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[[スイス]]の[[ル・ロゼ]]に留学し教育を受けた。1966年7月の反乱によって父王[[ムワンブツァ4世]]が退位した後を受けて19歳で[[摂政]]となり、同年即位した<ref>片山正人『現代アフリカ・クーデター全史』叢文社 2005年 p160 ISBN 4-7947-0523-9C3022</ref>。 |
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しかし、政治の実権は[[ミシェル・ミコンベロ]]首相によって握られ、ンタレ5世には名目的な権力しか残っていなかった。さらに同年11月28日、ミコンベロはクーデターを起こして王制を廃止し、ンタレ5世は[[西ドイツ]]へと[[亡命]]した。 |
しかし、政治の実権は[[ミシェル・ミコンベロ]]首相によって握られ、ンタレ5世には名目的な権力しか残っていなかった。さらに同年11月28日、ミコンベロはクーデターを起こして王制を廃止し、ンタレ5世は[[西ドイツ]]へと[[亡命]]した。 |
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1972年4月、ンタレ5世はブルンジへと帰国したが、すぐにミコンベロによって[[ギテガ]]の自宅へと軟禁された。さらに、ンタレ5世の帰還と時を同じくして[[フツ]]族の大規模な反乱が始まり、その混乱の中でンタレ5世は殺害された<ref>片山正人『現代アフリカ・クーデター全史』叢文社 2005年 p277 |
1972年4月、ンタレ5世はブルンジへと帰国したが、すぐにミコンベロによって[[ギテガ]]の自宅へと軟禁された。さらに、ンタレ5世の帰還と時を同じくして[[フツ]]族の大規模な反乱が始まり、その混乱の中でンタレ5世は殺害された<ref>片山正人『現代アフリカ・クーデター全史』叢文社 2005年 p277 ISBN 4-7947-0523-9C3022</ref>。この反乱はミコンベロの手によって鎮圧され、約15万人が虐殺された。 |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
2016年11月15日 (火) 17:56時点における版
ンタレ5世 Ntare V | |
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ブルンジ国王 | |
在位 | 1966年7月8日 - 11月28日 |
全名 |
Charles Ndizeye Mwambutsa シャルル・ンディゼイェ・ムワンブツァ |
出生 |
1947年12月2日 ルアンダ=ウルンディ ブルンジ王国、ギテガ |
死去 |
1972年4月29日(24歳没) ブルンジ、ギテガ |
家名 | ントウェロ家 |
王朝 | ガンワ朝 |
父親 | ムワンブツァ4世 |
母親 | バランパライェ |
ンタレ5世(フランス語: Ntare V、1947年12月2日 - 1972年4月29日)は、ブルンジ王国の国王。ツチ人。王位につくまではシャルル・ンディゼイェ(Charles Ndizeye)王子として知られていた。1966年7月から11月までブルンジ国王の座についていたが、クーデターによってその地位を追われブルンジ最後の国王となった。
生涯
スイスのル・ロゼに留学し教育を受けた。1966年7月の反乱によって父王ムワンブツァ4世が退位した後を受けて19歳で摂政となり、同年即位した[1]。 しかし、政治の実権はミシェル・ミコンベロ首相によって握られ、ンタレ5世には名目的な権力しか残っていなかった。さらに同年11月28日、ミコンベロはクーデターを起こして王制を廃止し、ンタレ5世は西ドイツへと亡命した。
1972年4月、ンタレ5世はブルンジへと帰国したが、すぐにミコンベロによってギテガの自宅へと軟禁された。さらに、ンタレ5世の帰還と時を同じくしてフツ族の大規模な反乱が始まり、その混乱の中でンタレ5世は殺害された[2]。この反乱はミコンベロの手によって鎮圧され、約15万人が虐殺された。