫だと考えたネーメトは外相のホルン・ジュラと共に極秘に西ドイツの首都ボンへ飛び、コール首相、ゲンシャー外相と協議し、ハンガリーはワルシャワ条約機構との関係を断ち、東ドイツ国籍の人々が自由に出国できるようにする、西ドイツの受け入れ態勢が整い次第これを実行すると通告した[16]。続いてホルン外相は東ベルリンへ向かい、東ドイツのオスカー・フィッシャードイツ語版外相に対し東ドイツに帰国する国民を処罰しないこと、西への移住申請に前向きに対応することを迫った。ホルンはさらに「15万人以上の東ドイツ人がバラトン湖の周辺でキャンプしており、帰国しようとしない。ハンガリーは東ドイツとの関係を損ねたくはないが、このような"非人道的な"状態を放置しておくことは出来ない」と述べ、ハンガリーはオーストリアの国境を完全開放するつもりだと告げた。フィッシャーは激怒し、「それは裏切りだ!ハンガリーは東ドイツを見殺しにして、あちらの陣営に加わるというのか。どういう結果になるか、良く考えるんだな!」と言ったが、東ドイツ政府は結局何の反応も示さなかった[17][18]

9月10日、ついにネーメト内閣は閣議で国境の全面開放を決議し、11日午前0時をもって東ドイツとの協定(当時の欧州の東側諸国は査証免除協定を結ぶと同時に、相手国の国民が自国経由で西側に逃亡するのを防ぐ相互義務を負う協定を結んでいた)を破棄して国境を開放し、国内にいる東ドイツ国民をオーストリア経由で西ドイツへ出国させた[19]。翌日のドイツ社会主義統一党政治局の会議では出席者はハンガリーを非難したが、ホーネッカーは療養中で不在だったため、結局何の対策も取られず、ハンガリーに対して何も報復することも出来なかった。既に首脳部の中でも市民の流出が続いて東ドイツの存立が危うくなってきていると認識はされるようになっていたが、結局それが討議されることも無かった[20]

一方東ドイツ国内では医師、電車やバスの運転手、若い高等教育を受けた労働者など頭脳流出が起き、次々に東ドイツを去り、あちこちで交通機関の運休や医療の崩壊、工場の閉鎖などが起き始め、東ドイツの社会は大きく揺さぶられることになった[21]

10月3日、東ドイツ政府はチェコスロバキアとの国境を閉鎖した。これによって、東ドイツ国民がチェコスロバキア、ハンガリー、オーストリア経由で出国することは不可能になった。逃げることが出来なくなった東ドイツ国民は不満を体制批判に転化させるようになり[22]ライプツィヒを拠点にデモ月曜デモ)が激化していくことになった。ホーネッカーに事態を収拾出来る力は無かった。結局10月18日にホーネッカーは退陣に追い込まれ、ついには1989年11月9日ベルリンの壁崩壊に行き着く事になった。

ハンガリーへの影響

ピクニックを成功させた事は、ハンガリーの民主化勢力に民主化を推進していく一層の自信を植え付けた。またヨーロッパへの回帰思考は一層強まる事になった。すでに一党独裁を放棄していたハンガリー社会主義労働者党も、10月23日にハンガリー社会党と改名し、共産主義体制は終わりを告げた。

民主化を達成したハンガリーだが、誤算もあった。ネーメトらは一連の施策によってハンガリーをいち早くヨーロッパの一員に復帰させ、西側からの援助や投資を呼びこむつもりであった。しかし、このピクニックの影響で東ドイツ、チェコスロバキアブルガリアルーマニアとドミノ倒し的に共産主義政権が崩壊してしまった結果、ハンガリーが先んじて改革しているという印象は薄れてしまい、彼らが狙っていたような有利な条件を享受することは出来なかったのである[23]

ソ連の動き

それまで東欧の共産主義国家の政治を牛耳ってきたソ連だったが、この事件に関して西側を挑発することも、ハンガリーに制裁を加えることもなく、事実上見て見ぬ振りをし、なんの干渉もしなかった。

それどころか、先述の東ドイツでの民主化勢力に点火したのが、当のソ連最高指導者だったと言っても過言ではなかった。ホーネッカー退陣直前の10月6日ミハイル・ゴルバチョフは東ドイツ建国40周年記念式典に参加した。その際、自らの進めるペレストロイカを押し出した演説をしたのに対し[24]、ホーネッカーは自国の社会主義の発展を自画自賛するのみであった。ホーネッカーの演説を聞いたゴルバチョフは軽蔑と失笑が入り混じったような薄笑いを浮かべてSEDの党幹部達を見渡すと、舌打ちをした[25]。これによって、ゴルバチョフがホーネッカーを否定したことがSEDの幹部達の目にも明らかになった。これを機にクレンツやギュンター・シャボフスキーらはホーネッカーの失脚工作に乗り出し[26]、10月17日には政治局でホーネッカーの解任動議が可決されることになったのである。

その後

ピクニック開催地であったことを示すモニュメント

事件の現場となった周辺は「汎ヨーロピアン・ピクニック公園」として保全されている。

2001年に、ショプロンを含めたフェルテー湖/ノイジードラー湖の文化的景観が世界文化遺産に登録されている。これには汎ヨーロピアン・ピクニック公園一帯も含まれている。

参考資料

  • 南塚信吾、宮島直機『’89・東欧改革―何がどう変わったか』 (講談社現代新書 1990年)
  • 三浦元博・山崎博康『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』(岩波新書 1992年)
  • マイケル・マイヤー 著、早良哲夫訳『1989 世界を変えた年』(作品社 2010年)
  • NHKスペシャル「ヨーロッパ・ピクニック計画~こうしてベルリンの壁は崩壊した~」(1993年12月19日放送)

脚注

  1. ^ 三浦元博・山崎博康『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』(岩波新書 1992年 ISBN 4004302560)P3-4
  2. ^ 南塚信吾、宮島直機『’89・東欧改革―何がどう変わったか』 (講談社現代新書 1990年)P106
  3. ^ 三浦元博・山崎博康『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』(岩波新書 1992年 ISBN 4004302560)P78-79
  4. ^ マイケル・マイヤー 著、早良哲夫訳『1989 世界を変えた年』(作品社 2010年)P129
  5. ^ マイヤー『1989 世界を変えた年』P175
  6. ^ マイヤー『1989 世界を変えた年』P176-177
  7. ^ マイヤー『1989 世界を変えた年』P180
  8. ^ マイヤー『1989 世界を変えた年』P181
  9. ^ マイヤー『1989 世界を変えた年』P181
  10. ^ マイヤー『1989 世界を変えた年』P181
  11. ^ マイヤー『1989 世界を変えた年』P181
  12. ^ マイヤー『1989 世界を変えた年』P181
  13. ^ マイヤー『1989 世界を変えた年』P182-183
  14. ^ 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P4-5
  15. ^ マイヤー『1989 世界を変えた年』P184
  16. ^ マイヤー『1989 世界を変えた年』P185
  17. ^ マイヤー『1989 世界を変えた年』P198
  18. ^ 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P81
  19. ^ 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P82
  20. ^ マイヤー『1989 世界を変えた年』P205-206
  21. ^ マイヤー『1989 世界を変えた年』P206
  22. ^ 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P83
  23. ^ マイヤー『1989 世界を変えた年』P198-199
  24. ^ 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P8
  25. ^ 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P9
  26. ^ 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P15

関連項目

外部リンク