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「佐土原藩」の版間の差分

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[[ファイル:Sadowara Castle 2010.JPG|thumb|佐土原藩庁が置かれていた[[佐土原城]]跡]]
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'''佐土原藩'''(さどわらはん)は、薩摩藩の[[支藩]]とされる。藩庁は[[佐土原城]]([[宮崎県]][[宮崎市]][[佐土原町]])。

1603年([[慶長]]8年)、[[島津貴久]]の弟・[[島津忠将|忠将]]の子である[[島津以久]]が、[[日向国]][[那珂郡 (日向国)|那珂郡]]・[[児湯郡]]内で3万石を与えられて独立し、居館を[[佐土原町|佐土原]]に構えた。この地は元々島津一族の一人であった[[島津家久]]・[[島津豊久|豊久]]親子の領地であったのが、関ヶ原の戦いで豊久が死去し無嗣断絶扱いになり、改めて[[江戸幕府]]より以久に与えられたものである。

薩摩藩との関係は'''[[仙台藩]]と[[宇和島藩]]あるいは[[盛岡藩]]と[[八戸藩]]との関係に近いものであり、薩摩藩支藩ではないとの説もある'''<ref>[[国立公文書館]]内閣文庫の『[[嘉永]]二年十月二日決・本家末家唱方』での老中見解では『本家末家唱方之儀、領知内分遣し一家を立て候末家与唱、公儀から別段領知被下置被召出候家は、本家末家之筋者有之間敷』とある。但しこの史料自体が[[1849年]]のもので、佐土原藩や宇和島藩などが成立してから200年ほど経っており、佐土原藩などの成立当時の[[内分分知]]や[[新田分知]]という分家手法がなかった時代にもこの見解であったかは追加研究を必要とする。</ref>。総本家に当たる薩摩藩からの度重なる介入を受けた事により、支藩と見なされることが多くなった。

佐土原藩は以久の跡を長男彰久の系統の当時の当主が辞退した結果、三男忠興が相続したが、結果的に佐土原藩主家が彰久の系統である[[陪臣]]垂水島津家の分家ということになり、薩摩藩(島津家)からは従属の立場にあると見なされており、藩内では垂水島津家の下に位置づけるが、藩外では大名分の佐土原藩の方が上という二重基準が『鹿児島県史料』でも見られる。代々の佐土原藩主正室には当主島津氏の姫ばかりでなく薩摩藩家老の娘を含む薩摩藩出身者が多いこと、薩摩藩から佐土原藩への介入はあっても佐土原藩から薩摩藩への介入はなかったことなどに、大名だが陪臣の分家という弱い立場が如実に現れている。一方で薩摩藩主子息を佐土原藩主として投入することは幕末までなかった。

もっともこれは仙台藩が宇和島藩に対してとった態度に類似しており、特に[[伊達宗贇]]が陪臣石川家の養子から宇和島藩を相続して以降からの関係は薩摩藩と佐土原藩の関係に類似したものとなっている<ref>「仙台市史・通史5・近世3」。ちなみにこの宇和島藩の仙台藩への従属関係への不満は本末争いに発展したが、結局仙台藩から引き出せたのは仙台藩外において「家本・家分かれ」という関係であること公称することを認めるだけであった。また仙台藩内部では従前どおりの「本家・末家」関係と認識は変えられず、結果、薩摩藩・佐土原藩間のような二重基準が成立しただけであった。</ref>。また、日本の藩は幕末以降にできた[[幕藩体制]]という歴史的な概念の中での藩を誇大視しすぎる傾向がある。

佐土原は元々城地であったため、1699年([[元禄]]12年)に第6代・[[島津惟久]]の時に[[城主大名|城主]]の格式が与えられている。又、惟久は義兄である前代・久寿に3000石を分与し、27000石となった。最後の藩主・[[島津忠寛|忠寛]]は、[[1869年]](明治2年)に[[戊辰戦争]]の激戦の功により、賞禄3万石を与えられた。

廃藩置県の後、佐土原県・[[美々津県]]をへて宮崎県となり、鹿児島県との合併を経て、分県に伴い再度宮崎県に編入された。

[[昭和天皇]]の[[内親王]]・[[島津貴子|貴子]]が嫁いだ[[島津久永]]は、旧佐土原藩の島津[[伯爵]]家出身である。

; 歴代藩主
* 島津家
外様 3万石→2万7千石
# [[島津以久|以久]](ゆきひさ)〔従五位下・右馬頭〕
# [[島津忠興|忠興]](ただおき)〔従五位下・右馬頭〕
# [[島津久雄|久雄]](ひさたか)〔従五位下・右馬頭〕
# [[島津忠高|忠高]](ただたか)〔従五位下・飛騨守〕
# [[島津久寿|久寿]](ひさとし)〔従五位下・式部少輔〕
# [[島津惟久|惟久]](これひさ)〔従五位下・淡路守〕 分与により2万7千石
# [[島津忠雅|忠雅]](ただまさ)〔従五位下・加賀守〕
# [[島津久柄|久柄]](ひさもと)〔従五位下・淡路守〕
# [[島津忠持|忠持]](ただもち)〔従五位下・淡路守〕
# [[島津忠徹|忠徹]](ただゆき)〔従五位下・筑後守〕
# [[島津忠寛|忠寛]](ただひろ)〔従五位下・淡路守〕
※久寿を藩主として数えない史料もある。

== 幕末の領地 ==
* 日向国
** [[那珂郡 (日向国)|那珂郡]]のうち - 11村
** [[児湯郡]]のうち - 15村
== 脚注 ==
<references />
[[Category:宮崎県の歴史|さとわらはん]]
[[Category:宮崎県の歴史|さとわらはん]]

2012年12月24日 (月) 04:27時点における版

佐土原藩庁が置かれていた佐土原城

佐土原藩(さどわらはん)は、薩摩藩の支藩とされる。藩庁は佐土原城宮崎県宮崎市佐土原町)。

1603年(慶長8年)、島津貴久の弟・忠将の子である島津以久が、日向国那珂郡児湯郡内で3万石を与えられて独立し、居館を佐土原に構えた。この地は元々島津一族の一人であった島津家久豊久親子の領地であったのが、関ヶ原の戦いで豊久が死去し無嗣断絶扱いになり、改めて江戸幕府より以久に与えられたものである。

薩摩藩との関係は仙台藩宇和島藩あるいは盛岡藩八戸藩との関係に近いものであり、薩摩藩支藩ではないとの説もある[1]。総本家に当たる薩摩藩からの度重なる介入を受けた事により、支藩と見なされることが多くなった。

佐土原藩は以久の跡を長男彰久の系統の当時の当主が辞退した結果、三男忠興が相続したが、結果的に佐土原藩主家が彰久の系統である陪臣垂水島津家の分家ということになり、薩摩藩(島津家)からは従属の立場にあると見なされており、藩内では垂水島津家の下に位置づけるが、藩外では大名分の佐土原藩の方が上という二重基準が『鹿児島県史料』でも見られる。代々の佐土原藩主正室には当主島津氏の姫ばかりでなく薩摩藩家老の娘を含む薩摩藩出身者が多いこと、薩摩藩から佐土原藩への介入はあっても佐土原藩から薩摩藩への介入はなかったことなどに、大名だが陪臣の分家という弱い立場が如実に現れている。一方で薩摩藩主子息を佐土原藩主として投入することは幕末までなかった。

もっともこれは仙台藩が宇和島藩に対してとった態度に類似しており、特に伊達宗贇が陪臣石川家の養子から宇和島藩を相続して以降からの関係は薩摩藩と佐土原藩の関係に類似したものとなっている[2]。また、日本の藩は幕末以降にできた幕藩体制という歴史的な概念の中での藩を誇大視しすぎる傾向がある。

佐土原は元々城地であったため、1699年(元禄12年)に第6代・島津惟久の時に城主の格式が与えられている。又、惟久は義兄である前代・久寿に3000石を分与し、27000石となった。最後の藩主・忠寛は、1869年(明治2年)に戊辰戦争の激戦の功により、賞禄3万石を与えられた。

廃藩置県の後、佐土原県・美々津県をへて宮崎県となり、鹿児島県との合併を経て、分県に伴い再度宮崎県に編入された。

昭和天皇内親王貴子が嫁いだ島津久永は、旧佐土原藩の島津伯爵家出身である。

歴代藩主
  • 島津家

外様 3万石→2万7千石

  1. 以久(ゆきひさ)〔従五位下・右馬頭〕
  2. 忠興(ただおき)〔従五位下・右馬頭〕
  3. 久雄(ひさたか)〔従五位下・右馬頭〕
  4. 忠高(ただたか)〔従五位下・飛騨守〕
  5. 久寿(ひさとし)〔従五位下・式部少輔〕
  6. 惟久(これひさ)〔従五位下・淡路守〕 分与により2万7千石
  7. 忠雅(ただまさ)〔従五位下・加賀守〕
  8. 久柄(ひさもと)〔従五位下・淡路守〕
  9. 忠持(ただもち)〔従五位下・淡路守〕
  10. 忠徹(ただゆき)〔従五位下・筑後守〕
  11. 忠寛(ただひろ)〔従五位下・淡路守〕

※久寿を藩主として数えない史料もある。

幕末の領地

脚注

  1. ^ 国立公文書館内閣文庫の『嘉永二年十月二日決・本家末家唱方』での老中見解では『本家末家唱方之儀、領知内分遣し一家を立て候末家与唱、公儀から別段領知被下置被召出候家は、本家末家之筋者有之間敷』とある。但しこの史料自体が1849年のもので、佐土原藩や宇和島藩などが成立してから200年ほど経っており、佐土原藩などの成立当時の内分分知新田分知という分家手法がなかった時代にもこの見解であったかは追加研究を必要とする。
  2. ^ 「仙台市史・通史5・近世3」。ちなみにこの宇和島藩の仙台藩への従属関係への不満は本末争いに発展したが、結局仙台藩から引き出せたのは仙台藩外において「家本・家分かれ」という関係であること公称することを認めるだけであった。また仙台藩内部では従前どおりの「本家・末家」関係と認識は変えられず、結果、薩摩藩・佐土原藩間のような二重基準が成立しただけであった。