「モショエショエ2世」の版間の差分
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モショエショエは[[オックスフォード大学]]に留学後、[[1960年]]にコンスタンティン・ベレン・セーイソとして英国保護領[[バストランド]]の首長に就任し、[[1966年]]にレソトが独立を果たすとそのまま国王へと就任した。 |
モショエショエは[[オックスフォード大学]]に留学後、[[1960年]]にコンスタンティン・ベレン・セーイソとして英国保護領[[バストランド]]の首長に就任し、[[1966年]]にレソトが独立を果たすとそのまま国王へと就任した。 |
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モショエショエの政治力は強くなく、統治中に2度亡命を強いられている。独立当初、[[レアブア・ジョナサン]]首相と対立して敗れ、[[1970年]]に一時[[オランダ]]へと亡命している。同年中に首相との和解が成立してモショエショエは帰国し、実権を持たない立憲君主となった。[[1986年]]、[[ジャスティン・レハンヤ]]による[[クーデター]]が成功すると、モショエショエは一時実権を回復するが、レハンヤと対立して、1990年に再び[[イギリス]]へと亡命した。レハンヤは国内にいる皇太子を[[レツィエ3世]]として即位させ、11月にモショエショエは王位を剥奪された。しかしレツィエとモショエショエの関係は悪くなく、[[1991年]]に[[エリアス・ラマエマ]]によってクーデターが起き、レハンヤが追放されると、レツィエはモショエショエへの王位の返還を表明。これに反対する政府とレツィエは対立を深め、[[1994年]]にレツィエはクーデターを起こしてモショエショエへの王位の返還を求めた。このクーデターは他国の介入により解決が図られ、王権が制限される一方で王位の返還は認められ、[[1995年]]、モショエショエは再びレソト国王となった。しかし即位1年後の1996年1月15日、交通事故によりモショエショエは死亡し、王位は再びレツィエに戻った<ref>片山正人「現代アフリカ・クーデター全史」叢文社 2005年 |
モショエショエの政治力は強くなく、統治中に2度亡命を強いられている。独立当初、[[レアブア・ジョナサン]]首相と対立して敗れ、[[1970年]]に一時[[オランダ]]へと亡命している。同年中に首相との和解が成立してモショエショエは帰国し、実権を持たない立憲君主となった。[[1986年]]、[[ジャスティン・レハンヤ]]による[[クーデター]]が成功すると、モショエショエは一時実権を回復するが、レハンヤと対立して、1990年に再び[[イギリス]]へと亡命した。レハンヤは国内にいる皇太子を[[レツィエ3世]]として即位させ、11月にモショエショエは王位を剥奪された。しかしレツィエとモショエショエの関係は悪くなく、[[1991年]]に[[エリアス・ラマエマ]]によってクーデターが起き、レハンヤが追放されると、レツィエはモショエショエへの王位の返還を表明。これに反対する政府とレツィエは対立を深め、[[1994年]]にレツィエはクーデターを起こしてモショエショエへの王位の返還を求めた。このクーデターは他国の介入により解決が図られ、王権が制限される一方で王位の返還は認められ、[[1995年]]、モショエショエは再びレソト国王となった。しかし即位1年後の1996年1月15日、交通事故によりモショエショエは死亡し、王位は再びレツィエに戻った<ref>片山正人「現代アフリカ・クーデター全史」叢文社 2005年 ISBN 4-7947-0523-9C3022 p432-434 </ref> 。 |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
2016年11月15日 (火) 17:36時点における版
モショエショエ2世 Moshoeshoe II | |
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レソト国王 | |
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在位 |
初代:1966年10月4日 - 1990年11月12日 第3代:1995年1月25日 - 1996年1月15日 |
出生 |
1938年5月2日 イギリス保護領バストランド、モリジャ |
死去 |
1996年1月15日(57歳没) |
王太子 | レツィエ3世 |
配偶者 | マモハト王妃 |
子女 | レツィエ3世 |
家名 | セーイソ家 |
父親 | シモン・セーイソ・グリフス |
母親 | マンツェボ・アメリア・マツァバ・サンペ |
モショエショエ2世(Moshoeshoe II、1938年5月2日 - 1996年1月15日)は、レソトの国王(初代、第3代)。モシェシェ2世とも表記される[1]。
英国領バストランド首長(第7代)を歴任。
概要
モショエショエはオックスフォード大学に留学後、1960年にコンスタンティン・ベレン・セーイソとして英国保護領バストランドの首長に就任し、1966年にレソトが独立を果たすとそのまま国王へと就任した。
モショエショエの政治力は強くなく、統治中に2度亡命を強いられている。独立当初、レアブア・ジョナサン首相と対立して敗れ、1970年に一時オランダへと亡命している。同年中に首相との和解が成立してモショエショエは帰国し、実権を持たない立憲君主となった。1986年、ジャスティン・レハンヤによるクーデターが成功すると、モショエショエは一時実権を回復するが、レハンヤと対立して、1990年に再びイギリスへと亡命した。レハンヤは国内にいる皇太子をレツィエ3世として即位させ、11月にモショエショエは王位を剥奪された。しかしレツィエとモショエショエの関係は悪くなく、1991年にエリアス・ラマエマによってクーデターが起き、レハンヤが追放されると、レツィエはモショエショエへの王位の返還を表明。これに反対する政府とレツィエは対立を深め、1994年にレツィエはクーデターを起こしてモショエショエへの王位の返還を求めた。このクーデターは他国の介入により解決が図られ、王権が制限される一方で王位の返還は認められ、1995年、モショエショエは再びレソト国王となった。しかし即位1年後の1996年1月15日、交通事故によりモショエショエは死亡し、王位は再びレツィエに戻った[2] 。
脚注
- ^ 外務省: レソト王国 基礎データ
- ^ 片山正人「現代アフリカ・クーデター全史」叢文社 2005年 ISBN 4-7947-0523-9C3022 p432-434
関連項目
レソト王室 | ||
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先代 レツィエ3世 |
国王 第3代:1995 - 1996 |
次代 レツィエ3世 |
先代 即位 |
国王 初代:1966 - 1994 |
次代 レツィエ3世 |
先代 シモン・セーイソ・グリフス (マンツェボ・アメリア・マツァバ・サンペ) ※ 代理 |
バストランド首長 第7代:1960 - 1966 |
次代 国王即位 |
先代 レツィエ3世 |
セーイソ家当主 第11代:1994 - 1996 |
次代 レツィエ3世 |
先代 マンツェボ・アメリア・マツァバ・サンペ |
セーイソ家当主 第9代:1960 - 1990 |
次代 レツィエ3世 |