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*[[:en:Festival of Family Classics|Festival of Family Classics]] (テレビシリーズ、1972年-1973年)- アメリカのランキン・バス・プロダクションにより発注された児童向けの名作や伝説をもとにした全18話のテレビシリーズ<ref>草薙聡志『アメリカで日本のアニメは、どう見られてきたか?』徳間書店、2003年、p.108</ref>。虫プロは絵コンテ以降の作業を担当。1986年4月よりテレビ東京系で『世界名作アニメ童話』のタイトルで5本が放送された<ref>[[アニメージュ]]編集部編『TVアニメ25年史』徳間書店、1988年、p.162</ref>。 |
*[[:en:Festival of Family Classics|Festival of Family Classics]] (テレビシリーズ、1972年-1973年)- アメリカのランキン・バス・プロダクションにより発注された児童向けの名作や伝説をもとにした全18話のテレビシリーズ<ref>草薙聡志『アメリカで日本のアニメは、どう見られてきたか?』徳間書店、2003年、p.108</ref>。虫プロは絵コンテ以降の作業を担当。1986年4月よりテレビ東京系で『世界名作アニメ童話』のタイトルで5本が放送された<ref>[[アニメージュ]]編集部編『TVアニメ25年史』徳間書店、1988年、p.162</ref>。 |
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*劇場作品「'''アニメラマ'''」二部作など<ref group="注釈">現在[[ビデオグラム]]の[[パッケージ]]展開では「アニメラマ三部作」と纏められているが元来は「哀しみのベラドンナ」はアニメラマとはいわずにアニメロマネスクと称していた。</ref> |
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**[[クレオパトラ (1970年の映画)|クレオパトラ]](1970年)- 手塚治虫はストーリーの構成を担当。 |
**[[クレオパトラ (1970年の映画)|クレオパトラ]](1970年)- 手塚治虫はストーリーの構成を担当。 |
2016年11月15日 (火) 16:10時点における版
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虫プロダクション(むしプロダクション、通称: 虫プロ)は、日本のアニメ制作会社。
漫画家でアニメーターである手塚治虫が関係したアニメーション専門プロダクションである。本項では1961年に設立され1973年に倒産した「株式会社虫プロダクション」(旧虫プロ)とその子会社である虫プロ商事、1977年に旧虫プロの労働組合を母体として設立された「虫プロダクション株式会社」(新虫プロ)に分けて記述する。
株式会社虫プロダクション(旧虫プロ)
株式会社虫プロダクション(通称: 虫プロ)は、1961年6月に手塚治虫が創設したアニメーション専門のプロダクションである「手塚治虫プロダクション動画部」が1962年1月に改称したものである。
1961年、手塚治虫プロダクション動画部を設立[1]。手塚はこれ以前に、東映動画嘱託としてアニメ制作に携わったことがあり、その経験と人脈を生かしてプロダクションを立ち上げた。1962年1月、株式会社虫プロダクションとして正式に発足した。名称の"虫"には「漫画の虫」「アニメの虫」「無死(不死身)」の意味が込められた。[2]
1962年11月5日に第1作である短編(38分,カラー、ワイド)のアニメーション映画『ある街角の物語』及び『鉄腕アトム』第1話(モノクロ)を公開。同年12月、株式会社として法人登記。翌1963年1月1日、日本初の30分放送枠用の連続テレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』を、1965年に日本初のカラーの本格的連続テレビアニメ番組『ジャングル大帝』などの多くのアニメ作品を制作し(その後にも「どろろ」などのモノクロ作品も制作)、従業員数も最盛期には400人を数える日本有数のアニメーションスタジオになった。テレビ向け作品の多くはフジテレビで放送された。初期には手塚原作の作品のみを制作していたが、末期には『あしたのジョー』など手塚作品ではない漫画のアニメ化も行った。多忙な手塚の決裁を仰ぐ困難や、手塚からリテイクの要求が出てスケジュールが遅延しコストがかさんだり,番組の放送に穴が開いて代わりに過去のエピソードのリピート放送で埋めるなどの原因となったことが、手塚を制作に加えないようにし、また手塚原作を用いた作品を作らなくなった理由の一つと言われる。[要出典]なお現在の状況とは異なり、当時のアニメーターは相当に高給の職であった(航空会社のパイロット並)、高卒でも5年も働けば家が建つ職種(の1つ)と云われていた程であった(某商業高校では、60年代にそのようなキャッチコピーの求人案内が貼られてもいた[要出典])。
1966年7月、社内の版権部、出版部、営業部を分離独立させる形で子会社に虫プロ商事を発足させ、同時に虫プロ本体の債務を移転した。
『鉄腕アトム』の放送実現を機に萬年社を退職して1963年に虫プロの常務に就任し、以来、経営の舵取りを担い社内改革を進めてきた常務の穴見薫が1966年12月に突然死した。これを機に経営は迷走していく[3]。その死の直後には、穴見が独断でフジテレビから1億3千万円の融資を受ける代償として、虫プロの全作品の権利がフジテレビに譲渡される契約をしていたことが発覚。虫プロがフジテレビとの交渉により、1978年まで10年間の放映権をフジテレビが占有することを条件に権利が取り戻された[4][5]。
1971年6月、手塚が今後の虫プロの方針として、初心どおりに作家集団として進めるか、利益追求そのものを目的とする企業体とするかを問いかけ、繰り返し社員総会が開催。話し合いの結果、大多数の社員が川畑栄一部長を中心とした利益追求の企業体制を固めることで結論が出る。これに失望した手塚治虫がそれまでの赤字を負担する条件で社長を辞任し、同調して退社する人材も相次いだ。社長には川畑が就任し、資本金が200万円から1,000万円に増額。労働組合も結成された[4][6][7]。
極端な人材難(社内の人材育成能力の不足から、ベタ塗り等の必要な概念や基礎技術を持っている人間のみを採用する方針になったため、美術分野の学生を採用できなかったため入社試験合格者の大幅な減少を招いたことも一因とされている)から[要出典]、人件費が高騰。テレビアニメ制作プロダクションが多く設立されると他プロダクションとの受注合戦となり、これに敗れる形でテレビ局からの受注が減少し、資金繰りが悪化した。子会社の虫プロ商事の経営悪化と労働争議も、金融機関が虫プロ本体に警戒を抱く原因になった。劇場用作品の興行的な失敗もあり、資金繰りが短期間に極端に悪化。1973年8月22日に子会社の虫プロ商事が約4000万円の負債を抱えて倒産。この後、銀行などからの融資が引き上げられたことが倒産の直接のきっかけとされるが、実際には、子会社の倒産を回避できないほどに、虫プロ本体の経営状態も悪化していた。8月現在で9月放映終了の『ワンサくん』以後の制作作品の目途はたっておらず、この時点で既に虫プロ本体の倒産は免れない状態となっていた。そして、虫プロは『ワンサくん』放映終了直後の1973年11月5日に3億5千万円の負債を抱えて倒産する。
なお、手塚原作作品の率が少なくなってきた1971年に、手塚は社長を退任している。その退任時にそれまでの債務をすべて個人で引き受けることとした。手塚が本社の社長を退任した後、虫プロ倒産までは制作畑の川畑栄一が虫プロの経営を担っており、倒産時の社長は川畑であった。この倒産から新社設立までの間に、多くのスタッフは他のスタジオへと移籍していった。また、プロ野球球団・ヤクルトアトムズがヤクルトスワローズに名称変更したきっかけになった。
登用方式
東映動画では大卒、本社正社員しか演出家になる事ができず映画界全体にも身分制度のようなものが残っていた。学歴がないものは正規雇用の採用試験すら受ける事ができず非正規雇用で入ったものは一生非正規であり、監督など重要なポジションを任される事はなかった。虫プロでは手塚治虫が個人の作家性を尊重し才能のあるものは重用するとの当時の映画界では型破りな方針であった事から学歴や経歴は関係なく多くの才能ある人材を発掘する事を可能とした。
影響
旧虫プロが日本のアニメ産業の歴史の上で果たした役割には、日本初の本格的な週刊シリーズものの(30分枠の)テレビアニメ(「鉄腕アトム」)の制作を実現し、海外輸出をも意識したテレビアニメーションの制作、日本初の本格的な週刊シリーズもののカラーテレビアニメ(「ジャングル大帝」)を作りテレビアニメの時代を切り開いたこと,毎週放送されるテレビ番組を可能とするべく制作の作業量を減らしたリミテッドアニメの技法開発とそれに沿った様式の普及、日本のアニメが漫画を原作とするストーリー性の強いものや登場人物の心理などの内面に踏み込んだ作品も可能にしたこと、テレビアニメーションのBGMとして電子音響の効果音やオーケストラ演奏を採用したこと、実写とアニメーションの合成によるテレビ番組の制作、少年の役に女性声優を起用したこと、日本初のテレビアニメからの劇場上映されるアニメを産み出したこと、成人向け劇場用アニメ作品(「千夜一夜物語」、「クレオパトラ」)の開拓、劇場用アートアニメーション(「哀しみのベラドンナ」)などの制作、非商業ベースの実験的作品も積極的に作られたこと、虫プロのテレビアニメに伴うキャラクターマーチャンダイジングのビジネスモデルに倣ってそれに続く新興アニメスタジオが勃興したこと、虫プロの出身者がその後にアニメ界で活躍し人材の育成供給の場になったことなどがあげられる。
人材は東映動画から移籍した杉井ギサブローやりんたろう、中村和子、月岡貞夫[注釈 1]などの若手スタッフ、山本暎一など横山隆一のおとぎプロ出身者、荒木伸吾、北野英明、村野守美、真崎守、出崎統、金山明博など手塚治虫のアシスタントや貸本漫画などを描いていた漫画家、杉野昭夫、川尻善昭、高橋良輔、富野由悠季、安彦良和、吉川惣司など虫プロの生え抜きスタッフがいる。後に彼・彼女らの多くは日本を代表するアニメーション制作者になった。
社風
創業した手塚が絵を描く漫画家でありアニメーターでもあったため、虫プロは「アニメーターにあらずんば人にあらず」というアニメーター尊重の社風であったことを、虫プロに在籍したことのある富野由悠季らが証言している[8][9][10][11][12][13]。そして、手塚はアニメーターに「作家であれ」と主張し、実際に虫プロで『おす』『しずく』『タバコと灰』『創世紀』『めもりい』といった短編の非商業作品を制作した。虫プロ社内には、手塚の発案で、20万円の実験作品製作資金助成制度まで設けられていたという[14]。テレビアニメ制作に忙殺されて、この制度が活かされることはあまりはなかったというが、実験的なアニメーションが産み出されている。商業性にとらわれない実験的作品を発表させるという趣向は手塚が発刊した漫画雑誌『COM』とも共通するものである。出崎統は、自らの演出の指向性について、虫プロで制作された実験的作品の志を商業作品で発揮できないかと考えた、と後年語っている[15]。
虫プロダクションのビジネスモデル
旧虫プロのビジネスモデルは、その後の日本に於けるアニメ製作上の規範となった。2013年現在も、日本国内では、基本的に、旧虫プロが行ったものと同じ形態で資本回収が行われる形でのアニメ制作が行われている。
虫プロダクションが、制作プロダクションとしてテレビ局から受け取る制作費は実際にかかった経費よりも大幅に下回っていた。その赤字を関連商品の著作権収入(マーチャンダイジング収入)・海外輸出で補う日本におけるテレビアニメのビジネスモデルを確立したのは旧虫プロである。手塚が『鉄腕アトム』で予算的に引き合わないテレビアニメに参入したのは、自らの漫画の原稿料で赤字を補填し、他社の参入を妨げて、テレビアニメ市場の独占を図るためであったと言う。著作権収入というビジネスモデルについてはディズニーに倣ったものであったが、この著作権ビジネスでの副収入は他社の参入を許すこととなった。「鉄腕アトム」後、旧虫プロ主宰者の手塚は、当たりはずれの大きいマーチャンダイジング収入にはなるべく頼らない作品作りを目指そうと考えた。しかしそのような方式のアニメ制作は定着せず、「鉄腕アトム」式のビジネスモデルが旧虫プロ以後の時代にも引き継がれた。
旧虫プロは、基本的に作品の著作権をテレビ局に売り渡さなかった。もちろん、そのような形態の作品は当時から存在はしたが、虫プロダクションの場合、マーチャンダイジング収入なしでは制作費の回収が事実上不可能なビジネスモデルであったため、戦略的に著作権を売り渡さない契約を行った。また、版権部という部署を設け、積極的に自社作品の著作権の管理を行った。ただし、他プロダクションの下請けや、人形劇番組のアニメーション部分を下請けの形で請け負ったことはある。
『鉄腕アトム』を輸出する際も、期限を区切った配給契約を結び、放映時に必ず虫プロダクションの名を表示することと、フィルムの編集には虫プロダクション側の合意を必要とする契約を、アメリカのテレビ局NBCの子会社NBC FILMSと締結した。NBCのネットワーク放送に乗せられず、シンジケーションによる番組販売という形で放送される形だった。30分枠52話という長編の番組をアメリカに配給契約という形で輸出したのは「鉄腕アトム」が最初、というのが当時旧虫プロ社長だった手塚治虫の説明である[要出典](のちに、契約話数は104話に増加)。ただし虫プロ文芸部に所属した豊田有恒によれば、『鉄腕アトム』は世界配給権はアメリカのNBC FILMSが取得して、西ドイツやメキシコで放映されても虫プロの収入にはならず、またNBC FILMSへの納品にはアメリカで放映できるものという条件だったため、英語への吹替費用を虫プロ側が負担し、アメリカでの放送に適さない場合の編集は虫プロ側が行っていた。[要出典]こうした経験から、『鉄腕アトム』に次いでNBC FILMSと契約した『ジャングル大帝』は当初から輸出を前提とした作品作りを行なっている。しかし、この形での輸出は定着せず、後に輸出を開始した竜の子プロダクション作品などは、日本側スタッフ・プロダクション名の表示なしで、現地で大幅に編集して放映することを許す形をとった。なお、虫プロダクションと異なり、テレビ局側が用意した企画・脚本を元に、プロダクション側は動画制作のみを行う形態の作品も、1960年代には存在した。ただし、この形式での製作は主流にはならなかった。
旧虫プロは、東映動画など従来のアニメーション制作スタジオと同様に、企画・脚本・キャラクター設定から動画や彩色、録音などのすべての工程を社内で行う内制システムをとっていた。この方式によって、作品を早く仕上げ、品質を保つことができた。その後、他プロダクションが相次いでテレビアニメを制作するようになると、注文の奪い合いになった。しかし、受注が減ってくるようになっても、全スタッフには基本給を支給しなければならない。最終的には受注減が根本的な理由になって、旧虫プロは倒産した。この後、同様の内制システムをとっていた東映動画でも労働争議が起き、最終的に東映動画でも内制システムを破棄、動画・彩色はさらに下請けのプロダクションに出来高払いで発注するようになった。
その後はアニメ制作プロダクションは、テレビ局から直接受注を請ける企画プロダクションと、そこから動画・彩色などを孫請けの形で請ける動画プロダクションにはっきり分けられるようになった。[注釈 2]この点では、現代のアニメの制作システムは、旧虫プロ時代の頃とは異なっている。
旧虫プロも外注は行ったが、まるまる1話を下請けプロダクションに制作させるという方式(いわゆるグロス請け)で、動画・彩色などの工程ごとに孫請けプロダクションに発注する21世紀初頭での主流の外注方法とは異なる。
旧虫プロが破綻した後の頃からは、それまでの東映動画や旧虫プロダクションのようにアニメーション制作の労働者を基本的には正社員として雇用し育成することは普通ではなくなり、個人事業主を請負契約で使用することが普通となった。
1970年頃には、テレビアニメから派生するキャラクターマーチャンダイジング(キャラクター商標権)の利益のうまみを狙って、次第にテレビ局、広告代理店や原作となりうる漫画を掲載する雑誌社は、利益の囲い込みを追求するようになり、テレビ放送の枠の支配を背景として作品およびそれから派生する権利を全て保有して、アニメーションの制作会社には単なる作業請負仕事として受注させて制作費だけを支払うという(作品の権利の保有者や企画を行う側がアニメーション製作の会社と無関係である)やり方が進んだため、アニメーション制作の作業を実際に行うプロダクションの大多数の作業員には作品とそれから派生する権利による利益は還元されず、また制作作業の海外へのシフトも早くから行われたために、[独自研究?]アニメーション制作は日本国内でも最低クラスの低賃金の労働業種になってしまい、生活保護を受けながら働く者も多い業界になっている[要出典]。
この意味では、現在のアニメーションを実際に制作する会社の側から観たとき、旧虫プロの初期の頃には機能していた「作品から派生する権利を経営の中心に据えたビジネスモデル及びそれを可能とした環境」は破壊され、変質してしまったといわざるを得ない[独自研究?]。
主な出身者
虫プロダクションに関連する主要なアニメ制作会社
- 手塚プロダクション - 手塚治虫・小林準治・上口照人・中村和子等
- オフィス・アカデミー - 西崎義展・芦田豊雄(一時期)・安彦良和(一時期)・槻間八郎・豊田有恒・野崎欣宏・山本暎一等
- サンライズ(制作・営業系の人材が主体となり独立) - 鈴木良武(一時期)・富野由悠季・安彦良和・岸本吉功・星山博之等
- マッドハウス(制作・演出系の人材が主体となり独立) - 丸山正雄・りんたろう・出崎統・杉野昭夫・川尻善昭 等
- グループ・タック(音響系の人材が主体となり独立) - 田代敦巳等(2010年8月準破産)
- ナック - 西野聖市・小柳朔郎・月岡貞夫等
- アートフレッシュ - 鈴木良武・杉井ギサブロー・出崎統・吉川総司等
- 東京アニメーションフィルム(動画撮影系の人材が主体となり独立) - 清水達正等
- スタジオ・ライブ - 芦田豊雄
- ぎゃろっぷ - 若菜章夫
- アナザープッシュピン・プランニング - 在籍経験がある野村和史が設立
- グルーパープロダクション - 波多野恒正・波多正美
- イマジン - 在籍経験がある酒井明雄が設立
- ぴえろ - 在籍経験がある布川ゆうじが設立
- スタジオユニ - 在籍経験がある半藤克美が設立
- 中村プロダクション - 中村一夫が設立
- 京都アニメーション - 仕上げ経験のある八田陽子が設立
主な作品
手塚治虫原作作品
- 鉄腕アトム(1963年-1966年)- モノクロ作品。日本最初の本格的な1話30分放送枠の連続テレビアニメ。※ 1963年度第2回テレビ記者会賞特別賞
- 銀河少年隊(竹田人形座製作、1963年-1965年)- 竹田人形座の人形劇との間に差し込まれるアニメーションの部分。モノクロ作品。
- W3(1965年-1966年)- モノクロ作品。
- ジャングル大帝(1965年)- カラー作品。1965年度第4回テレビ記者会賞特別賞、1966年度厚生大臣児童福祉文化賞。
- 新ジャングル大帝 進めレオ!(1966年-1967)- カラー作品。※ 1967年度ベニス国際映画祭サンマルコ獅子賞。
- 悟空の大冒険(1967年)- カラー作品。
- リボンの騎士(1967年-1968年)- カラー作品。※ 1966年度日本テレフィルム色彩撮影技術賞。
- バンパイヤ(虫プロ商事製作、1968年-1969年)- 実写に合成するアニメーションの部分。モノクロ作品。
- どろろ(1969年)- モノクロ作品。
- ワンサくん(1973年)- 旧虫プロ最後のテレビアニメ。カラー作品。
パイロット作品(手塚治虫原作)
- 孫悟空が始まるよー 黄風大王の巻(1966年6月12日)- カラー作品。現在のプリントは退色が甚だしい。
- リボンの騎士(1966年11月)※ カラー作品。
- フライングベン(虫プロ商事製作、1967年9月)
- どろろ(1968年1月)- カラー作品
- ガムガムパンチ(虫プロ商事製作、1968年4月)- カラー作品
- 0マン(1968年6月)
- ノーマン(1968年7月)
- 青いトリトン(虫プロ商事製作、1971年10月)- カラー作品
実験アニメーション作品
2013年4月より、ひかりTVビデオサービス(ビデオ・オン・デマンド)にて配信開始。但し、「たばこと灰」のみ配信ラインナップから外され、全7回とされている。
- ある街角の物語(1962年11月5日)※(1962年度芸術祭ブルーリボン賞奨励賞)
- おす(1962年11月5日)
- 人魚(1964年9月21日)
- めもりい(1964年9月21日)
- しずく(1965年10月1日)
- たばこと灰(1965年10月1日)
- 展覧会の絵 (1966年11月11日) ※ (1966年度芸術祭奨励賞ブルーリボン賞、1966年度毎日映画コンクール大藤信郎賞、1967年度アジア映画祭特別賞)
- 創世記(1968年10月)
手塚治虫原作以外の作品・各話制作協力作品
- 新宝島(単発テレビ作品,1965年、モノクロ)- 原作小説はロバート・ルイス・スティーヴンソン。手塚治虫は翻案を担当。日本初の1時間枠のテレビアニメーション作品で,毎月1回1時間枠のシリーズの企画「虫プロランド」第一作として製作されたが、本1作品だけで企画は放棄された。
- おそ松くん(制作元請:チルドレンズ・コーナー、スタジオ・ゼロ、各話制作協力、1966年-1967年[17])
- わんぱく探偵団(テレビシリーズ、1968年-1969年)- 原作小説は江戸川乱歩。
- アニマル1(虫プロ商事製作、テレビシリーズ、1968年)- 原作は川崎のぼる。
- 佐武と市捕物控(テレビシリーズ、東映動画、スタジオ・ゼロとの共同制作、1968年-1969年)- 原作は石森章太郎(当時)
- Frosty the Snowman(単発テレビ作品,1969年) - アメリカのランキン・バス・プロダクションからの発注。アメリカのCBSテレビで放送された[18]。
- ムーミン(テレビシリーズ、1969年-1972年)- 原作はトーベ・ヤンソン。瑞鷹エンタープライズからの発注作品で虫プロに権利はない。最初に下請けしていた東京ムービーに代わって虫プロに制作が移された。※ 1970年度第12回児童福祉文化賞奨励賞、日本視聴者会議賞。
- やさしいライオン (製作:手塚治虫、原作、演出、美術:やなせたかし、東宝系、1970年3月21日封切、24分41秒、カラー)※ 1969年度毎日映画コンクール大藤信郎賞、1970年度厚生省第12回児童福祉文化賞奨励賞。
- あしたのジョー(テレビシリーズ、1970年-1971年)- 原作は高森朝雄(梶原一騎)とちばてつや。
- アンデルセン物語(テレビシリーズ、1971年)- 原作童話はハンス・クリスチャン・アンデルセン。『ムーミン』と同じく瑞鷹エンタープライズ製作作品で、下請けの立場で実制作を担当。
- さすらいの太陽(テレビシリーズ、1971年)- 原作漫画は藤川桂介とすずき真弓。
- 国松さまのお通りだい(テレビシリーズ、1971年-1972年)- 原作漫画はちばてつや。
- Festival of Family Classics (テレビシリーズ、1972年-1973年)- アメリカのランキン・バス・プロダクションにより発注された児童向けの名作や伝説をもとにした全18話のテレビシリーズ[19]。虫プロは絵コンテ以降の作業を担当。1986年4月よりテレビ東京系で『世界名作アニメ童話』のタイトルで5本が放送された[20]。
- 小さなバイキングビッケ(テレビシリーズ、1974年)- 第1話-第6話までを制作
- 劇場作品「アニメラマ」二部作など[注釈 3]
虫プロ商事
虫プロ商事株式会社(むしプロしょうじ)は旧虫プロの子会社。虫プロが負債を抱えて経営上の問題を抱えたためにその打破のために[21]、版権部と出版部と営業部を虫プロから独立させる形で[22]1966年7月27日に設立。虫プロ商事社長には虫プロ専務取締役の今井義章が就任して、池袋駅近くのビルで発足[22]。虫プロは制作部門のみが残された[21]。
設立目的には虫プロの負債処理もあり、設立と同時に1億5千万円の虫プロの負債を引き継いだが、1969年の5月決算でこの負債は解消した[21]。
『鉄腕アトム』のファンクラブ会報などを制作、海外販売などの営業、グッズの著作権管理を行った他、赤字体質の虫プロの手本になろうとテレビアニメ『アニマル1』や特撮テレビ番組『バンパイヤ』など制作にも挑んだが、『アニマル1』は赤字、『バンパイヤ』は大赤字の結果に終わる[23]。
会社としては出版業中心の体制を推し進め、月刊雑誌『COM』『月刊ファニー』、児童向けの漫画レーベル『虫コミックス』を創刊したが、『月刊ファニー』は編集長が交通事故死して廃刊となり、これに伴う編集部門の人員整理が1970年5月上旬から6月中旬まで激しい労使紛争に陥り業務も停止状態となり赤字となる。この責任により社長は今井義章から手塚治虫へと交代した[21]。
1971年2月頃に企画制作部長に就任した西崎義展が事実上の社長代理となって実権を掌握。出版拡大方針で人員を増大、組織の統制化、不合理な原価の改善を図るが、性急な改革が専横状態となり支持を得られずに5月には資金繰りが悪化。一部業者から取引停止を受けたり不当に高い買入を強いられたり、従業員の一部は私利を図ったり出勤状態が乱れ、当時40名の従業員により結成された労働組合による労働争議が発生するなど経営は混乱状態になった[21]。
この間の9月に創刊した『てづかまがじんレオ』などの返本率は7割に達し、1972年4月には3億1千万円の負債を抱えて第1回の債権者集会が開催された。債権者委員会が経営にあたることとなり、代表取締役である手塚治虫は漫画執筆に専念して印税を委員会に入金することなどが決定された[21]。
1973年には出版体制立て直しのため『COM』『ファニー』の復刊もされたが、資金繰りが改善することはなく、政府の金融引き締めの影響もあって、1973年8月18日に2回目の不渡り手形を出して倒産[21]。負債額は1億2千万円。この信用不安で虫プロ本体も銀行からの融資がストップし、テレビ局からの発注も完全に途絶え、11月に倒産した[24]。
同年10月30日には債権者によって破産申立が行われ、1974年1月29日に東京地方裁判所により破産宣告がなされた[21]。
虫プロダクション株式会社(新虫プロ)
虫プロダクション社屋 | |
種類 | 株式会社 |
---|---|
本社所在地 |
日本 〒177-0034 東京都練馬区富士見台二丁目30番5号 |
設立 | 1977年11月26日 |
業種 | 情報・通信業 |
法人番号 | 3011601006811 |
事業内容 | アニメーション制作および著作権管理 |
代表者 | 代表取締役 伊藤 叡 |
資本金 | 12,000,000円 |
外部リンク | http://www.mushi-pro.co.jp/ |
旧虫プロの労働組合が中心となって設立された。設立時の筆頭株主は労働組合であり、資本金1200万円のうち500万円を出資した。設立時のその他の株主は、日本ヘラルド映画が300万円、日活が200万円、その他で200万円[25]。
設立時に、旧虫プロ作品の著作権が手塚から新虫プロに譲渡されたため、旧虫プロ作品の著作権管理も主な業務になっている。本社は東京都練馬区富士見台二丁目30番5号。練馬アニメーション協議会幹事。主に上映会形式・親子映画向けのアニメーション映画の制作を行っている。テレビアニメーション作品は1986年の『ワンダービートS』のみで、唯一の原作無しのオリジナル作品でもある。
手塚プロダクションとは、起源として手塚治虫が関係していると言う点以外は、企業としては直接的な関係がないことに注意を要する。ただし、手塚治虫と共同でアニメ作品を手がけている点からも手塚本人を通じての関わりはあったことは確かである。
全国労働組合総連合傘下の映像・文化関連産業労働組合の事務所は2008年まで虫プロ社内に間借りし[26]、委員長を社員である有原誠治が務めていた[27]。
主な作品
- テレビアニメ
- 「ワンダービートS(スクランブル)」(1986年、2クール)- 手塚治虫 企画・監修作品.
- 「トキ この地球(ほし)の未来を見つめて」(2003年12月,単発,前半50分後半50分,脚本:長坂秀佳,監督:杉井ギサブロー)- テレビ新潟にて放送.
- アニメーション映画
- 「北極のムーシカ・ミーシカ」(1979年,80分,原作:いぬいとみこ)- 新虫プロの第一作目の作品.
- 「ゆき」(1981年,89分、原作:斎藤隆介)
- 「綿の国星」(1984年,96分,原作:大島弓子)
- 「火の雨がふる」(1988年,80分,原作:福岡空襲を記録する会証言集「火の雨が降った」).
- 「伊勢湾台風物語」(1989年,85分)- 建設省・農林水産省・運輸省推薦作品・「国際防災の十年」推進本部推薦作品,伊勢湾台風30年事業実行委員会後援作品.
- 「うしろの正面だあれ」(1991年,90分,原作:海老名香葉子)- 文部省選定・厚生省中央児童福祉審議会特選作品・日本PTA 全国協議会特選,東京都平和の日記念行事参加作品・優秀映画鑑賞会推薦作品他.
- 「ぞう列車がやってきた」(1992年,90分,原作:小出隆司)- 文部省選定、日本PTA全国協議会推薦,優秀映画観賞会推薦、日本私立小学校連合会推薦.
- 「せんぼんまつばら」(1992年,90分,原作:岸武雄 「千本松原」)- 芸術文化振興基金助成作品.
- 「ライヤンツーリ-のうた」(1994年,85分,原作:たかしよいち「北の逃亡者」)- 文部省選定作品・日本PTA全国協議会特別推薦・北海道教育委員会特別選定,厚生省中央児童福祉審議会推薦・日本青年団協議会推薦他.
- 「PIPI とべないホタル」(1996年,90分)- ヒューストン国際映画祭ファミリー・チルドレン部門金賞受賞,文部省選定作品・厚生省中央児童福祉審議会推薦作品・建設河川局推薦作品他.
- 「マヤの一生」(1996年,70分,原作:椋鳩十)
- 「栄光へのシュプール」(1997年,90分、原作:和田 登「スキーに生きる」)- 長野オリンピック文化芸術参加作品.
- 「えっちゃんのせんそう」(2002年、80分,原作:岸川 悦子)
- 「明日をつくった男」(2003年,原作:田村喜子「京都インクライン物語」)- 実写とアニメーション、文部科学省選定作品・第21回土木学会映画コンクール最優秀賞受賞,第3回世界水フォーラム参加作品.
- 「NAGASAKI 1945 アンゼラスの鐘」(2005年,原作:秋月辰一郎「長崎原爆記」「死の同心円」)- 被爆60周年平和祈念作品・2007年ニューヨーク国連本部上映作品,文部科学省選定・児童福祉文化賞推薦作品・日本原水爆被害者団体協議会推薦他.
- 「パッテンライ!! 〜南の島の水ものがたり〜」(2008年,90分)- 日本領有時代の台湾で水利土木事業に取り組んだ技術者・八田與一の伝記、第23回土木学会映画コンクール最優秀賞・土木学会土木技術映像委員会選定作品.
- 「氷川丸ものがたり」(2015年,90分,原作:伊藤玄二郎「氷川丸ものがたり」(かまくら春秋社))製作:氷川丸ものがたり製作委員会,製作協力:全日本海員組合 / 星槎グループ .
- 短編アニメーション作品
- 「おーい/アダッチー」(1992年3月、企画:足立区)- 足立区制60周年記念アニメーション.
- 「つるにのって」(1993年5月公開、27分)- ウィッセンブール国際児童映画祭観客賞受賞・1995年国連軍縮本部上映作品.
- 「鬼がら」(1994年12月、27分、製作:「鬼がら」製作委員会・宮崎県聴覚障害者協会)- 文部省選定・日本映画ペンクラブ推薦・日本青年団協議会推薦・宮崎県知事推薦,PTA全国協議会特選・厚生省中央児童福祉審議会特選・優秀映画鑑賞会推薦.
- 「九頭竜川と少年」(1998年10月公開、30分,製作:九頭竜川水系治水百周年記念事業実行委員会)
- 「クマのミナクロと公平じいさん」(1999年1月,23分)- 文部省選定・第46回教育映画祭動画部門最優秀賞受賞,厚生省中央児童福祉審議会推薦・日本PTA全国協議会推薦,優秀映画観賞会推薦・日本動物愛護協会推薦.
- 「あったてんがのぉ」(2000年5月,30分,製作:越路町)- 新潟県越路町町制施行45周年記念作品,第47回教育映像祭優秀作品賞受賞・日本PTA全国協議会推作品.
- OVA
- 紅い牙 ブルー・ソネット(1989年3月,30分,全5話、漫画原作:柴田昌弘)
- のたり松太郎(1989年9月、30分、原作漫画:ちばてつや)
- ビデオ教材・広報ビデオ
- 「怪盗ガリーの日本人攻略法」(1999年,約9分) - 企画:外務省 海外安全劇場にて動画配信中.
- 「私たちの暮らしと土木」(2001年,11月、シリーズ全3話,各20分) 企画:全国建設研修センター- 文部科学省選定・土木学会選定,土木学会映画ビデオコンクール優秀賞受賞(第2話).
- 「ご案内します アナザーワールドへ」(2004年,16分) - 企画:国税庁 ビデオライブラリーにて動画配信中 - 国税庁企画の租税教育用アニメーション.
- 「みんなの話し合い 〜誰でもストア〜」(2014年) - 企画:一般財団法人 日本児童教育振興財団.
- 「夢は世界をかけめぐる 海外技術協力のパイオニア」(2015年,21分) - 企画:公益社団法人土木学会,特別協力:日本工営株式会社.
- グロス請け作品
- みかん絵日記(制作元請:日本アニメーション、1992年-1993年)
- 3丁目のタマ うちのタマ知りませんか?(制作元請:グループ・タック、1994年)
- 銀河英雄伝説第4期・外伝第1期(制作元請:ケイファクトリー、1996年-1998年)
- サクラ大戦 桜華絢爛(制作元請:RADIX、1997年-1998年)
- 花さか天使テンテンくん(制作元請:日本アニメーション、1998年-1999年)
- 未来少年コナンII タイガアドベンチャー(制作元請:日本アニメーション、1999年-2000年)
- 陽だまりの樹(制作元請:マッドハウス、2000年)
- はじめの一歩(制作元請:マッドハウス、2000年-2002年)
- キャプテン翼(平成版)(制作元請:グループ・タック、2001年-2002年)
- 星のカービィ(制作元請:スタジオ・ザイン、2001年-2003年)
- ごくせん(制作元請:マッドハウス、2004年)
- こちら葛飾区亀有公園前派出所(制作元請:ぎゃろっぷ、1996年-2004年)
- MONSTER(制作元請:マッドハウス、2004年-2005年)
- 双恋(制作元請:テレコム・アニメーションフィルム、2004年)
- だめっこどうぶつ(制作元請:マジックバス、2005年)
- ぱにぽにだっしゅ!(制作元請:ガンジス、シャフト、2005年)
- スクールランブル(制作元請:スタジオコメット、2005年)
- タイドライン・ブルー(制作元請:テレコム・アニメーションフィルム、2005年)
- capeta(制作元請:スタジオコメット、2005年-2006年)
- 牙 -KIBA-(制作元請:マッドハウス、2006年)
- 無敵看板娘(制作元請:テレコム・アニメーションフィルム、2006年)
- 僕等がいた(制作元請:アートランド、2006年)
- 家庭教師ヒットマンREBORN!(制作元請:アートランド、2006年)
- GR-GIANT ROBO-(制作元請:エー・シー・ジー・ティー、2007年)
- ロケットガール(制作元請:ムークDLE、2007年)
- ラブ★コン(制作元請:東映アニメーション、2007年)
- 湾岸ミッドナイト(制作元請:エー・シー・ジー・ティー、2007年)
- 装甲騎兵ボトムズ ペールゼン・ファイルズ(制作元請:サンライズインタラクティブ、アンサー・スタジオ、2007-2008年)
- チーズスイートホーム(制作元請:マッドハウス、2008年)
- チーズスイートホーム あたらしいおうち(制作元請:マッドハウス、2009年)
- 夏のあらし!(制作元請:シャフト、2009年)
- 【懺・】さよなら絶望先生(制作元請:シャフト、2009年)
- 化物語(制作元請:シャフト、2009年)
- 夏のあらし! 〜春夏冬中〜(制作元請:シャフト、2009年)
- 装甲騎兵ボトムズ 幻影篇(制作元請:サンライズ、2010年)
- 屍鬼(制作元請:童夢、2010年)
- たまごっち!(制作元請:オー・エル・エム、2009年-2012年)
- たまごっち! ゆめキラドリーム(制作元請:オー・エル・エム、2012年-2013年)
- たまごっち! みらくるフレンズ(制作元請:オー・エル・エム、2013年)
- ONE PIECE(制作元請:東映アニメーション、1999年-)
- GO-GO たまごっち!(制作元請:オー・エル・エム、2014年-2015年)
- 金色のコルダ Blue♪Sky(制作元請:TYOアニメーションズ、2014年)
- 東京ESP(制作元請:XEBEC、2014年)
- かみさまみならい ヒミツのここたま(制作元請:オー・エル・エム、2015年-)
注釈
出典
- ^ “手塚プロダクション 手塚治虫と手塚プロダクションの変遷”. 2014年6月23日閲覧。
- ^ 『手塚治虫物語 漫画の夢、アニメの夢』p21
- ^ 池田啓晶『鉄腕アトムvs鉄人28号 僕たちの「少年」時代』WAVE出版、1993年、p.82。坂本雄作インタビューより。
- ^ a b 山口且訓、渡辺泰文『日本アニメーション映画史』有文社、1977年、p.170
- ^ 手塚治虫「虫プロのてんまつ」『手塚治虫 ぼくのマンガ道』新日本出版社、2008年、p.84
- ^ 石津嵐『秘密の手塚治虫』太陽企画出版、1980年、p.174
- ^ 山本暎一『虫プロ興亡記 安仁明太の青春』新潮社、1989年、pp.289--291
- ^ 豊田有恒『あなたもSF作家になれるわけではない』徳間書店、1979年、p.76
- ^ 富野由悠季『増補改訂版 だから僕は…』徳間書店アニメージュ文庫、1983年、p.74
- ^ 富野由悠季『ターンエーの癒し』角川春樹事務所、2000年、p.89
- ^ 霜月たかなか編著『ドキュメント・ボトムズ 高橋良輔アニメの世界』三一書房、2000年、p.215。吉川惣司インタビューより。
- ^ 柴山達雄、小林準治『虫プロてんやわんや 誰も知らない手塚治虫』創樹社美術出版、2009年、p.23
- ^ 皆河有伽『小説手塚学校2 ソロバン片手の理想家 日本動画興亡史』講談社、2009年、p.39
- ^ 山本暎一『虫プロ興亡記 安仁明太の青春』新潮社、1989年、p.216
- ^ NHK-BS2『アニメ「あしたのジョー」ができるまで』(2007年3月28日放送) における出﨑統の発言
- ^ 小説の形をした回想記、山本暎一『虫プロ興亡記 安仁明太の青春』 (新潮社、1989年4月)がある。
- ^ http://www.style.fm/log/02_topics/top041029a.html
- ^ 草薙聡志『アメリカで日本のアニメは、どう見られてきたか?』徳間書店、2003年、p.94
- ^ 草薙聡志『アメリカで日本のアニメは、どう見られてきたか?』徳間書店、2003年、p.108
- ^ アニメージュ編集部編『TVアニメ25年史』徳間書店、1988年、p.162
- ^ a b c d e f g h 「[17]損害賠償請求事件 東京地裁昭49(ワ)3093号」『下級裁判所民事判例集』第32巻5-8号、最高裁判所事務総局編集、財団法人法曹界、1984年、pp.729(319)-733(32)
- ^ a b 山本暎一『虫プロ興亡記 安仁明太の青春』新潮社、ISBN4-10-373301-2(1989年4月15日)、p.212
- ^ 山本暎一、1989年、p.227、236、248、251
- ^ 山本暎一、1989年、p.337、340
- ^ 「1527日―虫プロ再建への歩み」『ぱふ』1979年8月号、p.50。『虫プロ斗争ニュース 特集号 第20号』昭和53年7月10日号の転載
- ^ 映産労の事務所が引越し ネット版アニメレポート 2008年12月20日
- ^ 映産労のご案内と加入申込書 映産労公式ブログ 2005年10月17日
関連項目
- アニメの歴史
- スタジオ・ゼロ - 石ノ森章太郎、鈴木伸一、藤子不二雄、つのだじろう、赤塚不二夫らが設立したアニメーション、漫画の制作会社。虫プロ制作の鉄腕アトム第34話の下請けも行った。
- 東京ヤクルトスワローズ
- 埼玉西武ライオンズ