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=== 日本への影響 ===
=== 日本への影響 ===
清朝の敗戦は長崎に入港するオランダや清の商人を通じて[[幕末]]の[[日本]]にも伝えられた。西洋諸国の軍事力が東洋に比して圧倒的に優勢であることがいよいよ明白になったため、大きな衝撃をもって迎えられた<ref name="sekai">『[[世界大百科事典]]』平凡社、1988年、阿片戦争の項目.</ref>。かつて強国であったはずの清の敗北は、さらにその先の東アジアへ進出するための西洋の旗印となる危機的な懸念があり、速やかな国体の変革が急務であることを日本に募らせた。中国国内では重要視されなかった魏源の『海国図志』<ref>[[http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ru01/ru01_03176/index.html]] 海国図志. 巻首,1-100 / 魏源 撰 </ref>もすぐに日本に伝えられ、[[吉田松陰]]や[[佐久間象山]]ら[[幕末]]における改革の機運を盛り上げる一翼を担った。林則徐の抱いた西洋列強への危惧は、中国ではなく日本において活かされることになったのである。天保14年([[1843年]])には[[昌平坂学問所]]にいた[[斎藤竹堂]]が『鴉片始末』<ref>[[http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko08/bunko08_c0202/index.html]] 鴉片始末 / 斉藤馨 稿 ; 斎藤正謙 批 </ref>という小冊子を書き、清国の備えのなさと西洋諸国の兵力の恐るべきことを憂えている。
清朝の敗戦は長崎に入港するオランダや清の商人を通じて[[幕末]]の[[日本]]にも伝えられた。西洋諸国の軍事力が東洋に比して圧倒的に優勢であることがいよいよ明白になったため、大きな衝撃をもって迎えられた<ref name="sekai">『[[世界大百科事典]]』平凡社、1988年、阿片戦争の項目.</ref>。かつて強国であったはずの清の敗北は、さらにその先の東アジアへ進出するための西洋の旗印となる危機的な懸念があり、速やかな国体の変革が急務であることを日本に募らせた。中国国内では重要視されなかった魏源の『海国図志』<ref>[http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ru01/ru01_03176/index.html] 海国図志. 巻首,1-100 / 魏源 撰 </ref>もすぐに日本に伝えられ、[[吉田松陰]]や[[佐久間象山]]ら[[幕末]]における改革の機運を盛り上げる一翼を担った。林則徐の抱いた西洋列強への危惧は、中国ではなく日本において活かされることになったのである。天保14年([[1843年]])には[[昌平坂学問所]]にいた[[斎藤竹堂]]が『鴉片始末』<ref>[http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko08/bunko08_c0202/index.html] 鴉片始末 / 斉藤馨 稿 ; 斎藤正謙 批 </ref>という小冊子を書き、清国の備えのなさと西洋諸国の兵力の恐るべきことを憂えている。


それまで異国の船は見つけ次第[[砲撃]]するという[[異国船打払令]]を出すなど強硬な態度を採っていた江戸幕府もこの戦争結果に驚愕した。同時期に、日本人漂流民を送り届けてくれた船を追い返すという[[モリソン号事件]]が発生したこともあり、[[天保]]13年(1842年)には、方針を転換して、異国船に薪や水の便宜を図る[[薪水給与令]]を新たに打ち出すなど欧米列強への態度を軟化させる<ref name="sekai"/>。この幕府の対外軟化がやがて[[開国]]の大きな要因となり、[[ペリー来航]]、[[明治維新]]を経て、日本の近代化へとつながることになった<ref name="inoki3to5">猪木正道『軍国日本の興亡: 日清戦争から日中戦争へ』中央公論社、1995年、pp.3-5.</ref>。
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2016年11月15日 (火) 15:52時点における版

アヘン戦争

イギリス海軍軍艦に吹き飛ばされる清軍のジャンク船を描いた絵
1840年6月28日 - 1842年8月29日
場所(現在の中華人民共和国)沿岸地域
結果 イギリスの旗 イギリスの勝利。南京条約締結。
衝突した勢力
イギリスの旗 イギリス
指揮官
イギリスの旗 ヴィクトリア(女王)
イギリスの旗 メルバーン子爵(首相)
イギリスの旗 パーマストン子爵(外相)
イギリスの旗 チャールズ・エリオット(外交官)
ジョージ・エリオット英語版(海軍軍人)
ジェームズ・ブレーマー英語版(海軍軍人)
ヒュー・ゴフ(陸軍軍人)
道光帝(皇帝)
林則徐(欽差大臣)
キシャン(琦善、欽差大臣)
関天培(武将)†

陳化成(武将)†
戦力

19,000人[1]

200,000人
被害者数
69人戦死[1]
451人負傷[1]
18,000人から20,000人死傷[1]

阿片戦争(アヘンせんそう、: First Opium War, First Anglo-Chinese War)は、イギリスとの間で1840年から2年間にわたって行われた戦争である。名前の通り、アヘンの密輸が原因となった戦争である。アロー戦争を第二次とみなして第一次アヘン戦争とも。

戦争に至った経緯

もともと1757年以来広東港でのみヨーロッパ諸国と交易を行い、公行という北京政府の特許を得た商人にしかヨーロッパ商人との交易を認めてこなかった(広東貿易制度)[2]

一方ヨーロッパ側で中国貿易の大半を握っているのはイギリス東インド会社であり、同社は現地に「管貨人委員会」(Select Commitee of Supercargoes)という代表機関を設置していた[3]。しかし北京政府はヨーロッパとの交易を一貫して「朝貢」と認識していたため、直接の貿易交渉には応じようとしなかった。そのため管貨人委員会さえも公行を通じて「稟」という請願書を広東地方当局に提出できるだけであった[3]

このような広東貿易制度は中国市場開拓を目指すイギリスにとっては満足のいくものではなかった。広東貿易制度の廃止、すなわち北京政府による貿易や居住の制限や北京政府の朝貢意識を是正することによって英中自由貿易を確立することが課題になっていった[4]

イギリス東インド会社は1773年にベンガル阿片の専売権を獲得しており、ついで1797年にはその製造権も獲得しており、これ以降同社は中国への組織的な阿片売り込みを開始していた。北京政府は阿片貿易を禁止していたが、地方の中国人アヘン商人が官憲を買収して取り締まりを免れつつ密貿易に応じたため、阿片貿易は拡大していく一方だった。1823年には阿片がインド綿花に代わって中国向け輸出の最大の商品となっている。広東貿易の枠外に広がりゆく阿片貿易は広東貿易制度を崩壊させるきっかけとなっていく[5]

アヘン貿易

当時のイギリスは、陶磁器を大量に清から輸入していた。一方、イギリスからへ輸出されるものは時計望遠鏡のような富裕層向けの物品はあったものの、大量に輸出可能な製品が存在しなかったうえ[6]、イギリスの大幅な輸入超過[7]であった。イギリスは産業革命による資本蓄積やアメリカ独立戦争の戦費確保のため、の国外流出を抑制する政策をとった。そのためイギリスは植民地インドで栽培した麻薬であるアヘンを清に密輸出する事で超過分を相殺し、三角貿易を整えることとなった。

中国の代末期からアヘン吸引の習慣が広まり、代の1796年嘉慶元年)にアヘン輸入禁止となる。以降19世紀に入ってからも何度となく禁止令が発せられたが、アヘンの密輸入は止まず、国内産アヘンの取り締まりも効果がなかったので、清国内にアヘン吸引の悪弊が広まっていき、健康を害する者が多くなり、風紀も退廃していった。また、人口が18世紀以降急増したことに伴い、民度が低下し、自暴自棄の下層民が増えたこともそれを助長させた[8]。アヘンの代金は銀で決済したことから、アヘンの輸入量増加により貿易収支が逆転[9]、清国内の銀保有量が激減し後述のとおり銀の高騰を招いた。

清のアヘン取締

道光帝(左)と林則徐(右)。

この事態に至って、清では官僚の許乃済から『許太常奏議』といわれる「弛禁論」が出た。概要は「アヘンを取り締まる事は無理だから輸入を認めて関税を徴収したほうが良い」というものである。この論はほとんどの人間から反対を受け一蹴された。その後、アヘンを吸引した者は死刑に処すべきだと言う意見が出て、道光帝1838年林則徐欽差大臣(特命全権大臣のこと)に任命し広東に派遣、アヘン密輸の取り締まりに当たらせた。

林則徐はアヘンを扱う商人からの贈賄にも応じず、非常に厳しいアヘン密輸に対する取り締まりを行った。1839年道光十九年)には、アヘン商人たちに「今後、一切アヘンを清国国内に持ち込まない。」という旨の誓約書の提出を要求し、「持ち込んだら死刑」と通告した。さらにイギリス商人が持っていたアヘンを没収、夷館も閉鎖した。同年6月6日には没収したアヘンをまとめて処分した。焼却処分では燃え残りが出るため、阿片塊を海水に浸した上で塩と石灰を投入し、化学反応によって無毒化させた。この時に処分したアヘンの総量は1,400トンを超えた。その後も誓約書を出さないアヘン商人たちを港から退去させた。

英国の対応

北京の清政府内で阿片禁止論が強まっていた1836年、英国外相パーマストン子爵は現地イギリス人の保護のため、植民地勤務経験が豊富な外交官チャールズ・エリオットを清国貿易監察官として広東に派遣した[10]。またパーマストン子爵は海軍省を通じて東インド艦隊に対し、清に対する軍事行動の規制を大幅に緩めるのでエリオットに協力するよう通達した[10]。ただし、いまだ阿片取り締まりが始まっていないこの段階ではパーマストン子爵も直接の武力圧力をかけることは禁じている[10]

1839年3月に広東に着任した林則徐による一連の阿片取り締まりがはじまると、エリオットはイギリス商人の所持する阿片の引き渡しの要求には応じたが、誓約書の提出は拒否し、5月24日には広東在住の全英国人を連れてマカオに退去した[11]。急速な事態の進展に東インド艦隊も事態を掴んでおらず、軍艦を派遣してこなかったため、エリオットの元には武力がなかった。これを絶好のチャンスと見た林則徐は九竜半島でのイギリス船員による現地民殺害を口実に8月15日にマカオを武力封鎖して市内の食料を断ち、さらに井戸に毒を撒いてイギリス人を毒殺しようと企んだ[12]

これによりエリオットたちは8月26日にマカオも放棄して船上へ避難することになった。しかしここでようやく東インド艦隊のフリゲート艦(「ボレージ」「ヒヤシンス」)が2隻だけ到着した(エリオットと清国の揉め事を察知したわけではなく、パーマストン子爵の方針にしたがってたまたま来ただけであり、しかも6等艦という英海軍の序列では最下等の軍艦であった)。エリオットはこの2隻を使って早速に反撃に打って出た[13]

戦争勃発

1841年8月26日、アモイで清軍を蹴散らす第18近衛アイルランド連隊。

エリオットは1839年9月4日に九竜沖砲撃戦、11月3日に川鼻海戦に及んで清国船団を壊滅させた。


一方イギリス本国も外相パーマストン子爵の主導で対清開戦に傾いており、1839年10月1日にメルバーン子爵内閣の閣議において遠征軍派遣が決定した[13]。「阿片の密輸」という開戦理由に対しては、清教徒的な考え方を持つ人々からの反発が強く、イギリス本国の庶民院でも、野党保守党ウィリアム・グラッドストン(後に自由党首相)らを中心に「不義の戦争」とする批判があったが[注釈 1]、清に対する出兵に関する予算案は賛成271票、反対262票の僅差で承認され、この議決を受けたイギリス海軍は、イギリス東洋艦隊を編成して派遣した。

1840年8月までに軍艦16隻、輸送船27隻、東インド会社所有の武装汽船4隻、陸軍兵士4,000人が中国に到着した[16]。英国艦隊は林則徐が大量の兵力を集めていた広州ではなく、兵力が手薄な北方の沿岸地域を占領しながら北上し、大沽砲台を陥落させて首都北京に近い天津沖へ入った[17]

天津に軍艦が現れたことに驚いた道光帝は、強硬派の林則徐を開戦の責を負わせて新疆イリへ左遷し、和平派のキシャンを後任に任じてイギリスに交渉を求めた。イギリス軍側もモンスーンの接近を警戒しており、また舟山諸島占領軍の間に病が流行していたため、これに応じて9月に一時撤収した[18]

1841年1月20日にはキシャンとエリオットの間で川鼻条約(広東貿易早期再開、香港割譲、賠償金600万ドル支払い、公行廃止、両国官憲の対等交渉。後の南京条約と比べると比較的清に好意的だった)が締結された。ところが英軍が撤収するや清政府内で強硬派が盛り返し、道光帝はキシャンを罷免して川鼻条約の正式な締結も拒否した[19]

イギリス軍は軍事行動を再開した。英国艦隊は廈門舟山諸島寧波など揚子江以南の沿岸地域を次々と制圧していった[20]三元里事件での現地民間人の奮戦や、虎門の戦いでの関天培らが奮戦もあったが、完全に制海権を握り、火力にも優るイギリス側が自由に上陸地点を選択できる状況下、戦争は複数の拠点を防御しなければならない清側正規軍に対する、一方的な各個撃破の様相を呈した。とくに「ネメシス」号をはじめとした東インド会社汽走砲艦の活躍は目覚ましく、水深の浅い内陸水路に容易に侵入し、清軍のジャンク船を次々と沈めて、後続の艦隊の進入の成功に導いた[21]

英国艦隊はモンスーンに備えて1841年から1842年にかけての冬の間は停止したが、1842年春にインドのセポイ6,700人、本国からの援軍2,000人、新たな汽走砲艦などの増強を受けて北航を再開した。5月に清が誇る満洲八旗軍が駐屯する乍浦を陥落させると揚子江へ進入を開始し(ここでも汽走砲艦が活躍)、7月には鎮江を陥落させた[22]。英軍が鎮江を抑えたことにより京杭大運河は止められ、北京は補給を断たれた[22]

この破滅的状況を前に道光帝ら北京政府の戦意は完全に失われた[22]

終戦後の推移

イギリス軍艦「HMSコーンウォリス」号内で締結された南京条約

1842年8月29日、両国は南京条約に調印し、阿片戦争(第一次阿片戦争)は終結した。

阿片戦争以前、清国は広東広州)、福建厦門)、浙江寧波)に海関を置き、外国との海上貿易の拠点として管理貿易(公行制度)を実施していた。南京条約では公行制度(一部の貿易商による独占貿易)を廃止し自由貿易制に改め、従来の3港に福州上海を加えた5港を自由貿易港と定めた。加えて本条約では英国への多額の賠償金の支払と香港の割譲が定められた。また、翌年の虎門寨追加条約では治外法権関税自主権放棄、最恵国待遇条項承認などが定められた。

この英国と清国との不平等条約の他に、アメリカ合衆国との望厦条約、フランスとの黄埔条約などが結ばれている。

この戦争を英国が引き起こした目的は大きく言って2つある。それは、東アジアで支配的存在であった中国を中心とする朝貢体制の打破と、厳しい貿易制限を撤廃して自国の商品をもっと中国側に買わせることである。しかし、結果として中英間における外交体制に大きな風穴を開けることには成功したものの、もう一つの経済的目的は達成されなかった。中国製の綿製品が英国製品の輸入を阻害したからである。これを良しとしなかった英国は次の機会をうかがうようになり、これが第二次阿片戦争とも言われるアロー戦争へとつながっていくことになった。

戦争の余波

清への影響

海国図志の第3巻に描かれた東半球の地図

阿片戦争は清側の敗戦であったが、これについて深刻な衝撃を受けた人々は限られていた。北京から遠く離れた広東が主戦場であったことや、中華が夷狄(いてき:異民族)に敗れることはまま歴史上に見られたことがその原因である。そもそも、清という国自体が、漢民族から見れば夷狄の満州族が支配する帝国である。 広東システムに基づく管理貿易は廃止させられたものの、清は、依然として華夷秩序は捨てておらず、イギリスをその後も「英夷」と呼び続けた。

しかし、一部の人々は、イギリスがそれまでの中国の歴史上に度々登場した夷狄とは異なる存在であることを見抜いていた。たとえば林則徐のブレーンであった魏源は、林則徐が収集していたイギリスやアメリカ合衆国の情報を委託され、それを元に海国図志中国語版を著した。「夷の長技を師とし以て夷を制す」という一節は、これ以後の中国近代史がたどった西欧諸国の技術・思想を受容して改革を図るというスタイルを端的に言い表したことばである。この書は東アジアにおける初めての本格的な世界紹介書であった。それまでにも地誌はあったが、西欧諸国については極めて粗略で誤解に満ちたものであったため、詳しい情報を記した魏源の『海国図志』は画期的であったといえよう。ただし、この試みはあくまでも魏源による個人的な作業であって、政府機関主導による体系的な事業(例えば日本江戸幕府が長崎を拠点に行ったようなそれ)ではなかったので、魏源による折角の努力も後継者不在の為発展せず、中国社会全体には大して影響を及ぼさなかった。

その後、太平天国の乱などが起きる一方、1860年代から洋務運動による近代化が図られた[23]


銀の高騰

アヘンの輸入量は1800~01年の約4,500箱(一箱約60kg)から1830~31年には2万箱、阿片戦争前夜の1838~39年には約4万箱に達した。このため1830年代末にはアヘンの代価として清朝国家歳入の80%に相当するが国外に流出し、国内の銀流通量を著しく減少させて銀貨の高騰をもたらした。当時の清は銀本位制であり、銀貨銅銭が併用され、その交換比率は相場と連動していた。乾隆時代には銀1(約37g)は銅銭700~800と交換されていたが、1830年には1,200文となり30年代末には最大で2,000文に達した。

地丁銀の税額は銀何両という形で指定されるが、農民が実際に手にするのは銅銭であり、納税の際には銅銭を銀に換算しなければならなかった。つまり、銀貨が倍に高騰することは納税額が倍に増えることを意味した。

日本への影響

清朝の敗戦は長崎に入港するオランダや清の商人を通じて幕末日本にも伝えられた。西洋諸国の軍事力が東洋に比して圧倒的に優勢であることがいよいよ明白になったため、大きな衝撃をもって迎えられた[24]。かつて強国であったはずの清の敗北は、さらにその先の東アジアへ進出するための西洋の旗印となる危機的な懸念があり、速やかな国体の変革が急務であることを日本に募らせた。中国国内では重要視されなかった魏源の『海国図志』[25]もすぐに日本に伝えられ、吉田松陰佐久間象山幕末における改革の機運を盛り上げる一翼を担った。林則徐の抱いた西洋列強への危惧は、中国ではなく日本において活かされることになったのである。天保14年(1843年)には昌平坂学問所にいた斎藤竹堂が『鴉片始末』[26]という小冊子を書き、清国の備えのなさと西洋諸国の兵力の恐るべきことを憂えている。

それまで異国の船は見つけ次第砲撃するという異国船打払令を出すなど強硬な態度を採っていた江戸幕府もこの戦争結果に驚愕した。同時期に、日本人漂流民を送り届けてくれた船を追い返すというモリソン号事件が発生したこともあり、天保13年(1842年)には、方針を転換して、異国船に薪や水の便宜を図る薪水給与令を新たに打ち出すなど欧米列強への態度を軟化させる[24]。この幕府の対外軟化がやがて開国の大きな要因となり、ペリー来航明治維新を経て、日本の近代化へとつながることになった[27]

阿片戦争を扱った作品

小説

映画

ドラマ

参考文献

  • 『実録アヘン戦争』陳舜臣著 中公文庫 ISBN 4122012074
  • 『支那外交史とイギリス〈その1〉アヘン戦争と香港』矢野仁一ISBN 4122016894
  • 『林則徐―清末の官僚とアヘン戦争』堀川哲男 著 ISBN 412202837X
  • 『清代アヘン政策史の研究』井上裕正 著 ISBN 4876985200
  • 『林則徐』井上裕正 著 ISBN 4891742291
  • 『茶の世界史―緑茶の文化と紅茶の社会』角山栄ISBN 4121005961
  • 『近代の誕生 第Ⅲ巻 民衆の時代へ』ポール・ジョンソン 著 別宮貞徳 訳 共同通信社 ISBN 4764103427
  • 横井勝彦『アジアの海の大英帝国』同文館、1988年(昭和63年)。ISBN 9784495852719 
  • 尾鍋輝彦『最高の議会人 グラッドストン』清水書院清水新書016〉、1984年(昭和59年)。ISBN 978-4389440169 
  • 和田民子「19世紀末中国の伝統的経済・社会の特質と発展的可能性」(PDF)『日本大学大学院総合社会情報研究科紀要』第8号、日本大学大学院総合社会情報研究科、2007年、285-294頁、ISSN 134616562014年2月6日閲覧 

脚注

注釈

  1. ^ グラッドストンは議会で「確かに中国人には愚かしい大言壮語と高慢の習癖があり、それも度を越すほどである。しかし、正義は異教徒にして半文明な野蛮人たる中国人側にある」と演説して阿片戦争に反対した[14]。他方グラッドストンは「中国人は井戸に毒を撒いてもよい」という過激発言も行い、答弁に立ったパーマストン子爵はこの失言を見逃さず、「グラッドストン議員は野蛮な戦闘方法を支持する者である」と逆に追及して彼をやり込めた[15]

出典

  1. ^ a b c d Martin, Robert Montgomery (1847). China: Political, Commercial, and Social; In an Official Report to Her Majesty's Government. Volume 2. James Madden. pp. 81–82.
  2. ^ 横井勝彦 2004, p. 70-72.
  3. ^ a b 横井勝彦 2004, p. 72.
  4. ^ 横井勝彦 2004, p. 73-74.
  5. ^ 横井勝彦 2004, p. 74.
  6. ^ 『近代の誕生 第Ⅲ巻』p.113 イギリスの主要輸出品だった綿織物への需要はほとんど無かった。
  7. ^ 『近代の誕生 第Ⅲ巻』p.113 清国は1810年 - 1820年には2600万ドルの貿易黒字を計上している。
  8. ^ 加藤徹『貝と羊の中国人』p.92。
  9. ^ 『近代の誕生 第Ⅲ巻』p.114 清国の貿易収支は1828年 - 1836年に3800万ドルの輸入超過になっている。
  10. ^ a b c 横井(1988) p.55
  11. ^ 横井(1988) p.56-57
  12. ^ 横井(1988) p.57
  13. ^ a b 横井(1988) p.58
  14. ^ “世界史の遺風(91)ディズレーリ 「帝国主義者」の社会改革”. 産経新聞. (2014年(平成26年)1月9日). http://sankei.jp.msn.com/life/news/140109/art14010908300001-n1.htm 2014年8月21日閲覧。 
  15. ^ 尾鍋(1984) p.72-73
  16. ^ 横井(1988) p.64
  17. ^ 横井(1988) p.66
  18. ^ 横井(1988) p.64-67
  19. ^ 横井(1988) p.69
  20. ^ 横井(1988) p.74-75
  21. ^ 横井(1988) p.70
  22. ^ a b c 横井(1988) p.77
  23. ^ 和田民子 2007, pp. 287–290.
  24. ^ a b 世界大百科事典』平凡社、1988年、阿片戦争の項目.
  25. ^ [1] 海国図志. 巻首,1-100 / 魏源 撰
  26. ^ [2] 鴉片始末 / 斉藤馨 稿 ; 斎藤正謙 批
  27. ^ 猪木正道『軍国日本の興亡: 日清戦争から日中戦争へ』中央公論社、1995年、pp.3-5.

関連項目