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* [[大韓民国大統領]]の[[朴正煕]]とは[[三菱商事]]の当時の藤野忠次郎社長の後押しで経済協力と[[ホットライン]]開設を目的に接触していた<ref>{{cite news |title=相互依存の韓日関係 |publisher=東洋経済日報 |date=2009-06-12 |url=http://www.toyo-keizai.co.jp/news/opinion/2009/post_1919.php |accessdate=2016-09-27}}</ref><ref>[[河信基]]『証言「北」ビジネス裏外交--金正日と稲山嘉寛、小泉、金丸をつなぐもの』第5章175頁、講談社、2008年</ref>。朴正煕の暗殺で立ち消えとなった中韓のホットラインは2015年に娘の[[朴槿恵]]大統領が開設するまで実現されなかった<ref>{{cite news |title=韓中の国防部間にホットライン開通 北朝鮮対応で連携 |publisher=[[聯合ニュース]] |date=2015-12-31 |url=http://japanese.yonhapnews.co.kr/Politics2/2015/12/31/0900000000AJP20151231001000882.HTML |accessdate=2016-09-27}}</ref>。 |
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* [[蒋介石]]との世界反共連盟設立や[[文鮮明]]との国際勝共連合創設などの活動で日本の[[反共主義]]者の代表格だった[[笹川良一]]とは日中国交樹立から親しくした<ref>{{cite news |title=「遠のく鄧小平時代」|publisher=日本財団会長笹川陽平ブログ |date=2009-01-23 |url=http://blog.canpan.info/sasakawa/archive/1735 |accessdate=2016-10-18}}</ref>。 |
* [[蒋介石]]との世界反共連盟設立や[[文鮮明]]との国際勝共連合創設などの活動で日本の[[反共主義]]者の代表格だった[[笹川良一]]とは日中国交樹立から親しくした<ref>{{cite news |title=「遠のく鄧小平時代」|publisher=日本財団会長笹川陽平ブログ |date=2009-01-23 |url=http://blog.canpan.info/sasakawa/archive/1735 |accessdate=2016-10-18}}</ref>。 |
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* [[朝鮮民主主義人民共和国]]最高指導者の[[金日成]]は長年の付き合いから「親密な同志で戦友」と評価していたが<ref>[[五味洋治]]「中国は北朝鮮を止められるか: 中朝愛憎の60年を追う」第5章151-159頁 2010年6月 晩聲社 ISBN |
* [[朝鮮民主主義人民共和国]]最高指導者の[[金日成]]は長年の付き合いから「親密な同志で戦友」と評価していたが<ref>[[五味洋治]]「中国は北朝鮮を止められるか: 中朝愛憎の60年を追う」第5章151-159頁 2010年6月 晩聲社 ISBN 978-4891883485</ref>、その後継者の[[金正日]]は初外遊での訪中から帰国した際に中国の改革開放を「社会主義や共産主義を捨てた」「修正主義」と批判したことで鄧小平は「なんて馬鹿な奴だ」「世間知らずの小童」と唾棄し、焦った金日成は謝罪を約束した<ref>{{cite news |title=【秘録金正日(47)】中国の改革解放を「共産主義捨てた」と一蹴 トウ小平は「なんてばかなやつだ」と激怒|publisher=[[産経新聞]] |date=2015-10-23 |url=http://www.sankei.com/premium/news/151020/prm1510200004-n5.html|accessdate=2016-10-18}}</ref>。 |
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* [[歴史認識]]でも[[江沢民]]のように執拗に謝罪を要求せず「日中二千年の歴史に比べれば両国間の不幸な時期など瞼の一瞬き(ひとまばたき)にすぎない」と日本の首脳に述べたという<ref>徐鵬「[http://cpc.people.com.cn/BIG5/64162/64172/85037/85038/6334385.html 鄧小平:從抗日主將到推動中日友好的歷史巨人]」『中国共産党新聞』(『[[人民網]]』)、2012年9月24日閲覧。</ref>。ただし後に[[奥野誠亮]]大臣の発言や閣僚の[[靖国神社]]参拝について後に「日中友好を好ましいと思わない人がいる。」と批判している。 |
* [[歴史認識]]でも[[江沢民]]のように執拗に謝罪を要求せず「日中二千年の歴史に比べれば両国間の不幸な時期など瞼の一瞬き(ひとまばたき)にすぎない」と日本の首脳に述べたという<ref>徐鵬「[http://cpc.people.com.cn/BIG5/64162/64172/85037/85038/6334385.html 鄧小平:從抗日主將到推動中日友好的歷史巨人]」『中国共産党新聞』(『[[人民網]]』)、2012年9月24日閲覧。</ref>。ただし後に[[奥野誠亮]]大臣の発言や閣僚の[[靖国神社]]参拝について後に「日中友好を好ましいと思わない人がいる。」と批判している。 |
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2016年11月15日 (火) 16:41時点における版
鄧小平 邓小平 Deng Xiaoping | |
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鄧小平(1979年) | |
生年月日 | 1904年8月22日 |
出生地 | 清 四川省広安県(現在の広安市) |
没年月日 | 1997年2月19日 (92歳没) |
死没地 | 中国 北京市中国人民解放軍総医院 |
出身校 | モスクワ中山大学 |
所属政党 | 中国共産党 |
配偶者 | 卓琳 |
親族 | 鄧樸方(長男、全国政協副主席) |
初代中国共産党中央顧問委員会主任 | |
在任期間 | 1982年9月12日 - 1987年11月2日 |
党総書記 |
胡耀邦 趙紫陽 |
在任期間 | 1981年6月29日 - 1989年11月9日 |
党総書記 |
胡耀邦 趙紫陽 |
在任期間 | 1983年6月6日 - 1990年3月19日 |
国家主席 |
李先念 楊尚昆 |
第3代中国人民政治協商会議主席 | |
在任期間 | 1978年3月8日 - 1983年6月17日 |
国家主席 | 廃止 |
内閣 |
周恩来内閣 華国鋒内閣 |
在任期間 |
1975年1月17日 - 1976年4月7日 1977年7月16日 - 1980年9月10日 |
国家主席 | 廃止 |
その他の職歴 | |
政務院副総理 (1956年9月28日 - 1968年10月31日) | |
第2代財政部長 (1952年8月7日 - 1954年9月27日) | |
国務院副総理 (1953年9月18日 - 1954年6月19日) | |
第6代中国人民解放軍総参謀長 (1954年9月27日[1] - 1968年10月31日) (1973年3月10日 - 1975年1月17日) | |
中国共産党中央委員会副主席 (1973年12月12日 - 1976年4月7日) (1977年7月16日 - 1980年3月2日) |
鄧小平 | |
---|---|
各種表記 | |
繁体字: | 鄧小平 |
簡体字: | 邓小平 |
拼音: | Dèng Xiǎopíng |
和名表記: | とうしょうへい |
発音転記: | ドン・シャオピン |
英語名: | Deng Xiaoping |
鄧 小平(とう しょうへい、中国語読み:ドン シャオピン 、IPA:[tɤŋ ɕjɑʊ pʰiŋ]、1904年8月22日 - 1997年2月19日)は、中華人民共和国の政治家。中華人民共和国を建国した毛沢東の死後、その後継者である華国鋒から実権を奪い、事実上の中華人民共和国の最高指導者となる。毛沢東が発動した文化大革命によって疲弊した中華人民共和国の再建に取り組み、「改革開放」政策を推進して社会主義経済の下に市場経済の導入を図るなど、同国の現代化建設の礎を築いた。
生涯
1904年、四川省広安県の裕福な客家系地主の家庭に生まれる。初め鄧先聖と名づけられ、幼時には鄧希賢の名も用いる。1920年、16歳のときにフランスに留学する。第一次世界大戦後の労働力不足に応じた「勤工倹学」という形の苦学生であった。ちなみに鄧小平は16歳で故郷を出た後、死ぬまで一度も帰郷することはなかった。
フランス留学時代
鄧が留学した時代、フランスは第一次世界大戦直後の不景気だったため、パリから遠く離れた市立中等校に入学して節約に励むが、生活費を稼ぐため半年で学校を辞めてしまう。工員、ボーイ、清掃夫など、職を転々と変えながらも堅実に貯金して、1922年10月に再び田舎町の市立中等学校に入学して3か月間学んだのち、パリ近郊のルノーの自動車工場で工員として勤務する。
共産主義者として
フランス留学中の1922年に中国少年共産党に入党し、機関誌の作成を担当。「ガリ版博士」とあだ名される。1925年、中国共産党ヨーロッパ支部の指導者となったため、フランス政府に危険分子と見なされ、フランスでの居心地が悪くなり、1926年モスクワに渡った。東方勤労者共産大学・モスクワ中山大学で共産主義を学ぶ。鄧小平がパリを出発した数日後、フランスの警察が鄧小平のアパートを捜査に入り、2月後に国外追放令を出されていた。
1927年に帰国し、ゲリラ活動を開始。紅七軍を政治委員として指揮するが、冒険的で無計画な李立三路線に振り回される。1931年、蜂起したものの根拠地を失った部隊と共に毛沢東率いる江西ソヴィエトに合流し、瑞金県書記となる。しかしコミンテルンの指令に忠実なソ連留学組が多数派を占める党指導部は、農村でのゲリラ戦を重視する毛沢東路線に従う鄧小平を失脚させる。
1935年、周恩来の助力で中央秘書長に復帰、長征に参加し八路軍一二九師政治委員となる。この後、華北方面での抗日ゲリラ戦を戦う。1946年以降に国民党と戦った国共内戦では、淮海戦役・揚子江渡河作戦で第2野戦軍政治委員などをつとめ、大きな戦果を収める。1949年の中華人民共和国の成立後も西南部の解放戦を指導し、解放地域の復興に努める。
1952年、毛沢東により政務院副総理に任命され、翌1953年には財政部長(大臣)を兼任する。1954年9月に政務院が国務院に改組されると、引き続き副総理を務める。1955年4月、第7期党中央委員会第5回全体会議(第7期5中全会)において中央政治局委員に選出。さらに1956年の第8期1中全会で党中央政治局常務委員に選出されて党内序列第6位となり、中央書記処総書記として党の日常業務を統括することとなる。
1957年には総書記として反右派闘争の指揮を取る。約55万人が迫害を受け、毛沢東の死後にその99%以上が冤罪であったと認められた事件であった[2]。
文革期
鄧小平は、毛沢東の指揮した大躍進政策の失敗以降、次第に彼との対立を深めていく。大躍進政策失敗の責任を取って毛沢東が政務の第一線を退いた後、総書記の鄧小平は国家主席の劉少奇とともに経済の立て直しに従事した。この時期には部分的に農家に自主的な生産を認めるなどの調整政策がとられ、一定の成果を挙げていったが、毛沢東はこれを「革命の否定」と捉えた。その結果、文化大革命の勃発以降は「劉少奇主席に次ぐ党内第二の走資派」と批判されて権力を失うことになる。
1968年には全役職を追われ、さらに翌年、江西省南昌に追放された。「走資派のトップ」とされた劉少奇は文化大革命で非業の死を遂げるが、鄧小平は「あれはまだ使える」という毛沢東の意向で完全な抹殺にまでは至らず、党籍だけは剥奪されなかった。南昌ではトラクター工場や農場での労働に従事するが、与えられた住居には暖房設備もなく(南昌は冬は極寒の地である)、強制労働は過酷なもので、鄧は何度か倒れたが砂糖水を飲んで凌ぐことしか許されなかった。
1973年3月、周恩来の復活工作が功を奏し、鄧小平は党の活動と国務院副総理の職務に復活、病身の周恩来を補佐して経済の立て直しに着手する。同年8月の第10回党大会で中央委員に返り咲き、12月には毛沢東の指示によって党中央委員会副主席、中央軍事委員会副主席、中国人民解放軍総参謀長となり、政治局を統括。1974年4月、国連資源総会に中国代表団の団長として出席し、演説。その際訪れたニューヨークの威容に驚嘆し、国家発展のためには製鉄業の拡充が急務と考え、新日本製鐵(新日鉄)などから技術導入を図る。1975年1月、国務院常務副総理(第一副首相)に昇格し、周恩来の病気が重くなると、党と政府の日常業務を主宰するようになる。
着々と失脚以前の地位を取り戻して行ったかに見えたが、1976年1月8日に周恩来が没すると、鄧小平の運命は暗転する。清明節の4月4日から5日未明にかけて、江青ら四人組が率いる武装警察や民兵が、天安門広場で行われていた周恩来追悼デモを弾圧した。すなわち第一次天安門事件である。この事件において周恩来追悼デモは反革命動乱とされ、鄧小平はこのデモの首謀者とされて再び失脚、全ての職務を剥奪された。しかし、党籍のみは留められ、広州軍区司令員の許世友に庇護される。同年9月に毛沢東が死去すると、後継者の華国鋒を支持して職務復帰を希望し、四人組の逮捕後、1977年に三度目の復活を果たす。
権力の掌握
1977年7月の第10期3中全会において、党副主席、国務院常務副総理、中央軍事委員会副主席兼人民解放軍総参謀長に正式に復帰。翌8月に開催された第11回党大会において、文化大革命の終了が宣言される。鄧小平は文革で混乱した人民解放軍の整理に着手するとともに、科学技術と教育の再建に取り組み、同年、全国普通高等学校招生入学考試を復活させる。
1978年10月、日中平和友好条約の批准書交換のため、当時は副総理だったが、事実上の中国首脳として初めて訪日して福田赳夫首相らに歓待され、中国の指導者としては初めて昭和天皇と会見した。ロッキード事件の渦中にあった田中角栄の私邸を田中の日中国交正常化の功績を称えるべく訪れた他、日本社会党・公明党・民社党・新自由クラブ・社会民主連合・日本共産党といった野党6党の代表と会談して自らを不老不死の霊薬を求めて来日した徐福に擬えた[3]。千葉県君津市の新日鉄君津製鉄所、東海道新幹線や日産自動車、トヨタ自動車・パナソニックなどの先進技術、施設の視察を精力的に行い、京都や奈良にも訪れた。この日本訪問で鄧小平が目の当たりにした日本の躍進振りは、後の改革開放政策の動機になったとされる。また、新日鉄との提携で、上海に宝山製鉄所を建設することが決定された。
同年11月10日から12月15日にかけて開かれた党中央工作会議と、その直後の12月18日から22日にかけて開催された第11期3中全会において文化大革命が否定されるとともに、「社会主義近代化建設への移行」すなわち改革開放路線が決定され、歴史的な政策転換が図られた。また、1976年の第一次天安門事件の再評価が行われ、周恩来の追悼デモは四人組に反対する「偉大な革命的大衆運動」とされた。鄧小平はこの会議で中心的なリーダーシップを発揮し[4]、事実上中国共産党の実権を掌握したとされる。この会議の決議内容が発表されたときは全国的な歓喜の渦に包まれたという逸話が残っている。
1979年1月1日に米中国交が正式に樹立されると、鄧小平は同28日から2月5日にかけて訪米。首都ワシントンD.C.で大統領ジミー・カーターとの会談に臨んだ後、ヒューストン、シアトル、アトランタなどの工業地帯を訪れ、ロケットや航空機、自動車、通信技術産業を視察。前年の日本訪問とこの訪米で立ち遅れた中国という現実を直視した鄧は改革開放の強力な推進を決意、同年7月、党中央は深圳市など4つの経済特別区の設置を決定する。
鄧小平が推進する経済改革は、民主化を求める風潮をも醸成した。この風潮を利用して、鄧小平は華国鋒の追い落としを目論む。華国鋒は「二つのすべて」と呼ばれる教条主義的毛沢東崇拝路線を掲げていたが、これを批判する論文が、鄧小平の最も信頼する部下である胡耀邦らにより人民日報、解放軍報、新華社通信に掲載されたのを機に、国家的な論争に発展。北京には「民主の壁」とよばれる掲示板が現れ、人民による自由な発言が書き込まれた。その多くは華国鋒体制を批判し、鄧小平を支持するものであった。華国鋒は追いつめられ、前述の1978年12月の党中央工作会議において毛沢東路線を自己批判せざるを得なくなり、党内における指導力を失っていった。最終的に華国鋒は1981年6月の第11期6中全会において党中央委員会主席兼中央軍事委員会主席を解任され、胡耀邦が党主席(1982年9月以降、党中央委員会総書記[5])に就任し、鄧小平が党中央軍事委員会主席に就任した。前年の1980年には鄧小平の信頼厚い趙紫陽が国務院総理(首相)に就任しており、ここに鄧小平体制が確立した。
鄧小平は当初民主化を擁護していたが、1980年にポーランドで独立自主管理労働組合「連帯」が結成されると、自己の政策に反する活動家を投獄するなど一転して反動化した。1986年には、反右派闘争などで冤罪となった人々の名誉回復に取り組む総書記の胡耀邦、国務院総理の趙紫陽(いずれも当時)らに対する談話で「自由化して党の指導が否定されたら建設などできない」「少なくともあと20年は反自由化をやらねばならない」と釘を刺している[6]。翌1987年、政治体制改革をめぐって改革推進派の胡耀邦と対立し、胡を失脚させる。しかし、鄧は政治改革に全く反対だというわけではなかった。第一次国共内戦期から党に在籍し、「革命第一世代」と呼ばれた老幹部たちを、自身も含めて党中央顧問委員会へ移して政策決定の第一線から離すなどの措置をとった。ただし、鄧自身は党内序列1位には決してならなかったものの、党中央軍事委員会主席として軍部を掌握、1987年に党中央委員を退いて表向きは一般党員となっても、2年後の1989年までこの地位を保持し続けた。
後に趙紫陽がゴルバチョフとの会談で明らかにしたところでは、1987年の第13期1中全会で「以後も重要な問題には鄧小平同志の指示を仰ぐ」との秘密決議がなされた。1989年の第二次天安門事件後には一切の役職を退くが、以後もカリスマ的な影響力を持った。
第二次天安門事件
生涯に三度の失脚(奇しくもうち二回は学生が起こした暴動が一因)を味わったためか、鄧小平は中国共産党の指導性をゆるがす動きには厳しい態度で臨み、1989年6月には第二次天安門事件で学生運動の武力弾圧に踏み切った。この事件については初め趙紫陽総書記などが学生運動に理解を示したのに対して、軍部を掌握していた鄧小平が陳雲、李先念ら長老や李鵬首相らの強硬路線を支持し、最終的に中国人民解放軍による武力弾圧を決断したといわれる。
鄧小平は、武力弾圧に反対した趙紫陽の解任を決定。武力弾圧に理解を示し、上海における学生デモの処理を評価された江沢民(当時上海市党委書記)を党総書記へ抜擢し、同年11月には党中央軍事委員会主席の職も江に譲った。
鄧小平の政策
1978年に日中平和友好条約を結び、同年10月に日本を訪れた鄧小平は、後述の新幹線への乗車で日本の経済と技術力に圧倒された。また、同年11月には、シンガポールの外資誘致の実態を見学した。これらの海外視察から帰国した鄧小平は、第11期3中全会(同年12月)において、それまでの階級闘争路線を放棄し、「経済がほかの一切を圧倒する」という政策を打ち出した。
その代表的な経済政策のひとつが、「改革・開放」政策の一環である経済特区の設置である。一部地域に限り外資の導入を許可・促進することで経済成長を目指すというこの政策は、その後、きわめて大きな成果を収めた。しかし、政治面では共産主義による中国共産党の指導と一党独裁を強調し、経済面では生産力主義に基づく経済政策を取った。生産力の増大を第一に考える彼の政策は「白猫であれ黒猫であれ、鼠を捕るのが良い猫である」(不管黑猫白猫,捉到老鼠就是好猫)という「白猫黒猫論」[7]に表れている。
1984年3月には訪中した当時の中曽根康弘首相は鄧小平ら中国指導部と会談して第二次円借款の実施や中日友好病院、日中青年交流センター設置などで一致し、鄧小平は経済協力の拡大を呼びかけ[8]、沿海部の経済特区指定も重なり、これ以降日本の対中直接投資は本格化する。一方で当時の胡耀邦総書記と比較して鄧小平は靖国神社問題などで日本に批判的であり、全国に日本の中国侵略の記念館・記念碑を建立して愛国主義教育を推進するよう指示を出して南京大虐殺紀念館をつくらせた[9]。
1984年12月には、鄧小平とモスクワ中山大学で同窓生だった蒋経国の中華民国(台湾)に提案していた「一国二制度」構想のもと、イギリスの植民地であった香港の返還に関する合意文書に、首相のマーガレット・サッチャー(当時)とともに調印している。蒋経国とはシンガポール首相のリー・クアンユーや香港の商人で密使の沈誠らを通じて交渉を行い[10]、1985年7月には香港などを介した大陸との間接貿易を台湾に事実上解禁させることに成功し(公式には1990年10月からで、対中直接投資は1992年9月に解禁)、1987年11月には三親等以内の大陸親族への訪問の容認を引き出した。
1988年8月に中国訪問した竹下登首相と巨額の第三次円借款実施や日中投資保護協定の締結などで合意し、鄧小平はさらなる対中投資を要請[11]して後に日本側で日中投資促進機構が創設される。NHKと中国中央電視台が共同制作したシルクロード番組で起きた当時の日本の「シルクロードブーム」を受け[12]、日中友好環境保護センターも設置された。
1989年に公職から退いて表面的には引退したものの、影響力を未だ維持していた鄧小平は、1992年の春節の頃の1月18日から2月21日にかけて、深圳や上海などを視察し、南巡講話を発表した。経済発展の重要性を主張し、ソビエト連邦の解体などを例にして「経済改革は和平演変による共産党支配体制の崩壊につながる」と主張する党内保守派を厳しく批判したこの講話は、天安門事件後に起きた党内の路線対立を収束し、改革開放路線を推進するのに決定的な役割を果たした。以後、中華人民共和国は急速な経済発展を進めることになった。
死去
鄧小平は香港返還を見ることなく、パーキンソン病に肺の感染の併発で呼吸不全に陥り、1997年2月19日21時8分に亡くなった。唯物主義にのっとった遺言により、角膜などを移植に寄付した。本人は自身の遺体の献体を望んだが、これは鄧楠の希望で実施されなかった。同年3月2日11時25分、遺灰は親族によって中華人民共和国の領海に撒かれた。
中国中央電視台は鄧の死をトップに報道し、江沢民総書記は弔意を表し、天安門には半旗が掲げられた。死後翌日の2月20日、ニューヨークの国連本部でも追悼の意を表すために半旗が掲げられた。しかし、中華人民共和国各地の市民の生活は平常どおり営まれていた。これは毛沢東が死んだときに盛大に国葬が営まれたのと対照をなす。
鄧小平の死後、鄧が唱えた社会主義市場経済や中国共産党の正当化などの理論は、鄧小平理論として中国共産党の指導思想に残された。
あだ名
名前の小平(シャオピン)の発音が小瓶と同じことから、しばしば「小瓶」と渾名されている。また、身長150センチと小柄ながら頭の回転が速く、眼光人を刺す如く鋭かったことから「唐辛子風味のナポレオン」、「鄧蝟子(ハリネズミの鄧)」、「鄧矮子(チビの鄧)」と呼ばれたりもした。毛沢東は鄧小平の人となりを「綿中に針を蔵す」と評した。
逸話
- フランス留学など、青年期に7年近い欧州生活を送り、ワインとチーズが大好物でヨーロッパ文化への嫌悪感を持たなかった鄧小平は、いくつかの趣味を持っていた。とくに有名なのはコントラクトブリッジであった。政府や共産党の公職から退いた後も、中華人民共和国ブリッジ協会の名誉主席を務め、国際的にも有名となった。
- フランス留学中に夢中になったものが2つあり、1つは共産党でもう1つはクロワッサンであった。これは無関係というわけではなく、フランスで1番おいしいクロワッサンの店を教えてくれたのは、後に北ベトナムの指導者になるホー・チ・ミンであった。
- サッカー好きでも知られていた。FIFAワールドカップの時には、ビデオなどを使ってほとんどの試合を見ていたといわれている。
- 背が伸びなかったのは、フランス滞在中、満足に食事を取れなかったからだと後年、語っていた。
- 鄧小平の言葉として「白猫であれ黒猫であれ、鼠を捕るのが良い猫である」という「白猫黒猫論」が有名であるが、これは四川省の古くからの諺である。実際に彼が言ったのは「白い猫」ではなく「黄色い猫」である。これは最も鄧が好んだ言葉であり、毛沢東が鄧を弾劾する際にその理由の一つとしている。
- 実子である鄧樸方は、北京大学在学中に文化大革命に巻き込まれ、紅衛兵に取り調べられている最中に窓から「転落」(紅衛兵により突き落とされたとする説もある。事実、紅衛兵によるこういった、あるいはその他の激しい暴行による傷害や殺人は夥しい数に上り、鄧小平自身も暴行を受けている)し、脊髄を損傷し身体障害者になった。鄧小平は午前は工場労働をし、午後は息子の介護をした。この経験からか、中華人民共和国内の障害者団体に関わっていたことがある。
- 1974年の国連資源総会に出席した際、中国は過去も、現在も覇権を求めておらず、将来強大になっても覇権を求めないと演説した[13]。
- 日本国外務省の田島高志(元中国課長、カナダ大使)は、1978年8月の日中平和友好条約交渉において、鄧小平がソ連を覇権主義と批判し、中国の反覇権を条約に明記するように主張していたと語る。その際に鄧小平が園田直外相に対し、「中国は、将来巨大になっても第三世界に属し、覇権は求めない。もし中国が覇権を求めるなら、世界の人民は中国人民とともに中国に反対すべきであり、近代化を実現したときには、社会主義を維持するか否かの問題が確実に出てこよう。他国を侵略、圧迫、搾取などすれば、中国は変質であり、社会主義ではなく打倒すべきだ」と述べたという[14]。同条約調印式の際は日米安全保障条約と自衛隊の軍事力増強を歓迎すると表明した[15]。
- 1978年の訪日時には様々な談話を残した。「これからは日本に見習わなくてはならない」という言葉は、工業化の差を痛感したもので、2ヶ月後の第11期3中全会決議に通じるものであった。また、帝国主義国家であるとして日本を「遅れた国」とみなしてきた中華人民共和国首脳としても大きな認識転換であった。新幹線に乗った際には「鞭で追い立てられているようだ」「なんという速さだ。まるで風に乗っているようだ」という感想を漏らしている。ほかには、「日本と中国が組めば何でもできる」という、解釈によっては際どい発言を残してもいる。事実、訪中した鈴木善幸自民党総務会長に対し、中国での日中共同の兵器工場を建設する計画を鈴木本人によれば真剣に提案してきたという[16]。訪日時の昭和天皇との会見で「あなたの国に迷惑をかけて申し訳ない」という謝罪の言を聞いたとき、鄧小平は電気ショックを受けたように立ちつくした[17]。これに感激した鄧小平は昭和天皇の訪中に拘り始め、1984年に田中角栄元首相を通して日本に働きかけるも宮内庁は沖縄訪問を優先したので断られた[18]。天皇の訪中は明仁天皇となってから1992年に実現する。
- 大韓民国大統領の朴正煕とは三菱商事の当時の藤野忠次郎社長の後押しで経済協力とホットライン開設を目的に接触していた[19][20]。朴正煕の暗殺で立ち消えとなった中韓のホットラインは2015年に娘の朴槿恵大統領が開設するまで実現されなかった[21]。
- 蒋介石との世界反共連盟設立や文鮮明との国際勝共連合創設などの活動で日本の反共主義者の代表格だった笹川良一とは日中国交樹立から親しくした[22]。
- 朝鮮民主主義人民共和国最高指導者の金日成は長年の付き合いから「親密な同志で戦友」と評価していたが[23]、その後継者の金正日は初外遊での訪中から帰国した際に中国の改革開放を「社会主義や共産主義を捨てた」「修正主義」と批判したことで鄧小平は「なんて馬鹿な奴だ」「世間知らずの小童」と唾棄し、焦った金日成は謝罪を約束した[24]。
- 歴史認識でも江沢民のように執拗に謝罪を要求せず「日中二千年の歴史に比べれば両国間の不幸な時期など瞼の一瞬き(ひとまばたき)にすぎない」と日本の首脳に述べたという[25]。ただし後に奥野誠亮大臣の発言や閣僚の靖国神社参拝について後に「日中友好を好ましいと思わない人がいる。」と批判している。
脚注
- ^ この日、第1期全国人民代表大会第1回会議において政務院総理の周恩来が国務院総理に就任して国務院が成立。第1期全人代第1回会議の最終日である翌日、国務院副総理・秘書長の選出が行われた。副総理・閣僚・秘書長らが正式に任命されたのは9月29日。
- ^ 伊藤正『鄧小平秘録』、25ページ。
- ^ “1978年日本の旅――鄧小平氏が訪日で学んだもの”. 人民網. (2008年12月3日) 2016年11月5日閲覧。
- ^ 天児慧『巨龍の胎動 毛沢東VS鄧小平』、247ページ。
- ^ 1982年9月に開催された第12回党大会における党規約改正で党主席制が廃止され、党の最高ポストとして中央委員会総書記が設置された。
- ^ 『鄧小平秘録』、26ページ。
- ^ 実際の発言は「白猫」ではなく「黄猫」である(矢吹晋『鄧小平』、講談社現代新書版71-72ページ)。
- ^ 「中曽根首相・鄧主任の会談要旨」朝日新聞、1984年3月26日
- ^ 笠原十九司『体験者27人が語る南京事件』高文研
- ^ “大陸部との統一交渉を内密に進めた蒋経国”. 人民網. (2009年4月14日) 2016年10月21日閲覧。
- ^ 「鄧小平会見竹下登時説中日関係応以相互信任為基礎」人民日報、1988年8月26日
- ^ 王坤「中国側から見る日中経済協力 : 1979~1988年の『人民日報』の対中ODA 報道を中心に」OUFCブックレット 3, 313頁, 2014-03-10
- ^ 白書「中国の平和的発展の道」
- ^ 「鄧小平氏の教訓」、『読売新聞』2011年1月12日付論点。
- ^ 中国から見た日米同盟体制 - 防衛省防衛研究所
- ^ 『鈴木善幸回願録』p155
- ^ >入江相政日記241頁
- ^ 城山英巳『中国共産党「天皇工作」秘録』8頁
- ^ “相互依存の韓日関係”. 東洋経済日報. (2009年6月12日) 2016年9月27日閲覧。
- ^ 河信基『証言「北」ビジネス裏外交--金正日と稲山嘉寛、小泉、金丸をつなぐもの』第5章175頁、講談社、2008年
- ^ “韓中の国防部間にホットライン開通 北朝鮮対応で連携”. 聯合ニュース. (2015年12月31日) 2016年9月27日閲覧。
- ^ “「遠のく鄧小平時代」”. 日本財団会長笹川陽平ブログ. (2009年1月23日) 2016年10月18日閲覧。
- ^ 五味洋治「中国は北朝鮮を止められるか: 中朝愛憎の60年を追う」第5章151-159頁 2010年6月 晩聲社 ISBN 978-4891883485
- ^ “【秘録金正日(47)】中国の改革解放を「共産主義捨てた」と一蹴 トウ小平は「なんてばかなやつだ」と激怒”. 産経新聞. (2015年10月23日) 2016年10月18日閲覧。
- ^ 徐鵬「鄧小平:從抗日主將到推動中日友好的歷史巨人」『中国共産党新聞』(『人民網』)、2012年9月24日閲覧。
参考文献
- 三女鄧榕(毛毛)による、文化大革命期における家族の回顧録。
- ハリソン・ソールズベリー 『ニュー・エンペラー 毛沢東と鄧小平の中国』(天児慧監訳、福武書店、1993年/福武文庫 上下巻、1995年)
- 天児慧 『巨竜の胎動 毛沢東VS鄧小平』<中国の歴史11>(講談社、2004年)
- 『鄧小平伝 中国解放から香港返還まで』(東京新聞出版局、1997年)
- 解放軍文芸出版社編、公的性格の伝記。
関連項目
- 鄧小平理論
- 鄧小平故居
- クリストファー・パッテン
- 大地の子(山崎豊子の小説で、鄧小平をモデルとした人物が登場する)
外部リンク
中華人民共和国
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