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=== 参考文献 ===
=== 参考文献 ===
# 「人と契らば濃く契れ―川谷拓三と僕」著・[[根本順善]] [[葦書房]] 2000年9月発行ISBN-978-4751207826
# 「人と契らば濃く契れ―川谷拓三と僕」著・[[根本順善]] [[葦書房]] 2000年9月発行ISBN 978-4751207826
# 「狂気のなかにいた役者 川谷拓三伝」著・[[奥薗守]] [[映人社]] 2011年5月16日発行 ISBN-978-4871002301
# 「狂気のなかにいた役者 川谷拓三伝」著・[[奥薗守]] [[映人社]] 2011年5月16日発行 ISBN 978-4871002301


== 脚注 ==
== 脚注 ==

2016年11月15日 (火) 18:33時点における版

かわたに たくぞう
川谷 拓三
本名 仁科 拓三
生年月日 (1941-07-21) 1941年7月21日
没年月日 (1995-12-22) 1995年12月22日(54歳没)
出生地 満州新京
国籍 日本
血液型 A型
職業 俳優
ジャンル 映画テレビドラマ
活動期間 1959年 - 1995年
著名な家族 長男・仁科貴、長女・仁科扶紀
主な作品
映画
仁義なき戦い』シリーズ
県警対組織暴力』 / 『ドーベルマン刑事
さらば映画の友よ インディアンサマー
ビルマの竪琴
テレビドラマ
前略おふくろ様』 / 『黄金の日日
3年B組貫八先生』 / 『山河燃ゆ
受賞
日本アカデミー賞
1985年
第8回優秀助演男優賞
1988年
第11回優秀助演男優賞
その他の賞
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川谷 拓三(かわたに たくぞう、1941年7月21日 - 1995年12月22日)は、日本俳優である。本名:仁科 拓三(にしな たくぞう)。愛称は拓ボン高知県安芸市出身。左利き

大部屋俳優から上り詰め、昭和を中心に活躍した名優の一人。仁科貴は長男、仁科扶紀は長女、仁科熊彦は義父、岡島艶子は義母にあたる。大叔父 (実母の叔父) に伊沢一郎がいる。

来歴

生い立ち

父・川谷庄平は1915年に17歳で日活京都にカメラ助手として入社、牧野省三作品や尾上松之助の映画を撮り、1927年日活を退社するまでに、主に築山光吉とコンビで237本の映画を撮影したカメラマン1975年没。享年77[1]。母・二三子は女優という映画関係の家族の四男一女の三男として満州新京長春)で生まれた[1]

敗戦により6歳のとき一家で満州から引き揚げ[1]安芸市(当時・安芸郡安芸町)に住む。当時、父は定職がなく、市内の映画館・太平館の自転車預かり所に働く母が生計を支えていた。安芸小学校3年のときから母のもとへ出入りし、放課後はポスター貼り、看板のかけ替え、夜は自転車預かりをしながら映画に親しむ。市立安芸中学に入学した頃、マーロン・ブランドの『乱暴者』を見て、自分も映画俳優になろうと決意し、中学卒業後の1957年4月京都へ行き、祇園花見小路の鳥居製氷店に入り配達係をしながらチャンスを待った。

大部屋俳優・付き人時代

1959年秋にエキストラ・グループに入り、美空ひばり主演の東映作品『ひばり捕物帖 振り袖小判』で死体役としてデビュー。半年後、東映京都の大部屋俳優募集に応じ、1960年4月入社。日当250円。斬られ役、殺され役専門で1日3回も死体を演じていた。大部屋時代の仲間である福本清三とは、この頃に同じアパートに同居していた。1963年10月6日に大部屋仲間の女優の仁科克子と結婚した。役らしい役がついたのは1964年の『三匹の浪人』から。1965年からぽつぽつ役名もつき、1967年の『日本侠客伝・斬り込み』でマキノ雅弘から初めて台詞をもらう。この頃、叔父である伊沢一郎や、中村メイコ大川橋蔵鶴田浩二香山武彦内田良平らの付き人をしていた。

飛躍

1971年の『懲役太郎・まむしの兄弟』、ATG作品『鉄砲玉の美学』、東映作品『現代やくざ 血桜三兄弟』と、中島貞夫が川谷を起用し、『現代やくざ 血桜三兄弟』では日本映画初の全身火だるまになる役を体当たりで演じ、1974年には『史上最大のヒモ・濡れた砂丘』で初主演を果たした。前後して1973年から『仁義なき戦い』シリーズに出演し始める。

第2作『広島死闘篇』ではモーターボートで海中を引き摺り回された挙句、木に吊るされピストルライフルの標的にされて無残な死を遂げたチンピラに扮し、第3作『仁義なき戦い 代理戦争』では出演予定されていた荒木一郎の降板により急遽代役を選考するなか、出演者である山城新伍成田三樹夫渡瀬恒彦の推薦もあり、女に捨てられ敵に抱き込まれるチンピラ・西条勝治を演じた。この作品で初めて名前がポスターに載り、川谷にとって至福の瞬間であった。

県警対組織暴力』(1975年)では、チンピラヤクザである松井卓を演じ、劇中の菅原文太・山城新伍の両刑事に取調室でいたぶられる迫真の演技によって京都市民映画祭助演男優賞を受賞し、それ以後も多くの深作作品に出演し、『新仁義なき戦い』3部作(1974年1976年)、『資金源強奪』(1975年)、『やくざの墓場 くちなしの花』『暴走パニック 大激突』(1976年)、『ドーベルマン刑事』(1977年)と配役し続けられた事で川谷の存在が次第に大きく認知されていく事となった。

テレビドラマとCM

県警対組織暴力』の出演後、東京で飲んでいた時に偶然来客していた萩原健一から「『県警対組織暴力』、見ましたよ。松井卓(役名)、よかったですね。今度一緒に仕事をしましょう」と声をかけられる。社交辞令だと思っていたが、プロデューサーを通じて同年10月にテレビドラマ『前略おふくろ様』に出演[2]。同じ東映の名バイプレーヤー・室田日出男とともに鳶職人・利夫として出演し、このコンビはニッカウヰスキーのCMにも出演した(1976年の東映映画『トラック野郎・望郷一番星』にもコンビで警官役を演じている)。以後、本作をきっかけにお茶の間にも広く知られるようになり、翌1976年には山城とCM『どん兵衛』に出演し、ゴールデンアロー賞・話題賞を受賞。以後、同CMは15年間続いた。

1975年に室田や大部屋仲間の志賀勝岩尾正隆らと、酒飲み仲間としての集まりでピラニア軍団を結成。テレビや雑誌などで特集を組まれ、ピラニア軍団総出演の映画の企画として翌1976年に『河内のオッサンの唄』で一般映画での初主演し、同年の『河内のオッサンの唄 よう来たのワレ』や『ピラニア軍団 ダボシャツの天』(1977年)にも主演した。

名バイプレイヤーとして

大部屋俳優として専属契約していた東映から独立し、1978年NHK大河ドラマ黄金の日日』や、『愛の亡霊』に出演。1979年には『さらば映画の友よ インディアンサマー』に主演した他、『不毛地帯』など、映画・連続テレビドラマ出演が相次いだ[3]。『徹子の部屋』 (1980年5月23日放送)にも出演した。

1980年には勝新太郎監督・主演による刑事ドラマ警視-K』(日本テレビ)にレギュラー出演(第9話まで)。『ダウンタウン物語』(1981年、日本テレビ)では貧乏牧師というシリアス役を演じ、1982年には、桜中学シリーズ・『3年B組貫八先生』(TBS)に主演、苦労人の担任教師・神崎貫八を演じた。

映画では写真家・浅井愼平が監督を手掛けたタモリ主演の『キッドナップ・ブルース』(1982年)、原作者・高橋三千綱が初監督を務めた『真夜中のボクサー』(1983年)、小栗康平監督作品『伽耶子のために』(1984年)など助演したのち、1985年には『薄化粧』と『ビルマの竪琴』の演技によって、日本アカデミー賞の優秀助演男優賞にノミネートされた。『男はつらいよ 柴又より愛をこめて』にもゲスト出演し、愛妻に先立たれロシア語辞典編集に携わるカタブツのお父さんを演じた。1987年には松竹映画塀の中の懲りない面々』に出演し、弱虫なのに反抗心旺盛の出っ歯の囚人を演じ。1988年には、松山善三監督の映画『母』(村祭りの事故で寝たきりになる父の役)と映画『つる -鶴-』に出演し、再び日本アカデミー賞の優秀助演男優賞にノミネートされた。

テレビドラマではその後、大河ドラマ『山河燃ゆ』(1984年)、『國語元年』(1985年)、銀河テレビ小説『月なきみ空の天坊一座』(1986年)、NHK連続テレビ小説チョッちゃん』(1987年)などNHK作品にも立て続けに出演した[4]。『風よ、鈴鹿へ』(1988年)では鈴鹿8耐に毎年連続参戦していた実在のレーサー・千石清一を好演した。

晩年

座頭市』(1989年)、五社英雄監督の『陽炎』(1991年)、大森一樹監督の『継承盃』(1992年)にも出演。映画『撃てばかげろう』(1991年)ではスケジュールの関係で断っていたものの、原作者である野村秋介から直々に毛筆でしたためた出演オファーの手紙をもらい、台本を読んでみて、かつて自分が演じたことのないヤクザ像が描かれており、この作品をいたく気に入り快諾し、出演する。『おろしや国酔夢譚』(1992年)、大林宣彦監督のSF青春映画『はるか、ノスタルジィ』(1992年) 、東映最後のやくざ映画と銘打たれた松方弘樹主演の『首領を殺った男』(1994年) 、『プロゴルファー 織部金次郎2 〜パーでいいんだ〜』(1994年)など幅広く活躍していた。

第二次世界大戦の太平洋戦線において過酷を極めたフィリピン戦線の傷跡をドキュメンタリー形式で辿るドラマ『北緯15°のデュオ〜日本初の神風特別攻撃隊の軌跡〜』(1991年、日本映画復興会議奨励賞受賞)やテレビ東京の年末特別企画番組『チャイナ・オリエント急行、中国横断3700キロ 〜川谷拓三心の旅〜』(1991年)などにも主演。NHKの『歴史誕生 / 地球を測った男』(1991年)では主役の伊能忠敬役を、同じくNHKの『歴史ドキュメント・桜田門外の変』(1993年)では主役の関鉄之介役を演じる。

トーク番組やバラエティ番組(後述)にも多数出演しており、火曜担当である上岡龍太郎島田紳助両司会による日本テレビ『EXテレビ』の「芸能才人図鑑」のコーナーにゲスト出演(1993年)、『いつみても波欄万丈』(1994年5月8日放送)、『CLUB紳助』、『痛快!明石家電視台』などにゲスト出演した。

1995年6月下旬に体調を崩し、7月に東京の病院に検査入院。10月からは京都に移り、京大付属病院に入院するが、12月22日午後8時30分、肺癌のため死去した。54歳没。川谷を見出した深作欣二監督や、映画・CMともに共演した山城など多くの役者仲間や映画関係者がその死を惜しんだ。死後も情報番組『驚きももの木20世紀』(1996年5月10日放送、『銀幕悲歌(エレジー) 川谷拓三物語』)や『知ってるつもり?! 』(1997年12月14日放送)にも俳優・川谷拓三の生涯が紹介され、妻・克子原作によるスペシャルドラマ『かんにんな…川谷拓三と家族が歩んだ愛と涙の200日』(1996年9月17日放送)では、克子の視点で描かれた晩年の川谷をドラマにしており、川谷を平田満が演じた。

病床では書道を好んで、中国戦国時代の詩人・屈原の漢詩「漁父辞」の一句「衆人皆酔我独醒(衆人皆酔い、我ひとり醒めたり)」を独特の字体でしばしば書いている。(没後、1997年頃放映されたNHK教育テレビの川谷拓三特集より)

人物・交友

千葉真一渡瀬恒彦・深作欣二監督らが立会い、1975年ピラニア軍団の結成式が大阪市御堂会館で催された際には、千葉は舞台に上がらず、カメラ片手に客席からメンバーに声をかけて、場を盛り上げていた。川谷はそんな千葉に感謝し「ワシ、生まれて初めてこんな派手なスポットライトを浴びましたわ、ホンマおおきに!」と号泣。涙もろい一面を見せていた。

長兄が癌を患い余命宣告を受けたが、長兄は鶴田浩二の大ファンだった。何とかに見舞いに来てもらえるよう両親は川谷に懇願するも、大部屋俳優が大スターに声をかけるなど決してできなかった。しかし病気に苦しむ長兄をなんとかしてやりたい両親の気持ちを慮った川谷は意を決して、会合で酒を飲んでいる鶴田の席へ行き、「自分の兄が死にそうなんです。兄は鶴田先生の大ファンなんです。どうしても死ぬ前に先生に会いたがっているんです。どうか兄に一目会って貰えませんでしょうか。お願いします!」と頭を下げると「ワシの顔見て、死んで行けるんならそれも供養や。行ってやるよ」と酒の席を中座して、長兄の入院する病院へ駆けつけた。鶴田と会う事のできた長兄は、数時間後に息を引き取ったが、死顔は安らかで満足そうであったという。これが縁で鶴田の付き人となり、鶴田の複数の主演映画で端役のチンピラを演じた。1972年『日本暴力団・殺しの盃』では冒頭の賭博場荒らしのシーンで、岩尾正隆と共にチンピラに扮し、長く映りたいがために、刺されても撃たれてもなかなか死なずにのたうち回る演技をした。長兄の件では終始感謝していたが、ギャラ問題やピラニア軍団設立などで、鶴田と絶縁状態となってしまう。それでも川谷が亡くなる4か月前、すでに体調が思わしくなかったにも関わらず、恩師鶴田の特集という事で『もう一度会いたい あの人・あの芸 鶴田浩二』(1995年8月10日放送)にゲスト出演したほか、自身の死の数日前収録された『この人この芸 鶴田浩二』の司会を単独で務め、鶴田との思い出話を語った。

映画監督である牧口雄二とは、牧口が助監督時代から親しくしており、川谷が俳優としてお茶の間で人気が出だした頃に牧口の監督昇進を知り、出演希望をするもデビュー作『玉割り人ゆき』は超低予算だったため、とても川谷が出演できる状況ではなかったが、親交のある牧口のためにノーギャラで出演をした。川谷の死後、『知ってるつもり?! 』(1997年12月14日放送)で生涯が紹介された時、親交のあるゲストのひとりとして牧口が出演した。

個性の強い俳優であるが故にテレビ出演により、お茶の間で認知された当時は漫画の世界にも川谷をイメージモデルとしたキャラクターが数多く登場した。小山ゆう原作のボクシング漫画『がんばれ元気』(1976年 - 1981年)では主人公・元気の通うボクシングジムの先輩・山谷勝三。林律雄大島やすいち作による当時人気を博した刑事漫画『おやこ刑事』(1976年 - 1981年)では『フィルムの証言』の挿話で登場する容疑者となる俳優・山谷拓二。小池一夫神江里見作による異性に関心を持つ思春期の多感な中学生の日常を描いた『青春チンポジュウム』(1977年 - 1980年)に登場する主人公三人組の中学生の一人・鈴木重信(ジューシン)など。

エピソード

ダウンタウン司会による『ダウンタウンDX』の記念すべき第一回放送(1993年10月21日)のゲストとして菅原文太・山城新伍とともに出演したが、そのシャイで謙虚な人柄に意気投合(ダウンタウンの2人が『仁義なき - 』の大ファン)、愛用の品を2人に譲るなど、深く親交を交わした。同番組内でやくざ映画のコントやトーク番組を繰り広げ、二度目のゲスト出演の時(1995年8月17日放送)は単独のゲスト出演を果たし[5]、他にも『ダウンタウンのごっつええ感じ』ではコントに特別出演している。『必殺からくり人』(第1シリーズ)の主題歌『負犬の唄』(まけいぬのブルース)を歌っているが、そのレコードを持っていなかった。『ダウンタウンDX』二度目のゲスト(1995年8月17日放送)のときに浜田雅功から「ボク、川谷さんの『負犬の唄』のレコード持ってますよ」と言われ、「え、そうなの。それ、ボクも持ってないんよ。今度ちょっと貸してよ」と浜田に頼んだ。

TBSオールスター感謝祭'94超豪華!クイズ決定版この秋お待たせ特大号』(1994年10月1日放送)に出演時、番組企画内にあった赤坂5丁目水泳大会で参加希望者を募ったところ、川谷が参加を希望したため、司会者である島田紳助島崎和歌子が冗談で川谷に意向を確かめてみたところ「やったる!」の一言でミニゲームの競泳に出場した(結果は4人中3位)。 亡くなる数か月前のTBSオールスター感謝祭'95超豪華!クイズ決定版この春お待たせ特大号』(1995年4月1日放送)にも出演。赤坂5丁目水泳大会にも出場し、 ハンデをもらいはしたものの、前回の雪辱を果たす優勝を遂げている。

サム・ペキンパー監督が日本のテレビにゲスト出演している時に、泥酔して乱入し、「ペキンパー、深作欣二と勝負せんかい!」と叫んだこともあるという[6]

伊丹十三監督とは相性が悪かったらしく、『マルサの女』でキャスティングされていたものの、ロケハンや税務署見学等の撮影開始前の段階で、終始不機嫌な態度で対応する川谷に業を煮やしたスタッフが伊丹監督に泣きつき、伊丹監督は「このままでは映画自体が上手く回らない」と判断し、川谷を降板させ、代役として急遽大地康雄を抜擢したことを製作日記に記している[7]

出演作品

テレビドラマ

映画

舞台

CM

シングル

  1. 殺られ節(1976年)
    (c/w 昭和の子守歌)
  2. 負犬の唄(1976年)
    (c/w 拓ヤンのブルース)
  3. 人生しみじみジャイアンツ(1977年)
    (c/w 泣くんじゃない)
  4. 地下鉄のジジ(1977年)
    (c/w 無宿(やどなし))
  5. 何年ぶり(1978年)
    • 作詞:阿久悠 / 作曲:竜崎孝路 / 編曲:竜崎孝路
    (c/w 別れ道)
  6. だけど泣かないさ(1982年)
    (c/w 少しむなしくて)
  7. 筆不精
    (c/w 俺)
  8. かにさん かにさん(1994年2月23日)
    (c/w 北へ…)

オリジナル・アルバム

  1. 殺られの美学(1976年)※プロデュース:深作欣二
  2. 拓三 演歌(1978年)
  3. だけど泣かないさ(1982年)

著作

  1. 「3000回殺された男―拓ボンの体当たり映画人生 」サンマーク出版 ISBN-978-4763190185 1991年09月発行

演じた俳優

参考文献

  1. 「人と契らば濃く契れ―川谷拓三と僕」著・根本順善 葦書房 2000年9月発行ISBN 978-4751207826
  2. 「狂気のなかにいた役者 川谷拓三伝」著・奥薗守 映人社 2011年5月16日発行 ISBN 978-4871002301

脚注

  1. ^ a b c 斉藤明美 『家の履歴書 文化人・芸術家篇』 キネマ旬報社2011年、28 - 29頁。
  2. ^ スポーツニッポン2009年11月8日、P.6
  3. ^ 週刊朝日1976年6月1日、174頁。
  4. ^ 主人公・蝶子の叔父役で出演していたが、病気のため途中降板した。
  5. ^ 友情出演として盟友・志賀勝もワンコーナーでゲスト出演した。
  6. ^ 小林信彦「映画×東京とっておき雑学ノート」(文藝春秋)P.193
  7. ^ 「マルサの女」日記

関連項目

外部リンク