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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
*マーク・カーン著、相原俊樹訳『死のレース 1955年 ルマン』二玄社 ISBN4-544-04043-4
*マーク・カーン著、相原俊樹訳『死のレース 1955年 ルマン』二玄社 ISBN 4-544-04043-4


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==

2016年11月15日 (火) 16:29時点における版

スターリング・モス
コペンハーゲン空港にて (1958年8月18日)
基本情報
フルネーム サー・スターリング・クロフォード・モス
国籍 イギリスの旗 イギリス
(イングランドの旗 イングランド)
出身地 同・ロンドン
ウェスト・ケンジントン
生年月日 (1929-09-17) 1929年9月17日(95歳)
F1での経歴
活動時期 1951-1961
所属チーム '51,'52 HWM
'52 ERA
'52,'53 コンノート
'53 クーパー
'54,'56-'57 マセラティ
'55 メルセデス
'57,'58 ヴァンウォール
'58,'59,'60-'61 ロブ・ウォーカー
'59 BRP
出走回数 67 (66スタート)
タイトル 0
優勝回数 16
表彰台(3位以内)回数 24
通算獲得ポイント 185 914 (186 914)
ポールポジション 16
ファステストラップ 19
初勝利 1955年イギリスGP
最終勝利 1961年ドイツGP
最終戦 1961年アメリカGP
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サー・スターリング・クロフォード・モスSir Stirling Craufurd Moss, OBE 1929年9月17日 - )は、1950年代に活躍したイギリスの元レーシングドライバーである。

歴代の中でもトップドライバーに数えられる実力を持ちながら、結局一度もチャンピオンになることはなかった。「世界チャンピオンにならなかった最も偉大なドライバー」と評され[1]、日本語では「無冠の帝王」と称される。

経歴

F1世界選手権開幕戦となった1950年イギリスGPの前座レースで、最終ラップにエンジンを壊しながらも2位に入賞。イギリス勢が著しく振るわなかったレースウィークにおける数少ない喜ばしい話題として、多くのメディアに取り上げられ、イギリス国内で注目を浴び始めた。

F1

1954年以前

1951年開幕戦スイスGPにおいて、HWMからF1デビューし8位で完走。その後、1953年までは散発的なスポット参戦が多く、また恵まれないマシンで苦戦していたため、入賞はなかった。

1954年はグランプリに復帰するメルセデスにシートを求めたが、実績不足を理由に断られた。第3戦ベルギーGPよりマセラティのプライベーターとして出走し3位を獲得。この年の入賞はこれのみだったが、第5戦イギリスGPでは初ファステストラップ(以下:FL)を記録。イタリアGPではリタイアするまでトップを快走するなど才能を開花させ、一躍トップドライバーとなった。

1955年

1955年はメルセデスに招かれてワークスチーム入りを果たし、エースドライバーのファン・マヌエル・ファンジオに次ぐポジションを確立する。第4戦ベルギーGP・第5戦オランダGPと連続で2位フィニッシュした後、第6戦イギリスGPでは初のポールポジション(以下:PP)を獲得。決勝でもファンジオの追走を制し、地元でF1初優勝を達成した。ポールトゥーウィンであることに加えてFLも記録し、モスづくしのレースとなった。最終的に、ファンジオに次ぐランキング2位でシーズンを終えている。

この年はスポーツカー世界選手権でもメルセデス・ベンツ・300SLRを駆り、メルセデスのマニュファクチャラーズチャンピオン獲得に貢献した。ミッレミリアでは平均速度新記録を樹立して優勝。モス自身、この勝利をレースキャリアのベストに選んでいる[2]

1956年

メルセデスの活動休止によりマセラティに舞い戻った1956年も活躍し、2勝・1PP・3FLを記録。最終戦イタリアGPでの勝利により、ランキングでピーター・コリンズを上回り、ファンジオに次ぐ2位に浮上した。

1957年

1957年は開幕戦アルゼンチンGPのみマセラティから出走し、その後ヴァンウォールに移籍。前半は結果を残せなかったものの、後半は4戦中3勝を記録。第5戦イギリスGPではトニー・ブルックスとマシンをシェアして優勝し、イギリス製マシンのF1初勝利を記録した[3]。他にも1PP・2FLを記録し、3年連続でファンジオに次ぐランキング2位となった。

1958年

1958年もヴァンウォールからの出走だったが、開幕戦アルゼンチンGPのみロブ・ウォーカー・レーシング・チームから急遽参戦。ミッドシップレイアウトのクーパークライマックスは当時の一流チームと比べエンジン性能が劣っている上、フロントエンジンレイアウトが主流の時代故に珍車的扱いだったが、タイヤ無交換作戦[注釈 1]が決まり2位と2.7秒差で優勝した。前年暮に開催が決定したためワークスチームはフェラーリマセラティだけと手薄だった事にも助けられたが、ミッドシップF1マシンの初優勝を記録した。

この年は、ファンジオが2戦に出走したのみで引退し、モスとフェラーリマイク・ホーソーンの間で激しいチャンピオン争いが行われた。第9戦ポルトガルGPではモスが優勝し、ホーソーンが2位であったが「レース中ホーソーンがコースアウトした際にコースを2-3m逆走した」と誰かが異議を申し立てた。モスは「ホーソーンが自動車を押していたのはコース外であった」と競技委員に証言し、異議は却下されてホーソーンの2位復活が認められ、ホーソーンは結果から見れば決定的なポイントを得た。

最終的にモスは4勝を挙げたが、1勝のホーソーンに1ポイント差で敗れ、イギリス人初のF1ワールドチャンピオンの栄誉を譲ることになった。これにより、4年連続でランキングは2位となった。堅実にポイントを稼いたホーソーンに対し、モスはリタイヤが多く、またFL[注釈 2]でもホーソーンの5度に対し3度と下回っていた。PPは3度だった。

1959年

ヴァンウォールの撤退後はワークスチームに所属せず、プライベーターのロブ・ウォーカー・レーシング・チームと契約した。トップレベルとは言いがたいマシンでワークスチームに挑み、勝利を飾るモスの姿は、観衆から大きな支持を得たという。

1959年はロブ・ウォーカー(マシンはクーパー)の他、父親のアルフレッド・モスとマネージャーのケン・グレゴリーが設立したブリティッシュ・レーシング・パートナーシップ (BRP) からも3戦出場した(マシンはBRM)。

開幕戦モナコGPにて、PPからトップ走行中、トラブルにより残り約20周でストップ。これも含め前半戦は未勝利だったが、第7戦ポルトガルGP・第8戦イタリアGPと2連続ポール・トゥー・ウィンを飾り、ワークスクーパーのジャック・ブラバムを猛追。最終戦アメリカGPを残した時点でランク2位につけ、チャンピオンのチャンスも残っていた。しかしアメリカGPでは、PPからトップ走行中の6周目に、トランスミッショントラブルでリタイヤ。トニー・ブルックスにも抜かれ、ランクは3位に終わった。

この年は実質8戦中、2勝以外に2位を1度記録したが、他はリタイヤ4回・失格1回と、前年まで見られた傾向は変わっていなかった。他に、PP・FLを共に4回獲得している。

1960年

1960年はロブ・ウォーカーより、ロータス・18を使用して参戦。第2戦モナコGPではロータスのコンストラクター初勝利を達成した[注釈 3]。しかし、第5戦ベルギーGPの予選中にクラッシュで両足を骨折。タイムは3位ながら決勝の走行は出来ず、3戦欠場を余儀なくされた。

しかし、復帰後に最終戦アメリカGPで優勝。シーズンの半分近くは欠場という状況ながら、2勝・4PP・2FLを記録し、ランキングではブラバム、ブルース・マクラーレンに次ぐ3位に入った。

1961年

ニュルブルクリンクで開催された1961年ドイツGPで優勝したモス

1961年は開幕戦モナコGPでPPを獲得。決勝でもフェラーリ勢2台の猛追を予選記録を上回るペースで退け、リッチー・ギンザーに3秒差をつけて勝利した。旧型のロータス・18/21でこの年の最強マシンであるフェラーリ・156F1を相手にしての快勝劇は、モス自身F1でのベストレースに挙げている[2]。第6戦ドイツGPでは、雨に賭けたタイヤ選択が成功して優勝した。

この年、フェラーリが参加したレースで優勝を奪えたのはモスのみだった[注釈 4]。ランキングは1959年から3年連続の3位となった。全8戦中、2勝以外は4位1回のみと、リタイヤの多さが見られた。

その他、ファーガソン四輪駆動マシン(en:Four-wheel drive in Formula Oneも参照)で非選手権レースの「インターナショナル・ゴールド・カップ」に出場して優勝。これはF1レースにおいて4駆車が記録した唯一の勝利である。

F1引退、その後

1962年3月23日、セブリング・インターナショナル・レースウェイで行なわれた12時間耐久レースペドロ・ロドリゲススティーブ・マックイーンイネス・アイルランドと共にチームを組んで参戦。その前座で行なわれた1000cc以下の車に限定された3時間耐久レースではオースチン・ヒーレースプライトMk.2にも乗っていた[4]

しかし、その直後、シーズン開幕前にグッドウッドで行われた非選手権レース「グローヴァー・トロフィー」に出場したが、芝の斜面に激突して頭部に重傷を負い、昏睡状態に陥る。1ヵ月後に意識が回復したが、半年間は麻痺が残った[5]

事故から1年後の1963年、怪我の回復をみてテスト走行を行ったが、精神面で集中しきれないことを悟り[5]、全盛期の32歳にして現役引退を決意した。モスは後に引退の決断が早すぎたとも認めている[6]

メルセデス・ベンツ・300SLRをドライブするモス(1977年)

その後、1980年に現役復帰し、イギリスツーリングカー選手権 (BTCC) にアウディより参戦。以後もヒストリックカーレースに定期的に出場した。

1990年に国際モータースポーツ殿堂入り[7]。2000年にはモータースポーツの発展に貢献したとして「ナイト」の称号が与えられた[8]

2010年3月、モスは自宅内でエレベーターに乗ろうとした際に誤ってホールに転落し、両足骨折の重傷を負ったと報じられた[9]

2011年6月9日、81歳のモスは正式にモーターレーシングから引退することを自身のウェブサイト上で公表した[10][6]

エピソード

母国での名声
チャンピオンにならなかったにもかかわらず、母国イギリスでは英雄的存在であり、「モスに手紙を書く際には、スターリング・モス、イングランド」という宛名だけで手紙が届く」という逸話もある。
フェラーリとの関係
何度もチャンピオン争いに絡みながら1度も王座に就けなかったのは、母国を愛する気持ちから、必要以上にイギリスチームに拘った結果とされる。同郷のマイク・ホーソーンやピーター・コリンズ、トニー・ブルックスがフェラーリに所属したにも関わらず、モスはその強豪チーム入りを選ばなかった。理由は、1951年に加入を誘われた際、エンツォ・フェラーリの翻意に立腹して「エンツォのためには走らない」と誓ったためである[11]。スポーツカーレースではプライベートチームのフェラーリに乗り、13戦11勝という戦績を収めている。
1961年末にはフェラーリから再度オファーを受け、チャンピオンマシンである156F1がロブ・ウォーカー・レーシングに供給されるという話がまとまった[11]。しかし、1962年シーズン前の大事故によって、この計画は幻に終わった。モスは「最大の後悔は一度もフェラーリで走らなかったことさ[11]」と振り返っている。
トリビュートモデル
メルセデスベンツ・SLRスターリング・モス
2009年にメルセデス・ベンツから彼の名を冠したスポーツカーメルセデス・ベンツ・SLRスターリング・モス」が75台限定で販売された。
日本との関係
1964年、建設中の富士スピードウェイのアドバイザーとして来日した[12]。富士はNASCAR風のオーバルコースとして計画されていたが、現地視察の際に建設地が山麓の傾斜地である事を素早く見抜き、「こんな地形でオーバルサーキットなんてナンセンスも甚だしい。今すぐヨーロッパ式のロードコースに改めた方がいい」と一喝した。その後、コースレイアウトは高速バンクとロードコースの折衷型に修正された。
生沢徹が渡英した際、レース活動に困窮してモスに相談したところ、親身になってチームを紹介している。

発言

引退後も、F1に何かしらの動向があれば度々コメントを発している。辛口な意見が掲載されることも多い。

  • 「彼はライオンの口に頭を突っ込んだようなものだよ[13]」 - 2010年にルイス・ハミルトン中心のマクラーレンへの移籍を決めたジェンソン・バトンについて。
  • 「彼の行動は極めて悪いと思う。今のようなドライビングを絶対にすべきではない。彼は素晴らしいドライバーだが、悪い見本になっている[14]」 - 2011年カナダGPのハミルトンの接触事故について。
  • 「彼は非常に賢い男だが、私には理解できない。今までの功績にダメージを与えているだけだ。ピークを過ぎたと言う人もいるが、本当にそうなのかもしれない[15]」 - 2010年に現役復帰したミハエル・シューマッハについて。
  • FIAはもっと下手なドライビングについて出場停止など厳しい処分を行うべきだ[16]」 - 2006年サンマリノGP井出有治の接触事故について。
  • ジャッキー・スチュワートは、レースを安全にするためにずいぶん努力した。巨大なランオフエリアがその一例だ。だが、私に言わせれば、むしろサーキットによってはこれがスポーツを台無しにしていると思えるんだよ[5]」- レースの魅力と安全性について。
  • 「チームオーダーは常に存在したし、これからも存在する。私はそれでいいと思う[17]」 - チームオーダー禁止ルールの撤廃について。
  • 「女性は力は持っていると思うが、過酷なレースに耐えるための精神力を備えているかどうかは疑問に感じる」 - 女性レーサーがF1で成功する可能性について[18]

F1での年度別成績

所属チーム シャシー 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 WDC ポイント
1951年 HW モータース 51 SUI
8
500 BEL FRA GBR GER ITA ESP NC
(33位)
0
1952年 52 SUI
Ret
500 NC
(72位)
0
ERA G Type BEL
Ret
FRA GBR
Ret
GER NED
Ret
コンノート Type A ITA
Ret
1953年 ARG
500
NED
9
BEL
NC
(20位)
0
クーパー Special (T21) FRA
Ret
GBR
DNA
GER
6
SUI
ITA
13
1954年 マセラティエキップ・モス/アルフレッド・モス 250F ARG 500 BEL
3
FRA GBR
Ret
GER
Ret
13位 4 17
マセラティ SUI
Ret
ITA
10
ESP
Ret
1955年 ダイムラー・ベンツ W196 ARG
4*
MON
9
500 BEL
2
NED
2
GBR
1
ITA
Ret
2位 23
1956年 マセラティ 250F ARG
Ret
MON
1
500 BEL
3*
FRA
5*
GBR
Ret
GER
2
ITA
1
2位 27 (28)
1957年 ARG
8
2位 25
ヴァンウォール 57 (VW 5) MON
Ret
500 FRA GBR
1*
GER
5
PES
1
ITA
1
1958年 クーパーロブ・ウォーカー T43 ARG
1
2位 41
ヴァンウォール 57 (VW 5) MON
Ret
NED
1
500 BEL
Ret
FRA
2
GBR
Ret
GER
Ret
POR
1
ITA
Ret
MOR
1
1959年 クーパーロブ・ウォーカー T51 MON
Ret
500 NED
Ret
GER
Ret
POR
1
ITA
1
USA
Ret
3位 25 12
BRMBRP P25 FRA
DSQ
GBR
2
1960年 クーパーロブ・ウォーカー T51 ARG
3**
3位 19
ロータスロブ・ウォーカー 18 MON
1
500 NED
4
BEL
DNS
FRA GBR POR
DSQ
ITA USA
1
1961年 MON
1
NED
4
3位 21
18/21 BEL
8
FRA
Ret
GBR
Ret
GER
1
USA
Ret
21 ITA
Ret
ファーガソンロブ・ウォーカー P99 GBR
DSQ
  • 太字ポールポジション斜字ファステストラップ。(key)
  • * : 同じ車両を使用したドライバーに順位とポイントが配分された。
  • ** : 同じ車両を使用したドライバーに順位が分配されたが、ポイントは与えられなかった。

注釈

  1. ^ そのため、ファイナルラップ寸前にはタイヤにゴムがほとんど残っていない状態となっていた。
  2. ^ 当時は、順位のポイントが5位の2ポイントが最小で6位にはポイントが与えられず、その代わりにFL獲得者に1ポイントが与えられていた。
  3. ^ ワークスであるチーム・ロータスの初勝利は1961年のアメリカGPでイネス・アイルランドが記録。
  4. ^ 最終戦アメリカGPはフェラーリは不参加。

出典

  1. ^ “Sir Stirling Moss”. grandprix.com. http://www.grandprix.com/gpe/drv-mossir.html 2006年10月21日閲覧。 
  2. ^ a b Simon Arron (2009年9月5日). “Stirling Moss at 80: the interview”. The Telegraph. http://www.telegraph.co.uk/motoring/motorsport/6139097/Stirling-Moss-at-80-the-interview.html 2012年1月13日閲覧。 
  3. ^ Laurence Edmondson / Me (2011年11月10日). “特集:1957年イギリスGP”. ESPN F1. http://ja.espnf1.com/f1/motorsport/story/63865.html 2012年1月13日閲覧。 
  4. ^ このエピソードは、『カー・SOS 蘇れ!思い出の名車』シーズン3第3話の主題となっている。この回では番組MCのティム・ショーファズ・タウンゼントがスプライトMk.2をレース当日そのままに近い状態にまで修復し、モスが実際に運転する。
  5. ^ a b c “スターリング・モス卿が斬る:2010年1月4日”. ESPN F1. (2010年1月6日). http://ja.espnf1.com/f1/motorsport/story/6153.html 2012年1月13日閲覧。 
  6. ^ a b Jim (2011年6月10日). “モス卿がレース引退”. ESPN F1. http://ja.espnf1.com/f1/motorsport/story/51128.html 2012年1月13日閲覧。 
  7. ^ Stirling Moss”. International Motorsports Hall of Fame. 2011年6月11日閲覧。
  8. ^ AP (2000年3月21日). “Stirling Moss receives knighthood”. The Independent. http://www.independent.co.uk/sport/motor-racing/stirling-moss-receives-knighthood-722857.html 2011年6月11日閲覧。 
  9. ^ 東京中日スポーツ. (2010年3月9日) 
  10. ^ Sir Stirling Moss OBE announces his retirement from motor racing”. Stirling Moss. 2011年6月11日閲覧。
  11. ^ a b c Laurence Edmondson / Me (2010年12月17日). “特集:モス卿がフェラーリで走らなかった理由”. http://ja.espnf1.com/f1/motorsport/story/36679.html 2012年1月13日閲覧。 
  12. ^ 平本真樹. “河野洋平がレーサーのモスに富士SW基本設計を委ねる(15)”. 銀座新聞ニュース. http://www.ginzanews.com/report/273/ 2012年1月13日閲覧。 
  13. ^ “モス マクラーレンの激しいチームメイトバトルを予想”. GPUpdate. (2010年1月20日). http://www.gpupdate.net/ja/f1-news/226373/ 2012年1月13日閲覧。 
  14. ^ “「悪い見本」「なってない」…ハミルトンへの批判”. オートスポーツweb. (2011年6月14日). http://as-web.jp/news/info.php?c_id=1&no=34285 2012年1月13日閲覧。 
  15. ^ “スターリング・モス「ミハエルはピークを過ぎたのかも」”. レスポンス. (2010年5月2日). http://response.jp/article/2010/05/02/139928.html 2012年1月13日閲覧。 
  16. ^ “S.モス氏、F1ドライバーのレベルダウン嘆く”. FMotorsport F1. (2006年4月27日). http://fmotorsports.cocolog-nifty.com/f107/2006/04/sf1_f86c.html 2012年1月13日閲覧。 
  17. ^ “悪質行為厳罰化はシューマッハに痛手”. ESPN F1. (2010年12月18日). http://ja.espnf1.com/f1/motorsport/story/36705.html 2012年1月13日閲覧。 
  18. ^ "モス氏、「女性にはF1ドライバーに必要な精神力がない」". AFP BBNews.(2013年4月16日)2013年4月22日閲覧。

参考文献

  • マーク・カーン著、相原俊樹訳『死のレース 1955年 ルマン』二玄社 ISBN 4-544-04043-4

関連項目

外部リンク

Stirling Moss - 公式サイト(英語)