「尾上菊五郎 (6代目)」の版間の差分
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* 竹田正一郎『ツァイス・イコン物語』光人社 |
* 竹田正一郎『ツァイス・イコン物語』光人社 ISBN 978-4-7698-1455-9 |
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* 小林孝久『カール・ツァイス創業・分断・統合の歴史』 |
* 小林孝久『カール・ツァイス創業・分断・統合の歴史』 ISBN 4-02-258480-7 |
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* [[北野邦雄]]『現代カメラ新書No.3、世界の珍品カメラ』朝日ソノラマ |
* [[北野邦雄]]『現代カメラ新書No.3、世界の珍品カメラ』朝日ソノラマ |
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* [[田中長徳]]『銘機礼賛2』日本カメラ |
* [[田中長徳]]『銘機礼賛2』日本カメラISBN 4-8179-0006-7 |
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== 脚注 == |
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2016年11月15日 (火) 18:36時点における版
ろくだいめ おのえ きくごろう 六代目 尾上 菊五郎 | |
『菅原伝授手習鑑』の菅丞相 | |
屋号 | 音羽屋 |
---|---|
定紋 | 重ね扇に抱き柏 |
生年月日 | 1885年8月26日 |
没年月日 | 1949年7月10日(63歳没) |
本名 | 寺島幸三 |
襲名歴 | 1. 二代目尾上丑之助 2. 六代目尾上菊五郎 |
俳名 | 三朝 |
出身地 | 東京 |
父 | 五代目尾上菊五郎 |
母 | 秋田ぎん |
兄弟 | 六代目坂東彦三郎 |
妻 | 家寿子(先妻) 千代(後妻) |
子 | 七代目尾上梅幸(養子) 二代目尾上九朗右衛門 久枝(十七代目中村勘三郎の妻) 多喜子(六代目清元延寿太夫の妻) |
当たり役 | |
『京鹿子娘道成寺』の白拍子花子 『春興鏡獅子』の弥生/獅子の精 『義経千本桜』の狐忠信 ほか多数 | |
六代目 尾上 菊五郎(ろくだいめ おのえ きくごろう、1885年(明治18年)8月26日 - 1949年(昭和24年)7月10日)は大正・昭和時代に活躍した歌舞伎役者。屋号は音羽屋。定紋は重ね扇に抱き柏、替紋は四つ輪。俳名に三朝がある。本名は寺島 幸三(てらしま こうぞう)。
初代中村吉右衛門とともに、いわゆる「菊吉時代」の全盛期を築いた。歌舞伎界で単に「六代目」と言うと、通常はこの六代目尾上菊五郎のことを指す。
概要
来歴
五代目尾上菊五郎の長男。実弟に六代目坂東彦三郎、義兄に六代目尾上梅幸がいる。
- 1886年(明治19年)5月 - 東京千歳座で尾上幸三の名で初舞台。まだ乳飲み子で三代目中村傳五郞に抱かれてのお目見得だった。
- 1901年(明治36年)年3月 - 東京歌舞伎座で父の死後、九代目市川團十郎の後援で『寿曽我対面』の曽我五郎で六代目尾上菊五郎を襲名。
大正時代、初代中村吉右衛門とともに市村座(下谷区二長町)で活躍し、「菊吉時代」「二長町時代」を築いた。世話物と舞踊に優れ、家の芸として五代目の新古演劇十種を引き継いだ。吉右衛門の脱退後、市村座を支えた。
- 1927年(昭和2年) - 歌舞伎座に移る。
- 1947年(昭和22年) - 日本芸術院会員。
- 1949年(昭和24年)4月 - 東京劇場『盲長屋梅加賀鳶』の道玄をつとめる最中に眼底出血で倒れる。
- 7月 - 死去。
- 1949年(昭和24年)11月 - 歌舞伎役者として初めて文化勲章を受章(死去日に溯っての追贈)。
辞世の句は「まだ足らぬ 踊りおどりて あの世まで」。
人物
立役も女形もこなしたが、殊に九代目市川團十郎に仕込まれたこともあり、『藤娘』の藤の精や『京鹿子娘道成寺』の白拍子花子などの娘役の舞踊を得意としていた。身体は比較的大柄だったが、通常より大きな大道具を舞台上に組むことによって可憐さを表現する手法を確立した。ただし菊五郎家伝来の怪談物は得意とせず、父の当たり役だった『東海道四谷怪談』のお岩は一度しかつとめていない。体質的に近代風の芸だったので、尊敬する役者はどうしても九代目や初代中村鴈治郎といった新しい芸を開拓した先輩たちだった。
近代的な解釈を取り込むことに意欲的で、『新版歌祭文』「野崎村」のお光では幕切れに久作にとりついて泣き崩れる型を考案した。『近頃河原達引』「堀川」の与次郎では、その真に迫った表現力に舞台を共にした二代目實川延若は「ほんまにうまい。けど、西洋の活動役者と共演したような気分だす」と言わしめている[1]。
役柄
当たり役は非常に多い。
- 時代物
- 世話物
- 舞踊
ジャン・コクトーは来日時に菊五郎の『春興鏡獅子』を見て感動し、「名優菊五郎は俳優ではなく、むしろ舞台の上の神主である」「扇の踊りは一生忘れないだろう」といった感想を残している[2][3]。『春興鏡獅子』はこの後小津安二郎の監督によって記録映画『鏡獅子』に残され、その至芸を今日に伝えている。
家族
妾で、正妻・家寿子の死後に妻となった寺島千代との間に一男二女をもうける(戸籍上は家寿子との間に生まれたことになっている)。
長男・清晁は二代目尾上九朗右衛門となる。長女・久枝は十七代目中村勘三郎の妻となり、十八代目中村勘三郎を生んだ。次女・多喜子は六代目清元延壽太夫の妻となり、当代の清元延壽太夫を生んだ。
七代目尾上梅幸は養子で、その子が七代目尾上菊五郎を襲名した。なお、二代目大川橋蔵は寺島千代の養子となり、六代目菊五郎とも生活を共にした。
逸話
- 寺島ベースボールクラブ
- 六代目は宝塚に公演に来た際に、すぐ側のグラウンドで練習をしていた宝塚運動協会を見て大の野球好きとなり、自身の本名を冠した「寺島ベースボールクラブ(T.B.C.)」を結成。音羽屋は常に主役でなくてはならない、と主将・エースで四番。しかし打ち込まれた場合に挽回してくれる救援投手と、失点を挽回してくれる強打者の助っ人を導入した。六代目は福澤諭吉に可愛がられ慶應びいきだったため、慶應OBを中心に三宅大輔、小野三千麿、新田恭一、小西得郎ら、そうそうたるメンバーがバックを守った。
- 校長先生っ!
- 歌舞伎役者が出ると大向うから掛け声が起こる。掛け声は通常屋号で、菊五郎なら「音羽屋っ!」、左團次なら「高島屋っ!」となるが、歌舞伎のほかに翻訳劇を得意とした二代目市川左團次には時に「大統領っ!」とかかることがあった。一方の菊五郎は「校長先生っ!」。1930年(昭和5)年に後継者養成機関として日本俳優学校を創設したことによるものだが、六代目は「高島屋は大統領なのに、俺は校長先生か」と苦笑い。
- たっぷりっ!
- 大向うの話題をもう一つ。ある役者が得意とする役柄が登場する有名な場面では、時に「たっぷりっ!」という掛け声がかかる。「たっぷり」は、「たっぷりと見せてくれ」、つまり「存分に楽しませてくれ」という意味だが、この掛け声は初出の日時や状況が知られている珍しい掛け声の一つで、掛かった先は六代目である。往年は「菊吉時代」という歌舞伎の全盛時代を築いた名優・六代目も、晩年は体調を崩すことが多く、芸も曇りがちで、気分のすぐれない時には一人さっさと引っ込んでしまうことすらあった。これを危惧した大向うが、ある日そろそろ雲行きの怪しくなってきた六代目に向かって「今日はたっぷりとっ!」と掛けたのが始まり。
- 甘粕正彦の歓待
- 1923年(大正12年)、関東大震災後の混乱のさなか、分署が崩壊して行き場を失った近所の憲兵隊に対し、六代目は自分の稽古場を提供した。その憲兵隊員のなかには甘粕正彦がいた。1942年(昭和17年)、満映理事長となっていた甘粕は満洲国建国10周年を記念して、菊五郎一座を招いて歌舞伎興行を催した。久々に再会した二人は旧交を温めたが、やがては甘粕の度を越した歓待振は、歓待好きで知られた六代目ですら音をあげるほどだったという[4]。
- 殺しの文弥
- 茶目っ気があり、舞台でもよくいたずらをした。『蔦紅葉宇都谷峠』(通称:文弥殺し)の「鞠子宿の場」では、按摩文弥(あんま ぶんや)が伊丹屋十兵衛の体を按摩で揉みほぐすが、文弥の六代目は十兵衛の初代中村吉右衛門をさんざんくすぐって、彼が悶絶するほど苦しめた。この演目はこのあとの場で文弥が殺されることから「文弥殺し」という通称がついているが、六代目の文弥に限っては逆に「殺しの文弥」だと、さしもの大播磨も音を上げていた。これを見かねた八代目坂東三津五郎は、あるとき即興で「六代目がくすぐっていけません」と入れたため客席は大爆笑。六代目もこれには驚いてうっかり目を開けてしまったという。
- いたずらの効用
- いたずらをしたつもりの相手から、期せずして名(迷)演技を引き出してしまったこともある。『伽羅先代萩』の「控所刃傷の場」では奸臣・仁木弾正(にっき だんじょう)と忠臣・渡辺外記左衛門(わたなべ げきざえもん)が邸内で斬り合いを繰り広げた末に双方とも絶命するという壮絶な場面。この仁木弾正を六代目が勤めたときは、深手を負って倒れた二代目河原崎権十郎の渡辺外記に向かって「今晩あたりひどい地震があるよ」とささやいた。権十郎が極度の地震恐怖症であることを知った上でのことである。これを聞いた権十郎は恐怖のあまり震えだした。しかも舞台上に倒れているから、目に入ってくるのは上から吊るされた無数の照明器具で、それが落ちてくるかと思うともう全身に震えが走って止まらなかった。ところがこれを見た観客は、これほど真に迫った瀕死の外記は未だかつてなかったと、権十郎の芸を絶賛した。
- 痛ぇじゃねぇか
- その『先代萩』の「床下」の場では、讒言によって主君から遠ざけられ、御殿の床下でひそかに警護を行っていた忠臣・荒獅子男之助が、巻物をくわえた大鼠(実は妖術で化けていた仁木弾正)を踏み敷いて「ああら怪しやなァ」といって登場する場面がある。このときも自分を踏み敷く二代目尾上松緑の男之助に「痛ぇじゃねぇか」と文句を言ったり、それではと松緑が遠慮して踏むのに手心をくわえると今度は「しっかり踏まねぇか」と注文をつけたりで、松緑を散々に困らせている。
- コンタフレックス
- 1935年に本国発売され、ゾナー50mmF1.5レンズ付きで2,200円[6][7][8]と非常に高価だった二眼レフカメラ、コンタフレックスを購入して楽屋の飾り棚に並べておき、来る客に「どうでえ」と自慢した。弟子の一人が「親方、いつ写真撮るんですか」と聞いたところ返事は「ベラボウめ、あんなモンで写真が撮れるけえ」だったという[9]。
- 桃屋の花らっきょう
- 桃屋の花らっきょうが好物だった。臨終間際に「桃屋の花らっきょうが食べたい…」と消え入るような声で呟き、これを聞いた東京劇場の支配人は東京中を探したが見つからなかった。当時は戦後の混乱で砂糖が統制下にあり、当時の桃屋の社長が「肝心の砂糖がないなら作らない方がいい」と一時生産を休止していたのである。仕方なく他社のらっきょう漬を買って届けたが、彼は口にするなり「こりゃ桃屋の花らっきょうじゃない! 普通のらっきょうだ! 下げろ!」と言い、後は見向きしないまま逝った。
- 日本が付かないのなら
- 生前「戒名なんてものは、坊主が金儲けのために造り出したもの。自分が死んだら戒名はいらない」と断言していた。団十郎の墓参りに行った時のこと、周りの者に「自分の親の戒名をソラで言えるか」と聞いたが、言えたのはほとんどいなかった。それで「自分が死んだら戒名は『六代菊五郎』で結構だ」と言った。ある人が「(戒名に)『居士』をつけないと」と言ったため、「(ならば戒名は)『六代菊五郎居士』か」と言うと、「院号もないと戒名になりません」と言われた。六代目は「俺は芸術家だから(院号は)芸術院とでもするんだな」と、「芸術院六代菊五郎居士」と自らつけた。院号の「芸術院」は自身も会員だった日本芸術院から拝借したものに他ならない。しかし日本芸術院は曲がりなりにも文化庁の管轄する特別団体である。六代目が死去すると、遺族はその名称を院号としての使用することの是非を芸術院に打診した。その結果、正式名称の「日本芸術院」そのままではさすがに困るが、「日本」がつかないただの「芸術院」なら差し支えないということで、これが晴れて戒名となった。
関連項目
参考文献
- 寺島千代『私のこんちきしょう人生 夫六代目菊五郎とともに』講談社、1987年
- 木村伊兵衛撮影 『六代目尾上菊五郎 全盛期の名人芸』ネスコ、1993年、旧版朝日ソノラマ、1979年
- 『六代目尾上菊五郎』 <名優アルバム>演劇出版社、1999年
- 宇野信夫『歌舞伎役者』 青蛙房、1971年
- 戸板康二『歌舞伎 ちょっといい話』
- 角田房子『甘粕大尉』
- 竹田正一郎『ツァイス・イコン物語』光人社 ISBN 978-4-7698-1455-9
- 小林孝久『カール・ツァイス創業・分断・統合の歴史』 ISBN 4-02-258480-7
- 北野邦雄『現代カメラ新書No.3、世界の珍品カメラ』朝日ソノラマ
- 田中長徳『銘機礼賛2』日本カメラISBN 4-8179-0006-7
脚注
- ^ 『歌舞伎 ちょっといい話』
- ^ 日本への二つの「挨拶」 ―『セルパン』ジャン・コクトー来日特集号をめぐって (1) 西川正也
- ^ このとき見た獅子の姿は『美女と野獣』に生かされていると言われている。
- ^ 『甘粕大尉』
- ^ 植芝吉祥丸著・植芝守央監修 『合気道開祖 植芝盛平伝』 出版芸術社、1999年、ISBN 4882931680、306-307頁。
- ^ 『ドイツカメラのスタイリング』p.41。
- ^ 『現代カメラ新書No.3、世界の珍品カメラ』p.151。
- ^ 『カール・ツァイス創業・分断・統合の歴史』p.98は2,500円とするがレンズの有無や種類の記載なく信憑性が薄いと判断した。
- ^ 『ツァイス・イコン物語』p.150。