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「ウィルコ・ジョンソン」の版間の差分

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== 書籍 ==
== 書籍 ==
* From Roxette To Ramona (Roland Jost/Teppo Nattila/Rauno Makinen) ISBN 3-033-00460-1
* From Roxette To Ramona (Roland Jost/Teppo Nattila/Rauno Makinen) ISBN 3-033-00460-1
* 前略、テレキャスター様 (ヴィンテージギター編集部) ISBN-10: 4870998122
* 前略、テレキャスター様 (ヴィンテージギター編集部) ISBN 4870998122
* Down By The Jetty-The Dr. Feelgood Story (Tony Moon) ISBN 1-900711-01-X
* Down By The Jetty-The Dr. Feelgood Story (Tony Moon) ISBN 1-900711-01-X
* The River-The Thames in Our Time (Patrick Wright:BBC) ISBN 0-563-38478-6
* The River-The Thames in Our Time (Patrick Wright:BBC) ISBN 0-563-38478-6

2016年11月15日 (火) 13:55時点における版

Wilko Johnson
基本情報
生誕 (1947-07-12) 1947年7月12日(77歳)
出身地 イングランドの旗 イングランド エセックス キャンベイ・アイランド
学歴 ニューカッスル大学卒業
ジャンル パブロック
ブルース
職業 ギタリスト
ソングライター
担当楽器 ギターボーカル
活動期間 1971年 -
レーベル ジャングル・レコーズ
共同作業者 ドクター・フィールグッド
ノーマン・ワット・ロイ
ディラン・ハウ
サルバトーレ・ラムンド
スティーブ・モンティ ほか
公式サイト WilkoJohnson.com
メンバー ウィルコ・ジョンソン (ギターボーカル
ノーマン・ワット・ロイ (ベース
ディラン・ハウ(ドラムス
旧メンバー サルバトーレ・ラムンド (ドラムス)
スティーブ・モンティ (ドラムス)
ミック・グリーン
ジョニー・キッド&ザ・パイレーツほか

ウィルコ・ジョンソン(Wilko Johnson、1947年7月12日 - )は、イングランドギタリストソングライターボーカリストドクター・フィールグッドのオリジナル・メンバーとして活動後、ウィルコ・ジョンソン・バンドを結成し活動。エセックス州、キャンベイ・アイランド出身。

来歴

生い立ち

ガス工事業者の父と元看護婦の母親の典型的な労働者階級の家庭に3人兄弟の長男として生まれた。幼年期〜少年期は両親(特に父親)から受ける愛情が少なく、あまり幸福なものではなかったらしい。学生時代にはローマーズおよびフラワーポットというバンドを結成し地元の市民ホールや労働者向けのパブなどで演奏していたが、成績優秀であった彼はニューカッスル大学英文学を学ぶためにキャンベイを後にし、しばらくギターから遠ざかる。

在学中、1968年ティーンエイジャー時代からのガールフレンドであったアイリーン・ナイトと結婚、2人の息子をもうけている。大学卒業後、ヒッピーとしてインドネパールを放浪する。インドから帰国した後、地元の高校で母国語教師をしていたが、新たなバンドを組むためにギタリストを探していたリー・ブリロー幼馴染ジョン・B・スパークスに誘われ、教師を勤めながら彼らのバンドに参加する(後にロックバンドに在籍している教師は教育上好ましくないということで教師をクビになってしまった)。かくしてドクター・フィールグッドが誕生した。

Dr. Feelgood

粗野で卑猥かつクレイジーな彼らのステージパフォーマンスはパンク・ロック前夜の若者を魅了し、『ダウン・バイ・ザ・ジェティ(Down by the Jetty)』『不正療法(Malplactice)』の2作を発表後、3作目にあたる『殺人病棟(Stupidity)』は英アルバムチャートでナンバーワンを獲得する大成功を収めたが、すでにバンド内には不協和音が流れていた。バンドのソングライターであり、アルコール類を全く口にしなかったウィルコは、ツアー中もホテルの部屋で1人新曲を書かねばならないプレッシャーに苦しむ一方、他のメンバー3人は大酒飲みであり、ウィルコの隣の部屋で大騒ぎをするなど、3対1の構図が出来上がりつつあった。事の真偽は後に譲るが、結果的には4作目の『スニーキン・サスピション(en:Sneakin' Suspicion)』完成と同時にウィルコが脱退する形となり、第一期のドクター・フィールグッドは終わりを告げる。

The Wilko Johnson Band結成まで

ドクター・フィールグッドを脱退したウィルコはチリ・ウィリ・アンド・ザ・レッド・ホット・ペパーズにも参加していた“ある人物”を迎えて自分のバンドを立ち上げようとしたが、パブロック界の“ある人物”の策略によってこのバンドは立ち消えとなってしまう。その後、ヴァージン・レコードと契約し、1979年にソリッドセンダース(Solid Senders)名義でアルバム『電光石火(Solidsenders)』を発表するが成功には至らず、イアン・デューリーの好意で彼のザ・ブロックヘッズに一時的に加入。アルバム『ラーフター(Laughter)』に参加するが、ここでウィルコは生涯の盟友となる天才ベーシスト、ノーマン・ワット・ロイに出会う。

ブロックヘッズへの参加は一時的なものであったため、アルバム1枚でブロックヘッズを脱退したウィルコは、ブロックヘッズのバッキングによるシングル「Oh Lonsome Me」、ソロ名義でのアルバム『アイス・オン・ザ・モーターウェイ(Ice on the Motorway)』、ミニ・アルバム『プル・ザ・カヴァー(Pull the Cover)』を発表するが、どれも商業的成功には恵まれなかった。その後、ウィルコはルー・ルイスとのジョイントツアーを行ったり、ラッセル・ストラッターをベーシストに、ドラマーは入れ代わり立ち代わりの状態で小規模のライブハウスであるミュージック・パブでのギグを中心に活動していたが、音楽業界を去ることも考えていたという。

入れ代わり立ち代わりしていたドラマーがイタリア出身のサヴことサルバトーレ・ラムンドに落ち着きかけていた頃、ベースラッセル・ストラッターエディー・アンド・ザ・ホット・ロッズEddie & the Hot Rods)への参加の話が持ち上がる。誠実にウィルコに相談したラッセルに対し、ウィルコは「将来性のない自分といるよりホット・ロッズに参加したほうが彼のためになるだろう」という言葉で彼を送り出したという。

ベーシストを失ったウィルコには、まだ数回ギグの予定が残っていた。その残りのギグを終わらせるためには臨時のベーシストが必要だった。そこでウィルコが電話をかけた相手がノーマン・ワット・ロイだった。ブロックヘッズが活動休止状態にあったため、スタジオ・ミュージシャンとして食いつないでいたノーマンは二つ返事でウィルコの話に乗り、簡単なリハーサルを行った後、残り数回のギグを終わらせるためだけのつもりで1985年2月、ウィルコ、ノーマン、サヴの3人でロンドンのハーフムーン・パットニーのステージに立った。

後に日本で毎年熱烈な歓迎を受けることになるウィルコ・ジョンソン・バンドの誕生である。自分達がやったことの記録を残しておくつもりで、ギグを簡単な機材で録音した音源は、ミニ・アルバム『ウォッチ・アウト(Watch Out! (Live in London))』として発売された。商業的な成功には至らなかったものの、各業界誌紙は「最も危険なギタリスト」と絶賛し、出演依頼の電話が殺到した。以来、バンドは週3〜5回というハイペースでギグをこなしてゆくことになる。

日本との関わり

1985年秋、彼らのギグを観たスマッシュ日高正博社長[1]の招聘で、ウィルコは初めて日本の地を踏むことになる。以来、毎年のように来日し、会場の規模も大きくなり、ウィルコ、ノーマン、サヴの不動の3人トリオとなったウィルコ・ジョンソン・バンドは本国よりも日本での人気を誇るようになる。アルバムも日本でのライブ・アルバムを含む5枚をリリースし、クラブチッタ川崎でのライブを収録したVHSもリリースされた。

初来日時からの鮎川誠との交流も続き、鮎川誠のソロアルバム『ロンドン・セッション#1』『ロンドン・セッション#2』の2枚に全面参加、シーナ&ザ・ロケッツの『ROCK ON BABY』へのゲスト参加などを経て1999年にはジョイント・ツアーも行っている。しかし、14年続いた不動の3人トリオは1999年5月、サヴが家庭の事情でバンドを脱退せざるを得なくなった時に終わりを告げる。代わってジーザス&メリーチェインやブロックヘッズの2代目ドラマーとして知られるスティーブ・モンティがドラマーの椅子に座ることになった。

サヴの脱退後、一時的な精神不安定に陥っていたウィルコも、モンティの参加でリスタートを切り、2000年には敬愛するミック・グリーン率いるザ・パイレーツとのジョイント・ツアーを行い、2002年にはフジ・ロック・フェスティバルに出演、2003年にはTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTのTrippin' Elephant Recordsからニュー・アルバム『レッド・ホット・ロッキン・ブルース(Red Hot Rocking Blues)』をリリースし、大規模な日本ツアーを行った。THEE MICHELLE GUN ELEPHANTの発言も手伝い、新たな若年層ファンも獲得しつつあったが、翌年、2004年のフジ・ロック・フェスティバル再出演も決定した矢先に人生最大の不幸がウィルコを襲うことになった。

妻の死去

2004年4月、恋人時代も含め40年間を共に過ごした最愛の妻、アイリーンが大腸癌に冒されていることを告げられる。急遽、日帰りできないギグと海外公演を全てキャンセルし、ウィルコはアイリーンに付き添ったが、アイリーンは告知からわずか4ヵ月後の8月4日の早朝、ソールズベリーホスピスで静かに息を引き取った。

アイリーンの急逝後、わずか3ヶ月でウィルコは本国イギリスでの巡業に復帰し、2005年にはザ・ハムスターズen:The Hamsters)、ジョン・オトウェイen:John Otway)と共に「The Mad, The Bad, and The Dangerous」という大規模なジョイント・ツアーを行い、ツアーのDVDも発表しているが、長期にわたってアイリーンの死を克服できずにいた。

癌の克服

2013年1月10日、南青山レッドシューズで一夜限りのセッション「Wilco Johnson Tokyo Session 2013」を開催。ベンジャミン・テホヴァル、シーナ&ザ・ロケッツ、奈良敏博、市川JAMES洋二らが参加。16日には京都磔磔でライブを開催した[2]。その数日後、末期のすい臓癌を患っていることがマネージャーによって公表される。本人の意向で延命治療は行わず、残された数か月の人生を意義ある活動に専念していくと報じられた[3]

その後、予定通りライブを決行して区切りをつけリタイアとしたが、「またステージに立ちたい、身体が許してくれる限り自分のやるべきことをやりたいという欲求が湧き上がってきた」として、同年8月にイギリスの4つのフェスティバルに出演する事を発表する[4]。同年10月、余命わずかと思われるが、ザ・フーロジャー・ダルトリーとのレコーディングで最期の時を過ごすことを決意[5]

2014年3月、上記の病状にも関わらずロジャー・ダルトリーと制作したアルバム『ゴーイング・バック・ホーム』が滞り無く発表される。更に、来日し、東京、大阪、名古屋、京都にてライブを行う。同年4月30日、オフィシャル・サイト上に「予定していた全ての業務をキャンセルせざる得なくなった。すい臓癌についてさらなる助言を求めた結果、医療処置を受けることになった。このため、しばらくの間活動を休止する。医者は、この手術によってウィルコの予後は良くなるだろうとの望みを抱いている。」といった声明が出され、5月2日にはこの手術ですい臓の腫瘍を取り除くことに成功したと報告された。

6月1日、自身のFacebookにて無事に退院したことを報告[6][7]。9月、日本に旅行に訪れ、仕事に復帰する意欲がある事を報告[8]

ギタースタイル

ラジオでジョニー・キッド&ザ・パイレーツの「アイル・ネバー・ゲット・オーバー・ユー」を耳にしたのをきっかけに、ギタリストのミック・グリーンに傾倒する。ピックを使わず、シャープなカッティングでリズムギターリードギターを同時に弾きだす独特の奏法は、ミックのそれを継承している。ピックを使わなかった理由については、左利きである彼はピックを上手く扱えず、素手で弾くようになったとのこと。2007年にイギリスの音楽雑誌『MOJO』が編集した『オールタイム・ベスト・ブルース・ギタリスト・トップテン』で第8位に選ばれている。英国のミュージシャンには大なり少なり、彼の影響を受けていたり、彼を崇拝するミュージシャンが多数存在する。

使用ギター

ドクター・フィールグッド時代から現在まで、ブラック・ボディのフェンダー・テレキャスターのピックガードを自分自身で「Sunburst」という赤色に塗り替えたもの[9]を愛用している。1990年代から日本製のものを愛用しており、2008年8月現在の時点では日本の石橋楽器がウィルコ・ジョンソン・モデル[10]として製作した「TL62-70をベースにピックガードを1プライの赤に変更したモデル(石橋楽器担当者談)」を使用している。その後、赤いピックガードのストラトキャスターを経て現在はFender USA製のウィルコ・ジョンソンモデルのテレキャスターを使用している。

ライブ・ステージ

ギターとアンプを繋ぐコードに伸び縮みするカールコードを使用し、引っ張ったり引き戻されたりするようにステージを前後に移動しながら、英語圏では「Clockwork movement」と表現されるカクカクと機械仕掛けのように動くアクションで、観客に異様とも言える眼光を向ける様は、鎖に繋がれた狂人が暴れているようなイメージを彷彿させる。また、ハイライトのひとつであるアクションは、ギターをマシンガンのように構え、客席に向かって乱射するように素手でかき鳴らした後、開脚ジャンプを繰り返すなど狂気とも思わせるパフォーマンスを展開する。このパフォーマンスから、日本ではマシンガン・ギターと表現されることが多い。

人物

ステージでは「狂人」「危険人物」などと評され、近寄れば噛み付かれるようなイメージを与えるウィルコだが、一旦ステージを降りると、物静かで読書好きのインテリである。その知識は学位を持つ英文学英語学にとどまらず、新約聖書旧約聖書の隅々から(ウィルコは無神論者である)ウィリアム・シェイクスピア作品の暗唱、最も古い古典英語、ラテン語政治、各国の文化、仏教ヒンドゥー教、と枚挙にいとまがない。

また、ファンに対しては常に礼儀正しく親切に接し、ボブ・ディランを崇拝する彼は「もし自分がボブ・ディランに会えたら、それは人生でも大切な思い出になる。自分をディランに例えるのは恐れ多いが、ファンにとっては自分に会ったことが人生のよい思い出になるようにしたい。」と、常にファンとしての視点を持っている。

一方ではアーティストにありがちな激しい気性を表すこともあり、業界紙で「変人」扱いされることもあるが、本人によればジャーナリストは狂人のようなパフォーマンスから、そういうウィルコ・ジョンソン像を期待しているので期待に応えているだけ、とのことである。

また、大の親日家でもあり、プライベートも含む来日は15回を数え、鮎川誠シーナ&ザ・ロケッツとの深い交流でも知られている他、浅井健一THEE MICHELLE GUN ELEPHANTルースターズをはじめ、数多くのミュージシャンと交流があり、彼らもウィルコの影響を受けている。

好きなミュージシャン

ディスコグラフィ

アルバム

ドクター・フィールグッド

未公開音源等も含んだ、ウィルコ・ジョンソン在籍時の上記の4枚のアルバムからの3CD+DVDボックスセット。

ソリッドセンダース

  • 『電光石火』(Solid Senders) (1978年)

ウィルコ・ジョンソン・バンド

「Dr. Feelgood」、「Twenty Yards Behind」収録
  • 『アイス・オン・ザ・モーターウェイ』(Ice on the Motorway) (1981年)
  • 『ボトル・アップ・アンド・ゴー』(Bottle Up and Go!) (EP1983年)
  • 『プル・ザ・カヴァー』(Pull the Cover) (1984年)
  • 『ウォッチ・アウト』(Watch Out! (Live in London)) (1985年)
  • 『コール・イット・ホワット・ユー・ウォント』(Call It What You Want) (1987年)
  • 『バーブド・ワイアー・ブルース』(Barbed Wire Blues) (1988年)
  • 『ゴーイング・バック・ホーム』(Going Back Home) (1998年)
  • 『ライヴ・イン・ジャパン 2000』(Don't Let Your Daddy Know (Live in Japan 2000)) (2000年)
  • 『レッド・ホット・ロッキン・ブルース』(Red Hot Rocking Blues) (2005年)

イアン・デューリー&ザ・ブロックヘッズ

ウィルコ・ジョンソン&ロジャー・ダルトリー

客演

「恋して夢中を抱きしめて」にバッキングで参加。本人は全く覚えていないという。
「Osaka」にバッキングで参加。本人は「I Love You Osaka」という歌詞をよく覚えている。現在再発CDが入手可能。

VHS

  • ウィルコ・ジョンソン
    • 『MACHINGUN GUITAR』
  • ドクター・フィールグッド
    • 『Going Back Home』

DVD

  • シーナ&ザ・ロケッツ
    • 『DREAM BOX』
  • The Hamsters, The Wilko Johnson Band and John Otway
    • 『The Mad, The Bad, And The Dangerous』
  • ドクター・フィールグッド
    • 『Going Back Home』

書籍

雑誌/新聞

  • Trippin' Elephant Vol.32
  • レコード・コレクターズ(1990年3月号)
  • Juice (2003年10月号)
  • Japan Times (2003年10月12日付)
  • ギター・マガジン (2003年11月号)
  • Tokyo Metolopolis (2003年11月号)
  • Rockin' On (2003年12月号)
  • PLAYER (2003年12月号)
  • DOLL (2003年12月号)
  • 音楽と人 (2003年12月号)
  • THE DIG 34号 (2003年秋号)
  • THE DIG 35号 (2004年冬号)

出演

ドラマ

脚注

外部リンク