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1985年、妻とともにアメリカの[[ダラス]]に移住。2005年、戦勝60周年を記念して、中国の[[胡錦濤]]主席・[[温家宝]]首相と会見。胡主席より[[勲章]]が贈与された<ref>[http://www.flyingtiger-cacw.com/new_page_520.htm]</ref>。その3年後の2008年7月9日、自宅でその生涯を終えた。享年92。 |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
2016年11月15日 (火) 14:20時点における版
王光復 Wang Kuang-Fu | |
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生誕 |
1917年11月10日 中華民国北京市 |
死没 |
2008年7月9日 アメリカ合衆国 テキサス州ダラス |
所属組織 | 中華民国空軍 |
軍歴 | 1935 - 1965 |
最終階級 | 空軍大佐 |
除隊後 | 台湾辦了順達貿易公司勤務 |
王 光復(おう こうふく、1917年11月10日 - 2008年7月9日)は中華民国空軍の軍人。戦闘機操縦士で日中戦争(太平洋戦争)時のエース・パイロット。北京市出身。
経歴
1916年11月10日、王光復は北京市内で父王治昌・母董洁如の間に十一人兄妹の五男として生まれた。王治昌は早稲田大学の出身で、北京大学教授と北洋政府代理工商部長を務めていた。
1935年、空軍軍官学校に第9期で入学、飛行訓練を受けて1939年7月1日に昆明の航空学校を卒業した。1940年に新疆伊寧でソ連軍顧問の訓練を受け、1941年に第3大隊第7中隊に配属されると重慶・成都の防空任務についた。
1943年7月27日、クレア・リー・シェンノートによって第14空軍の下に中米混成航空団(CACW)が編成された。中国空軍から第1、第3、第5大隊がCACWへ編入され、43年8月からインド(現パキスタン)のカラチで合同訓練を行った。第3大隊第7中隊員の王光復はその一員として訓練を受け、10月にヒマラヤを越えて中国に戻った[1]。
1944年6月25日に王は初戦果を報じた。王の乗機はP-40N-5で、機首上部に漢字で書かれた「太公令」は周代の斉の始祖・呂尚(太公望)にちなんでいる。1944年5月7日、「太公令」号は梁山で着陸事故を起こして修理されたが、1945年1月に老河口で再度損傷した[2]。
1944年9月20日、王光復は羊楼司の日本軍の物資集積所を爆撃に行くB-25を護衛して飛んだ。洞庭湖を過ぎると、一式戦闘機20機が襲ってきたが、王は無線で気づかないふりを指令して一式戦を引きつけ、近づいた所で一斉に射撃した。王は、下方に逃れていく1機を急降下で捕捉して撃墜した。(日本側の記録によれば飛行第52戦隊の大元軍曹か、二宮伍長とみられている。)[1]
10月27日、第3大隊のP-40・16機は列車攻撃作戦の後、荊門の日本軍飛行場へ向かい、飛行場上空を周回中であった九九式双発軽爆撃機9機と一式戦10機に襲いかかった。この戦いで16機の撃墜が報じられ(日本側の記録によると損害は計9機)、特に王光復は一式戦を共同撃墜1(0.5機)、単独による撃墜2機、九九双軽1機を堕として計3.5機の撃墜を記録した[3]。 1945年、第7中隊はP-51へ換装し、王はP-51に乗って1機を撃墜している。
王光復の総撃墜記録は8.5機(6.5機との記録も[2])を数えたが、彼の戦果は空中戦闘によるものだけでなく、地上攻撃でも多くの戦果を上げた。CACWは日本軍の補給線破壊作戦でも活躍し、飛行場や江上の輸送船、鉄道、輸送トラックなどを襲って日本軍の戦力を無力化していった[1]。
国共内戦後は台湾へ渡ったが、妹の王光美が中華人民共和国副主席の劉少奇と結婚したこと、また弟の王光英は中国政府の高官を務めていた事もあり、将官まで進級することは叶わなかった[4]。
1962年、調到史政局擔任軍事史政組組長となり、半年後に退役を申請。その後は貿易会社に勤める事になる。
1985年、妻とともにアメリカのダラスに移住。2005年、戦勝60周年を記念して、中国の胡錦濤主席・温家宝首相と会見。胡主席より勲章が贈与された[5]。その3年後の2008年7月9日、自宅でその生涯を終えた。享年92。
脚注
参考文献
- 秦郁彦 / 航空情報編集部 『第2次大戦 世界の戦闘機隊』― 付・エース列伝、酣灯社、1987年。ISBN 978-4873570105
- カール・モールズワース(著) / 梅本弘(訳) 『太平洋戦線のP-40ウォーホークエース』、大日本絵画、2002年。ISBN 978-4499227797
- 中山雅洋 『中国的天空(下)沈黙の航空戦史』 大日本絵画、2008年。ISBN 978-4499229456