「アルフォンス・ド・ラマルティーヌ」の版間の差分
m cewbot: 修正ウィキ文法 38: HTMLの<i>タグの使用 |
m cewbot: 修正ウィキ文法 38: HTMLの<i>タグの使用 |
||
6行目: | 6行目: | ||
マコンの貴族に生まれ、[[フランス復古王政|王政復古期]]に一時軍に籍を置いた。のちに外交官となり、[[1825年]]から[[1828年]]まで[[イタリア]]に駐在した。 |
マコンの貴族に生まれ、[[フランス復古王政|王政復古期]]に一時軍に籍を置いた。のちに外交官となり、[[1825年]]から[[1828年]]まで[[イタリア]]に駐在した。 |
||
また自らの恋愛体験にも影響された抒情詩を書いた。特に[[1820年]]、『瞑想詩集』(''Méditations poétiques'')を世に出し、一躍注目された。これは、彼が愛した年上の貴婦人との出会いと死別に触発されたものといわれるが、文学的にも近代フランス抒情詩のはじまりとして高く評価される。続いて『新瞑想詩集』( |
また自らの恋愛体験にも影響された抒情詩を書いた。特に[[1820年]]、『瞑想詩集』(''Méditations poétiques'')を世に出し、一躍注目された。これは、彼が愛した年上の貴婦人との出会いと死別に触発されたものといわれるが、文学的にも近代フランス抒情詩のはじまりとして高く評価される。続いて『新瞑想詩集』(''Nouvelles Méditations'', 1823年)、『詩的で宗教的な調べ』(<I>Harmonies poétiques et religieuses<I>, 1830年)などを発表。 |
||
[[1829年]]には[[アカデミー・フランセーズ]]会員に選ばれた。 |
[[1829年]]には[[アカデミー・フランセーズ]]会員に選ばれた。 |
||
12行目: | 12行目: | ||
[[1830年]]の[[7月革命]]を契機に政治活動を開始し、[[1833年]]には代議士に当選した。彼は理想主義的で、政治的には王党派と社会主義派の中間的な穏健思想を持っていたとされる。 |
[[1830年]]の[[7月革命]]を契機に政治活動を開始し、[[1833年]]には代議士に当選した。彼は理想主義的で、政治的には王党派と社会主義派の中間的な穏健思想を持っていたとされる。 |
||
この間にも詩のほか、小説や『オリエント紀行』(''Voyage en Orient'', 1835年)、歴史書『[[ジロンド派|ジロンド党]]史』( |
この間にも詩のほか、小説や『オリエント紀行』(''Voyage en Orient'', 1835年)、歴史書『[[ジロンド派|ジロンド党]]史』(''Histoire des Girondins'', 1847年)などを出した。しかし1840年代になると政治活動に力を入れて詩作を絶った。 |
||
[[1848年]]の[[1848年革命|2月革命]]で、臨時政府の外務大臣となった。同年12月の大統領選挙ではルイ=ナポレオン・ボナパルト([[ナポレオン3世]])と争って敗れ、[[1851年]]の[[クーデター]]で政界を引退した。 |
[[1848年]]の[[1848年革命|2月革命]]で、臨時政府の外務大臣となった。同年12月の大統領選挙ではルイ=ナポレオン・ボナパルト([[ナポレオン3世]])と争って敗れ、[[1851年]]の[[クーデター]]で政界を引退した。 |
2016年11月15日 (火) 12:41時点における版
アルフォンス・ド・ラマルティーヌ(Alphonse Marie Louis de Prat de Lamartine, 1790年10月21日マコン - 1869年2月28日パリ)は、フランスの詩人、著作家、政治家。ロマン派の代表的詩人で、フランスにおける近代抒情詩の祖といわれ、ヴェルレーヌや象徴派にも大きな影響を与えている。また2月革命前後に政治家としても活躍した。
マコンの貴族に生まれ、王政復古期に一時軍に籍を置いた。のちに外交官となり、1825年から1828年までイタリアに駐在した。
また自らの恋愛体験にも影響された抒情詩を書いた。特に1820年、『瞑想詩集』(Méditations poétiques)を世に出し、一躍注目された。これは、彼が愛した年上の貴婦人との出会いと死別に触発されたものといわれるが、文学的にも近代フランス抒情詩のはじまりとして高く評価される。続いて『新瞑想詩集』(Nouvelles Méditations, 1823年)、『詩的で宗教的な調べ』(Harmonies poétiques et religieuses, 1830年)などを発表。
1829年にはアカデミー・フランセーズ会員に選ばれた。
1830年の7月革命を契機に政治活動を開始し、1833年には代議士に当選した。彼は理想主義的で、政治的には王党派と社会主義派の中間的な穏健思想を持っていたとされる。
この間にも詩のほか、小説や『オリエント紀行』(Voyage en Orient, 1835年)、歴史書『ジロンド党史』(Histoire des Girondins, 1847年)などを出した。しかし1840年代になると政治活動に力を入れて詩作を絶った。
1848年の2月革命で、臨時政府の外務大臣となった。同年12月の大統領選挙ではルイ=ナポレオン・ボナパルト(ナポレオン3世)と争って敗れ、1851年のクーデターで政界を引退した。
晩年は不遇で、莫大な負債のために大量の作品を書き続けたが、これらは文学的には評価されていない。
日本語訳された著書
- 二勇婦(加藤紫芳訳 北谷岩吉 1901年)
- 青春の夢 グラジエラ(高橋邦太郎訳 新潮社 1924年)
- 若き日の夢(グラツィエッラ)(桜井成夫訳 昭森社 1942年 のち角川文庫)
- 青春の画像(桜井成夫訳、岡倉書房 1946年)
- 湖畔の愛 ラファエル(桜井成夫訳 蒼樹社 1949年 のち角川文庫)
- 湖畔の恋人(店村新次訳 晃文社 1949年 フランス文学選集)
- ジャンヌ・ダルク(世界少年少女文学全集 49(世界伝記文学集))(宮崎嶺雄訳 創元社 1956年)
前任 ピエール・ダリュ |
アカデミー・フランセーズ 席次7 第11代:1829年 - 1869年 |
後任 エミール・オリヴィエ |