「マルクス・ユニウス・ブルトゥス」の版間の差分
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{{Infobox 共和制ローマ |
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[[画像:Brutus.jpg|200px|thumb|マルクス・ユニウス・ブルトゥス]] |
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|渾名=小ブルトゥス(Brutus the Younger) |
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'''マルクス・ユニウス・ブルトゥス'''('''{{lang-la|Marcus Junius Brutus}}''', [[紀元前85年]] - [[紀元前42年]])は、[[共和政ローマ]]末期の政治家。[[ガイウス・ユリウス・カエサル]]暗殺の首謀者の1人。 |
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|人名=マルクス・ユニウス・ブルトゥス<br>Marcus Junius Brutus |
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|出生=[[紀元前85年]]6月 |
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|死没=[[紀元前42年]]10月 |
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|生地=[[ローマ]]([[イタリア本土 (古代ローマ)|イタリア本土]]) |
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|死没地=[[フィリッピ]]([[マケドニア|属州マケドニア]]) |
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|画像=Portrait Brutus Massimo.jpg |
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|見出し=<span style="font-size: smaller">「ブルートゥス像」([[ローマ国立博物館]])</span> |
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|出身階級=[[パトリキ]] |
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|家系(一族)=[[:en:Brutus|ブルトゥス家]] |
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|氏族(一門)=[[ユニウス氏族]] |
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|官職=法務官<span style="font-size: smaller">(紀元前45年)</span><br>財務官<span style="font-size: smaller">(紀元前53年)</span> |
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|属州総督=[[ガリア]]<span style="font-size: smaller">(紀元前46年)</span> |
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|指揮戦争=[[内乱の一世紀]] |
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'''マルクス・ユニウス・ブルトゥス'''('''{{lang-la|Marcus Junius Brutus}}''', [[紀元前85年]] - [[紀元前42年]])は、[[共和政ローマ]]末期の政治家・軍人。 |
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[[民衆派]]の指導者であった独裁官[[ガイウス・ユリウス・カエサル]]の暗殺に関わった人物の一人で、現代においてはカエサル暗殺を象徴する人物として記憶されている<ref>{{cite web|url=http://www.forumromanum.org/literature/eutropius/trans6.html#25 |author=Europius, translated, with notes, by Rev. John Selby Watson |title=Abridgement of Roman History |publisher=Forumromanum.org |date=1843 |accessdate=2011-01-16}}</ref>。 |
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==生涯== |
==生涯== |
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=== 生い立ち === |
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同名の父親と母[[セルウィリア・カエピオニス|セルウィリア]]との間に生まれる。母親はガイウス・ユリウス・カエサルの愛人としても有名で、様々な説ではカエサルが本当の父親ではないかと言われている。しかしながらブルトゥスが生まれた頃を計算するとカエサルは15歳ということになるので、その可能性は少ないと言う意見が主流である。早くに父を失い、叔父[[マルクス・ポルキウス・カト・ウティケンシス|マルクス・ポルキウス・カト]](小カト)の影響を受けて育ち、政治の舞台には[[キプロス島]]の統治のため彼の助手として登場する。この時に彼は高利貸しで大いに裕福になったと言われている(その暴利ぶりは[[マルクス・トゥッリウス・キケロ]]を呆れ嘆かせたという)。そしてローマに戻りクラウディア・プルクラと結婚する。その後元老院議員となり、[[ルキウス・コルネリウス・スッラ]]が元老院を牛耳っていた時代に父親が[[グナエウス・ポンペイウス]]に殺されたという経緯から当時のブルトゥスはポンペイウスに憎悪を抱いていたこともあり、[[第一回三頭政治]]に対抗する。 |
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伝説的な執政官[[ルキウス・ユニウス・ブルトゥス]]の末裔であり、カプア市の創設者として知られる護民官[[:en:Marcus Junius Brutus the Elder|マルクス・ユニウス・ブルトゥス・マイヨル]](大ブルトゥス、Brutus the Elder)と、[[小カエピオ]]の子女[[セルウィリア・カエピオニス]]の子としてローマに生まれる。セルウィリアと[[マルクス・ポルキウス・カト・ウティケンシス]](小カトー)は異父姉弟(小カエピオの妻リウィアが、離婚後にカトー・サロニアヌスと再婚して小カトーを儲けた)であり、従って[[小カトー]]は叔父となる。 |
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大ブルトゥスはブルートゥスが生まれた時、スッラ派とマリウス派の内乱に巻き込まれていた。[[ガイウス・マリウス]]死後、[[マルクス・アエミリウス・レピドゥス]]による親マリウス派の蜂起に加わった大ブルトゥスは恐らく[[ポンペイウス]]によって殺害された<ref>[[Suetonius]], ''The Deified Julius'', 50</ref>。未亡人となった母セルウィリア・カエピオニスは、マリウスの甥にあたる[[ガイウス・ユリウス・カエサル]]と親しい間柄になり、両者共に家庭を持ちながら愛人関係となった。幼くして父を失ったブルトゥスはカエサルを父親代わりに育てられた。その親密さから一部の歴史家は「カエサルがブルトゥスの実父だったのではないか」とする説を残している<ref>[[Plutarch]], ''Life of Brutus'', 5.2.</ref>。 |
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成長する過程でブルトゥスは母方の親族であるセルウィリウス氏族カエピオ家に預けられていた時があり、セルウィリアの同母兄である叔父[[:en:Quintus Servilius Caepio (son of Q. S. Caepio the Younger)|クィントゥス・セルウィリウス・カエピオ]]の養子とされていた。合わせて父方の[[ユニウス氏族]]から母方の[[セルウィリウス氏族]]に移り、全名も'''クィントゥス・セルウィリウス・カエピオ・ブルトゥス'''(Quintus Servilius Caepio Brutus)と名乗っていた。ブルトゥス家を継いでからは元の名に戻しているが、カエサル暗殺後に前述の全名を用いている。これはユニウス氏族に並んでセルウィウス氏族も独裁者を討ち果たした祖先([[:en:Gaius Servilius Ahala|ガイウス・セルウィリウス・セクトゥス・アハラ]])を持っており<ref>M. Crawford (1971) ''Roman Republican Coinage'' 502.2 shows that Brutus issued coins bearing the inscription Q. CAEPIO BRVTVS PRO [COS] (Q. Caepio Brutus, proconsul) in 42 BC</ref><ref>{{cite web|url=http://www.oldcoin.com.au/cng81brutus.jpg |title=Coin bearing inscription Q. Caepio Brutus |publisher=oldcoin.com.au |accessdate=2011-01-16}}</ref>、共和制下での独裁を倒したという点でより近かった。 |
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[[File:Brutus pushkin.jpg|thumb|200px|[[ルキウス・ユニウス・ブルトゥス]]像]] |
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=== 元老議員時代 === |
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彼は叔父達との絆を大切にし<ref>Plutarch, ''Life of Brutus'', 2.1.</ref>、政治家としての一歩もキプロス島の知事として派遣された[[小カトー]]の補佐官に任命された事が始まりとなった<ref>Plutarch, ''Life of Brutus'', 3.1.</ref>。叔父の仕事を手伝う傍ら、自らも金貸し商人として一財を成すなど商才を示した。ブルトゥスはキプロスで得た財産をローマに持ち帰ると、執政官[[:en:Appius Claudius Pulcher (consul 54 BC)|アッピウス・クラウディウス・プルクラ]]の娘[[:en:Claudia Pulchra|クラウディア]]と結婚した<ref>[[Cicero]]. ad Fam. iii. 4.</ref>。 |
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閥族派議員として元老院議席を得たブルトゥスは、当時の政界で形成されていた[[ガイウス・ユリウス・カエサル]]、[[グナエウス・ポンペイウス]]、[[マルクス・リキニウス・クラッスス]]の三頭政治に対抗する派閥に属した。恩人(カエサル)と宿敵(ポンペイウス)に挟まれる形での行動であったが、カエサルがポンペイウスとの対立の果てにルビコン川渡河に及ぶと状況は一変した。当初、カエサルも含めて周囲の人間はブルトゥスがカエサル派に付くかと考えたが、彼は仇敵と手を結んでポンペイウス軍に加わった。閥族派は元老院の決定を不服として内乱を起こしたカエサルを「共和制の敵」と見なしており、ブルトゥスは私的な復讐より公的活動での信念を優先した格好となった。 |
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紀元前49年に内戦が始まるとブルトゥスはポンペイウス軍の将官として参加し、両軍の対決となったファルサロスの戦いに従軍した。この時、カエサルは「戦場でブルトゥスを見つけたなら、決して傷つけてはならない」と異例の厳命を下した事で知られている<ref>Plutarch, ''Life of Brutus'', 5.1.</ref>。ファルサロスでポンペイウスが惨敗すると軍内での対立が始まり、ブルトゥスもポンペイウスを見限って軍を離れた一人となった。ブルトゥスはカエサルの陣営に恭順の意思を示し、カエサルもブルトゥスを歓待して一切の罪に問わず、むしろ自身の側近に加えている。小カトーやポンペイウス、メテルス・スキピオら北アフリカ各地にそれぞれ逃亡した反カエサル派の将官を追って軍を派遣する時、ブルトゥスはカエサルからガリア総督に任命されている。 |
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紀元前45年、カエサルによるブルトゥスへの厚遇は続き、自らの肝いりで[[法務官]]へ推挙している。因みに同年に最初の妻クラウディアと離婚して、カエサルに追討されている[[小カトー]]の娘ポルキア・カトニス(自身の従姉妹)と再婚している<ref>[[Plutarch]], ''Marcus Brutus'', 13.3.</ref><ref>Cicero. Brutus. 77, 94</ref>。友人であったキケロの記録によれば、この唐突とも思える行動についてブルトゥスが真意を明かさなかった為、巷では小さな争論へと発展したとされ<ref>Cic. Att. 13. 16</ref>、母セルウィリアとも口論になったという<ref>Cic. Att. 13. 22</ref>。 |
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[[ファイル:Gerome Death of Caesar.jpg|thumb|left|320px|凱歌を挙げる閥族派と横たわるカエサルの遺骸]] |
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=== カエサル暗殺 === |
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内戦後、独裁色を日増しに強めていくカエサルの行動に元老院内では共和制の終焉を危惧する声が聞かれ、何時しか暗殺の謀議が巡らされ始めた<ref>[[Cassius Dio]], Roman History, 44.8.4.</ref>。 |
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ブルトゥスは当初暗殺の謀議には加わっていなかったが、周囲から暗殺に加わる様に促された<ref>Cassius Dio, Roman History, 44.12.2.</ref>。暗殺の首謀者であるロンギヌス・カッシウスが祖先ルキウス・ブルトゥスの銅像の前に手紙を置き、ユニウス氏族の使命を思い起こさせたと言われているが、この有名な逸話はシェークスピアによる創作と見られている。カッシウス・ディオによれば「王の如きカエサルの振る舞いに、元老院議員として率直に反感を感じたのだろう」と結論している<ref>Cassius Dio, Roman History, [http://penelope.uchicago.edu/Thayer/E/Roman/Texts/Cassius_Dio/44*.html#12 44.12.3.]</ref><ref>Cassius Dio, 44.13.1.</ref>。彼の妻ポルキア・カトニスも父の仇であるカエサル暗殺に賛同し、唯一の女性参加者となった<ref>[[Cassius Dio]], 44.13.</ref><ref>Plutarch, ''Marcus Brutus'', 14.4</ref>。 |
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暗殺が実行に移された3月15日、カエサルの正妻カルプルニアは悪夢を見たという理由で夫が議場へ向かうのを止めており<ref>Plutarch. ''Marcus Brutus''. 15.1.</ref>、暗殺計画が露呈した様にも思われた<ref>Cassius Dio. Roman History. 44.18.1.</ref>。しかしブルトゥスは諦めずカエサルを元老院で待ち続け、もうカエサルは来ないのではないかと疑われても議場に留まっていた<ref>Plutarch. ''Marcus Brutus''. 15.5.</ref>。そして遂にカエサルが周囲の引止めを振り払って元老院を訪れると、[[:en:Publius Servilius Casca Longus|フブリウス・セルウィリウス・カスカ・ロングス]]によれば最初に短剣で一撃を加えたという<ref>Plutarch. ''Marcus Brutus''. 17.5.</ref>。カエサルは辛うじて致命傷は免れたが、続いて次々と議員が向かってくる様子に事態を察して、自らの体をトーガに覆う仕草を見せた<ref>Plutarch. ''Marcus Brutus''. 17.6.</ref>。 |
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数十人の議員達によってカエサルは四方から滅多切りにされ、その凄まじさは議員同士で手を切りあってしまうほどであったという<ref>Plutarch. ''Marcus Brutus''. 17.7.</ref><ref>[[Nicolaus of Damascus|Nicolaus]]. ''Life of Augustus''. 24.</ref>。 |
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[[ファイル:Brutus and the Ghost of Caesar 1802.jpg|thumb|200px|upright|「カエサルの亡霊とブルトゥス」(リチャード・ウェストール、1802年)]] |
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=== フィリッピの戦い === |
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暗殺後、元老院はブルトゥスらによるカエサル暗殺を賞賛して彼らの罪を許す恩赦を決議した。決議案にはカエサルの有力な腹心であったマルクス・アントニウスも名を連ねていたが、こうした状況に関わらず騒乱を予感したブルトゥスはローマから離れている。一説にクレタ島に滞在していたとされるが、足取りは定かではない。 |
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ローマではアントニウス、レピドゥスらとカエサルの大甥[[オクタウィアヌス]]が手を結んで[[第二回三頭政治]]が結成され、次第に状況は悪化していった。紀元前43年、オクタウィアヌスが執政官となると対立は決定的になった。[[オクタウィアヌス]]はカエサルの神格化を推し進めて自身の権威を高める中、その大叔父を討った(もしくは協力した)ブルトゥスら閥族派を何としても討伐せねばならなかった<ref>{{cite web|url=http://www.greektexts.com/library/Plutarch/Marcus_Brutus/eng/629.html |author=Plutarch, translated by John Dryden |title=Marcus Brutus |publisher=Greek Texts |page=13 |accessdate=2011-01-16}}</ref>。しかしアントニウスとオクタウィアヌスの権力闘争は直ちに閥族派との決戦を行う事を許さなかった。ブルトゥスは[[デキムス・ブルトゥス]]討伐に絡んで両者が仲違いしている事を盟友キケロを通じて知っていた<ref>{{cite web|url=http://www.livius.org/vi-vr/vipsanius/agrippa.html |title=Marcus Vipsanius Agrippa |publisher=Livius.org |date=2010-01-02 |accessdate=2011-01-16}}</ref>。 |
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ブルトゥスは同じく東方属州に逃れていたロンギヌスと自派の軍団を結集させ、17個の軍団を率いてローマに進軍を開始した。ブルトゥス挙兵を聞いたオクタウィアヌスは慌ててアントニウスの要求に応じて和解し、再び共同戦線を組む事となった<ref>{{cite web|url=http://www.greektexts.com/library/Plutarch/Marcus_Brutus/eng/629.html |title=Ancient Greek Online library: Marcus Brutus by Plutarch page 13 |publisher=Greektexts.com |date=2005 |accessdate=2011-01-16}}</ref>。二人はブルトゥス軍よりやや多い19個の軍団と共にローマに向かう敵軍を迎え撃つべく進軍、両軍はマケドニアのフィリッピで遭遇した。後世において[[フィリッピの戦い]]として知られる一大会戦は名将として名高いアントニウスの活躍によって三頭政治側の勝利に終わり、激戦の中で13個の軍団が壊滅して副将ロンギヌスも戦死した。 |
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ブルトゥスは残った4個軍団と丘の上に立て篭もって抵抗を続けたが、やがてアントニウス軍に包囲されると捕虜になる事を潔しとせず、陣営地で自害した。 |
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ブルトゥスの遺骸を見つけたアントニウスは自らが纏っていた紫色の外套をその上に掛け、手厚く葬る様に命じたという。これはかつてアントニウスとブルトゥスが友人であった事を示唆している。ブルトゥスは火葬によって葬られ、遺骨はローマのセルウィリアの元へ届けられた<ref>Plutarch, ''Marcus Brutus'', 52.1-53.4.</ref>。暗殺に加わっていた妻ポルキア・カトニスは夫の死を聞いて直ちに自害したと伝えられるが、自害しなかったとする論者もいる<ref name="ReferenceA">[[Valerius Maximus]], De factis mem. iv.6.5.</ref><ref name="ReferenceA"/><ref>[[Cassius Dio]], Roman History. 47.49.3.</ref><ref>[[Appian]], The Civil Wars, Book 5.136.</ref>。 |
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== 年表 == |
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しかしながら[[紀元前49年]]に始まる[[ローマ内戦 (紀元前49年-紀元前45年)|内戦]]ではポンペイウスらの元老院派につく。そして[[ファルサルスの戦い]]にも元老院派としてカエサルと戦う。[[プルタルコス]]によれば、この戦いが始まる前にカエサルは部下にブルトゥスに一切の危害を加えてはならぬと厳命したと言う。戦後、赦免されてローマ政界に復帰、カエサルがカトを追討のためアフリカに出征するとガリア総督を任される。[[紀元前45年]]カエサルに[[プラエトル]]職を推薦され、同年妻と離婚、先年に自死したカトの娘[[ポルキア・カトニス]]と結婚する。 |
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* 紀元前85年 大ブルトゥスとセルウィリア・カエピオニスの子として生まれる |
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* 紀元前58年 キプロス知事の補佐官となる |
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* 紀元前53年 財務官当選 |
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* 紀元前49年 ルビコン川渡河に対してポンペイウス軍に加わり、[[ファルサロスの戦い]]に参加 |
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* 紀元前48年 ユリウス・カエサルに恭順する |
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* 紀元前46年 ガリア総督就任 |
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* 紀元前45年 法務官当選 |
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* 紀元前44年 独裁官ユリウス・カエサルを暗殺 |
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* 紀元前42年 [[フィリッピの戦い]]でアントニウスに敗北、自害 |
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==家系図== |
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日増しに強くなっていくカエサルの権力の前に、元老院議員の誰もが、親しい友人達でさえ、カエサルを危険視するようになってきた。その頃ブルトゥスは他の元老院議員からカエサルへの陰謀計画に加担するように頼まれていた。おそらく彼は自分が亡きカトーの甥であり、義理の息子という経緯からカエサルの暗殺計画に加担するようになった。それは、カエサルが終身の独裁官([[ディクタトル]])となった頃だといわれる。 |
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{{familytree |SAL|v|ELD|v|??|SAL=[[:en:Salonia|サロニア]] (2)|ELD=[[大カトー]]|??=[[:en:Licinia|リシニア]] (1)}} |
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{{familytree/end}}<noinclude> |
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== 影響 == |
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{{quotation|この者は彼らの中で最も高貴なローマ人であった<br> |
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他の者は偉大なカエサルへの憎悪から暗殺に加わったが<br> |
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この者だけが共和国の為、そして己の善意の為に行動を起こしたのだ<br> |
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彼の人生は常に穏やかで、全てが調和していた<br> |
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世界の誰もが彼の生き様にこう言う事だろう<br> |
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「彼こそは真の男であった!」<br> |
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――[[シェークスピア]]『[[ジュリアス・シーザー (シェイクスピア)|ジュリウス・シーザー]]』第五章第五幕}} |
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そして[[紀元前44年]][[3月15日]]、カエサル暗殺。 |
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=== 格言 === |
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[[File:Seal of Virginia white.svg|thumb|220px|right|[[:en:Great Seal of Virginia|バージニア州の紋章]]。共和主義者に打ち倒される僭主を描いた図の下に「Sic semper tyrannis」が刻まれている。]] |
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*彼がカエサル暗殺の際に語ったと言われる「'''[[:en:Sic semper tyrannis|Sic semper tyrannis]]'''(専制者は斯くの如く)」は民主主義を象徴する言葉として用いられる。 |
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**[[アメリカ合衆国]][[バージニア州]]の[[モットー]]でもある。 |
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**南北戦争中に北部の[[エイブラハム・リンカーン]]大統領を暗殺した[[ジョン・ウィルクス・ブース]]は暗殺の際にこの言葉を叫んで実行に及んだ。 |
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*正確には彼自身の言葉ではないが、暗殺の際にカエサルが「[[:en:Et tu, Brute?|ブルトゥス、お前もか!]]」と叫んだ逸話は有名である。 |
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**ただしこの言葉はシェークスピアが創作した可能性が高く、一線級の資料ではカエサルが何を言い残したか(或いは何も言わなかったか)は不明である。 |
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=== 創作作品 === |
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暗殺後、ブルトゥスは周囲から妥協するように持ちかけられていた。もし、カエサルが独裁者と認定されれば、彼の行った様々な人事が白紙に戻される。また彼もその一人だった。そうなれば彼を含む多くの者が元老院議員ではなくなり、再び選挙を行う必要が出る。彼は妥協を受け入れ、ユリウス・カエサルは独裁者ではないと認めた。そして妥協案に従い、ローマを去る。そして[[クレタ島]]に移った。 |
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*近世イタリアの文豪[[ダンテ・アリギエーリ]]による『[[神曲]]』の地獄編では最下層にある[[コキュートス]]で[[サタン]]に噛み付かれる三罪人の一人とされている。 |
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**ダンテは創作物に自身の政治的・宗教的価値観を反映させる傾向があり、ブルトゥスについては「政争の中での裏切り」を批判の理由としている。 |
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**三罪人はブルトゥスとその盟友であるロンギヌスに加えて、[[イエス・キリスト]]を見捨てた[[イスカリオテのユダ]]が挙げられている。 |
|||
*イギリスの劇作家[[シェークスピア]]による『[[ジュリアス・シーザー (シェイクスピア)|ジュリウス・シーザー]]』では、カエサルではなくブルトゥスが物語の主人公として描かれている。 |
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**シェークスピアはフィリッピの戦いの後、アントニウスの台詞という形でブルトゥスを「彼こそは真の男であった」と賞賛している。 |
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*歴史小説家[[コリーン・マッカラ]]の「ローマの覇者達」では優柔不断な貴族の青年として登場し、ロンギヌスにたぶらかされる様子が描かれている。 |
|||
*HBOの歴史ドラマ「ROME」では[[トビアス・メンジース]]が[[:en:Marcus Junius Brutus (Rome character)|マルクス・ブルータス(ROME)]]を演じた。 |
|||
**同作ではカエサルに対して複雑な感情を抱いており、暗殺の場面では眼前で滅多切りにされるカエサルを呆然と眺めているなど、従来とは異なる説が採られている。 |
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*アクションゲーム「[[アサシン クリード ブラザーフッド]]」ではある条件を満たすと、ブルトゥスが暗殺に用いた短剣が使用できる。 |
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==関連項目== |
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[[紀元前43年]]、[[アウグストゥス|オクタウィアヌス]]がコンスル職に就任、そしてすぐに養父カエサルを暗殺した者を殺人者と断定するように働きかけた。このことはカエサルの殺人者という汚名をブルトゥスに背負わせることになり、またオクタウィアヌスのこの行動はキケロを憤慨させた。 |
|||
*[[ガイウス・ユリウス・カエサル]] |
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== 引用・資料 == |
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暗殺後は東方属州に退いてオクタウィアヌスや[[マルクス・アントニウス]]に対抗したが、[[フィリッピの戦い]]に敗れ、自決。遺体は火葬にされ、母セルウィリアのもとに送られた。そしてブルトゥスの死後、妻ポルキアも自殺した。 |
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{{Reflist|2}} |
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== 外部リンク == |
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==文学としてのブルトゥス== |
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{{Wikiquote}} |
|||
* [[ウィリアム・シェイクスピア]]の作品『[[ジュリアス・シーザー (シェイクスピア)|ジュリアス・シーザー]]』のカエサル暗殺時の名台詞「'''[[ブルータス、お前もか]]'''」のブルータスは彼を指すと言われている。出典である[[スエトニウス]]『ローマ皇帝伝』(「カエサル」(Divus Iulius)、82)では「我が子よ、お前もか」となっている。<!--ただしカエサルの叫んだ「ブルータス」はマルクス・ブルトゥスではなく、彼の従兄弟でカエサルの腹心であった[[デキムス・ユニウス・ブルトゥス・アルビヌス]]を指しているという異説も根強い。カエサルは[[ガリア戦争]]やローマ内戦で一貫してカエサル派に属し、遺言状でも2番目の相続人に指定するほど、デキムス・ブルトゥスを非常に信頼しており、彼が暗殺に加わったのはカエサルにとっては予想外の行為であったからである。『[[ローマ人の物語]]』の著者[[塩野七生]]もこの説を取る。--> |
|||
* [http://www.greektexts.com/library/Plutarch/Marcus_Brutus/eng/index.html Information on Marcus Junius Brutus from www.Greektext.com] |
|||
* [[ダンテ・アリギエーリ|ダンテ]]の『[[神曲]]』の中では、地獄の最下層[[コキュートス]]で、サタンに噛み付かれている三悪人の一人とされている。裏切り者の代名詞として、[[イスカリオテのユダ|ユダ]]同様に、扱われている。 |
|||
* [http://www.livius.org/bn-bz/brutus/brutus02.html Livius.org: Brutus] |
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2011年2月19日 (土) 05:52時点における版
マルクス・ユニウス・ブルトゥス Marcus Junius Brutus | |
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「ブルートゥス像」(ローマ国立博物館) | |
渾名 | 小ブルトゥス(Brutus the Younger) |
出生 | 紀元前85年6月 |
生地 | ローマ(イタリア本土) |
死没 | 紀元前42年10月 |
死没地 | フィリッピ(属州マケドニア) |
出身階級 | パトリキ |
官職 |
法務官(紀元前45年) 財務官(紀元前53年) |
担当属州 | ガリア(紀元前46年) |
指揮した戦争 | 内乱の一世紀 |
マルクス・ユニウス・ブルトゥス(ラテン語: Marcus Junius Brutus, 紀元前85年 - 紀元前42年)は、共和政ローマ末期の政治家・軍人。
民衆派の指導者であった独裁官ガイウス・ユリウス・カエサルの暗殺に関わった人物の一人で、現代においてはカエサル暗殺を象徴する人物として記憶されている[1]。
生涯
生い立ち
伝説的な執政官ルキウス・ユニウス・ブルトゥスの末裔であり、カプア市の創設者として知られる護民官マルクス・ユニウス・ブルトゥス・マイヨル(大ブルトゥス、Brutus the Elder)と、小カエピオの子女セルウィリア・カエピオニスの子としてローマに生まれる。セルウィリアとマルクス・ポルキウス・カト・ウティケンシス(小カトー)は異父姉弟(小カエピオの妻リウィアが、離婚後にカトー・サロニアヌスと再婚して小カトーを儲けた)であり、従って小カトーは叔父となる。
大ブルトゥスはブルートゥスが生まれた時、スッラ派とマリウス派の内乱に巻き込まれていた。ガイウス・マリウス死後、マルクス・アエミリウス・レピドゥスによる親マリウス派の蜂起に加わった大ブルトゥスは恐らくポンペイウスによって殺害された[2]。未亡人となった母セルウィリア・カエピオニスは、マリウスの甥にあたるガイウス・ユリウス・カエサルと親しい間柄になり、両者共に家庭を持ちながら愛人関係となった。幼くして父を失ったブルトゥスはカエサルを父親代わりに育てられた。その親密さから一部の歴史家は「カエサルがブルトゥスの実父だったのではないか」とする説を残している[3]。
成長する過程でブルトゥスは母方の親族であるセルウィリウス氏族カエピオ家に預けられていた時があり、セルウィリアの同母兄である叔父クィントゥス・セルウィリウス・カエピオの養子とされていた。合わせて父方のユニウス氏族から母方のセルウィリウス氏族に移り、全名もクィントゥス・セルウィリウス・カエピオ・ブルトゥス(Quintus Servilius Caepio Brutus)と名乗っていた。ブルトゥス家を継いでからは元の名に戻しているが、カエサル暗殺後に前述の全名を用いている。これはユニウス氏族に並んでセルウィウス氏族も独裁者を討ち果たした祖先(ガイウス・セルウィリウス・セクトゥス・アハラ)を持っており[4][5]、共和制下での独裁を倒したという点でより近かった。
元老議員時代
彼は叔父達との絆を大切にし[6]、政治家としての一歩もキプロス島の知事として派遣された小カトーの補佐官に任命された事が始まりとなった[7]。叔父の仕事を手伝う傍ら、自らも金貸し商人として一財を成すなど商才を示した。ブルトゥスはキプロスで得た財産をローマに持ち帰ると、執政官アッピウス・クラウディウス・プルクラの娘クラウディアと結婚した[8]。
閥族派議員として元老院議席を得たブルトゥスは、当時の政界で形成されていたガイウス・ユリウス・カエサル、グナエウス・ポンペイウス、マルクス・リキニウス・クラッススの三頭政治に対抗する派閥に属した。恩人(カエサル)と宿敵(ポンペイウス)に挟まれる形での行動であったが、カエサルがポンペイウスとの対立の果てにルビコン川渡河に及ぶと状況は一変した。当初、カエサルも含めて周囲の人間はブルトゥスがカエサル派に付くかと考えたが、彼は仇敵と手を結んでポンペイウス軍に加わった。閥族派は元老院の決定を不服として内乱を起こしたカエサルを「共和制の敵」と見なしており、ブルトゥスは私的な復讐より公的活動での信念を優先した格好となった。
紀元前49年に内戦が始まるとブルトゥスはポンペイウス軍の将官として参加し、両軍の対決となったファルサロスの戦いに従軍した。この時、カエサルは「戦場でブルトゥスを見つけたなら、決して傷つけてはならない」と異例の厳命を下した事で知られている[9]。ファルサロスでポンペイウスが惨敗すると軍内での対立が始まり、ブルトゥスもポンペイウスを見限って軍を離れた一人となった。ブルトゥスはカエサルの陣営に恭順の意思を示し、カエサルもブルトゥスを歓待して一切の罪に問わず、むしろ自身の側近に加えている。小カトーやポンペイウス、メテルス・スキピオら北アフリカ各地にそれぞれ逃亡した反カエサル派の将官を追って軍を派遣する時、ブルトゥスはカエサルからガリア総督に任命されている。
紀元前45年、カエサルによるブルトゥスへの厚遇は続き、自らの肝いりで法務官へ推挙している。因みに同年に最初の妻クラウディアと離婚して、カエサルに追討されている小カトーの娘ポルキア・カトニス(自身の従姉妹)と再婚している[10][11]。友人であったキケロの記録によれば、この唐突とも思える行動についてブルトゥスが真意を明かさなかった為、巷では小さな争論へと発展したとされ[12]、母セルウィリアとも口論になったという[13]。
カエサル暗殺
内戦後、独裁色を日増しに強めていくカエサルの行動に元老院内では共和制の終焉を危惧する声が聞かれ、何時しか暗殺の謀議が巡らされ始めた[14]。
ブルトゥスは当初暗殺の謀議には加わっていなかったが、周囲から暗殺に加わる様に促された[15]。暗殺の首謀者であるロンギヌス・カッシウスが祖先ルキウス・ブルトゥスの銅像の前に手紙を置き、ユニウス氏族の使命を思い起こさせたと言われているが、この有名な逸話はシェークスピアによる創作と見られている。カッシウス・ディオによれば「王の如きカエサルの振る舞いに、元老院議員として率直に反感を感じたのだろう」と結論している[16][17]。彼の妻ポルキア・カトニスも父の仇であるカエサル暗殺に賛同し、唯一の女性参加者となった[18][19]。
暗殺が実行に移された3月15日、カエサルの正妻カルプルニアは悪夢を見たという理由で夫が議場へ向かうのを止めており[20]、暗殺計画が露呈した様にも思われた[21]。しかしブルトゥスは諦めずカエサルを元老院で待ち続け、もうカエサルは来ないのではないかと疑われても議場に留まっていた[22]。そして遂にカエサルが周囲の引止めを振り払って元老院を訪れると、フブリウス・セルウィリウス・カスカ・ロングスによれば最初に短剣で一撃を加えたという[23]。カエサルは辛うじて致命傷は免れたが、続いて次々と議員が向かってくる様子に事態を察して、自らの体をトーガに覆う仕草を見せた[24]。
数十人の議員達によってカエサルは四方から滅多切りにされ、その凄まじさは議員同士で手を切りあってしまうほどであったという[25][26]。
フィリッピの戦い
暗殺後、元老院はブルトゥスらによるカエサル暗殺を賞賛して彼らの罪を許す恩赦を決議した。決議案にはカエサルの有力な腹心であったマルクス・アントニウスも名を連ねていたが、こうした状況に関わらず騒乱を予感したブルトゥスはローマから離れている。一説にクレタ島に滞在していたとされるが、足取りは定かではない。
ローマではアントニウス、レピドゥスらとカエサルの大甥オクタウィアヌスが手を結んで第二回三頭政治が結成され、次第に状況は悪化していった。紀元前43年、オクタウィアヌスが執政官となると対立は決定的になった。オクタウィアヌスはカエサルの神格化を推し進めて自身の権威を高める中、その大叔父を討った(もしくは協力した)ブルトゥスら閥族派を何としても討伐せねばならなかった[27]。しかしアントニウスとオクタウィアヌスの権力闘争は直ちに閥族派との決戦を行う事を許さなかった。ブルトゥスはデキムス・ブルトゥス討伐に絡んで両者が仲違いしている事を盟友キケロを通じて知っていた[28]。
ブルトゥスは同じく東方属州に逃れていたロンギヌスと自派の軍団を結集させ、17個の軍団を率いてローマに進軍を開始した。ブルトゥス挙兵を聞いたオクタウィアヌスは慌ててアントニウスの要求に応じて和解し、再び共同戦線を組む事となった[29]。二人はブルトゥス軍よりやや多い19個の軍団と共にローマに向かう敵軍を迎え撃つべく進軍、両軍はマケドニアのフィリッピで遭遇した。後世においてフィリッピの戦いとして知られる一大会戦は名将として名高いアントニウスの活躍によって三頭政治側の勝利に終わり、激戦の中で13個の軍団が壊滅して副将ロンギヌスも戦死した。
ブルトゥスは残った4個軍団と丘の上に立て篭もって抵抗を続けたが、やがてアントニウス軍に包囲されると捕虜になる事を潔しとせず、陣営地で自害した。
ブルトゥスの遺骸を見つけたアントニウスは自らが纏っていた紫色の外套をその上に掛け、手厚く葬る様に命じたという。これはかつてアントニウスとブルトゥスが友人であった事を示唆している。ブルトゥスは火葬によって葬られ、遺骨はローマのセルウィリアの元へ届けられた[30]。暗殺に加わっていた妻ポルキア・カトニスは夫の死を聞いて直ちに自害したと伝えられるが、自害しなかったとする論者もいる[31][31][32][33]。
年表
- 紀元前85年 大ブルトゥスとセルウィリア・カエピオニスの子として生まれる
- 紀元前58年 キプロス知事の補佐官となる
- 紀元前53年 財務官当選
- 紀元前49年 ルビコン川渡河に対してポンペイウス軍に加わり、ファルサロスの戦いに参加
- 紀元前48年 ユリウス・カエサルに恭順する
- 紀元前46年 ガリア総督就任
- 紀元前45年 法務官当選
- 紀元前44年 独裁官ユリウス・カエサルを暗殺
- 紀元前42年 フィリッピの戦いでアントニウスに敗北、自害
家系図
サロニア (2) | 大カトー | リシニア (1) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
カトー・サロニアヌス | カトー・リシニアヌス | マルクス・リヴィウス・ドルスス | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
小サロニアヌス (2) | リヴィア・ドルサ | 小カエピオ (1) | 小リヴィウス | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アティリア (1) | 小カトー | マルクス・リヴィウス・ドルスス・クラウディウス(養子) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
大ブルトゥス (1) | セルウィリア・カエピオニス | デキムス・ユニウス・シルアヌス (2) | 小セルウィリア | クィントゥス・セルウィリウス・カエピオ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ポルキア・カトニス | 小ブルトゥス | ユニア | ユニア・テルティア | ガイウス・カッシウス・ロンギヌス | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
マルクス・ポルキウス・カトー | ユニア・セクンダ | マルクス・アエミリウス・レピドゥス | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ポンペイウス家の子女 | 小レピドゥス | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
マニウス・アエミリウス・レピドゥス | アエミリア・レピダ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
影響
この者は彼らの中で最も高貴なローマ人であった
他の者は偉大なカエサルへの憎悪から暗殺に加わったが
――シェークスピア『ジュリウス・シーザー』第五章第五幕
この者だけが共和国の為、そして己の善意の為に行動を起こしたのだ
彼の人生は常に穏やかで、全てが調和していた
世界の誰もが彼の生き様にこう言う事だろう
「彼こそは真の男であった!」
格言
- 彼がカエサル暗殺の際に語ったと言われる「Sic semper tyrannis(専制者は斯くの如く)」は民主主義を象徴する言葉として用いられる。
- アメリカ合衆国バージニア州のモットーでもある。
- 南北戦争中に北部のエイブラハム・リンカーン大統領を暗殺したジョン・ウィルクス・ブースは暗殺の際にこの言葉を叫んで実行に及んだ。
- 正確には彼自身の言葉ではないが、暗殺の際にカエサルが「ブルトゥス、お前もか!」と叫んだ逸話は有名である。
- ただしこの言葉はシェークスピアが創作した可能性が高く、一線級の資料ではカエサルが何を言い残したか(或いは何も言わなかったか)は不明である。
創作作品
- 近世イタリアの文豪ダンテ・アリギエーリによる『神曲』の地獄編では最下層にあるコキュートスでサタンに噛み付かれる三罪人の一人とされている。
- イギリスの劇作家シェークスピアによる『ジュリウス・シーザー』では、カエサルではなくブルトゥスが物語の主人公として描かれている。
- シェークスピアはフィリッピの戦いの後、アントニウスの台詞という形でブルトゥスを「彼こそは真の男であった」と賞賛している。
- 歴史小説家コリーン・マッカラの「ローマの覇者達」では優柔不断な貴族の青年として登場し、ロンギヌスにたぶらかされる様子が描かれている。
- HBOの歴史ドラマ「ROME」ではトビアス・メンジースがマルクス・ブルータス(ROME)を演じた。
- 同作ではカエサルに対して複雑な感情を抱いており、暗殺の場面では眼前で滅多切りにされるカエサルを呆然と眺めているなど、従来とは異なる説が採られている。
- アクションゲーム「アサシン クリード ブラザーフッド」ではある条件を満たすと、ブルトゥスが暗殺に用いた短剣が使用できる。
関連項目
引用・資料
- ^ Europius, translated, with notes, by Rev. John Selby Watson (1843年). “Abridgement of Roman History”. Forumromanum.org. 2011年1月16日閲覧。
- ^ Suetonius, The Deified Julius, 50
- ^ Plutarch, Life of Brutus, 5.2.
- ^ M. Crawford (1971) Roman Republican Coinage 502.2 shows that Brutus issued coins bearing the inscription Q. CAEPIO BRVTVS PRO [COS] (Q. Caepio Brutus, proconsul) in 42 BC
- ^ “Coin bearing inscription Q. Caepio Brutus”. oldcoin.com.au. 2011年1月16日閲覧。
- ^ Plutarch, Life of Brutus, 2.1.
- ^ Plutarch, Life of Brutus, 3.1.
- ^ Cicero. ad Fam. iii. 4.
- ^ Plutarch, Life of Brutus, 5.1.
- ^ Plutarch, Marcus Brutus, 13.3.
- ^ Cicero. Brutus. 77, 94
- ^ Cic. Att. 13. 16
- ^ Cic. Att. 13. 22
- ^ Cassius Dio, Roman History, 44.8.4.
- ^ Cassius Dio, Roman History, 44.12.2.
- ^ Cassius Dio, Roman History, 44.12.3.
- ^ Cassius Dio, 44.13.1.
- ^ Cassius Dio, 44.13.
- ^ Plutarch, Marcus Brutus, 14.4
- ^ Plutarch. Marcus Brutus. 15.1.
- ^ Cassius Dio. Roman History. 44.18.1.
- ^ Plutarch. Marcus Brutus. 15.5.
- ^ Plutarch. Marcus Brutus. 17.5.
- ^ Plutarch. Marcus Brutus. 17.6.
- ^ Plutarch. Marcus Brutus. 17.7.
- ^ Nicolaus. Life of Augustus. 24.
- ^ Plutarch, translated by John Dryden. “Marcus Brutus”. Greek Texts. p. 13. 2011年1月16日閲覧。
- ^ “Marcus Vipsanius Agrippa”. Livius.org (2010年1月2日). 2011年1月16日閲覧。
- ^ “Ancient Greek Online library: Marcus Brutus by Plutarch page 13”. Greektexts.com (2005年). 2011年1月16日閲覧。
- ^ Plutarch, Marcus Brutus, 52.1-53.4.
- ^ a b Valerius Maximus, De factis mem. iv.6.5.
- ^ Cassius Dio, Roman History. 47.49.3.
- ^ Appian, The Civil Wars, Book 5.136.