「第33SS武装擲弾兵師団」の版間の差分
「シャルルマーニュ」師団の最期 |
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! colspan="2" style="background: lightsteelblue; text-align: center;" | '''第33SS武装擲弾兵師団 ''' |
! colspan="2" style="background: lightsteelblue; text-align: center;" | '''第33SS武装擲弾兵師団 ''' |
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{{!}} colspan="2" style="text-align: center; border-bottom: 1px solid #aaa;" {{!}} [[Image:33divss.gif|110px]]<br/> 第33SS武装擲弾兵師団 シャルルマーニュ(フランス第1) の師団章 |
{{!}} colspan="2" style="text-align: center; border-bottom: 1px solid #aaa;" {{!}} [[Image:33divss.gif|110px]]<br/> 第33SS武装擲弾兵師団 シャルルマーニュ(フランス第1) の師団章。左半分のライヒスアドラー(帝国[[鷲 (紋章)|鷲]])がドイツを象徴、右半分の3つの[[百合]]が[[カール大帝]](シャルルマーニュ)を象徴している<ref>渡部義之 編 '''『【歴史群像】W.W.Ⅱ 欧州戦史シリーズVol.18 武装SS全史Ⅱ[膨張・壊滅編]』'''(学習研究社・2002年)p176</ref>。 |
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! style="padding-right: 1em;" | 創設 |
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{{!}} 1945年2月10日 |
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{{!}} [[1945年]] |
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{{!}} [[師団]] |
{{!}} [[師団]](実際は師団以下の兵力) |
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! style="padding-right: 1em;" | 主な戦歴 |
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{{!}} '''[[独ソ戦]]''' |
{{!}} '''[[独ソ戦]]'''<br />[[ポメラニア]]の戦い(1945年)<br />[[ベルリン市街戦]] |
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'''第33SS所属武装擲弾兵師団 「シャルルマーニュ」(フランス第1)'''([[ドイツ語|独]]'''33. Waffen-Grenadier-Division der SS "Charlemagne"(französische Nr. 1)'''[[フランス語|仏]]'''33e division SS de grenadiers volontaires Charlemagne''')は、[[第二次世界大戦]]中の[[ナチスドイツ]][[武装親衛隊]]の |
'''第33SS所属武装擲弾兵師団 「シャルルマーニュ」(フランス第1)'''([[ドイツ語|独]]:'''33. Waffen-Grenadier-Division der SS "Charlemagne"(französische Nr. 1)'''[[フランス語|仏]]:'''33e division SS de grenadiers volontaires Charlemagne''')は、[[第二次世界大戦]]中の[[ナチスドイツ]][[武装親衛隊]]の[[師団]]。 |
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1941年夏に創設された[[ドイツ国防軍]]のフランス人義勇部隊である'''[[反共フランス義勇軍団]]'''、1944年春に創設された[[武装親衛隊]]のフランスSS突撃旅団('''[[第8フランスSS義勇突撃旅団]]''')や、[[民兵団 (フランス)|フランス民兵団]]、その他の組織の[[フランス人]][[義勇兵]]を基幹として編制され、1945年2月以来[[独ソ戦|東部戦線]]で戦った。 |
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== 反共フランス義勇部隊「LVF」 == |
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{{main|LVF (反共フランス義勇部隊)}} |
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1945年4月24日、[[第三帝国]]首都[[ベルリン]]が[[赤軍|ソビエト赤軍]]の包囲下にある中、師団の中で戦闘継続を希望した約300名の将兵は[[グスタフ・クルケンベルク]][[親衛隊少将|SS少将]]と[[アンリ・フネ]][[親衛隊大尉|SS義勇大尉]]に率いられてベルリンに駆けつけ、'''[[フランスSS突撃大隊]](Französische SS-Sturmbataillon)'''として[[5月2日]]のベルリン陥落まで熾烈な防衛戦闘を繰り広げた。 |
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第二次世界大戦中、[[ドイツ国防軍]]に所属したフランス人義勇部隊は、1941年の夏に親独的なフランス・ファシスト政党の有力者たちが音頭を取って創設した'''反共フランス義勇部隊'''(Légion des Volontaires Français contre le Bolchévisme, 通称'''[[LVF (反共フランス義勇部隊)|LVF]]''')であった。しかし、「[[反共産主義|反共]]」と銘打った部隊ではあったものの、集まった隊員の中には文字通り反共の念に燃える者もいれば、ドイツでの強制労働を逃れたい者や、入隊によって支給される高給を目当てとした者もいるなど、お世辞にも隊員すべてが反共思想の持ち主である部隊とはいえなかった。 |
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== 反共フランス義勇軍団 == |
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1941年11月、[[LVF (反共フランス義勇部隊)|LVF]]は第7歩兵師団に所属して[[モスクワ]]近郊の戦いに参加し、12月1日にはモスクワ近郊の寒村で初めて[[赤軍|ソビエト赤軍]]と交戦した。しかし、2時間程度の短い戦闘であったにもかかわらず、[[LVF (反共フランス義勇部隊)|LVF]]は敵の猛攻によって死傷者を続出し、吹雪の中を逃げ惑うという醜態をさらした。この戦闘の結果を知ったドイツ軍上層部は、[[LVF (反共フランス義勇部隊)|LVF]]に戦意が欠けていると判断して彼らを最前線から引き揚げ、戦線後方での任務につくよう命じた。 |
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{{main|反共フランス義勇軍団}} |
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[[第二次世界大戦]]中、[[ドイツ国防軍]]に所属したフランス人義勇部隊は、1941年の夏に親独的なフランス・[[ファシズム]]政党の有力者たちが音頭を取って創設した'''[[反共フランス義勇軍団]]([[:fr:Légion des volontaires français contre le bolchevisme|Légion des Volontaires Français contre le Bolchévisme]]''', 略称'''LVF)'''であった。しかし、「[[反共産主義|反共]]」と銘打った部隊ではあったものの、集まった隊員の中には文字通り反共の念に燃える者もいれば、ドイツでの強制労働を逃れたい者や、入隊によって支給される高給を目当てとした者もいるなど、お世辞にも隊員すべてが反共思想の持ち主である部隊とはいえなかった。 |
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1942年、[[LVF (反共フランス義勇部隊)|LVF]]はドイツ占領下の[[白ロシア・ソビエト社会主義共和国]]において[[赤軍パルチザン|パルチザン]]掃討任務に就いた。1942年6月、[[LVF (反共フランス義勇部隊)|LVF]]指揮官ロジェ・ラボンヌ大佐(''Colonel'' Roger Labonne)は解任され、その後任の指揮官として7月に着任したのは元フランス軍中佐の[[エドガー・ピュオ]]大佐(''Colonel'' Edgard-Joseph-Alexsandre Puaud)であった。その後、[[LVF (反共フランス義勇部隊)|LVF]]は1943年6月まで様々なドイツ軍師団を転属した。 |
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[[1941年]][[11月]]、[[反共フランス義勇軍団]]は第638歩兵連隊(Infanterieregiment 638)としてドイツ第7歩兵師団に所属し、[[モスクワの戦い]]に参加した。 |
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1944年6月下旬、[[LVF (反共フランス義勇部隊)|LVF]]は[[フランス]]へ帰国する予定になっていたが、出発の数時間前になって[[赤軍|ソビエト赤軍]]がドイツ[[中央軍集団]]への[[バグラチオン作戦|大攻勢]]を発動したため、急遽戦場に戻ることとなった。6月25日、[[ブブル川]](Bóbr)においてブリドー少佐(''Major'' Bridoux)率いる[[LVF (反共フランス義勇部隊)|LVF]]の部隊(約600名)は、[[スツーカ]]急降下爆撃機、[[ティーガーI|ティーガー]]戦車5両、一部のSS警察部隊の支援を受けつつ48時間に渡って[[赤軍|ソビエト赤軍]]の攻撃を防いだ。この戦闘によって[[LVF (反共フランス義勇部隊)|LVF]]は40両以上のソビエト赤軍戦車を撃破し、LVF史上最も輝かしい成功を収めた。 |
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[[file:Bundesarchiv Bild 101I-141-1258-15, Russland-Mitte, Soldaten der französischen Legion, Fahne.jpg|thumb|反共フランス義勇軍団の部隊旗(初期型)とフランス人義勇兵。1941年11月、東部戦線での撮影。]] |
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[[1941年]][[12月1日]]、[[反共フランス義勇軍団]]はモスクワ近郊の寒村で初めて[[赤軍|ソビエト赤軍]]と交戦した。しかし、2時間程度の短い戦闘であったにもかかわらず、彼らは敵の猛攻によって死傷者を続出し、吹雪の中を逃げ惑うという醜態をさらした。この戦闘の結果を知ったドイツ軍上層部は、[[反共フランス義勇軍団]]に戦意が欠けていると判断して彼らを最前線から引き揚げ、戦線後方での任務につくよう命じた。 |
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== フランスSS突撃旅団 == |
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{{main|フランスSS突撃旅団}} |
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[[1942年]]、[[反共フランス義勇軍団]]はドイツ占領下の[[白ロシア・ソビエト社会主義共和国]]において[[赤軍パルチザン|パルチザン]]掃討任務に就いた。[[反共フランス義勇軍団]]指揮官ロジェ・ラボンヌ[[大佐]](''Colonel'' Roger Labonne)は解任され、その後任の指揮官として[[7月]]に着任したのは元[[フランス軍]][[中佐]]の[[エドガー・ピュオ]][[大佐]](''Colonel'' [[:fr:Edgar Puaud|Edgar Puaud]])であった。その後、[[反共フランス義勇軍団]]は[[独ソ戦|東部戦線]]において[[1943年]][[6月]]まで様々なドイツ軍師団を転属した。 |
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一方、1943年、[[ヴィシー政権]]下の[[フランス]]において、[[ドイツ国防軍]]ではなく[[武装親衛隊]]に所属するフランス人義勇兵部隊の創設が行われることとなった。募集に応じて集まった約3,000名(その大部分は[[ヴィシー政権]]の準軍事組織「[[民兵団 (フランス)|フランス民兵団]]」(Milice)の民兵と大学生)のフランス人義勇兵は[[アルザス]]のゼンハイム親衛隊訓練施設に移動し、そこで'''[[フランスSS突撃旅団]](Franz. SS-Sturmbrigade)'''を結成した。旅団指揮官には元[[フランス外人部隊]]のポール・マリー・ガモリー=ドゥブルドー[[親衛隊中佐|武装中佐]](''Waffen-Obersturmbannführer'' Paul Marie Gamory-Dubourdeau)が就任した。 |
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[[1944年]][[6月]]下旬、[[反共フランス義勇軍団]]は[[フランス]]へ帰国する予定になっていたが、出発の数時間前になって[[赤軍|ソビエト赤軍]]がドイツ[[中央軍集団]]への[[バグラチオン作戦|大攻勢]]を発動したため、急遽戦場に戻ることとなった。 |
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1944年6月22日に行われた[[赤軍|ソビエト赤軍]]の[[バグラチオン作戦]]は、東部戦線の南北全域におけるドイツ軍を脅かした。7月13日にはソビエト赤軍第1白ロシア方面軍と第1ウクライナ方面軍の攻撃により、ドイツ軍北ウクライナ軍集団の戦線が危機に陥った。そこで、フランスSS突撃旅団にも1個大隊をウクライナ~南ポーランド国境のガリシア地方へ派遣するよう命令が下り、[[民兵団 (フランス)|フランス民兵団]]指導者[[ジョゼフ・ダルナン]]の側近[[ピエール・カンス]][[親衛隊大尉|武装大尉]](''Waffen-Hauptsturmführer'' Pierre Cance)率いる第Ⅰ大隊([[対戦車砲]]小隊などで増強)が8月5日にガリシアへ到着した。現地において大隊は、サノク(Sanok)で既に戦闘中の[[第18SS義勇装甲擲弾兵師団|第18SS義勇機甲擲弾兵師団「ホルスト・ヴェッセル」]]に配属され、ソビエト赤軍の前進を食い止めるために順次最前線へ向かった。 |
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[[6月25日]]、ボブル(Bobr)においてウジェーヌ・マリ=ジャン・ブリドー[[少佐]](''Major'' Eugène Marie-Jean Bridoux)率いる[[反共フランス義勇軍団]]の部隊(約600名)は、[[シュトゥーカ]]急降下爆撃機、[[ティーガーI|ティーガー]]戦車5両、一部のSS警察部隊の支援を受けつつ48時間に渡って[[赤軍|ソビエト赤軍]]の攻撃を防いだ。この戦闘によって[[反共フランス義勇軍団]]は40両以上のソビエト赤軍戦車を撃破し、反共フランス義勇軍団の歴史上最も輝かしい成功を収めた。 |
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彼ら[[フランスSS突撃旅団]]第Ⅰ大隊は1944年9月1日に前線から引き揚げるまで粘り強く戦ったが、その損害は甚大だった。(資料によって数字に差があるが)8月5日の戦線到着時に約980名いた大隊の将兵のうち、90名から130名が[[戦死]]し、40名から50名が[[行方不明]]となり、660名が負傷した。また、この戦闘中に[[赤軍|ソビエト赤軍]]に捕らえられたフランス人SS義勇兵の多くは即座に殺害された(処刑を免れた場合でも過酷な収容所生活が待ち受けていた)。 |
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== 第8フランスSS義勇突撃旅団 == |
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[[File:French SS recruitment poster.jpg|thumb|武装親衛隊への志願を募るフランス語のポスター。「君も! 戦友たちが武装親衛隊のフランス師団で待っている」と書かれている。]] |
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[[File:Bundesarchiv Bild 101III-Apfel-017-30, Frankreich, Paris, deutsche Besatzung.jpg|thumb|武装親衛隊のフランス人義勇兵。[[1943年]][[10月]]、[[パリ]]での撮影。]] |
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{{main|第8フランスSS義勇突撃旅団}} |
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=== 武装親衛隊のフランス人部隊 === |
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一方、[[反共フランス義勇軍団]]とは別に1943年春、[[武装親衛隊]]所属のフランス人部隊を創設する運動が[[ヴィシー政権]]下の[[フランス]]において始まっていた。募集に応じて集まった約3,000名(その大部分は[[ヴィシー政権]]の準軍事組織「[[民兵団 (フランス)|フランス民兵団]]」(Milice)の民兵と学生)のフランス人義勇兵は[[アルザス]]のゼンハイム([[:de:Cernay (Haut-Rhin)|Sennheim]])親衛隊訓練施設に移動し、そこで1個突撃[[旅団]](同年7月に'''[[第8フランスSS義勇突撃旅団]]([[:fr:Sturmbrigade SS Frankreich|8. Französische-SS-Freiwilligen-Sturmbrigade]])'''となる)を結成した。旅団指揮官には元[[フランス外人部隊]][[中佐]]の[[ポール=マリ・ガモリー=ドゥブルドー]][[親衛隊少佐|SS義勇少佐]](''SS-Freiw. Sturmbannführer'' Paul-Marie Gamory-Dubourdeau)が就任した。 |
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ちなみに、通常、[[武装親衛隊]]の外国人義勇兵の中でいわゆる[[ゲルマン人]]に属しないとされた外国人の階級には「親衛隊」(SS-)ではなく「武装」(Waffen-)が用いられた<ref group="注">[[ワロン人]]義勇兵と[[フィンランド人]]義勇兵には例外的に「親衛隊」(SS-)の階級が用いられた。</ref>。これは[[フランス人]]義勇兵にも適用されたが、[[第8フランスSS突撃義勇旅団]]出身のフランス人義勇兵の階級には「SS義勇」(SS-Freiw.)が用いられ、1944年秋の再編時に他の組織([[反共フランス義勇軍団]]、[[民兵団 (フランス)|フランス民兵団]]、[[ドイツ海軍]]など)から武装親衛隊に移籍したフランス人義勇兵の階級には「武装」が用いられた<ref>Grégory Bouysse '''"Waffen-SS Français volume 1: officiers"''' (2011) 参照。</ref>。 |
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=== ガリツィアの戦い === |
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1944年6月22日、[[赤軍|ソビエト赤軍]]は[[バグラチオン作戦]]を発動して[[独ソ戦|東部戦線]]の南北全域におけるドイツ軍を脅かした。7月13日にはソビエト赤軍[[第1白ロシア戦線 (ソ連軍)|第1白ロシア方面軍]]と[[第1ウクライナ戦線 (ソ連軍)|第1ウクライナ方面軍]]の攻撃により、ドイツ軍[[北ウクライナ軍集団]]の戦線が危機に陥った。 |
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そのため、第8フランスSS義勇突撃旅団にも1個[[大隊]]を[[ウクライナ]]~[[ポーランド]]国境の[[ガリツィア]]地方へ派遣するよう命令が下り、[[ピエール・カンス]][[親衛隊大尉|SS義勇大尉]](''SS-Freiw. Hauptsturmführer'' Pierre Cance)([[民兵団 (フランス)|フランス民兵団]]指導者[[ジョゼフ・ダルナン]]の側近)率いる第Ⅰ大隊([[対戦車砲]]小隊などで増強)が8月5日にガリツィアへ到着した。 |
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現地においてⅠ大隊は、[[サノク]](Sanok)で既に戦闘中の[[第18SS義勇装甲擲弾兵師団|第18SS義勇機甲擲弾兵師団「ホルスト・ヴェッセル」]]に配属され、ソビエト赤軍の前進を食い止めるために順次最前線へ向かった。 |
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彼らは1944年9月1日に前線から引き揚げるまで粘り強く戦ったが、その損害は甚大だった。8月5日の戦線到着時に約980名いた大隊の将兵のうち、90名から130名が[[戦死]]し、40名から50名が[[行方不明]]となり、660名が負傷した。また、この戦闘中に[[赤軍|ソビエト赤軍]]に捕らえられたフランス人SS義勇兵の多くは即座に殺害された(処刑を免れた場合でも過酷な収容所生活が待ち受けていた)<ref>Robert Forbes '''"FOR EUROPE: The French volunteers of the Waffen-SS"'''(Helion & Company Ltd, 2006)p109</ref>。 |
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== 第33SS所属武装擲弾兵師団「シャルルマーニュ」 == |
== 第33SS所属武装擲弾兵師団「シャルルマーニュ」 == |
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===「シャルルマーニュ」旅団の編 |
===「シャルルマーニュ」旅団の編制 === |
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1944年9月、[[ |
1944年9月、[[反共フランス義勇軍団]]および[[第8フランスSS義勇突撃旅団]]は解隊され、それぞれの古参兵を基に2個[[連隊]]が編制された。そして誕生した新たな[[旅団]]は数度の名称変更を経て最終的に'''SS武装擲弾兵旅団「シャルルマーニュ」(フランス第1)(Waffen-Grenadier-Brigade der SS Charlemagne (französische Nr.1))'''となった。前線で戦闘経験を積んだドイツ国防軍と武装親衛隊のフランス人義勇兵に加え、[[ドイツ海軍]]、[[国家社会主義自動車軍団|国家社会主義自動車軍団(NSKK)]]、フランスにおける対独協力者、[[民兵団 (フランス)|フランス民兵団]]構成員、若干の[[スイス]]、フランス植民地出身の義勇兵も補充兵として旅団に集まった。 |
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旅団長には元[[反共フランス義勇軍団]]指揮官[[エドガー・ピュオ]][[親衛隊上級大佐|武装上級大佐]](''Waffen-Oberführer'' [[:fr:Edgar Puaud|Edgar Puaud]])が着任したが、ドイツ側の旅団最高査察官として[[グスタフ・クルケンベルク]][[親衛隊少将|SS少将]](''SS-Brigadeführer'' [[:de:Gustav Krukenberg|Gustav Krukenberg]])が実務を担当した。 |
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なお、旅団の名称として[[15世紀]]の[[フランス]]の国民的英雄「[[ジャンヌ・ダルク]]」(Jeanne d'Arc)が当初候補に挙がっていたが、あまりにもフランス的な名称であることから却下され、それよりは汎[[ヨーロッパ]]的な名称である「シャルルマーニュ」([[フランク王国]]国王[[カール大帝|シャルルマーニュ]])が選ばれた。 |
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かつて第ⅤSS山岳軍団や第ⅢゲルマンSS装甲軍団の[[参謀長]]を務めていたクルケンベルクSS少将は、[[1926年]]から[[1931年]]にかけて[[フランス]]に軍事[[留学]]した経験が有り、[[フランス人]]への理解が深く、流暢に[[フランス語]]を話すなど、「シャルルマーニュ」のドイツ人最高査察官としてまさに適任の人物であった。 |
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1945年初旬、徐々にドイツ本国へ迫る[[西部戦線 (第二次世界大戦)|西部戦線]]において、連合軍に所属するフランス軍部隊と武装親衛隊フランス人義勇兵が交戦する可能性が出てきたため、[[親衛隊全国指導者]][[ハインリッヒ・ヒムラー]]より「シャルルマーニュ」旅団は西部戦線で戦わないよう特別の配慮を受けた。さらにヒムラーは、彼等がフランス国旗の下で戦うこと、[[カトリック]]の[[従軍牧師|従軍司祭]]の同行許可を与えること(ドイツ国防軍と異なり、親衛隊に従軍牧師制度はない)、ドイツが勝利した暁にはフランスの主権を回復することも確約した。 |
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=== 旅団の名称の由来 === |
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1945年2月、部隊はさらに拡張されて師団規模に昇格、正式に'''第33SS所属武装擲弾兵師団 「シャルルマーニュ(フランス第1)」(33. Waffen-Grenadier-Division der SS "Charlemagne" (französische Nr. 1)'''となった。しかし、師団の将兵は7,340名のみで、当時のドイツ軍の師団定数を遥かに下回っていた。この時点での「シャルルマーニュ」師団の主な編成は次の通り。 |
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1944年9月末、ドイツに避難していた[[民兵団 (フランス)|フランス民兵団]]指導者[[ジョゼフ・ダルナン]]は[[ベルリン]]の[[親衛隊本部]]長[[ゴットロープ・ベルガー]]と会見し、[[武装親衛隊]]に入隊した民兵団員の今後について話し合った。その際にダルナンは新たな武装親衛隊フランス人部隊の名称として[[15世紀]]の[[フランス]]の国民的英雄である「[[ジャンヌ・ダルク]](Jeanne d'Arc)」を提案した。しかしベルガーはこれに同意せず、10月に[[親衛隊全国指導者]][[ハインリヒ・ヒムラー]]は新設のフランス旅団に「シャルルマーニュ」の名を冠した。あまりにも[[フランス]]的・[[カトリック教会|カトリック]]的な名称である「[[ジャンヌ・ダルク]]」と比べて、「シャルルマーニュ」([[フランク王国]]国王[[カール大帝]])は汎[[ヨーロッパ]]的な名称であった<ref>同上 p140</ref>。 |
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=== 師団への昇格 === |
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1945年1月初旬、「シャルルマーニュ」旅団の将兵は[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]]隊員の特徴である[[血液型]]の[[刺青]]を左腋の下に施した<ref>同上 p235</ref>。 |
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この頃、徐々にドイツ本国へ迫る[[西部戦線 (第二次世界大戦)|西部戦線]]において、連合軍に所属するフランス軍部隊と武装親衛隊フランス人義勇兵が交戦する可能性が出てきたため、[[親衛隊全国指導者]][[ハインリヒ・ヒムラー]]より「シャルルマーニュ」旅団は西部戦線で戦わないよう特別の配慮を受けた。さらにヒムラーは、彼等がフランス国旗の下で戦うこと、[[カトリック]]の[[従軍牧師|従軍司祭]]の同行許可を与えること([[ドイツ国防軍]]と異なり、[[武装親衛隊]]に従軍司祭制度はない)、ドイツが勝利した暁にはフランスの主権を回復することも確約した。 |
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1945年2月10日(2月1日とする説もある)、武装擲弾兵旅団「シャルルマーニュ」はさらに拡張されて[[師団]]規模に昇格、正式に'''第33SS所属武装擲弾兵師団 「シャルルマーニュ(フランス第1)」(33. Waffen-Grenadier-Division der SS "Charlemagne" (französische Nr. 1)'''となった<ref name="FEp240">同上 p240</ref>。この時の「シャルルマーニュ」師団の書類上の編制は次の通り<ref name="FEp240"/>。 |
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{{quotation| |
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'''第33SS所属武装擲弾兵師団 「シャルルマーニュ(フランス第1)」(1945年2月) |
'''第33SS所属武装擲弾兵師団 「シャルルマーニュ(フランス第1)」(1945年2月) |
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*ドイツ人各種スタッフ |
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*師団本部 |
*師団本部 |
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*師団名誉中隊(戦術学校) |
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*第57SS武装擲弾兵連隊 |
*第57SS武装擲弾兵連隊 |
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*第58SS武装擲弾兵連隊 |
*第58SS武装擲弾兵連隊 |
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* |
*第33SS武装砲兵大隊 |
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*第33SS工兵大隊 |
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*第33SS戦車猟兵大隊 |
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*第33SS通信中隊 |
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*第33教育・補充大隊 |
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*第57野戦憲兵隊 |
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*第57野戦郵便隊 |
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*砲兵部隊 |
*砲兵部隊 |
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|}} |
|}} |
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しかし、師団の兵力は[[将校]]102名、[[下士官]]886名、[[兵]]5375名の合計6,363名<ref>同上 p244</ref>であり、[[ドイツ国防軍|国防軍]]の中でも劣弱とされた[[国民擲弾兵]]師団(定数1万名余り)をも下回っていた<ref>渡部義之 編 前掲書 p108</ref>。 |
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===ポメラニア戦線=== |
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== ポメラニア戦線 == |
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=== 苦戦 === |
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1945年2月20日、「シャルルマーニュ」師団の先遣隊はアルトダム([[:pl:Dąbie (Szczecin)|Altdamm]])鉄道駅に到着し、22日には[[ポメラニア]]のハマーシュタイン(Hammerstein、現[[ツァルネ]][[:pl:Czarne|Czarne]])に鉄道輸送された。24日午後には第57SS武装擲弾兵連隊の偵察部隊が[[赤軍|ソビエト赤軍]]と交戦し、「シャルルマーニュ」師団にとってのポメラニア戦線が開始された。 |
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この時、「シャルルマーニュ」師団は戦闘準備を行っている最中に、ソビエト赤軍[[第1白ロシア戦線 (ソ連軍)|第1白ロシア方面軍]]所属の4個[[歩兵]][[師団]]と2個[[戦車]][[旅団]]の攻撃を受けた。重兵器のみならず、無線機、地図さえも十分に装備していない「シャルルマーニュ」師団のフランス人義勇兵たちは、手持ちの[[パンツァーファウスト]]などの軽装備だけで敵戦車に立ち向かうほかなかった。 |
|||
その結果、ハマーシュタイン周辺での戦闘が開始されてから48時間も経過していない1945年2月25日夜の時点で、「シャルルマーニュ」師団は甚大な損害を被っていた。(資料によって数字に差があるが)およそ500名(将校5名)が[[戦死]]し、1,000名(将校15名)が負傷もしくは[[行方不明]]となった<ref>Robert Forbes, 前掲書p294</ref>。 |
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1945年3月1日、不利な状況を打破するため、師団の戦地再編制を決定した[[グスタフ・クルケンベルク]][[親衛隊少将|SS少将]]は第58SS武装擲弾兵連隊指揮官のエミール・レイボー[[親衛隊少佐|武装少佐]](''W-Stubaf.'' Emile Raybaud)に命じ、師団最良の部隊を集めた「行進連隊」(Régiment de Marche)、それ以外の部隊を集めた「予備連隊」(Régiment de Reserve)を編制させた。各[[連隊]]はそれぞれ2個[[大隊]]で構成されていた。 |
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[[File:Jean Bassompierre.jpg|thumb|行進連隊第Ⅱ大隊長[[ジャン・バソンピエール]][[親衛隊大尉|武装大尉]](''W-Hstuf.'' [[:fr:Jean Bassompierre|Jean Bassompierre]])。ポメラニア戦線でソビエト赤軍の捕虜となる。フランス帰国後、[[民兵団 (フランス)|フランス民兵団]]時代の活動が原因で死刑判決を受け、1948年4月20日に銃殺された。]] |
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'''「シャルルマーニュ」師団(1945年3月初旬)''' |
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*師団本部:[[エドガー・ピュオ]][[親衛隊上級大佐|武装上級大佐]](''W-Obf.'' [[:fr:Edgar Puaud|Edgar Puaud]]) |
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*行進連隊:エミール・レイボー[[親衛隊少佐|武装少佐]](''W-Stubaf.'' Emile Raybaud) |
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**第Ⅰ大隊:[[アンリ・フネ]][[親衛隊中尉|SS義勇中尉]](''SS-Freiw. Ostuf.'' [[:fr:Henri Fenet|Henri Fenet]]) |
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**第Ⅱ大隊:[[ジャン・バソンピエール]][[親衛隊大尉|武装大尉]](''W-Hstuf.'' [[:fr:Jean Bassompierre|Jean Bassompierre]]) |
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*予備連隊:[[ヴィクトル・ド・ブルモン]]武装大尉(''W-Hstuf.'' [[:fr:Victor de Bourmont|Victor de Bourmont]]) |
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**第Ⅰ大隊:エミール・モヌーズ武装大尉(''W-Hstuf.'' Émile Moneuse) |
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**第Ⅱ大隊:モーリス・ベレ武装大尉(''W-Hstuf.'' Maurice Berret) |
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|}} |
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3月3日、「シャルルマーニュ」師団の残存兵はケーリン(Körlin)近辺の町の防衛のために移動したが、翌日の正午、南西からソビエト赤軍の攻撃を受けた。必死の反撃によってその日はソビエト赤軍を撃退したものの、結局「シャルルマーニュ」師団はソビエト赤軍の包囲を避けるため西へ撤退するよう命じられた。 |
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=== 「シャルルマーニュ」師団壊滅 === |
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{{節stub}} |
{{節stub}} |
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1945年2月20日、「シャルルマーニュ」師団の先発隊はアルトダム(現ポーランド領Dąbie)鉄道駅に到着し、22日には[[ポメラニア]]のハマーシュタイン(Hammerstein)に鉄道輸送された。24日午後には第57SS武装擲弾兵連隊の偵察部隊が[[赤軍|ソビエト赤軍]]と交戦し、「シャルルマーニュ」師団にとってのポメラニア戦線が開始された。 |
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包囲網脱出に際して「シャルルマーニュ」師団の少数の残存兵はバルト海沿岸部へ撤退、陸路もしくは海路でドイツ本土や[[デンマーク]]へ移動し、後に再編制の為に[[ノイシュトレリッツ]]([[:de:Neustrelitz|Neustrelitz]])へ送られた。 |
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この時、「シャルルマーニュ」師団は戦闘準備を行っている最中に、ソビエト赤軍第1白ロシア方面軍所属の4個歩兵師団と2個戦車旅団の攻撃を受けた。重兵器どころか無線機、地図も十分に装備していない「シャルルマーニュ」師団のフランス人義勇兵たちは、手持ちの[[パンツァーファウスト]]などの軽装備だけで敵戦車に立ち向かうほかなかった。 |
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ポメラニア戦線において「シャルルマーニュ」師団は約4,800名の将兵を失ったが、その中には師団長[[エドガー・ピュオ]][[親衛隊准将|武装上級大佐]]、連隊長[[ヴィクトル・ド・ブルモン]][[親衛隊大尉|武装大尉]]も含まれていた。 |
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3月3日、「シャルルマーニュ」師団の残存兵はケーリン(Körlin)近辺の町の防衛のために移動したが、翌日の正午、南西からソビエト赤軍の攻撃を受けた。必死の反撃によってその日はソビエト赤軍を撃退したものの、結局「シャルルマーニュ」師団はソビエト赤軍の包囲を避けるため西へ撤退するよう命じられた。包囲網脱出に際して「シャルルマーニュ」師団は3個戦闘団に分割され、ドイツ人監督官[[グスタフ・クルケンベルク]][[親衛隊少将|SS少将]]の命令により、少数の残存兵がバルト海へ撤退、海路で[[デンマーク]]へ送られ、後に再編成の為にノイシュトレリッツ(Neustrelitz)へ送られた。しかし、「シャルルマーニュ」師団はポメラニア戦線脱出の際に4,800名の将兵を失い、その中には師団長[[エドガー・ピュオ]][[親衛隊准将|武装准将]]も含まれていた。 |
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==ベルリン防衛戦== |
== ベルリン防衛戦 == |
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=== 「シャルルマーニュ」再編制 === |
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===ベルリン市街戦=== |
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{{main|ベルリン市街戦}} |
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1945年4月初旬、ポメラニア戦線で大損害を被った「シャルルマーニュ」師団の生存者は[[ベルリン]]北方の[[カルピン]]([[:de:Carpin|Carpin]])に集結した。[[グスタフ・クルケンベルク]][[親衛隊少将|SS少将]]は資材無しでの師団再編制を強いられていたが、最終的に1個[[連隊]](第57SS擲弾兵大隊、第58SS擲弾兵大隊の2個大隊、1個重兵器大隊)として「シャルルマーニュ」を再編制した。 |
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4月23日、[[ベルリン]]の[[総統官邸]]はクルケンベルクとその部下に対し、[[ベルリン]]へ移動するよう命令した。1945年4月24日午前4時頃に連絡を受けたクルケンベルクは、戦闘継続を戦闘継続を希望した300名の将兵を連れて[[赤軍|ソビエト赤軍]]の迫るベルリンへ向かうことを選んだ。 |
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ベルリンへの出発を希望したフランス人義勇兵は、[[第8フランスSS義勇突撃旅団]]以来の古参将校[[アンリ・フネ]][[親衛隊大尉|SS義勇大尉]]が指揮官を務める'''[[フランスSS突撃大隊]](Franz. SS-Sturmbataillon)'''<ref group="注">様々な文献において、1945年4月末の[[ベルリン市街戦]]に参加した武装親衛隊フランス人部隊はしばしば「シャルルマーニュ」(Charlemagne)の名を冠して語られている。例えば、Richard Landwehrは著書においてフランスSS突撃大隊を"SS突撃大隊「シャルルマーニュ」"(SS-Sturmbatallion 'Charlemagne')と記し、Tonny Le Tissierは著書において"SS「シャルルマーニュ」大隊"(SS 'Charlemagne' Battalion)と記している。しかし、実際にこの大隊の指揮官としてベルリン市街戦に参加した[[アンリ・フネ]]は、自身の[[ベルリン市街戦]]の回顧録'''"A Berlin Jusqu'au Bout"'''において、フランスSS突撃大隊の名に一切「シャルルマーニュ」の名を冠していない(Robert Forbes 前掲書 p407参照)。</ref>として再編制された。 |
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=== ベルリンへの出発 === |
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{{main|フランスSS突撃大隊}} |
{{main|フランスSS突撃大隊}} |
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彼らは4月24日早朝にトラックに乗ってベルリン北方のカルピンを出発したが、道中においてソビエト赤軍部隊との遭遇を避けるため遠回りをしたり、渡ろうとした橋が[[国民突撃隊]]によって誤爆されたりするなどして時間を取られ、午後10時頃に至ってようやく[[ベルリン]]市内の[[ベルリン・オリンピアシュタディオン]]近隣の国立競技場(Reichssportfeld)に到着した。[[フランスSS突撃大隊]]の将兵が[[ベルリン]]に到着した時、町中の人々の話し声以外には何も聞こえないほど、ベルリンは異様に静かであった。 |
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1945年4月初旬、[[ベルリン]]北方の[[カルピン]](Carpin)において[[グスタフ・クルケンベルク]][[親衛隊少将|SS少将]]は資材無しでの師団再編成を強いられていたが、最終的に総勢700名の将兵から成る1個連隊(第57SS擲弾兵大隊、第58SS擲弾兵大隊の2個大隊、1個重支援大隊)として「シャルルマーニュ」師団を再編成した。 |
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ベルリン到着後、[[フランスSS突撃大隊]]は既にベルリン市街で戦闘中の[[第11SS義勇装甲擲弾兵師団|第11SS義勇装甲擲弾兵師団「ノルトラント」]]の所属となったが、同時期に「ノルトラント」師団長[[ヨアヒム・ツィーグラー]][[親衛隊少将|SS少将]]が解任されたため、クルケンベルクが後任の「ノルトラント」師団長に就任した。 |
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4月23日、[[ベルリン]]の[[総統官邸]]はクルケンベルクとその部下に対し、[[ベルリン]]へ移動するよう命令した。1945年4月24日午前4時頃に電話連絡を受けたクルケンベルクは建設大隊に所属する400名を師団より解放し、残った300名の将兵を連れて[[赤軍|ソビエト赤軍]]の迫るベルリンへ向かうことを選んだ。ベルリンへの出発を希望したフランス人将兵はフランスSS突撃旅団以来の古参将校[[アンリ・フネ]][[親衛隊大尉|武装大尉]](''Waffen-Hauptsturmführer'' Henri Fenet)が指揮官を務める'''[[フランスSS突撃大隊]](Franz. SS-Sturmbataillon)'''<ref>Robert Forbes '''"FOR EUROPE:The French volunteers of the Waffen-SS"'''(Helion & Company Ltd, 2006)p407参照。様々な文献において、1945年の[[ベルリン市街戦]]に参加したフランス人武装SS部隊はしばしば「シャルルマーニュ」(Charlemagne)の名を冠して語られている。例えば、Richard Landwehrは著書においてフランスSS突撃大隊をSS突撃大隊「シャルルマーニュ」(SS-Sturmbatallion 'Charlemagne'と記し、Le Tissierは著書においてSS「シャルルマーニュ」大隊(SS 'Charlemagne' Battalion)と記している。しかし、実際にこの大隊の指揮官としてベルリン市街戦に参加した[[アンリ・フネ]][[親衛隊大尉|武装大尉]]は、自身の[[ベルリン市街戦]]の回顧録'''"A Berlin Jusqu'au Bout"'''において、フランスSS突撃大隊の名に一切「シャルルマーニュ」の名を冠していない。</ref>として再編成された。約300名の突撃大隊は道中においてソビエト赤軍部隊との遭遇を避けるため長い回り道を行い、4月24日午後10時頃、ようやく[[ベルリン]]市内の[[ベルリン・オリンピアシュタディオン|帝国競技場]]に到着した。 |
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4月25日朝、フランス人義勇兵たちは[[テンペルホーフ=シェーネベルク区|テンペルホーフ]]方面への移動を開始した。この時のフランスSS突撃大隊の編制は次の通り<ref>同上 pp.407 - 408.</ref>。 |
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ベルリン到着後、[[フランスSS突撃大隊]]は既にベルリン市街で戦闘中の[[第11SS義勇装甲擲弾兵師団|第11SS義勇装甲擲弾兵師団「ノルトラント」]]の所属となったが、その際に「ノルトラント」師団長[[ヨアヒム・ツィーグラー]][[親衛隊少将|SS少将]]が解任されたため、クルケンベルクが後任の「ノルトラント」師団長となった。 |
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{{quotation| |
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'''[[フランスSS突撃大隊]](1945年4月25日)''' |
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*大隊指揮官:[[アンリ・フネ]][[親衛隊大尉|SS義勇大尉]](''SS-Freiw. Hstuf.'' Henri Fenet) |
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**第1中隊:[[ジャン=クレマン・ラブルデット]][[親衛隊少尉|SS義勇少尉]](''SS-Freiw. Ustuf.'' Jean-Clément Labourdette) |
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**第2中隊:[[ピエール・ミシェル]][[親衛隊中尉|SS義勇中尉]](''SS-Freiw. Ostuf.'' Pierre Michel) |
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**第3中隊:[[ピエール・ロスタン]][[親衛隊上級曹長|武装上級曹長]](''W-Hscha.'' Pierre Rostaing) |
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**第4中隊:ジャン・オリヴィエ[[親衛隊曹長|武装曹長]](''W-Oscha.'' Jean Ollivier) |
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*戦術学校(Kampfschule):[[ヴィルヘルム・ヴェーバー (親衛隊隊員)|ヴィルヘルム・ヴェーバー]][[親衛隊中尉|SS中尉]](''SS-Ostuf.'' Wilhelm Weber) |
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|}} |
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フランス人義勇兵たちはベルリン到着後に新たに与えられた車列に乗って移動したが、その途中、彼らは[[親衛隊は敵地を進む|「親衛隊は敵地を進む」]]を歌い始めた。すると、[[ベルリン]]市民は建物の窓、玄関、歩道から彼らを[[ヴァルター・ヴェンク]]装甲兵[[大将]]の[[第12軍 (ドイツ軍)|ドイツ第12軍]]の先鋒部隊と思って熱烈に歓迎した(当時、[[ヒトラー]]総統の命令を受けたヴェンク軍がベルリン救援に現れる、と多くの新聞記事で報じられていた)。 |
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その歓迎に感じ入って涙目になりつつ、フランス人義勇兵たちは[[ナチ式敬礼]]をしたり、武器を誇らしく掲げたり、少女たちに投げキッスを送るなどして歓迎に答えた。やがてフランス人義勇兵たちの車列がしばらくの間移動を停止すると、あらゆる年齢層のベルリン市民が彼らの周りに集まった。ベルリン市民が手を振って感謝の意を述べた後、フランス人義勇兵たちは移動を再開した<ref>同上 pp.411-412.</ref>。 |
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=== ベルリン市街戦 === |
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{{main|ベルリン市街戦}} |
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[[ |
4月26日朝、[[第11SS義勇装甲擲弾兵師団|「ノルトラント」師団]]第11SS戦車大隊「ヘルマン・フォン・ザルツァ」所属の[[ティーガーII]]重戦車の支援を受けた[[フランスSS突撃大隊]]は、[[ベルリン・テンペルホーフ国際空港|テンペルホーフ空港]]近くの[[ノイケルン区|ノイケルン]]で反撃を開始した。しかし、この反撃はソビエト赤軍が捕獲して使用していた[[V号戦車パンター|パンター]]の待ち伏せに遭遇にあって失敗し、その日のうちに突撃大隊の戦力は半減した。その後、彼らはノイケルン区役所の防衛に当たった。 |
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ベルリン市街における戦闘は攻守ともに激戦の様相を呈し、4月28日までにドイツ軍の防衛線は著しく縮小していた。しかしその一方で28日までにソビエト赤軍の戦車約108両がベルリン南東部の[[Sバーン]]防衛線内で撃破されていたが、それらの内62両は[[アンリ・フネ]][[親衛隊大尉|SS義勇大尉]]が指揮する[[フランスSS突撃大隊]]の攻撃によって撃破されたものであった。フネと彼の大隊は各拠点の防衛のために、ノイケルン、ベレ=アリアンス広場(Belle-Alliance-Platz, 現メーリンク広場[[:de:Mehringplatz|Mehringplatz]])、ヴィルヘルム通り([[:de:Wilhelmstraße (Berlin-Mitte)|Wilhelmstrasse]])、フリードリヒ通り([[:de:Friedrichstraße|Friedrichstrasse]])などを絶え間なく展開した。 |
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4月26日朝、第11SS戦車大隊「ヘルマン・フォン・ザルツァ」所属の[[ティーガーII]]重戦車の支援を受けた[[フランスSS突撃大隊]]は、[[ベルリン・テンペルホーフ国際空港|テンペルホーフ空港]]近くの[[ノイケルン区|ノイケルン]](Neukölln)で反撃を行った。しかし、この反撃はソビエト赤軍が捕獲して使用していた[[V号戦車パンター|パンター]]の待ち伏せに遭遇にあって失敗し、その日のうちに突撃大隊の戦力は半減した。その後、彼らはノイケルン区役所の防衛に当たった。 |
|||
しかし、大隊は迫り来るソビエト赤軍によってドイツ航空省近辺への撤退を余儀なくされた。指揮官であるフネ自身も4月26日のノイケルン戦で足を負傷していたため、フランス人義勇兵たちは航空省近辺の建物に留まった。 |
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=== フランスSS突撃大隊の騎士鉄十字章受章者 === |
=== フランスSS突撃大隊の騎士鉄十字章受章者 === |
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{{main|フランスSS突撃大隊}} |
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4月 |
4月29日、[[赤軍|ソビエト赤軍]]は[[ベルリン]]中心部ヘの総攻撃を開始した。[[フランスSS突撃大隊]]は激戦に巻き込まれたが、その中で[[反共フランス義勇軍団]]以来の古参[[下士官]][[ウジェーヌ・ヴォロ]][[親衛隊伍長|武装伍長]](''W-Uscha.'' Eugène Vaulot)は、[[ノイケルン区|ノイケルン]]で撃破した2輛と合わせて合計8輛のソビエト赤軍戦車を[[パンツァーファウスト]]で撃破した。 |
||
1945年4月29日午後、[[:de:U-Bahnhof Stadtmitte| |
1945年4月29日午後、[[ベルリン地下鉄]][[:de:U-Bahnhof Stadtmitte|市中央駅]]において[[第11SS義勇装甲擲弾兵師団|「ノルトラント」師団]]司令官[[グスタフ・クルケンベルク]][[親衛隊少将|SS少将]]は、[[ベルリン市街戦]]中に8輛の[[赤軍|ソビエト赤軍]][[戦車]]を撃破した[[ウジェーヌ・ヴォロ]]武装伍長に[[騎士鉄十字章]]を授与した。そしてクルケンベルクは戦後における供述の中で、1945年4月29日の出来事を次のように語っている。 |
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{{Cquote|[[第103SS重戦車大隊|第503SS重戦車大隊]]指揮官の[[フリードリヒ・ヘルツィヒ|ヘルツィヒ]][[少佐]]([[親衛隊少佐|SS少佐]])(''SS- |
{{Cquote|[[第103SS重戦車大隊|第503SS重戦車大隊]]指揮官の[[フリードリヒ・ヘルツィヒ|ヘルツィヒ]][[少佐]]([[親衛隊少佐|SS少佐]])(''SS-Stubaf.'' Friedrich Herzig)も、[[ヴィルヘルム・モーンケ|モーンケ]][[親衛隊少将|SS少将]]から[[騎士鉄十字章]]を授与された。これらが[[第二次世界大戦|今次大戦]]における最後の2つの騎士鉄十字章であった。}} |
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しかしながら、[[武装親衛隊]]の[[騎士鉄十字章]]受章者について述べたErnst-Günther Krätschmerの著書'''"Die Ritterkreuzträger der Waffen-SS"'''によれば、同じく1945年4月29日に、ヴォロ武装伍長とヘルツィヒSS少佐以外にも[[騎士鉄十字章]]を授与された者がいる<ref>'''"Die Ritterkreuzträger der Waffen-SS"''' pp.912-934.参照。</ref>。 |
しかしながら、[[武装親衛隊]]の[[騎士鉄十字章]]受章者について述べたErnst-Günther Krätschmerの著書'''"Die Ritterkreuzträger der Waffen-SS"'''によれば、同じく1945年4月29日に、ヴォロ武装伍長とヘルツィヒSS少佐以外にも[[騎士鉄十字章]]を授与された者がいる<ref>'''"Die Ritterkreuzträger der Waffen-SS"''' pp.912-934.参照。</ref>。 |
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{{quotation| |
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'''1945年4月29日に騎士鉄十字章を受章したとされている人物''' |
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*[[第103SS重戦車大隊|第503SS重戦車大隊]] |
*[[第103SS重戦車大隊|第503SS重戦車大隊]] |
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**[[オスカール・シェーファー]][[親衛隊少尉|SS少尉]](''SS- |
**[[オスカール・シェーファー]][[親衛隊少尉|SS少尉]](''SS-Ustuf.'' Oskar Schäfer):第503SS重戦車大隊第3中隊長 |
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**[[カール・ケルナー (親衛隊)|カール・ケルナー]][[親衛隊上級曹長|SS上級曹長]](''SS- |
**[[カール・ケルナー (親衛隊)|カール・ケルナー]][[親衛隊上級曹長|SS上級曹長]](''SS-Hscha.'' Karl Körner):第503SS重戦車大隊第2中隊小隊長 |
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*[[フランスSS突撃大隊]] |
*[[フランスSS突撃大隊]] |
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**[[アンリ・フネ]][[親衛隊大尉| |
**[[アンリ・フネ]][[親衛隊大尉|SS義勇大尉]]:フランスSS突撃大隊指揮官 |
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**[[ヴィルヘルム・ヴェーバー (親衛隊)|ヴィルヘルム・ヴェーバー]][[親衛隊中尉|SS中尉]](''SS- |
**[[ヴィルヘルム・ヴェーバー (親衛隊隊員)|ヴィルヘルム・ヴェーバー]][[親衛隊中尉|SS中尉]](''SS-Ostuf.'' Wilhelm Weber):「シャルルマーニュ」師団戦術学校指揮官 |
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**[[フランソワ・アポロ]][[親衛隊曹長|武装曹長]]('' |
**[[フランソワ・アポロ]][[親衛隊曹長|武装曹長]](''W-Oscha.'' François Appolot):「シャルルマーニュ」師団戦術学校小隊長 |
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*その他の部隊 |
*その他の部隊 |
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**[[ヴィル・フェイ]]SS連隊士官候補生(''SS- |
**[[ヴィル・フェイ]]SS連隊付士官候補生(''SS-StdJu.'' Will Fey):「モーンケ」戦闘団の戦車破壊班指揮官 |
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**[[カールハインツ・ギースラー]][[親衛隊少尉|SS少尉]](''SS- |
**[[カールハインツ・ギースラー]][[親衛隊少尉|SS少尉]](''SS-Ustuf.'' Karlheinz Giesler):[[第11SS義勇装甲擲弾兵師団|「ノルトラント」師団]]突撃部隊指揮官 |
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このうち、戦後になってクルケンベルクは、フランスSS突撃大隊のフネ、ヴェーバー、アポロに授与された3つの[[騎士鉄十字章]]については、戦時中の公式勲記が存在しないことを理由に本当に授与されたのかどうかを疑問視している。 |
このうち、戦後になってクルケンベルクは、フランスSS突撃大隊のフネ、ヴェーバー、アポロに授与された3つの[[騎士鉄十字章]]については、戦時中の公式勲記が存在しないことを理由に本当に授与されたのかどうかを疑問視している。 |
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Georgenの著書(モーンケSS少将、[[ |
Georgenの著書([[ヴィルヘルム・モーンケ]]SS少将、[[グスタフ・クルケンベルク]]の副官パウル・パシュールSS大尉(''SS-Hstuf.'' Paul Pachur)、ヴェーバーSS中尉の目撃談に基づく)によれば、ヴェーバーSS中尉は4月29日に負傷して[[総統官邸]]地下の救護所に運び込まれた。「前線から下がってきた将校の大多数のように」ヴェーバーも隣室に本部を置く「Z」地区司令官[[ヴィルヘルム・モーンケ]]SS少将に戦況を詳しく説明した。ヴェーバーの報告を聞いた後、モーンケは陸軍人事局(Heerespersonalamt:HPA)責任者の[[ヴィルヘルム・ブルクドルフ]]将軍のもとへ赴き、[[フランスSS突撃大隊]]の将校・下士官数名に対する[[騎士鉄十字章]]授与の約束をとりつけた。同日、ブルクドルフは書類にサインし、モーンケに勲記と勲章を手渡した。こうして、推薦が認められてから数時間も経たないうちにモーンケはヴェーバーに騎士鉄十字章を授与した。 |
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Sanit-Loupの著書によると、ヴェーバーは1945年4月30日早朝に負傷し、[[親衛隊全国指導者]]地下壕を経て[[総統地下壕]]に運ばれた。ヴェーバーにとって、これが第二次世界大戦における6度目の負傷であった。モーンケは[[ウジェーヌ・ヴォロ]]が[[騎士鉄十字章]]を受章したことをヴェーバーに知らせ、そして君とフネとアポロも騎士鉄十字章を受章したと伝えた。さらに、翌日には騎士鉄十字章受章に関する書類をクルケンベルクが受け取ることになっていると付け加えた。しかし、クルケンベルクのもとに書類は届かなかった(Saint-Loupは、この書類は道中で紛失したか、もしくは最初から送られなかったと記している)。 |
Sanit-Loupの著書によると、ヴェーバーは1945年4月30日早朝に負傷し、[[親衛隊全国指導者]]地下壕を経て[[総統地下壕]]に運ばれた。ヴェーバーにとって、これが[[第二次世界大戦]]における6度目の負傷であった。モーンケは[[ウジェーヌ・ヴォロ]]が[[騎士鉄十字章]]を受章したことをヴェーバーに知らせ、そして君とフネとアポロも騎士鉄十字章を受章したと伝えた。さらに、翌日には騎士鉄十字章受章に関する書類をクルケンベルクが受け取ることになっていると付け加えた。しかし、クルケンベルクのもとに書類は届かなかった(Saint-Loupは、この書類は道中で紛失したか、もしくは最初から送られなかったと記している)。 |
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Jean Mabireの著書によると、4月29日午後、[[第11SS義勇装甲擲弾兵師団|「ノルトラント」師団]]の[[スカンディナヴィア]]人将校(おそらくクリステンセンSS中尉)が[[フランスSS突撃大隊]]の本部を訪れた。「類稀なお隣さん」への賞賛の意を込めて、彼はその場にいた者たちに[[ワイン]]をプレゼントした。そのとき彼はフネの部下であるドゥ |
Jean Mabireの著書によると、4月29日午後、[[第11SS義勇装甲擲弾兵師団|「ノルトラント」師団]]の[[スカンディナヴィア]]人将校(おそらくクリステンセンSS中尉)が[[フランスSS突撃大隊]]の本部を訪れた。「類稀なお隣さん」への賞賛の意を込めて、彼はその場にいた者たちに[[ワイン]]をプレゼントした。そのとき彼はフネの部下であるアルフレッド・ドゥールー武装連隊付上級士官候補生(''W-StdObJu.'' Alfred Douroux)にささやいた。「君たちの指揮官、[[アンリ・フネ]]大尉は[[騎士鉄十字章]]受章が約束されている」ただし、この情報は非公式であったため、クリステンセンSS中尉はこのことをフネに伝えなかった。しかし、ドゥールーは(おそらく終戦の直前に)フネにこのことを伝えた。それからフネは戦後に至るまで騎士鉄十字章に関する情報は何も聞かされなかった(事実、フネ自身のベルリン戦の回顧録'''"A Berlin Jusqu'au Bout"'''の中でフネは[[騎士鉄十字章]]受章に関する言及は一切していない)。 |
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このように、[[ベルリン市街戦]]の最中に[[フランスSS突撃大隊]]のフネ、ヴェーバー、アポロの3名に対する[[騎士鉄十字章]]が授与されたことを示唆する説はいくつか現在に伝わっているが、いずれも公式勲記が存在していないため、彼らに対する騎士鉄十字章授与の事実を証明することは不可能である。しかしながら、[[ベルリン市街戦]]における[[フランスSS突撃部隊]]のヴォロ |
このように、[[ベルリン市街戦]]の最中に[[フランスSS突撃大隊]]の[[アンリ・フネ]]、[[ヴィルヘルム・ヴェーバー (親衛隊隊員)|ヴィルヘルム・ヴェーバー]]、[[フランソワ・アポロ]]の3名に対する[[騎士鉄十字章]]が授与されたことを示唆する説はいくつか現在に伝わっているが、いずれも公式勲記が存在していないため、彼らに対する騎士鉄十字章授与の事実を証明することは不可能である。しかしながら、[[ベルリン市街戦]]における[[フランスSS突撃部隊]]の[[ウジェーヌ・ヴォロ]]以外にもアンリ・フネ、ヴィルヘルム・ヴェーバー、フランソワ・アポロも[[騎士鉄十字章]]を授与されたというのが現在の通説である。 |
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=== ベルリン脱出 === |
=== ベルリン脱出 === |
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153行目: | 243行目: | ||
4月29日に[[騎士鉄十字章]]を授与された[[ウジェーヌ・ヴォロ]]武装伍長は、5月1日から2日の深夜にかけてベルリン脱出を試みた12名ほどのフランス人義勇兵、ドイツ人SS兵士、そして[[スカンディナヴィア]]出身のSS外国人義勇兵から成るグループに加わって西を目指した。彼らのグループには2輛の[[ティーガーI]]重戦車が随伴していた。しかし、[[ティーアガルテン]]まで辿り着いたところで彼らは主要道路を塞ぐソビエト赤軍の抵抗に遭遇した。ティーガー戦車2両は敵陣の突破に成功したが、21歳のヴォロ武装伍長はこの戦闘で命を落とした。 |
4月29日に[[騎士鉄十字章]]を授与された[[ウジェーヌ・ヴォロ]]武装伍長は、5月1日から2日の深夜にかけてベルリン脱出を試みた12名ほどのフランス人義勇兵、ドイツ人SS兵士、そして[[スカンディナヴィア]]出身のSS外国人義勇兵から成るグループに加わって西を目指した。彼らのグループには2輛の[[ティーガーI]]重戦車が随伴していた。しかし、[[ティーアガルテン]]まで辿り着いたところで彼らは主要道路を塞ぐソビエト赤軍の抵抗に遭遇した。ティーガー戦車2両は敵陣の突破に成功したが、21歳のヴォロ武装伍長はこの戦闘で命を落とした。 |
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5月2日午前、すでに周囲一帯がソビエト赤軍に制圧されていることを確認した[[アンリ・フネ]][[親衛隊大尉| |
5月2日午前、すでに周囲一帯がソビエト赤軍に制圧されていることを確認した[[アンリ・フネ]][[親衛隊大尉|SS義勇大尉]]と少数の生存者は、中央街のUバーン駅から[[国会議事堂 (ドイツ)|帝国議事堂]]の向かい側にあるカイザーホーフUバーン駅に移動し、地下鉄の線路を利用してドイツ第12軍([[ヴァルター・ヴェンク]]装甲兵大将)がいるはずの[[ポツダム]]までの突破を試みた。 |
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彼らは小グループに分かれてベルリン市内のポツダマー駅まで辿り着いたが、同日午後3時頃、彼らの潜伏場所に[[国民突撃隊]]の老人数名が現れ、フランス人義勇兵と同じように身を隠そうとした。しかし、身を隠すのに手間取った老人たちをソビエト赤軍の斥候が発見したため、フランス人義勇兵たちは次々とソビエト赤軍の[[捕虜]]となった。 |
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== 戦後 == |
|||
== 「シャルルマーニュ」師団の最期 == |
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最終的に[[ベルリン市街戦]]を生き残ったフランス人義勇兵はソビエト赤軍の捕虜となるか、個人もしくはグループでベルリンを脱出するなどした。しかし、[[第二次世界大戦]]後にフランスへ帰国した元[[武装親衛隊]]フランス人義勇兵のほとんどがその行動を非難され、連合軍の捕虜収容所へ送られた。 |
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一方、1945年4月24日、[[ベルリン]]北方の[[ノイシュトレリッツ]]とその周辺には「シャルルマーニュ」師団の中で戦闘継続を希望せず、[[ベルリン]]へ出発しなかった将兵(ベルリンへ向かったが車両が故障して道中で引き返した一部の将兵も含む)が約700名駐屯していた。そのうち約300名は第58SS大隊と師団本部と各種支援部隊の者で、約400名は建設大隊の者であった。この時の「シャルルマーニュ」の編制は次の通り<ref>Robert Forbes 前掲書 p466。ただし各指揮官の姓名と階級はGrégory Bouysse 前掲書を参照。</ref>。 |
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[[フランスSS突撃大隊]]指揮官[[アンリ・フネ]][[親衛隊大尉|SS大尉]]は足に重傷を負っていたため、ソビエト赤軍の捕虜収容所に入って間もなくベルリン北部の病院へ送られた。しかし数日後、退院して収容所に戻る途中にフネは脱走に成功した(驚くべきことに、あるロシア人の住民がフネに民間人の衣服を与えて脱走の手助けをした)。それからフネはベルリン南部においてフランス人の本国帰還グループに加わり、[[ヴァランシエンヌ]](Valenciennes)経由でフランスへ帰国した。ところが、その際にフネは左腕に彫っていた血液型の[[刺青]](武装親衛隊員の特徴)を発見され、現地のフランス兵によって逮捕された。フネを逮捕した兵士はフネに対し、「この文字は人殺しの、それも最も危険な人殺しの印だ」と言った。そして開かれた裁判においてフネは20年間の重労働を課されたが、1949年末に釈放された。その後、フネはかつて[[武装親衛隊]]の外国人義勇兵として戦った者のために様々な活動を続けるスポークスマンとなり、晩年までにいくつかのドキュメンタリー番組やラジオ放送に登場し、各種インタビューに応じた。フネは2002年9月14日に[[パリ]]で亡くなった。 |
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{{quotation| |
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== バト・ライヒェンハル == |
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'''「シャルルマーニュ」師団(連隊) 1945年4月24日''' |
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*指揮官:[[ヴァルター・ツィンマーマン (親衛隊隊員)|ヴァルター・ツィンマーマン]][[親衛隊大佐|SS大佐]](''SS-Staf.'' Walter Zimmermann) |
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**副官:[[ジャン・ブデ=グジ]][[親衛隊少佐|武装少佐]](''W-Stubaf.'' Jean Boudet-Gheusi) |
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*第58SS大隊(SS-Bataillon 58):クレープシュ[[親衛隊大尉|SS大尉]](''SS-Hstuf.'' Kroepsch) |
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*建設大隊(Baubataillon):ロベール・ロアSS義勇大尉(''SS-Freiw. Hstuf.'' Robert Roy) |
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|}} |
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この時、指揮官の[[ヴァルター・ツィンマーマン (親衛隊隊員)|ヴァルター・ツィンマーマン]][[親衛隊大佐|SS大佐]](「シャルルマーニュ」師団訓練責任者)はポメラニア戦線で負った戦傷から回復中であり、実務は副官の[[ジャン・ブデ=グジ]][[親衛隊少佐|武装少佐]]が担当していた。 |
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=== 師団本部の最期 === |
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[[1945年]][[4月25日]]朝から26日晩にかけて、「シャルルマーニュ」師団(連隊)の将兵はベルリン北方において対戦車障害物工事に従事していた。しかし、27日午前中に[[赤軍|ソビエト赤軍]]が彼らの陣地まで数十キロメートルの地点に進出すると、[[ジャン・ブデ=グジ]][[親衛隊少佐|武装少佐]]は師団本部を[[ツィノウ]]([[:de:Liste der Baudenkmale in Carpin|Zinow]])西方へ移動させた。翌28日、ソビエト赤軍は「シャルルマーニュ」の駐屯地であった[[ベルクフェルト]]([[:de:Bergfeld|Bergfeld]])を占領した。 |
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[[1945年]][[5月1日]]晩、「シャルルマーニュ」師団本部と第58SS大隊は[[シュヴェリーン]]地方に到達したが、そこで彼らは[[1939年]]から[[1940年]]の間にドイツ軍の[[捕虜]]となった[[フランス軍]]将兵と遭遇した。薄笑いを浮かべたフランス軍将兵は「シャルルマーニュ」師団本部の者たちに対し、[[イギリス軍]]は既に[[エルベ川]]を渡って攻勢を開始しており、また、「[[イギリス]]の[[ラジオ]]」([[英国放送協会|BBC]]ワールド・サービス)が現在伝えるところによれば、イギリス軍は約30キロメートル先の地点に進出していると知らせた。師団本部の者たちはこの情報に感謝すると同時に、[[赤軍|ソビエト赤軍]]がわずか10キロメートルの地点にまで迫っていることをフランス軍将兵に伝えた。表情から笑みが消えたフランス軍将兵は他の捕虜に警告するため、その場から走り去った。 |
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[[1945年]][[5月2日]]早朝、「シャルルマーニュ」師団本部は西から迫る[[イギリス軍]]と東から迫る[[赤軍|ソビエト赤軍]]のちょうど中間地点にいた。その後、[[ラジオ]]を通じて、[[アドルフ・ヒトラー|総統]]が[[ベルリン]]で死んだという知らせがもたらされた。[[ジャン・ブデ=グジ]][[親衛隊少佐|武装少佐]]は師団本部のドイツ人要員に対し、[[ドイツ国防軍|国防軍]]部隊に合流するかドイツ軍戦線に辿り着くように命じた。そして残りのフランス人義勇兵には、イギリス軍に投降するか、民間人の服を着て捕虜あるいは徴用された外国人労働者を装うかの選択権が与えられた。 |
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[[ジャン・ブデ=グジ]][[親衛隊少佐|武装少佐]]と数名の将兵はイギリス軍へ投降することを選び、5月2日午後3時、[[ボビッツ]]([[:de:Bobitz|Bobitz]])[[鉄道駅]]においてイギリス軍のオートバイ兵と遭遇した。次いで、[[武装親衛隊]]の一員ではなく[[反共フランス義勇軍団]]の指揮官であることを主張しながら、ブデ=グジは1人のイギリス軍戦車将校に近付き、イギリスの[[将軍]]のもとへ案内するよう要求した。 |
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その後、イギリス軍戦車の一団は[[ジャン・ブデ=グジ]][[親衛隊少佐|武装少佐]]を戦車の上に乗せ、この[[反共フランス義勇軍団]]の指揮官を[[共産主義者]]に引き渡すために[[赤軍|ソビエト赤軍]]のもとへ向かった。 |
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=== 第58SS大隊の最期 === |
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[[1945年]][[5月1日]]もしくは2日、[[シュヴェリーン]]南部に留まっていた第58SS大隊第5中隊(約60名強)は文字通り[[アメリカ軍]]と[[赤軍|ソビエト赤軍]]に挟まれた。そして、第58SS大隊第5中隊の将兵は残弾をすべてソビエト赤軍に向けて撃ち尽くした後、アメリカ軍に投降した。 |
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=== 建設大隊の最期 === |
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[[1945年]][[4月27日]]から28日にかけての夜、建設大隊は[[ノイシュトレリッツ]]北西の[[ヴァーレン]](Waren)に移動した。彼らは[[空襲]]によって何名かを失い、さらに[[アメリカ軍]]と[[赤軍|ソビエト赤軍]]が迫りつつあったため、大隊指揮官のロベール・ロア[[親衛隊大尉|SS義勇大尉]]は建設大隊の解散を決意した。 |
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しかし、その時出現したアメリカ軍戦車によって恐慌をきたした大隊は多くの犠牲者を出し、また、大隊の一部はソビエト赤軍の先鋒部隊に蹂躙された。こうして、武器よりも[[シャベル]]を手にすることを希望した建設大隊は戦闘で壊滅し、一部の生存者は辛うじて[[アメリカ軍]]や[[イギリス軍]]に投降した。 |
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== 戦後 == |
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{{節stub}} |
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[[第二次世界大戦]]後、[[フランス]]へ帰国した元[[武装親衛隊]][[フランス人]][[義勇兵]]のほとんどが対独協力者を対象とした裁判にかけられ、罪状に応じた判決を言い渡された。 |
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== バート・ライヒェンハル == |
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=== 12名のフランス人SS義勇兵とルクレール将軍 === |
=== 12名のフランス人SS義勇兵とルクレール将軍 === |
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1945年5月8日午前10時頃、[[ドイツ]] |
[[1945年]][[5月8日]]午前10時頃、[[ドイツ]]南部・[[ババリア]]で12名のフランス人SS義勇兵<ref group="注">この時捕虜となったフランス人SS義勇兵は13名であり、そのうち1名は処刑を免れたと記す説(その1名は[[フィリップ・ルクレール]]将軍の友人であるフランス軍将校の息子であったため、ルクレール将軍は密かに彼を捕虜の中から分離し、父親のもとへ送り返した)もある。しかしながら、この事件の目撃者(フローラン少尉、セルジュ・ド・B、ゴーム司祭)は全員、捕虜は12名であったと証言している(Robert Forbes 前掲書 p478 脚注参照)。</ref>が[[アメリカ軍]]に戦うことなく降伏した。アメリカ軍はただちに彼らを[[フランク・ミルバーン]][[少将]](General [[:en:Frank W. Milburn|Frank Milburn]])のアメリカ第21軍団に所属していた、[[フィリップ・ルクレール]]将軍の[[第2機甲師団 (フランス陸軍)|第2自由フランス機甲師団]]に引き渡した<ref group="注">'''"Fusillés sans jugement"'''および'''"Historia #32"'''の記述によると、アメリカ軍は捕らえたフランス人SS義勇兵とドイツ兵をひとまずバート・ライヒェンハルの[[山岳猟兵]]兵舎(Gebirgsjäger Kaserne)に管理していた。しかし、自分たちを監視する警備兵がアメリカ軍から[[シャルル・ド・ゴール|ド・ゴール派]]のフランス軍([[自由フランス軍]])に代わると知ったフランス人SS義勇兵たちはフェンスを乗り越え、近隣の森へ逃げ込んだ。しかしながら、脱走はたちまち発覚し、フランス人SS義勇兵たちは森を包囲した第2自由フランス機甲師団の2個[[中隊]]によって再び捕らえられたという。この出来事の証拠は無いが、このようにフランス人SS義勇兵が引渡し直前に脱走を図ったとする説もある(Robert Forbes 前掲書 p478 脚注参照)。</ref>。 |
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捕虜たちは[[バート・ライヒェンハル]]([[:de:Bad Reichenhall|Bad Reichenhall]])の屋敷に設けられたルクレール将軍の前線指揮所に連行された。この時、第2自由フランス機甲師団本部中隊の下士官セルジュ・ド・B(Serge des B.)は、捕虜のうちの2、3名、とりわけ1名の将校に対して言った。 |
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{{Cquote|フランス人に降伏するなんてどうかしている。とんでもないことが起きるぞ! お前たちは民間人の服を着てフランスに帰るべきだったんだ |
{{Cquote|フランス人に降伏するなんてどうかしている。とんでもないことが起きるぞ! お前たちは民間人の服を着てフランスに帰るべきだったんだ!}} |
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すると、その将校セルジュ・クロトフ[[親衛隊中尉| |
すると、その将校[[セルジュ・クロトフ]][[親衛隊中尉|SS義勇中尉]](''SS-Freiw. Ostuf.'' Serge Krotoff)は威厳を込めて答えた。 |
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{{Cquote|我々はフランスの理想のために戦った兵士だ。民間人の服は着ない。 |
{{Cquote|我々はフランスの理想のために戦った兵士だ。民間人の服は着ない。}} |
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確かに、1、2名はいたであろう例外を除き、捕虜となったフランス人SS義勇兵たちは |
確かに、1、2名はいたであろう例外を除き、捕虜となったフランス人SS義勇兵たちは威厳を持って事実を直視していた。このことはセルジュ・ド・Bに強い印象を与えた。 |
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やがて、12 |
やがて、12人の捕虜たちと会話をするためにルクレール将軍が姿を現した。そして開口一番に、お前たちは外国の制服を着て恥ずかしくないのかと怒鳴りつけた。すると、捕虜の1人[[ポール・ブリフォー]][[親衛隊少尉|武装少尉]](''W-Ustuf.'' Paul Briffaut)は、「あなたも外国の制服を着ているではありませんか、将軍閣下!」と言い返した。この時ルクレールは師団のなかでただ1人、米軍の制服を着ていたのだった<ref>秦 郁彦/佐瀬昌盛/常石敬一 編'''『世界戦争犯罪事典』'''(文藝春秋・2002年)pp.602-603.</ref>。 |
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そして、第2自由フランス機甲師団のある軍曹とセルジュ・ド・Bは、これ以後捕虜たちの監視の責任を持つとともに、捕虜と会話をしないよう命じられた。彼らが2時間ほど捕虜たちを監視した時、時刻はすでに |
そして、第2自由フランス機甲師団のある軍曹とセルジュ・ド・Bは、これ以後捕虜たちの監視の責任を持つとともに、捕虜と会話をしないよう命じられた。彼らが2時間ほど捕虜たちを監視した時、時刻はすでに午後2時を回っていた。 |
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=== 銃殺命令下達 === |
=== 銃殺命令下達 === |
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やがて、彼らに捕虜の[[銃殺]]命令が与えられたが、誰が出した命令だったのか現在でも明 |
やがて、彼らに捕虜の[[銃殺]]命令が与えられたが、誰が出した命令だったのか現在でも明確にされていない<ref group="注">多くの史料は捕虜たちと対面したルクレール将軍が銃殺命令を下したと記しているが、この記述を裏付ける目撃者はいない。しかしながら、元第2自由フランス機甲師団の関係者から3つの証言が寄せられている。まず、元第2自由フランス機甲師団本部中隊の下士官セルジュ・ド・Bによれば、ルクレール将軍は命令実行のために[[パリ]]に連絡をとったが、パリからの回答はあやふやなものであった。次に、元第2自由フランス機甲師団付の[[従軍牧師|従軍司祭]]フーケ(''Peré'' Fouquet)は、処刑されたフランス人SS義勇兵のうちの1名の家族に対し、戦後に次のように伝えている。「司令部において(処刑)命令が名も知らぬ将校によって決定されました。その後、ルクレール将軍と電話連絡がありました(Soulat, p124)。第3に、元第2自由フランス機甲師団の隊員であるボシュ(Boch)によれば、[[シャルル・ド・ゴール]]がルクレールに対し、政治的な理由から捕虜たちを銃殺するよう電話で命じたという("Le guet-apens de Bad Reichenhall")。以上、Robert Forbes 前掲書 p480 脚注参照。</ref>。しかし、この命令は前日にドイツの降伏文書の調印が行われ、[[ヨーロッパ戦勝記念日|本日(1945年5月8日)午後11時に停戦が発効]]されるのを承知していた上で出されたものであることは明らかだった。[[軍法会議]]での裁判は無かった。 |
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捕虜の銃殺 |
捕虜の銃殺決定を聞いたセルジュ・ド・Bは、数名を伴って第2自由フランス機甲師団司令部へ出頭し、捕虜の銃殺の再検討を促した。しかし上層部の決定は覆らず、後になってセルジュ・ド・Bは彼のとった行動を譴責された。 |
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この銃殺決定命令は、銃殺班の結成が「きつい仕事」であることを示した。[[国際旅団]]の一員として[[スペイン内戦]]に参加した古参兵で |
この銃殺決定命令は、銃殺班の結成が「きつい仕事」であることを示した。[[国際旅団]]の一員として[[スペイン内戦]]に参加した古参兵でさえ命令を拒否した。それでも最終的には、[[モーリス・フェラーノ]][[中尉]](''Lieutenant'' Maurice Ferrano)指揮下の[[チャド]][[植民地]]行進[[連隊]]第Ⅰ大隊第4中隊(4e compagnie du I bataillon du Régiment de Marche du Tchad)が銃殺班を提供した。第4中隊には、スペイン内戦で敗北した共和国軍の[[スペイン人]]が多く所属していた。フローラン[[少尉]](''Sous-lieutenant'' Florent)指揮下の第4中隊第1小隊は、銃殺場所として選ばれたクーゲルバッハ川畔の開拓地に捕虜たちを移送する責務を負った。 |
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そして午後遅く、捕虜たちはバト・ライヒェンハルからさほど離れていないカールシュタインまでトラックで運ばれ、そこから開拓地まで徒歩で向かった。フローラン少尉は捕虜の中の[[下士官]]の1人と言葉を交わし、何が君を |
そして午後遅く、捕虜たちはバート・ライヒェンハルからさほど離れていない[[カールシュタイン]]([[:de:Karlstein (Bad Reichenhall)|Karlstein]])までトラックで運ばれ、そこから開拓地まで徒歩で向かった。フローラン少尉は捕虜の中の[[下士官]]の1人と言葉を交わし、何が君を[[反共フランス義勇軍団]]へと入隊させたのかと尋ねた。その下士官は答えた<ref>Robert Forbes 前掲書 p480</ref>。 |
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{{Cquote|俺の親父は[[第一次世界大戦|1914-1918年の戦争]]中に[[ベルギー]]戦線で戦死し、お袋は俺を捨てた。それから[[リヨン]]に住む老 |
{{Cquote|俺の親父は[[第一次世界大戦|1914-1918年の戦争]]中に[[ベルギー]]戦線で戦死し、お袋は俺を捨てた。それから[[リヨン]]に住む老女に引き取られた俺は、財政面で彼女をできる限り手助けするために反共フランス義勇軍団へ入隊した。俺があんたに言えるのは、俺はアカどもと戦ったがフランス人には1発も撃っていないってことだ。}} |
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そしてこの下士官はフローラン少尉に対し、以前に |
そしてこの下士官はフローラン少尉に対し、以前に1度も吸ったことがないから、もし[[イギリス]]の[[たばこ|タバコ]]を持っていたらくれないかと尋ねた。フローラン少尉は彼にタバコを1本渡した。 |
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=== 銃殺 === |
=== 銃殺 === |
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1945年5月8日午後 |
1945年5月8日午後5時頃、捕虜たちは銃殺された。セルジュ・ド・Bにとって、この処刑は「ひどく不快だった」<ref>同上。1984年12月13日、元第2自由フランス機甲師団本部中隊のセルジュ・ド・Bへのインタビューによる。</ref>。背中を撃たれると聞かされた捕虜たちは激しく抗議し、銃殺班と対面して撃たれることを許可された。捕虜のうちの1人の将校は「お前たちに俺を撃つ権利は無い。俺は結婚しているんだ。ましてや俺は[[フランス人]]じゃないぞ・・・」<ref>同上 pp.480-481.</ref>と叫んだ。また、別の将校(おそらくは[[セルジュ・クロトフ|クロトフ]][[親衛隊中尉|SS義勇中尉]])は銃殺班の前に立った時、部下たちにフランス国歌[[ラ・マルセイエーズ]]を高らかに歌うよう勇気付けた。 |
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第2自由フランス機甲師団11/ |
第2自由フランス機甲師団第64砲兵連隊第11中隊(XI/64e Régiment d'Artillerie)の[[カトリック]][[従軍牧師|従軍司祭]]マキシム・ゴーム(Maxime Gaume)は、処刑されたフランス人SS義勇兵のうちの1名の遺族に対し、戦後になって次のように述べている<ref>同上 p481</ref>。 |
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{{Cquote|司令部において、[[軍法会議]]無しで捕虜を銃殺する決定がなされた後、師団付[[従軍牧師|従軍司祭]]のフーケ司祭は私に対し、彼ら(捕虜)の最期の時を安心させるよう命じました。銃殺命令を受けた若い少尉は私の所属部隊の者ではなく、このような命令を実行してよいのかどうか完全にうろたえていました。それから彼は考えを改め、彼の持てる力を全て犠牲者の最期の瞬間を安心させることに注ぎ、また、彼らの処刑前に[[聖餐|聖体拝領]]を行うようにとも命じられました。バト・ライヒェンハルからトラックで運ばれた11 |
{{Cquote|司令部において、[[軍法会議]]無しで捕虜を銃殺する決定がなされた後、師団付[[従軍牧師|従軍司祭]]のフーケ司祭は私に対し、彼ら(捕虜)の最期の時を安心させるよう命じました。銃殺命令を受けた若い少尉は私の所属部隊の者ではなく、このような命令を実行してよいのかどうか完全にうろたえていました。それから彼は考えを改め、彼の持てる力を全て犠牲者の最期の瞬間を安心させることに注ぎ、また、彼らの処刑前に[[聖餐|聖体拝領]]を行うようにとも命じられました。<br />[[バート・ライヒェンハル]]からトラックで運ばれた11名(筆者(Robert Forbes)注・12名)は、第2自由フランス機甲師団の司令部がある[[カールシュタイン]]に向かいました。彼らのうちの1名だけが信仰の助けを拒否し、彼らのうちの3名は家族に対し言い遺すことは無いと明言しました。<br />銃殺は4人ずつ、3回に分けて行われました。彼らの全員が目隠しを断り、全員が「フランス万歳」("Vive la France")と叫んで斃れました。最後の4人の中には[[ポール・ブリフォー|ブリフォー]]少尉と、おそらくパイラ二等兵が含まれていたと思われます。命令を受けた後、私は(捕虜の)遺体をそのまま放置して立ち去りましたが、近隣に滞在していたアメリカ兵に遺体を埋葬するよう薦め、数日後にそれは果たされました。}} |
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また、ゴームは戦後 |
また、ゴームは戦後([[1958年]][[4月18日]])に次のように記している<ref>同上</ref>。 |
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{{Cquote|彼ら(12名のフランス人SS義勇兵)は、彼らに対して敬意を払い、彼らのために心を痛めた(第2自由フランス機甲師団の)兵士たちによって、憎しみも無く簡潔に処刑されました。}} |
{{Cquote|彼ら(12名のフランス人SS義勇兵)は、彼らに対して敬意を払い、彼らのために心を痛めた(第2自由フランス機甲師団の)兵士たちによって、憎しみも無く簡潔に処刑されました。}} |
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さらにゴームは、作家のルネ・バル(René Bail)に処刑の詳細を伝えている。12 |
さらにゴームは、作家のルネ・バル(René Bail)に処刑の詳細を伝えている。12名のうち「信仰の助け」を拒否した1名はゴームに対し、自分は[[無神論]]者として生きてきたから、そうやって生きてきたように死ぬ、と説明した。また、家族に対し言い遺すことは無いと明言した3名のうち、1名は言葉を遺す両親も友もいないと言い、1名は自分に何が起こったのか家族は知らない方がいいと言った。 |
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一方、この処刑を目撃した地元の民間人女性は後に次のように述べている<ref>同上, p482 |
一方、この処刑を目撃した地元の民間人女性は後に次のように述べている<ref>同上, p482</ref>。 |
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{{Cquote|あの人たちは2台の車でやって来て、私はこう思いました。何てことなの、あの人たちは一体何をするつもりなの? その時私は兵隊さんと一緒に家に隠れていました。その兵隊さんは私に「行ってはだめだ」と言いましたが、私は何が起こるのか行って確かめずにはいられませんでした。隠れながら現場に近づいていた時、私は溝に滑り落ちました。…2人の若者が水と木の十字架を欲していました。そのうちの1人は目隠しを拒絶し、もう1人は目隠しを頼みました。そして2人は |
{{Cquote|あの人たちは2台の車でやって来て、私はこう思いました。何てことなの、あの人たちは一体何をするつもりなの? その時私は兵隊さんと一緒に家に隠れていました。その兵隊さんは私に「行ってはだめだ」と言いましたが、私は何が起こるのか行って確かめずにはいられませんでした。隠れながら現場に近づいていた時、私は溝に滑り落ちました。…2人の若者が水と木の十字架を欲していました。そのうちの1人は目隠しを拒絶し、もう1人は目隠しを頼みました。そして2人は殺されました。恐ろしくなった私は悲鳴を上げました。幸い、銃声にかき消されて私の叫び声はあの人たちに聴こえていませんでした。もしそうでなければ、あの人たちは私も殺していたでしょう…}} |
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この証言は捕虜全員が目隠しを拒絶したとするゴームの言と相反してる。現在においてこれらの証言の不一致は折り合いがついていない。 |
この証言は捕虜全員が目隠しを拒絶したとするゴームの言と相反してる。現在においてこれらの証言の不一致は折り合いがついていない。 |
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=== 銃殺後の出来事 === |
=== 銃殺後の出来事 === |
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銃殺後、捕虜の |
銃殺後、捕虜の遺体はその場に放置され、[[5月10日]]の夕方には第2自由フランス機甲師団の最後の部隊が[[バート・ライヒェンハル]]を出発した。彼らと交代してこの地を担当した[[アメリカ軍]]部隊の[[従軍牧師|従軍司祭]]とアメリカ兵によって12名のフランス人SS義勇兵の遺体は埋葬され、木の十字架に犠牲者の名前が刻まれた。 |
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その後、バト・ライヒェンハル近隣の住民の間に、12名ほどのフランス人SS兵士がカールシュタインで銃殺されたという噂が流れた。噂の事実確認に当たった地元ドイツ警察は第2自由フランス機甲師団の将兵が関与していると調査したが、それ以上の追及は行われなかった。 |
その後、バート・ライヒェンハル近隣の住民の間に、12名ほどのフランス人SS兵士が[[カールシュタイン]]で銃殺されたという噂が流れた。噂の事実確認に当たった地元[[ドイツの警察|ドイツ警察]]は第2自由フランス機甲師団の将兵が関与していると調査したが、それ以上の追及は行われなかった。 |
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銃殺から間もなく、[[反共フランス義勇軍団]]および「シャルルマーニュ」師団の[[従軍神父|従軍司祭]][[ジャン・ド・マヨール・ド・リュペ]](Jean de Mayol de Lúpe)(モンシニョール)がクーゲルバッハ川畔を訪れ、捕虜の埋葬場所において十字を切って祝福した。 |
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1945年末から1946年初頭にかけての冬、犠牲者の名を刻んだ十字架が「消滅」した。しかしこれは不気味な現象でも何でもなく、単に周囲の樹木に積もった[[雪]]が落下し、犠牲者の十字架を雪で崩れさせたのであった。 |
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1945年末から[[1946年]]初頭にかけての[[冬]]、犠牲者の名を刻んだ十字架が「消滅」した。しかしこれは不気味な現象でも何でもなく、単に周囲の樹木に積もった[[雪]]が落下し、犠牲者の十字架を雪で崩れさせたのであった。 |
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1949年6月2日、カールシュタインにおいて銃殺された12名のフランス人SS義勇兵の遺体が最終的にバト・ライヒェンハルのザンクト・ツェノ(Sankt Zeno)共同墓地(墓番号Grupp 11, Reihe 3, Nr. 81 und 82)に改葬された。現在までに氏名が判明している犠牲者は次の5名のみである。 |
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[[1949]][[年6月2日]]、カールシュタインにおいて銃殺された12人のフランス人SS義勇兵の遺体がバート・ライヒェンハルのザンクト・ツェノ(Sankt Zeno)共同墓地(墓番号Grupp 11, Reihe 3, Nr. 81 und 82)に改葬された。 |
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[[1963年]][[7月6日]]、遺体は再度掘り出され、[[第一次世界大戦]]の死者を偲ぶ記念碑の近くの壁の前に改葬された。そして、犠牲者のうち5人の名前が改めてプレートに刻まれた。 |
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{{quotation| |
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PAUL BRIFFAUT<br /> |
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ROBERT DOFFAT<br /> |
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SERGE KROTOFF<br /> |
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JEAN ROBERT<br /> |
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8 UNBEKANNTE<br /> |
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<br /> |
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GEFALLEN AM 8.5.1945<br /> |
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<br /> |
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RAYMOND PAYRAS<br /> |
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|}} |
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当初は上から順に「[[ポール・ブリフォー]]、ロベール・ドファ、[[セルジュ・クロトフ]]、ジャン・ロベール、身元不明8名、1945年5月8日没」と記されていたが、後にレーモン・パイラの身元が明らかになると彼の氏名もプレートの下部に追加された(ただし、このうち"Jean Robert"は犠牲者の名前を混同した存在しない人物であり、Robert "Doffat"の綴りも正確には"Daffas"である)。 |
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[[1981年]][[10月25日]]、12名のフランス人SS義勇兵の銃殺場所に彼らの記念[[十字架]]が建立された。現在までに氏名が判明している犠牲者は次の通り。 |
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{{quotation| |
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*セルジュ・クロトフ[[親衛隊中尉| |
*セルジュ・クロトフ[[親衛隊中尉|SS義勇中尉]](''SS-Freiw. Ostuf.'' Serge Krotoff) |
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*ポール・ブリフォー[[親衛隊少尉|武装少尉]]('' |
*ポール・ブリフォー[[親衛隊少尉|武装少尉]](''W-Ustuf.'' Paul Briffaut) |
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*ロベール・ダファ[[親衛隊少尉|武装少尉]]('' |
*ロベール・ダファ[[親衛隊少尉|武装少尉]](''W-Ustuf.'' Robert Daffas) |
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*レーモン・パイラ[[親衛隊二等兵|武装二等兵]]('' |
*レーモン・パイラ[[親衛隊二等兵|武装二等兵]](''W-Gren.'' Raymond Payras) |
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*ジャック・ポンノ(Jacques Ponnau) |
*ジャック・ポンノ(Jacques Ponnau) |
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|}} |
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セルジュ・クロトフは1911年10月11日に[[マダガスカル]]の[[アンタナナリボ]]([[ |
[[セルジュ・クロトフ]]は[[1911年]][[10月11日]]に[[マダガスカル]]の[[アンタナナリボ]]で生まれ、[[パリ]]で育った(彼の曾祖父は[[19世紀]]の[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]の時代に[[フランス]]へ移住した[[ロシア人]]であった)。1944年2月に[[武装親衛隊]]に入隊した後、ゼンハイムの親衛隊訓練施設において基礎訓練に従事し、次いでキーンシュラークSS擲弾兵学校で将校としての訓練を受け、1944年9月に卒業した。「シャルルマーニュ」師団においてクロトフは戦車猟兵大隊[[対戦車砲]]中隊指揮官として[[ポメラニア]]戦線に従軍したが、1945年2月25日に負傷し、翌26日に後送された。 |
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ポール・ブリフォーは1918年8月8日に[[ベトナム]]の[[ハノイ]]で生まれた。 |
[[ポール・ブリフォー]]は[[1918年]][[8月8日]]に[[ベトナム]]の[[ハノイ]]で生まれた。1939年10月にサン=メクサン(Saint-Maixent)軍学校を卒業して予備役歩兵士官候補生(aspirant de réserve de infanterie)となり、Levantの第16ライフル歩兵連隊(16 RTT)に配属された。1941年には[[ヴィシーフランス]]政府のためにイギリス軍や[[ド・ゴール]]派のフランス人と戦った。1943年に[[反共フランス義勇軍団]]へ志願し、同年10月に[[独ソ戦|東部戦線]]へ出発した。1944年2月、反共フランス義勇軍団の第1中隊に所属していたブリフォーは「モロッコ」作戦中に重傷を負い、1944年秋に反共フランス義勇軍団が武装親衛隊に編入された時も野戦病院で治療を受けていた。負傷回復後は第58SS武装擲弾兵連隊の[[歩兵砲]]中隊指揮官となったが、1944年12月に戦傷がもとで除隊となった。バート・ライヒェンハルで処刑された時、ブリフォーは反共フランス義勇軍団時代に使用していた[[ドイツ国防軍]]の制服を着ていた。[[二級鉄十字章]]受章者。 |
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1908年4月13日に生まれた |
ロベール・ダファ<ref group="注">Grégory Bouysse '''"Waffen-SS Français volume 1: officiers"'''によると、ダファの名前がロベール(Robert)というのは誤りで、正確にはレーモン(Raymond)であるという。</ref>は[[1908年]][[4月13日]]に[[フランス]]の[[オーシュ]]で生まれた。[[1941年]][[11月29日]]に[[反共フランス義勇軍団]]へ4642番目の義勇兵として入隊<ref>Grégory Bouysse 前掲書 "Raymond DAFFAS"参照。</ref>、第Ⅲ大隊に下士官として勤務していた。「シャルルマーニュ」師団に移籍した後は第58SS武装擲弾兵連隊本部中隊に[[親衛隊少尉|武装少尉]]として勤務し、ポメラニア戦線で多くの戦闘に参加した。 |
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レーモン・パイラは1922年12月16日に[[スリランカ]]の[[コロンボ]]で生まれた。当初は |
レーモン・パイラは[[1922年]][[12月16日]]に[[スリランカ]]の[[コロンボ]]で生まれた。当初は[[民兵団 (フランス)|フランス民兵団]]の前身である[[戦士団保安隊]]に所属し、後に[[武装親衛隊]]に志願した。彼の身元は彼の両親が明らかにした。 |
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1979年、処刑前 |
[[1979年]]、処刑前に撮影された捕虜の写真からジャック・ポンノの身元が明らかにされた(ただし、彼の階級は不明)。 |
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今日、毎年5月にはバト・ライヒェンハルで処刑された12名のフランス人SS義勇兵のための追悼式がクーゲルバッハ川畔で行われている。 |
今日、毎年5月にはバート・ライヒェンハルで処刑された12名のフランス人SS義勇兵のための追悼式がクーゲルバッハ川畔で行われている。 |
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=== 総括 === |
=== 総括 === |
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1945年5月8日、[[フィリップ・ルクレール|ルクレール]]将軍麾下の第2自由フランス機甲師団はバト・ライヒェンハルにおいて[[戦争犯罪]]を行った。しかし、この事件に関しては次のような疑問を含む未解決の要素が数多く残っている<ref> |
[[1945年]][[5月8日]]、[[フィリップ・ルクレール|ルクレール]]将軍麾下の第2自由フランス機甲師団はバート・ライヒェンハルにおいて[[戦争犯罪]]を行った。しかし、この事件に関しては次のような疑問を含む未解決の要素が数多く残っている<ref>Robert Forbes 前掲書 p484</ref>。 |
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*誰が捕虜たちの銃殺命令を下したのか |
*誰が捕虜たちの銃殺命令を下したのか |
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*なぜ捕虜たちは[[軍法会議]]で裁かれなかったのか |
*なぜ捕虜たちは[[軍法会議]]で裁かれなかったのか |
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*1945年5月8日午後 |
*1945年5月8日午後11時に停戦が発効されるという事実が捕虜たちを早急な銃殺へ追いやったのか |
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*アメリカ軍はこの銃殺について何か知っていたのか |
*アメリカ軍はこの銃殺について何か知っていたのか |
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バト・ライヒェンハルの事件から60年以上の時を経てもなお、これらの疑問は未解決のままである。そして現在、真実が明らかにされることはない。 |
バート・ライヒェンハルの事件から60年以上の時を経てもなお、これらの疑問は未解決のままである。そして現在、真実が明らかにされることはない。 |
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== 師団指揮官 == |
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| '''就任'''||'''離任'''||'''階級(着任当時)'''||'''氏名''' |
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|1945年2月 || 1945年3月(行方不明)|| [[親衛隊上級大佐|武装上級大佐]] || [[エドガー・ピュオ]]<br/>[[:fr:Edgar Puaud|Edgar Puaud]] |
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|1945年3月 || 1945年4月24日(ベルリン出発)|| [[親衛隊少将|SS少将]] || [[グスタフ・クルケンベルク]]<br/> [[:de:Gustav Krukenberg|Gustav Krukenberg]] |
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|1945年4月24日 || 1945年5月(終戦)|| [[親衛隊大佐|SS大佐]] || [[ヴァルター・ツィンマーマン (親衛隊隊員)|ヴァルター・ツィンマーマン]]<br/> [[Walter Zimmermann]] |
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== 脚注 == |
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== 出典 == |
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==文献== |
==文献== |
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=== 英語 === |
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* {{cite book | first=Richard | last=Landwehr | title=Charlemagne's Legionnaires: French Volunteers of the Waffen-SS, 1943-1945 | location=Silver Spring, MD | publisher=Bibliophile Legion Books | year=1989 | isbn=0-918184-07-X}} |
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* |
*Robert Forbes '''"FOR EUROPE: The French Volunteers of the Waffen-SS"''' U.K.: Helion & Company, 2006. ISBN 1-874622-68-X |
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* Richard Landwehr '''"French Volunteers of the Waffen-SS"''' United States of America: Siegrunen Publications/Merriam Press, 2006. ISBN 1-57638-275-3 |
|||
*Tony Le Tissier '''"SS-Charlemagne: The 33rd Waffen-Grenadier Division of the SS"''' South Yorkshire: Pen & Sword Books, 2010. ISBN 978 1 84884 231 1 |
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=== ドイツ語 === |
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*Ernst-Günther Krätschmer '''"Die Ritterkreuzträger der Waffen-SS"''' Coburg, Deutschland: NATION EUROPA VERLAG, 2003. ISBN 3-920677-43-9 |
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*Hans Werner Neulen '''"An deutscher Seite: Internationale Freiwillige von Wehrmacht und Waffen-SS"''' München, deutschland: Universitas Verlag, 1985. ISBN 3-8004-1069-9 |
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=== フランス語 === |
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*Georges Bernage '''"BERLIN 1945 - L'agonie du Reich"''' HEIMDAL, 2010. ISBN 978-2-84048-262-8 |
|||
*Grégory Bouysse '''"Waffen-SS Français volume 1: officiers"''' 2011. ISBN 978-1-4475-9358-4 [http://www.lulu.com/product/paperback/waffen-ss-fran%C3%A7ais-volume-1-officiers/15338972] |
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=== 日本語 === |
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*長谷川公昭 '''『ナチ占領下のパリ』'''(草思社・1986年) ISBN 4-7942-0246-4 |
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*アントニー・ビーヴァー(著), Antony Beevor(原著), 川上 洸(訳) '''『ベルリン陥落 1945』'''(白水社・2004年) ISBN 4-560-02600-9 |
|||
*渡部義之編 '''『【歴史群像】W.W.Ⅱ 欧州戦史シリーズVol.18 武装SS全史Ⅱ[膨張・壊滅編]』'''(学習研究社・2002年) ISBN 4-05-602643-2 |
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2011年5月8日 (日) 16:37時点における版
第33SS武装擲弾兵師団 | |
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第33SS武装擲弾兵師団 シャルルマーニュ(フランス第1) の師団章。左半分のライヒスアドラー(帝国鷲)がドイツを象徴、右半分の3つの百合がカール大帝(シャルルマーニュ)を象徴している[1]。 | |
創設 | 1945年2月10日 |
廃止 | 1945年5月 |
国籍 | ナチス・ドイツ |
所属 | 武装親衛隊 |
規模 | 師団(実際は師団以下の兵力) |
兵種 | 擲弾兵 |
人員 | フランス人、ドイツ人 |
所在地 | |
上級部隊 | |
愛称 | |
モットー | |
主な戦歴 | 独ソ戦 ポメラニアの戦い(1945年) ベルリン市街戦 |
第33SS所属武装擲弾兵師団 「シャルルマーニュ」(フランス第1)(独:33. Waffen-Grenadier-Division der SS "Charlemagne"(französische Nr. 1)仏:33e division SS de grenadiers volontaires Charlemagne)は、第二次世界大戦中のナチスドイツ武装親衛隊の師団。
1941年夏に創設されたドイツ国防軍のフランス人義勇部隊である反共フランス義勇軍団、1944年春に創設された武装親衛隊のフランスSS突撃旅団(第8フランスSS義勇突撃旅団)や、フランス民兵団、その他の組織のフランス人義勇兵を基幹として編制され、1945年2月以来東部戦線で戦った。
1945年4月24日、第三帝国首都ベルリンがソビエト赤軍の包囲下にある中、師団の中で戦闘継続を希望した約300名の将兵はグスタフ・クルケンベルクSS少将とアンリ・フネSS義勇大尉に率いられてベルリンに駆けつけ、フランスSS突撃大隊(Französische SS-Sturmbataillon)として5月2日のベルリン陥落まで熾烈な防衛戦闘を繰り広げた。
反共フランス義勇軍団
第二次世界大戦中、ドイツ国防軍に所属したフランス人義勇部隊は、1941年の夏に親独的なフランス・ファシズム政党の有力者たちが音頭を取って創設した反共フランス義勇軍団(Légion des Volontaires Français contre le Bolchévisme, 略称LVF)であった。しかし、「反共」と銘打った部隊ではあったものの、集まった隊員の中には文字通り反共の念に燃える者もいれば、ドイツでの強制労働を逃れたい者や、入隊によって支給される高給を目当てとした者もいるなど、お世辞にも隊員すべてが反共思想の持ち主である部隊とはいえなかった。
1941年11月、反共フランス義勇軍団は第638歩兵連隊(Infanterieregiment 638)としてドイツ第7歩兵師団に所属し、モスクワの戦いに参加した。
1941年12月1日、反共フランス義勇軍団はモスクワ近郊の寒村で初めてソビエト赤軍と交戦した。しかし、2時間程度の短い戦闘であったにもかかわらず、彼らは敵の猛攻によって死傷者を続出し、吹雪の中を逃げ惑うという醜態をさらした。この戦闘の結果を知ったドイツ軍上層部は、反共フランス義勇軍団に戦意が欠けていると判断して彼らを最前線から引き揚げ、戦線後方での任務につくよう命じた。
1942年、反共フランス義勇軍団はドイツ占領下の白ロシア・ソビエト社会主義共和国においてパルチザン掃討任務に就いた。反共フランス義勇軍団指揮官ロジェ・ラボンヌ大佐(Colonel Roger Labonne)は解任され、その後任の指揮官として7月に着任したのは元フランス軍中佐のエドガー・ピュオ大佐(Colonel Edgar Puaud)であった。その後、反共フランス義勇軍団は東部戦線において1943年6月まで様々なドイツ軍師団を転属した。
1944年6月下旬、反共フランス義勇軍団はフランスへ帰国する予定になっていたが、出発の数時間前になってソビエト赤軍がドイツ中央軍集団への大攻勢を発動したため、急遽戦場に戻ることとなった。
6月25日、ボブル(Bobr)においてウジェーヌ・マリ=ジャン・ブリドー少佐(Major Eugène Marie-Jean Bridoux)率いる反共フランス義勇軍団の部隊(約600名)は、シュトゥーカ急降下爆撃機、ティーガー戦車5両、一部のSS警察部隊の支援を受けつつ48時間に渡ってソビエト赤軍の攻撃を防いだ。この戦闘によって反共フランス義勇軍団は40両以上のソビエト赤軍戦車を撃破し、反共フランス義勇軍団の歴史上最も輝かしい成功を収めた。
第8フランスSS義勇突撃旅団
武装親衛隊のフランス人部隊
一方、反共フランス義勇軍団とは別に1943年春、武装親衛隊所属のフランス人部隊を創設する運動がヴィシー政権下のフランスにおいて始まっていた。募集に応じて集まった約3,000名(その大部分はヴィシー政権の準軍事組織「フランス民兵団」(Milice)の民兵と学生)のフランス人義勇兵はアルザスのゼンハイム(Sennheim)親衛隊訓練施設に移動し、そこで1個突撃旅団(同年7月に第8フランスSS義勇突撃旅団(8. Französische-SS-Freiwilligen-Sturmbrigade)となる)を結成した。旅団指揮官には元フランス外人部隊中佐のポール=マリ・ガモリー=ドゥブルドーSS義勇少佐(SS-Freiw. Sturmbannführer Paul-Marie Gamory-Dubourdeau)が就任した。
ちなみに、通常、武装親衛隊の外国人義勇兵の中でいわゆるゲルマン人に属しないとされた外国人の階級には「親衛隊」(SS-)ではなく「武装」(Waffen-)が用いられた[注 1]。これはフランス人義勇兵にも適用されたが、第8フランスSS突撃義勇旅団出身のフランス人義勇兵の階級には「SS義勇」(SS-Freiw.)が用いられ、1944年秋の再編時に他の組織(反共フランス義勇軍団、フランス民兵団、ドイツ海軍など)から武装親衛隊に移籍したフランス人義勇兵の階級には「武装」が用いられた[2]。
ガリツィアの戦い
1944年6月22日、ソビエト赤軍はバグラチオン作戦を発動して東部戦線の南北全域におけるドイツ軍を脅かした。7月13日にはソビエト赤軍第1白ロシア方面軍と第1ウクライナ方面軍の攻撃により、ドイツ軍北ウクライナ軍集団の戦線が危機に陥った。
そのため、第8フランスSS義勇突撃旅団にも1個大隊をウクライナ~ポーランド国境のガリツィア地方へ派遣するよう命令が下り、ピエール・カンスSS義勇大尉(SS-Freiw. Hauptsturmführer Pierre Cance)(フランス民兵団指導者ジョゼフ・ダルナンの側近)率いる第Ⅰ大隊(対戦車砲小隊などで増強)が8月5日にガリツィアへ到着した。
現地においてⅠ大隊は、サノク(Sanok)で既に戦闘中の第18SS義勇機甲擲弾兵師団「ホルスト・ヴェッセル」に配属され、ソビエト赤軍の前進を食い止めるために順次最前線へ向かった。
彼らは1944年9月1日に前線から引き揚げるまで粘り強く戦ったが、その損害は甚大だった。8月5日の戦線到着時に約980名いた大隊の将兵のうち、90名から130名が戦死し、40名から50名が行方不明となり、660名が負傷した。また、この戦闘中にソビエト赤軍に捕らえられたフランス人SS義勇兵の多くは即座に殺害された(処刑を免れた場合でも過酷な収容所生活が待ち受けていた)[3]。
第33SS所属武装擲弾兵師団「シャルルマーニュ」
「シャルルマーニュ」旅団の編制
1944年9月、反共フランス義勇軍団および第8フランスSS義勇突撃旅団は解隊され、それぞれの古参兵を基に2個連隊が編制された。そして誕生した新たな旅団は数度の名称変更を経て最終的にSS武装擲弾兵旅団「シャルルマーニュ」(フランス第1)(Waffen-Grenadier-Brigade der SS Charlemagne (französische Nr.1))となった。前線で戦闘経験を積んだドイツ国防軍と武装親衛隊のフランス人義勇兵に加え、ドイツ海軍、国家社会主義自動車軍団(NSKK)、フランスにおける対独協力者、フランス民兵団構成員、若干のスイス、フランス植民地出身の義勇兵も補充兵として旅団に集まった。
旅団長には元反共フランス義勇軍団指揮官エドガー・ピュオ武装上級大佐(Waffen-Oberführer Edgar Puaud)が着任したが、ドイツ側の旅団最高査察官としてグスタフ・クルケンベルクSS少将(SS-Brigadeführer Gustav Krukenberg)が実務を担当した。
かつて第ⅤSS山岳軍団や第ⅢゲルマンSS装甲軍団の参謀長を務めていたクルケンベルクSS少将は、1926年から1931年にかけてフランスに軍事留学した経験が有り、フランス人への理解が深く、流暢にフランス語を話すなど、「シャルルマーニュ」のドイツ人最高査察官としてまさに適任の人物であった。
旅団の名称の由来
1944年9月末、ドイツに避難していたフランス民兵団指導者ジョゼフ・ダルナンはベルリンの親衛隊本部長ゴットロープ・ベルガーと会見し、武装親衛隊に入隊した民兵団員の今後について話し合った。その際にダルナンは新たな武装親衛隊フランス人部隊の名称として15世紀のフランスの国民的英雄である「ジャンヌ・ダルク(Jeanne d'Arc)」を提案した。しかしベルガーはこれに同意せず、10月に親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーは新設のフランス旅団に「シャルルマーニュ」の名を冠した。あまりにもフランス的・カトリック的な名称である「ジャンヌ・ダルク」と比べて、「シャルルマーニュ」(フランク王国国王カール大帝)は汎ヨーロッパ的な名称であった[4]。
師団への昇格
1945年1月初旬、「シャルルマーニュ」旅団の将兵は親衛隊隊員の特徴である血液型の刺青を左腋の下に施した[5]。
この頃、徐々にドイツ本国へ迫る西部戦線において、連合軍に所属するフランス軍部隊と武装親衛隊フランス人義勇兵が交戦する可能性が出てきたため、親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーより「シャルルマーニュ」旅団は西部戦線で戦わないよう特別の配慮を受けた。さらにヒムラーは、彼等がフランス国旗の下で戦うこと、カトリックの従軍司祭の同行許可を与えること(ドイツ国防軍と異なり、武装親衛隊に従軍司祭制度はない)、ドイツが勝利した暁にはフランスの主権を回復することも確約した。
1945年2月10日(2月1日とする説もある)、武装擲弾兵旅団「シャルルマーニュ」はさらに拡張されて師団規模に昇格、正式に第33SS所属武装擲弾兵師団 「シャルルマーニュ(フランス第1)」(33. Waffen-Grenadier-Division der SS "Charlemagne" (französische Nr. 1)となった[6]。この時の「シャルルマーニュ」師団の書類上の編制は次の通り[6]。
第33SS所属武装擲弾兵師団 「シャルルマーニュ(フランス第1)」(1945年2月)
- 師団本部
- 師団名誉中隊(戦術学校)
- 第57SS武装擲弾兵連隊
- 第58SS武装擲弾兵連隊
- 第33SS武装砲兵大隊
- 第33SS工兵大隊
- 第33SS戦車猟兵大隊
- 第33SS通信中隊
- 第33教育・補充大隊
- 第57野戦憲兵隊
- 第57野戦郵便隊
- 砲兵部隊
しかし、師団の兵力は将校102名、下士官886名、兵5375名の合計6,363名[7]であり、国防軍の中でも劣弱とされた国民擲弾兵師団(定数1万名余り)をも下回っていた[8]。
ポメラニア戦線
苦戦
1945年2月20日、「シャルルマーニュ」師団の先遣隊はアルトダム(Altdamm)鉄道駅に到着し、22日にはポメラニアのハマーシュタイン(Hammerstein、現ツァルネCzarne)に鉄道輸送された。24日午後には第57SS武装擲弾兵連隊の偵察部隊がソビエト赤軍と交戦し、「シャルルマーニュ」師団にとってのポメラニア戦線が開始された。
この時、「シャルルマーニュ」師団は戦闘準備を行っている最中に、ソビエト赤軍第1白ロシア方面軍所属の4個歩兵師団と2個戦車旅団の攻撃を受けた。重兵器のみならず、無線機、地図さえも十分に装備していない「シャルルマーニュ」師団のフランス人義勇兵たちは、手持ちのパンツァーファウストなどの軽装備だけで敵戦車に立ち向かうほかなかった。
その結果、ハマーシュタイン周辺での戦闘が開始されてから48時間も経過していない1945年2月25日夜の時点で、「シャルルマーニュ」師団は甚大な損害を被っていた。(資料によって数字に差があるが)およそ500名(将校5名)が戦死し、1,000名(将校15名)が負傷もしくは行方不明となった[9]。
1945年3月1日、不利な状況を打破するため、師団の戦地再編制を決定したグスタフ・クルケンベルクSS少将は第58SS武装擲弾兵連隊指揮官のエミール・レイボー武装少佐(W-Stubaf. Emile Raybaud)に命じ、師団最良の部隊を集めた「行進連隊」(Régiment de Marche)、それ以外の部隊を集めた「予備連隊」(Régiment de Reserve)を編制させた。各連隊はそれぞれ2個大隊で構成されていた。
「シャルルマーニュ」師団(1945年3月初旬)
- 師団本部:エドガー・ピュオ武装上級大佐(W-Obf. Edgar Puaud)
- 行進連隊:エミール・レイボー武装少佐(W-Stubaf. Emile Raybaud)
- 第Ⅰ大隊:アンリ・フネSS義勇中尉(SS-Freiw. Ostuf. Henri Fenet)
- 第Ⅱ大隊:ジャン・バソンピエール武装大尉(W-Hstuf. Jean Bassompierre)
- 予備連隊:ヴィクトル・ド・ブルモン武装大尉(W-Hstuf. Victor de Bourmont)
- 第Ⅰ大隊:エミール・モヌーズ武装大尉(W-Hstuf. Émile Moneuse)
- 第Ⅱ大隊:モーリス・ベレ武装大尉(W-Hstuf. Maurice Berret)
3月3日、「シャルルマーニュ」師団の残存兵はケーリン(Körlin)近辺の町の防衛のために移動したが、翌日の正午、南西からソビエト赤軍の攻撃を受けた。必死の反撃によってその日はソビエト赤軍を撃退したものの、結局「シャルルマーニュ」師団はソビエト赤軍の包囲を避けるため西へ撤退するよう命じられた。
「シャルルマーニュ」師団壊滅
この節の加筆が望まれています。 |
包囲網脱出に際して「シャルルマーニュ」師団の少数の残存兵はバルト海沿岸部へ撤退、陸路もしくは海路でドイツ本土やデンマークへ移動し、後に再編制の為にノイシュトレリッツ(Neustrelitz)へ送られた。
ポメラニア戦線において「シャルルマーニュ」師団は約4,800名の将兵を失ったが、その中には師団長エドガー・ピュオ武装上級大佐、連隊長ヴィクトル・ド・ブルモン武装大尉も含まれていた。
ベルリン防衛戦
「シャルルマーニュ」再編制
1945年4月初旬、ポメラニア戦線で大損害を被った「シャルルマーニュ」師団の生存者はベルリン北方のカルピン(Carpin)に集結した。グスタフ・クルケンベルクSS少将は資材無しでの師団再編制を強いられていたが、最終的に1個連隊(第57SS擲弾兵大隊、第58SS擲弾兵大隊の2個大隊、1個重兵器大隊)として「シャルルマーニュ」を再編制した。
4月23日、ベルリンの総統官邸はクルケンベルクとその部下に対し、ベルリンへ移動するよう命令した。1945年4月24日午前4時頃に連絡を受けたクルケンベルクは、戦闘継続を戦闘継続を希望した300名の将兵を連れてソビエト赤軍の迫るベルリンへ向かうことを選んだ。
ベルリンへの出発を希望したフランス人義勇兵は、第8フランスSS義勇突撃旅団以来の古参将校アンリ・フネSS義勇大尉が指揮官を務めるフランスSS突撃大隊(Franz. SS-Sturmbataillon)[注 2]として再編制された。
ベルリンへの出発
彼らは4月24日早朝にトラックに乗ってベルリン北方のカルピンを出発したが、道中においてソビエト赤軍部隊との遭遇を避けるため遠回りをしたり、渡ろうとした橋が国民突撃隊によって誤爆されたりするなどして時間を取られ、午後10時頃に至ってようやくベルリン市内のベルリン・オリンピアシュタディオン近隣の国立競技場(Reichssportfeld)に到着した。フランスSS突撃大隊の将兵がベルリンに到着した時、町中の人々の話し声以外には何も聞こえないほど、ベルリンは異様に静かであった。
ベルリン到着後、フランスSS突撃大隊は既にベルリン市街で戦闘中の第11SS義勇装甲擲弾兵師団「ノルトラント」の所属となったが、同時期に「ノルトラント」師団長ヨアヒム・ツィーグラーSS少将が解任されたため、クルケンベルクが後任の「ノルトラント」師団長に就任した。
4月25日朝、フランス人義勇兵たちはテンペルホーフ方面への移動を開始した。この時のフランスSS突撃大隊の編制は次の通り[10]。
フランスSS突撃大隊(1945年4月25日)
- 大隊指揮官:アンリ・フネSS義勇大尉(SS-Freiw. Hstuf. Henri Fenet)
- 戦術学校(Kampfschule):ヴィルヘルム・ヴェーバーSS中尉(SS-Ostuf. Wilhelm Weber)
フランス人義勇兵たちはベルリン到着後に新たに与えられた車列に乗って移動したが、その途中、彼らは「親衛隊は敵地を進む」を歌い始めた。すると、ベルリン市民は建物の窓、玄関、歩道から彼らをヴァルター・ヴェンク装甲兵大将のドイツ第12軍の先鋒部隊と思って熱烈に歓迎した(当時、ヒトラー総統の命令を受けたヴェンク軍がベルリン救援に現れる、と多くの新聞記事で報じられていた)。
その歓迎に感じ入って涙目になりつつ、フランス人義勇兵たちはナチ式敬礼をしたり、武器を誇らしく掲げたり、少女たちに投げキッスを送るなどして歓迎に答えた。やがてフランス人義勇兵たちの車列がしばらくの間移動を停止すると、あらゆる年齢層のベルリン市民が彼らの周りに集まった。ベルリン市民が手を振って感謝の意を述べた後、フランス人義勇兵たちは移動を再開した[11]。
ベルリン市街戦
4月26日朝、「ノルトラント」師団第11SS戦車大隊「ヘルマン・フォン・ザルツァ」所属のティーガーII重戦車の支援を受けたフランスSS突撃大隊は、テンペルホーフ空港近くのノイケルンで反撃を開始した。しかし、この反撃はソビエト赤軍が捕獲して使用していたパンターの待ち伏せに遭遇にあって失敗し、その日のうちに突撃大隊の戦力は半減した。その後、彼らはノイケルン区役所の防衛に当たった。
ベルリン市街における戦闘は攻守ともに激戦の様相を呈し、4月28日までにドイツ軍の防衛線は著しく縮小していた。しかしその一方で28日までにソビエト赤軍の戦車約108両がベルリン南東部のSバーン防衛線内で撃破されていたが、それらの内62両はアンリ・フネSS義勇大尉が指揮するフランスSS突撃大隊の攻撃によって撃破されたものであった。フネと彼の大隊は各拠点の防衛のために、ノイケルン、ベレ=アリアンス広場(Belle-Alliance-Platz, 現メーリンク広場Mehringplatz)、ヴィルヘルム通り(Wilhelmstrasse)、フリードリヒ通り(Friedrichstrasse)などを絶え間なく展開した。
しかし、大隊は迫り来るソビエト赤軍によってドイツ航空省近辺への撤退を余儀なくされた。指揮官であるフネ自身も4月26日のノイケルン戦で足を負傷していたため、フランス人義勇兵たちは航空省近辺の建物に留まった。
フランスSS突撃大隊の騎士鉄十字章受章者
4月29日、ソビエト赤軍はベルリン中心部ヘの総攻撃を開始した。フランスSS突撃大隊は激戦に巻き込まれたが、その中で反共フランス義勇軍団以来の古参下士官ウジェーヌ・ヴォロ武装伍長(W-Uscha. Eugène Vaulot)は、ノイケルンで撃破した2輛と合わせて合計8輛のソビエト赤軍戦車をパンツァーファウストで撃破した。
1945年4月29日午後、ベルリン地下鉄市中央駅において「ノルトラント」師団司令官グスタフ・クルケンベルクSS少将は、ベルリン市街戦中に8輛のソビエト赤軍戦車を撃破したウジェーヌ・ヴォロ武装伍長に騎士鉄十字章を授与した。そしてクルケンベルクは戦後における供述の中で、1945年4月29日の出来事を次のように語っている。
「 | 第503SS重戦車大隊指揮官のヘルツィヒ少佐(SS少佐)(SS-Stubaf. Friedrich Herzig)も、モーンケSS少将から騎士鉄十字章を授与された。これらが今次大戦における最後の2つの騎士鉄十字章であった。 | 」 |
しかしながら、武装親衛隊の騎士鉄十字章受章者について述べたErnst-Günther Krätschmerの著書"Die Ritterkreuzträger der Waffen-SS"によれば、同じく1945年4月29日に、ヴォロ武装伍長とヘルツィヒSS少佐以外にも騎士鉄十字章を授与された者がいる[12]。
1945年4月29日に騎士鉄十字章を受章したとされている人物
- 第503SS重戦車大隊
- オスカール・シェーファーSS少尉(SS-Ustuf. Oskar Schäfer):第503SS重戦車大隊第3中隊長
- カール・ケルナーSS上級曹長(SS-Hscha. Karl Körner):第503SS重戦車大隊第2中隊小隊長
- その他の部隊
- ヴィル・フェイSS連隊付士官候補生(SS-StdJu. Will Fey):「モーンケ」戦闘団の戦車破壊班指揮官
- カールハインツ・ギースラーSS少尉(SS-Ustuf. Karlheinz Giesler):「ノルトラント」師団突撃部隊指揮官
このうち、戦後になってクルケンベルクは、フランスSS突撃大隊のフネ、ヴェーバー、アポロに授与された3つの騎士鉄十字章については、戦時中の公式勲記が存在しないことを理由に本当に授与されたのかどうかを疑問視している。
Georgenの著書(ヴィルヘルム・モーンケSS少将、グスタフ・クルケンベルクの副官パウル・パシュールSS大尉(SS-Hstuf. Paul Pachur)、ヴェーバーSS中尉の目撃談に基づく)によれば、ヴェーバーSS中尉は4月29日に負傷して総統官邸地下の救護所に運び込まれた。「前線から下がってきた将校の大多数のように」ヴェーバーも隣室に本部を置く「Z」地区司令官ヴィルヘルム・モーンケSS少将に戦況を詳しく説明した。ヴェーバーの報告を聞いた後、モーンケは陸軍人事局(Heerespersonalamt:HPA)責任者のヴィルヘルム・ブルクドルフ将軍のもとへ赴き、フランスSS突撃大隊の将校・下士官数名に対する騎士鉄十字章授与の約束をとりつけた。同日、ブルクドルフは書類にサインし、モーンケに勲記と勲章を手渡した。こうして、推薦が認められてから数時間も経たないうちにモーンケはヴェーバーに騎士鉄十字章を授与した。
Sanit-Loupの著書によると、ヴェーバーは1945年4月30日早朝に負傷し、親衛隊全国指導者地下壕を経て総統地下壕に運ばれた。ヴェーバーにとって、これが第二次世界大戦における6度目の負傷であった。モーンケはウジェーヌ・ヴォロが騎士鉄十字章を受章したことをヴェーバーに知らせ、そして君とフネとアポロも騎士鉄十字章を受章したと伝えた。さらに、翌日には騎士鉄十字章受章に関する書類をクルケンベルクが受け取ることになっていると付け加えた。しかし、クルケンベルクのもとに書類は届かなかった(Saint-Loupは、この書類は道中で紛失したか、もしくは最初から送られなかったと記している)。
Jean Mabireの著書によると、4月29日午後、「ノルトラント」師団のスカンディナヴィア人将校(おそらくクリステンセンSS中尉)がフランスSS突撃大隊の本部を訪れた。「類稀なお隣さん」への賞賛の意を込めて、彼はその場にいた者たちにワインをプレゼントした。そのとき彼はフネの部下であるアルフレッド・ドゥールー武装連隊付上級士官候補生(W-StdObJu. Alfred Douroux)にささやいた。「君たちの指揮官、アンリ・フネ大尉は騎士鉄十字章受章が約束されている」ただし、この情報は非公式であったため、クリステンセンSS中尉はこのことをフネに伝えなかった。しかし、ドゥールーは(おそらく終戦の直前に)フネにこのことを伝えた。それからフネは戦後に至るまで騎士鉄十字章に関する情報は何も聞かされなかった(事実、フネ自身のベルリン戦の回顧録"A Berlin Jusqu'au Bout"の中でフネは騎士鉄十字章受章に関する言及は一切していない)。
このように、ベルリン市街戦の最中にフランスSS突撃大隊のアンリ・フネ、ヴィルヘルム・ヴェーバー、フランソワ・アポロの3名に対する騎士鉄十字章が授与されたことを示唆する説はいくつか現在に伝わっているが、いずれも公式勲記が存在していないため、彼らに対する騎士鉄十字章授与の事実を証明することは不可能である。しかしながら、ベルリン市街戦におけるフランスSS突撃部隊のウジェーヌ・ヴォロ以外にもアンリ・フネ、ヴィルヘルム・ヴェーバー、フランソワ・アポロも騎士鉄十字章を授与されたというのが現在の通説である。
ベルリン脱出
その後、フランスSS突撃大隊は総統地下壕最後の防衛部隊となり、ソビエト赤軍が5月1日のメーデーまでに地下壕を占領することを防ぐため、5月2日まで地下壕の燃料室に残っていた。1945年5月2日のベルリン降伏時点において、フランスSS突撃大隊の生存者は約30名を数えるのみであった。
4月29日に騎士鉄十字章を授与されたウジェーヌ・ヴォロ武装伍長は、5月1日から2日の深夜にかけてベルリン脱出を試みた12名ほどのフランス人義勇兵、ドイツ人SS兵士、そしてスカンディナヴィア出身のSS外国人義勇兵から成るグループに加わって西を目指した。彼らのグループには2輛のティーガーI重戦車が随伴していた。しかし、ティーアガルテンまで辿り着いたところで彼らは主要道路を塞ぐソビエト赤軍の抵抗に遭遇した。ティーガー戦車2両は敵陣の突破に成功したが、21歳のヴォロ武装伍長はこの戦闘で命を落とした。
5月2日午前、すでに周囲一帯がソビエト赤軍に制圧されていることを確認したアンリ・フネSS義勇大尉と少数の生存者は、中央街のUバーン駅から帝国議事堂の向かい側にあるカイザーホーフUバーン駅に移動し、地下鉄の線路を利用してドイツ第12軍(ヴァルター・ヴェンク装甲兵大将)がいるはずのポツダムまでの突破を試みた。
彼らは小グループに分かれてベルリン市内のポツダマー駅まで辿り着いたが、同日午後3時頃、彼らの潜伏場所に国民突撃隊の老人数名が現れ、フランス人義勇兵と同じように身を隠そうとした。しかし、身を隠すのに手間取った老人たちをソビエト赤軍の斥候が発見したため、フランス人義勇兵たちは次々とソビエト赤軍の捕虜となった。
「シャルルマーニュ」師団の最期
一方、1945年4月24日、ベルリン北方のノイシュトレリッツとその周辺には「シャルルマーニュ」師団の中で戦闘継続を希望せず、ベルリンへ出発しなかった将兵(ベルリンへ向かったが車両が故障して道中で引き返した一部の将兵も含む)が約700名駐屯していた。そのうち約300名は第58SS大隊と師団本部と各種支援部隊の者で、約400名は建設大隊の者であった。この時の「シャルルマーニュ」の編制は次の通り[13]。
「シャルルマーニュ」師団(連隊) 1945年4月24日
- 指揮官:ヴァルター・ツィンマーマンSS大佐(SS-Staf. Walter Zimmermann)
- 第58SS大隊(SS-Bataillon 58):クレープシュSS大尉(SS-Hstuf. Kroepsch)
- 建設大隊(Baubataillon):ロベール・ロアSS義勇大尉(SS-Freiw. Hstuf. Robert Roy)
この時、指揮官のヴァルター・ツィンマーマンSS大佐(「シャルルマーニュ」師団訓練責任者)はポメラニア戦線で負った戦傷から回復中であり、実務は副官のジャン・ブデ=グジ武装少佐が担当していた。
師団本部の最期
1945年4月25日朝から26日晩にかけて、「シャルルマーニュ」師団(連隊)の将兵はベルリン北方において対戦車障害物工事に従事していた。しかし、27日午前中にソビエト赤軍が彼らの陣地まで数十キロメートルの地点に進出すると、ジャン・ブデ=グジ武装少佐は師団本部をツィノウ(Zinow)西方へ移動させた。翌28日、ソビエト赤軍は「シャルルマーニュ」の駐屯地であったベルクフェルト(Bergfeld)を占領した。
1945年5月1日晩、「シャルルマーニュ」師団本部と第58SS大隊はシュヴェリーン地方に到達したが、そこで彼らは1939年から1940年の間にドイツ軍の捕虜となったフランス軍将兵と遭遇した。薄笑いを浮かべたフランス軍将兵は「シャルルマーニュ」師団本部の者たちに対し、イギリス軍は既にエルベ川を渡って攻勢を開始しており、また、「イギリスのラジオ」(BBCワールド・サービス)が現在伝えるところによれば、イギリス軍は約30キロメートル先の地点に進出していると知らせた。師団本部の者たちはこの情報に感謝すると同時に、ソビエト赤軍がわずか10キロメートルの地点にまで迫っていることをフランス軍将兵に伝えた。表情から笑みが消えたフランス軍将兵は他の捕虜に警告するため、その場から走り去った。
1945年5月2日早朝、「シャルルマーニュ」師団本部は西から迫るイギリス軍と東から迫るソビエト赤軍のちょうど中間地点にいた。その後、ラジオを通じて、総統がベルリンで死んだという知らせがもたらされた。ジャン・ブデ=グジ武装少佐は師団本部のドイツ人要員に対し、国防軍部隊に合流するかドイツ軍戦線に辿り着くように命じた。そして残りのフランス人義勇兵には、イギリス軍に投降するか、民間人の服を着て捕虜あるいは徴用された外国人労働者を装うかの選択権が与えられた。
ジャン・ブデ=グジ武装少佐と数名の将兵はイギリス軍へ投降することを選び、5月2日午後3時、ボビッツ(Bobitz)鉄道駅においてイギリス軍のオートバイ兵と遭遇した。次いで、武装親衛隊の一員ではなく反共フランス義勇軍団の指揮官であることを主張しながら、ブデ=グジは1人のイギリス軍戦車将校に近付き、イギリスの将軍のもとへ案内するよう要求した。
その後、イギリス軍戦車の一団はジャン・ブデ=グジ武装少佐を戦車の上に乗せ、この反共フランス義勇軍団の指揮官を共産主義者に引き渡すためにソビエト赤軍のもとへ向かった。
第58SS大隊の最期
1945年5月1日もしくは2日、シュヴェリーン南部に留まっていた第58SS大隊第5中隊(約60名強)は文字通りアメリカ軍とソビエト赤軍に挟まれた。そして、第58SS大隊第5中隊の将兵は残弾をすべてソビエト赤軍に向けて撃ち尽くした後、アメリカ軍に投降した。
建設大隊の最期
1945年4月27日から28日にかけての夜、建設大隊はノイシュトレリッツ北西のヴァーレン(Waren)に移動した。彼らは空襲によって何名かを失い、さらにアメリカ軍とソビエト赤軍が迫りつつあったため、大隊指揮官のロベール・ロアSS義勇大尉は建設大隊の解散を決意した。
しかし、その時出現したアメリカ軍戦車によって恐慌をきたした大隊は多くの犠牲者を出し、また、大隊の一部はソビエト赤軍の先鋒部隊に蹂躙された。こうして、武器よりもシャベルを手にすることを希望した建設大隊は戦闘で壊滅し、一部の生存者は辛うじてアメリカ軍やイギリス軍に投降した。
戦後
この節の加筆が望まれています。 |
第二次世界大戦後、フランスへ帰国した元武装親衛隊フランス人義勇兵のほとんどが対独協力者を対象とした裁判にかけられ、罪状に応じた判決を言い渡された。
バート・ライヒェンハル
12名のフランス人SS義勇兵とルクレール将軍
1945年5月8日午前10時頃、ドイツ南部・ババリアで12名のフランス人SS義勇兵[注 3]がアメリカ軍に戦うことなく降伏した。アメリカ軍はただちに彼らをフランク・ミルバーン少将(General Frank Milburn)のアメリカ第21軍団に所属していた、フィリップ・ルクレール将軍の第2自由フランス機甲師団に引き渡した[注 4]。
捕虜たちはバート・ライヒェンハル(Bad Reichenhall)の屋敷に設けられたルクレール将軍の前線指揮所に連行された。この時、第2自由フランス機甲師団本部中隊の下士官セルジュ・ド・B(Serge des B.)は、捕虜のうちの2、3名、とりわけ1名の将校に対して言った。
「 | フランス人に降伏するなんてどうかしている。とんでもないことが起きるぞ! お前たちは民間人の服を着てフランスに帰るべきだったんだ! | 」 |
すると、その将校セルジュ・クロトフSS義勇中尉(SS-Freiw. Ostuf. Serge Krotoff)は威厳を込めて答えた。
「 | 我々はフランスの理想のために戦った兵士だ。民間人の服は着ない。 | 」 |
確かに、1、2名はいたであろう例外を除き、捕虜となったフランス人SS義勇兵たちは威厳を持って事実を直視していた。このことはセルジュ・ド・Bに強い印象を与えた。
やがて、12人の捕虜たちと会話をするためにルクレール将軍が姿を現した。そして開口一番に、お前たちは外国の制服を着て恥ずかしくないのかと怒鳴りつけた。すると、捕虜の1人ポール・ブリフォー武装少尉(W-Ustuf. Paul Briffaut)は、「あなたも外国の制服を着ているではありませんか、将軍閣下!」と言い返した。この時ルクレールは師団のなかでただ1人、米軍の制服を着ていたのだった[14]。
そして、第2自由フランス機甲師団のある軍曹とセルジュ・ド・Bは、これ以後捕虜たちの監視の責任を持つとともに、捕虜と会話をしないよう命じられた。彼らが2時間ほど捕虜たちを監視した時、時刻はすでに午後2時を回っていた。
銃殺命令下達
やがて、彼らに捕虜の銃殺命令が与えられたが、誰が出した命令だったのか現在でも明確にされていない[注 5]。しかし、この命令は前日にドイツの降伏文書の調印が行われ、本日(1945年5月8日)午後11時に停戦が発効されるのを承知していた上で出されたものであることは明らかだった。軍法会議での裁判は無かった。
捕虜の銃殺決定を聞いたセルジュ・ド・Bは、数名を伴って第2自由フランス機甲師団司令部へ出頭し、捕虜の銃殺の再検討を促した。しかし上層部の決定は覆らず、後になってセルジュ・ド・Bは彼のとった行動を譴責された。
この銃殺決定命令は、銃殺班の結成が「きつい仕事」であることを示した。国際旅団の一員としてスペイン内戦に参加した古参兵でさえ命令を拒否した。それでも最終的には、モーリス・フェラーノ中尉(Lieutenant Maurice Ferrano)指揮下のチャド植民地行進連隊第Ⅰ大隊第4中隊(4e compagnie du I bataillon du Régiment de Marche du Tchad)が銃殺班を提供した。第4中隊には、スペイン内戦で敗北した共和国軍のスペイン人が多く所属していた。フローラン少尉(Sous-lieutenant Florent)指揮下の第4中隊第1小隊は、銃殺場所として選ばれたクーゲルバッハ川畔の開拓地に捕虜たちを移送する責務を負った。
そして午後遅く、捕虜たちはバート・ライヒェンハルからさほど離れていないカールシュタイン(Karlstein)までトラックで運ばれ、そこから開拓地まで徒歩で向かった。フローラン少尉は捕虜の中の下士官の1人と言葉を交わし、何が君を反共フランス義勇軍団へと入隊させたのかと尋ねた。その下士官は答えた[15]。
「 | 俺の親父は1914-1918年の戦争中にベルギー戦線で戦死し、お袋は俺を捨てた。それからリヨンに住む老女に引き取られた俺は、財政面で彼女をできる限り手助けするために反共フランス義勇軍団へ入隊した。俺があんたに言えるのは、俺はアカどもと戦ったがフランス人には1発も撃っていないってことだ。 | 」 |
そしてこの下士官はフローラン少尉に対し、以前に1度も吸ったことがないから、もしイギリスのタバコを持っていたらくれないかと尋ねた。フローラン少尉は彼にタバコを1本渡した。
銃殺
1945年5月8日午後5時頃、捕虜たちは銃殺された。セルジュ・ド・Bにとって、この処刑は「ひどく不快だった」[16]。背中を撃たれると聞かされた捕虜たちは激しく抗議し、銃殺班と対面して撃たれることを許可された。捕虜のうちの1人の将校は「お前たちに俺を撃つ権利は無い。俺は結婚しているんだ。ましてや俺はフランス人じゃないぞ・・・」[17]と叫んだ。また、別の将校(おそらくはクロトフSS義勇中尉)は銃殺班の前に立った時、部下たちにフランス国歌ラ・マルセイエーズを高らかに歌うよう勇気付けた。
第2自由フランス機甲師団第64砲兵連隊第11中隊(XI/64e Régiment d'Artillerie)のカトリック従軍司祭マキシム・ゴーム(Maxime Gaume)は、処刑されたフランス人SS義勇兵のうちの1名の遺族に対し、戦後になって次のように述べている[18]。
「 | 司令部において、軍法会議無しで捕虜を銃殺する決定がなされた後、師団付従軍司祭のフーケ司祭は私に対し、彼ら(捕虜)の最期の時を安心させるよう命じました。銃殺命令を受けた若い少尉は私の所属部隊の者ではなく、このような命令を実行してよいのかどうか完全にうろたえていました。それから彼は考えを改め、彼の持てる力を全て犠牲者の最期の瞬間を安心させることに注ぎ、また、彼らの処刑前に聖体拝領を行うようにとも命じられました。 バート・ライヒェンハルからトラックで運ばれた11名(筆者(Robert Forbes)注・12名)は、第2自由フランス機甲師団の司令部があるカールシュタインに向かいました。彼らのうちの1名だけが信仰の助けを拒否し、彼らのうちの3名は家族に対し言い遺すことは無いと明言しました。 銃殺は4人ずつ、3回に分けて行われました。彼らの全員が目隠しを断り、全員が「フランス万歳」("Vive la France")と叫んで斃れました。最後の4人の中にはブリフォー少尉と、おそらくパイラ二等兵が含まれていたと思われます。命令を受けた後、私は(捕虜の)遺体をそのまま放置して立ち去りましたが、近隣に滞在していたアメリカ兵に遺体を埋葬するよう薦め、数日後にそれは果たされました。 |
」 |
また、ゴームは戦後(1958年4月18日)に次のように記している[19]。
「 | 彼ら(12名のフランス人SS義勇兵)は、彼らに対して敬意を払い、彼らのために心を痛めた(第2自由フランス機甲師団の)兵士たちによって、憎しみも無く簡潔に処刑されました。 | 」 |
さらにゴームは、作家のルネ・バル(René Bail)に処刑の詳細を伝えている。12名のうち「信仰の助け」を拒否した1名はゴームに対し、自分は無神論者として生きてきたから、そうやって生きてきたように死ぬ、と説明した。また、家族に対し言い遺すことは無いと明言した3名のうち、1名は言葉を遺す両親も友もいないと言い、1名は自分に何が起こったのか家族は知らない方がいいと言った。
一方、この処刑を目撃した地元の民間人女性は後に次のように述べている[20]。
「 | あの人たちは2台の車でやって来て、私はこう思いました。何てことなの、あの人たちは一体何をするつもりなの? その時私は兵隊さんと一緒に家に隠れていました。その兵隊さんは私に「行ってはだめだ」と言いましたが、私は何が起こるのか行って確かめずにはいられませんでした。隠れながら現場に近づいていた時、私は溝に滑り落ちました。…2人の若者が水と木の十字架を欲していました。そのうちの1人は目隠しを拒絶し、もう1人は目隠しを頼みました。そして2人は殺されました。恐ろしくなった私は悲鳴を上げました。幸い、銃声にかき消されて私の叫び声はあの人たちに聴こえていませんでした。もしそうでなければ、あの人たちは私も殺していたでしょう… | 」 |
この証言は捕虜全員が目隠しを拒絶したとするゴームの言と相反してる。現在においてこれらの証言の不一致は折り合いがついていない。
銃殺後の出来事
銃殺後、捕虜の遺体はその場に放置され、5月10日の夕方には第2自由フランス機甲師団の最後の部隊がバート・ライヒェンハルを出発した。彼らと交代してこの地を担当したアメリカ軍部隊の従軍司祭とアメリカ兵によって12名のフランス人SS義勇兵の遺体は埋葬され、木の十字架に犠牲者の名前が刻まれた。
その後、バート・ライヒェンハル近隣の住民の間に、12名ほどのフランス人SS兵士がカールシュタインで銃殺されたという噂が流れた。噂の事実確認に当たった地元ドイツ警察は第2自由フランス機甲師団の将兵が関与していると調査したが、それ以上の追及は行われなかった。
銃殺から間もなく、反共フランス義勇軍団および「シャルルマーニュ」師団の従軍司祭ジャン・ド・マヨール・ド・リュペ(Jean de Mayol de Lúpe)(モンシニョール)がクーゲルバッハ川畔を訪れ、捕虜の埋葬場所において十字を切って祝福した。
1945年末から1946年初頭にかけての冬、犠牲者の名を刻んだ十字架が「消滅」した。しかしこれは不気味な現象でも何でもなく、単に周囲の樹木に積もった雪が落下し、犠牲者の十字架を雪で崩れさせたのであった。
1949年6月2日、カールシュタインにおいて銃殺された12人のフランス人SS義勇兵の遺体がバート・ライヒェンハルのザンクト・ツェノ(Sankt Zeno)共同墓地(墓番号Grupp 11, Reihe 3, Nr. 81 und 82)に改葬された。
1963年7月6日、遺体は再度掘り出され、第一次世界大戦の死者を偲ぶ記念碑の近くの壁の前に改葬された。そして、犠牲者のうち5人の名前が改めてプレートに刻まれた。
PAUL BRIFFAUT
ROBERT DOFFAT
SERGE KROTOFF
JEAN ROBERT
8 UNBEKANNTE
GEFALLEN AM 8.5.1945
RAYMOND PAYRAS
当初は上から順に「ポール・ブリフォー、ロベール・ドファ、セルジュ・クロトフ、ジャン・ロベール、身元不明8名、1945年5月8日没」と記されていたが、後にレーモン・パイラの身元が明らかになると彼の氏名もプレートの下部に追加された(ただし、このうち"Jean Robert"は犠牲者の名前を混同した存在しない人物であり、Robert "Doffat"の綴りも正確には"Daffas"である)。
1981年10月25日、12名のフランス人SS義勇兵の銃殺場所に彼らの記念十字架が建立された。現在までに氏名が判明している犠牲者は次の通り。
セルジュ・クロトフは1911年10月11日にマダガスカルのアンタナナリボで生まれ、パリで育った(彼の曾祖父は19世紀のナポレオンの時代にフランスへ移住したロシア人であった)。1944年2月に武装親衛隊に入隊した後、ゼンハイムの親衛隊訓練施設において基礎訓練に従事し、次いでキーンシュラークSS擲弾兵学校で将校としての訓練を受け、1944年9月に卒業した。「シャルルマーニュ」師団においてクロトフは戦車猟兵大隊対戦車砲中隊指揮官としてポメラニア戦線に従軍したが、1945年2月25日に負傷し、翌26日に後送された。
ポール・ブリフォーは1918年8月8日にベトナムのハノイで生まれた。1939年10月にサン=メクサン(Saint-Maixent)軍学校を卒業して予備役歩兵士官候補生(aspirant de réserve de infanterie)となり、Levantの第16ライフル歩兵連隊(16 RTT)に配属された。1941年にはヴィシーフランス政府のためにイギリス軍やド・ゴール派のフランス人と戦った。1943年に反共フランス義勇軍団へ志願し、同年10月に東部戦線へ出発した。1944年2月、反共フランス義勇軍団の第1中隊に所属していたブリフォーは「モロッコ」作戦中に重傷を負い、1944年秋に反共フランス義勇軍団が武装親衛隊に編入された時も野戦病院で治療を受けていた。負傷回復後は第58SS武装擲弾兵連隊の歩兵砲中隊指揮官となったが、1944年12月に戦傷がもとで除隊となった。バート・ライヒェンハルで処刑された時、ブリフォーは反共フランス義勇軍団時代に使用していたドイツ国防軍の制服を着ていた。二級鉄十字章受章者。
ロベール・ダファ[注 6]は1908年4月13日にフランスのオーシュで生まれた。1941年11月29日に反共フランス義勇軍団へ4642番目の義勇兵として入隊[21]、第Ⅲ大隊に下士官として勤務していた。「シャルルマーニュ」師団に移籍した後は第58SS武装擲弾兵連隊本部中隊に武装少尉として勤務し、ポメラニア戦線で多くの戦闘に参加した。
レーモン・パイラは1922年12月16日にスリランカのコロンボで生まれた。当初はフランス民兵団の前身である戦士団保安隊に所属し、後に武装親衛隊に志願した。彼の身元は彼の両親が明らかにした。
1979年、処刑前に撮影された捕虜の写真からジャック・ポンノの身元が明らかにされた(ただし、彼の階級は不明)。
今日、毎年5月にはバート・ライヒェンハルで処刑された12名のフランス人SS義勇兵のための追悼式がクーゲルバッハ川畔で行われている。
総括
1945年5月8日、ルクレール将軍麾下の第2自由フランス機甲師団はバート・ライヒェンハルにおいて戦争犯罪を行った。しかし、この事件に関しては次のような疑問を含む未解決の要素が数多く残っている[22]。
- 誰が捕虜たちの銃殺命令を下したのか
- なぜ捕虜たちは軍法会議で裁かれなかったのか
- 1945年5月8日午後11時に停戦が発効されるという事実が捕虜たちを早急な銃殺へ追いやったのか
- アメリカ軍はこの銃殺について何か知っていたのか
バート・ライヒェンハルの事件から60年以上の時を経てもなお、これらの疑問は未解決のままである。そして現在、真実が明らかにされることはない。
師団指揮官
就任 | 離任 | 階級(着任当時) | 氏名 |
1945年2月 | 1945年3月(行方不明) | 武装上級大佐 | エドガー・ピュオ Edgar Puaud |
1945年3月 | 1945年4月24日(ベルリン出発) | SS少将 | グスタフ・クルケンベルク Gustav Krukenberg |
1945年4月24日 | 1945年5月(終戦) | SS大佐 | ヴァルター・ツィンマーマン Walter Zimmermann |
脚注
- ^ ワロン人義勇兵とフィンランド人義勇兵には例外的に「親衛隊」(SS-)の階級が用いられた。
- ^ 様々な文献において、1945年4月末のベルリン市街戦に参加した武装親衛隊フランス人部隊はしばしば「シャルルマーニュ」(Charlemagne)の名を冠して語られている。例えば、Richard Landwehrは著書においてフランスSS突撃大隊を"SS突撃大隊「シャルルマーニュ」"(SS-Sturmbatallion 'Charlemagne')と記し、Tonny Le Tissierは著書において"SS「シャルルマーニュ」大隊"(SS 'Charlemagne' Battalion)と記している。しかし、実際にこの大隊の指揮官としてベルリン市街戦に参加したアンリ・フネは、自身のベルリン市街戦の回顧録"A Berlin Jusqu'au Bout"において、フランスSS突撃大隊の名に一切「シャルルマーニュ」の名を冠していない(Robert Forbes 前掲書 p407参照)。
- ^ この時捕虜となったフランス人SS義勇兵は13名であり、そのうち1名は処刑を免れたと記す説(その1名はフィリップ・ルクレール将軍の友人であるフランス軍将校の息子であったため、ルクレール将軍は密かに彼を捕虜の中から分離し、父親のもとへ送り返した)もある。しかしながら、この事件の目撃者(フローラン少尉、セルジュ・ド・B、ゴーム司祭)は全員、捕虜は12名であったと証言している(Robert Forbes 前掲書 p478 脚注参照)。
- ^ "Fusillés sans jugement"および"Historia #32"の記述によると、アメリカ軍は捕らえたフランス人SS義勇兵とドイツ兵をひとまずバート・ライヒェンハルの山岳猟兵兵舎(Gebirgsjäger Kaserne)に管理していた。しかし、自分たちを監視する警備兵がアメリカ軍からド・ゴール派のフランス軍(自由フランス軍)に代わると知ったフランス人SS義勇兵たちはフェンスを乗り越え、近隣の森へ逃げ込んだ。しかしながら、脱走はたちまち発覚し、フランス人SS義勇兵たちは森を包囲した第2自由フランス機甲師団の2個中隊によって再び捕らえられたという。この出来事の証拠は無いが、このようにフランス人SS義勇兵が引渡し直前に脱走を図ったとする説もある(Robert Forbes 前掲書 p478 脚注参照)。
- ^ 多くの史料は捕虜たちと対面したルクレール将軍が銃殺命令を下したと記しているが、この記述を裏付ける目撃者はいない。しかしながら、元第2自由フランス機甲師団の関係者から3つの証言が寄せられている。まず、元第2自由フランス機甲師団本部中隊の下士官セルジュ・ド・Bによれば、ルクレール将軍は命令実行のためにパリに連絡をとったが、パリからの回答はあやふやなものであった。次に、元第2自由フランス機甲師団付の従軍司祭フーケ(Peré Fouquet)は、処刑されたフランス人SS義勇兵のうちの1名の家族に対し、戦後に次のように伝えている。「司令部において(処刑)命令が名も知らぬ将校によって決定されました。その後、ルクレール将軍と電話連絡がありました(Soulat, p124)。第3に、元第2自由フランス機甲師団の隊員であるボシュ(Boch)によれば、シャルル・ド・ゴールがルクレールに対し、政治的な理由から捕虜たちを銃殺するよう電話で命じたという("Le guet-apens de Bad Reichenhall")。以上、Robert Forbes 前掲書 p480 脚注参照。
- ^ Grégory Bouysse "Waffen-SS Français volume 1: officiers"によると、ダファの名前がロベール(Robert)というのは誤りで、正確にはレーモン(Raymond)であるという。
出典
- ^ 渡部義之 編 『【歴史群像】W.W.Ⅱ 欧州戦史シリーズVol.18 武装SS全史Ⅱ[膨張・壊滅編]』(学習研究社・2002年)p176
- ^ Grégory Bouysse "Waffen-SS Français volume 1: officiers" (2011) 参照。
- ^ Robert Forbes "FOR EUROPE: The French volunteers of the Waffen-SS"(Helion & Company Ltd, 2006)p109
- ^ 同上 p140
- ^ 同上 p235
- ^ a b 同上 p240
- ^ 同上 p244
- ^ 渡部義之 編 前掲書 p108
- ^ Robert Forbes, 前掲書p294
- ^ 同上 pp.407 - 408.
- ^ 同上 pp.411-412.
- ^ "Die Ritterkreuzträger der Waffen-SS" pp.912-934.参照。
- ^ Robert Forbes 前掲書 p466。ただし各指揮官の姓名と階級はGrégory Bouysse 前掲書を参照。
- ^ 秦 郁彦/佐瀬昌盛/常石敬一 編『世界戦争犯罪事典』(文藝春秋・2002年)pp.602-603.
- ^ Robert Forbes 前掲書 p480
- ^ 同上。1984年12月13日、元第2自由フランス機甲師団本部中隊のセルジュ・ド・Bへのインタビューによる。
- ^ 同上 pp.480-481.
- ^ 同上 p481
- ^ 同上
- ^ 同上, p482
- ^ Grégory Bouysse 前掲書 "Raymond DAFFAS"参照。
- ^ Robert Forbes 前掲書 p484
文献
英語
- Robert Forbes "FOR EUROPE: The French Volunteers of the Waffen-SS" U.K.: Helion & Company, 2006. ISBN 1-874622-68-X
- Richard Landwehr "French Volunteers of the Waffen-SS" United States of America: Siegrunen Publications/Merriam Press, 2006. ISBN 1-57638-275-3
- Tony Le Tissier "SS-Charlemagne: The 33rd Waffen-Grenadier Division of the SS" South Yorkshire: Pen & Sword Books, 2010. ISBN 978 1 84884 231 1
ドイツ語
- Ernst-Günther Krätschmer "Die Ritterkreuzträger der Waffen-SS" Coburg, Deutschland: NATION EUROPA VERLAG, 2003. ISBN 3-920677-43-9
- Hans Werner Neulen "An deutscher Seite: Internationale Freiwillige von Wehrmacht und Waffen-SS" München, deutschland: Universitas Verlag, 1985. ISBN 3-8004-1069-9
フランス語
- Georges Bernage "BERLIN 1945 - L'agonie du Reich" HEIMDAL, 2010. ISBN 978-2-84048-262-8
- Grégory Bouysse "Waffen-SS Français volume 1: officiers" 2011. ISBN 978-1-4475-9358-4 [1]
日本語
- 長谷川公昭 『ナチ占領下のパリ』(草思社・1986年) ISBN 4-7942-0246-4
- アントニー・ビーヴァー(著), Antony Beevor(原著), 川上 洸(訳) 『ベルリン陥落 1945』(白水社・2004年) ISBN 4-560-02600-9
- 渡部義之編 『【歴史群像】W.W.Ⅱ 欧州戦史シリーズVol.18 武装SS全史Ⅱ[膨張・壊滅編]』(学習研究社・2002年) ISBN 4-05-602643-2