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|生年月日 = [[1877年]][[3月12日]] |
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|没年月日 = |
|没年月日 ={{死亡年月日と没年齢|1877|3|12|1946|10|16}} |
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|出身校 = |
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|所属政党 = [[ファイル:Reichsadler.svg|25px]] [[国家社会主義ドイツ労働者党]]<br>[[ドイツ民族自由党]] |
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|称号・勲章 = |
|称号・勲章 = 法学博士号 |
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|世襲の有無 = |
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|親族(政治家) = |
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|職名 = [[ファイル:Flag of Germany.svg|23px]] [[ファイル:Flag of Nazi Germany (1933-1945).svg|23px]] [[ドイツ国]][[国会 (ドイツ)|国会議員]] |
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|職名 = [[内務大臣]] |
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|就任日 = [[1924年]][[5月4日]] |
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|退任日 = [[1945年]]5月 |
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|当選回数 = 8回 |
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|退任日 = [[1943年]][[8月23日]] |
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|選挙区 = 24選挙区([[オーバーバイエルン]]) |
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|国旗2 = DEU1935 |
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|国旗2 = |
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|職名2 = [[ベーメン・メーレン保護領]]総督 |
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|職名2 = [[ファイル:Flag of Thuringia.svg|25px]] [[テューリンゲン州]][[内相]]兼[[教育相]] |
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|内閣2 = ヒトラー内閣 |
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|内閣2 = [[エルヴィン・バウム]]内閣 |
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|就任日2 = [[1943年]][[8月24日]] |
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|就任日2 = [[1930年]][[1月23日]] |
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|退任 |
|退任日2 = [[1931年]][[4月1日]] |
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|国旗3 = DEU1935 |
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|当選回数 = |
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|職名3 = [[ナチス・ドイツ|ドイツ国]]内相 |
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|内閣3 = [[アドルフ・ヒトラー内閣]] |
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|就任日3 = [[1933年]][[1月30日]] |
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|退任日3 = [[1943年]][[8月23日]] |
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|国旗4 = DEU1935 |
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|職名4 = [[ベーメン・メーレン保護領]]総督 |
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|退任日4 = [[1945年]][[5月4日]] |
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'''ヴィルヘルム・フリック'''('''Wilhelm Frick''', [[1877年]][[3月12日]] - [[1946年]][[10月16日]])は[[ドイツ]]の政治家。[[国家社会主義ドイツ労働者党]](ナチ党)国会議員団長 |
'''ヴィルヘルム・フリック'''('''Wilhelm Frick''', [[1877年]][[3月12日]] - [[1946年]][[10月16日]])は[[ドイツ]]の政治家。[[国家社会主義ドイツ労働者党]](ナチ党)国会議員団長、[[テューリンゲン州]]内相兼教育相、[[ドイツ国]]内相、[[ベーメン・メーレン保護領]]総督を歴任した。[[全権委任法]]、[[ニュルンベルク法]]、[[強制的同一化]]政策の制定、[[ナチス式敬礼]]の義務化に大きく貢献した。戦後[[ニュルンベルク裁判]]において死刑判決を受け処刑された。 |
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== 生涯 == |
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=== 生い立ち === |
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1877年3月12日、[[バイエルン王国]][[アルゼンツ]] ([[:de:Alsenz|Alsenz]]) に教師の息子として生まれる。[[カイザースラウテルン]]の小学校、[[ギムナジウム]]を出た後、[[ゲオルク・アウグスト大学ゲッティンゲン|ゲッティンゲン大学]]、[[フンボルト大学ベルリン|ベルリン大学]]、[[ルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン|ミュンヘン大学]]などに通い、1901年に[[ルプレヒト・カール大学ハイデルベルク|ハイデルベルク大学]]から法学博士号を授与された<ref name="ニュルンベルク・インタビュー下54">『ニュルンベルク・インタビュー 下』54頁</ref>。 |
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1877年3月12日、[[ドイツ帝国]][[領邦]][[バイエルン王国]]の[[アルゼンツ]] ([[:de:Alsenz|Alsenz]]) に教師ヴィルヘルム・フリック(Wilhelm Frick)の息子として生まれる<ref name="ヴィストリヒ228">ヴィストリヒ、228頁</ref><ref name="LeMO">[http://www.dhm.de/lemo/html/biografien/FrickWilhelm/index.html LeMO]</ref>。母はその妻ヘンリエッタ(Henriette)(旧姓シュミット(Schmidt))<ref name="LeMO"/>。祖父は父方も母方も北[[プファルツ]]の農民だった<ref name="ゴールデンソーン60">ゴールデンソーン、60頁</ref>。フリックは四人兄弟の末っ子で兄一人と姉二人がいた<ref name="ゴールデンソーン60"/>。 |
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[[カイザースラウテルン]]の小学校、[[ギムナジウム]]を出た後<ref name="ゴールデンソーン54">ゴールデンソーン、54頁</ref>、1896年から1901年にかけて[[ゲオルク・アウグスト大学ゲッティンゲン|ゲッティンゲン大学]]、[[フンボルト大学ベルリン|ベルリン大学]]、[[ルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン|ミュンヘン大学]]、[[ルプレヒト・カール大学ハイデルベルク|ハイデルベルク大学]]などに通い<ref name="ヴィストリヒ228"/><ref name="LeMO"/>、1901年にハイデルベルク大学から法学博士号を授与された<ref name="ゴールデンソーン54"/>。1900年から1903年までカイザースラウテルンで[[弁護士]]をしていた<ref name="ゴールデンソーン54"/>。 |
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1900年から1903年までカイザースラウテルンで弁護士をしていた。1903年にミュンヘンの行政機関で働き、1907年から1917年にかけては[[ビルマーゼンス]]の行政機関に勤務した。1917年からはミュンヘンの警察署に勤務し、不当利得者や密売買を取り締まる部署の部長を務めた。1919年には同警察署の政治部長に就任し、共産主義者の活動の取り締まりにあたった<ref name="ニュルンベルク・インタビュー下54">『ニュルンベルク・インタビュー 下』54頁</ref>。1923年に[[ミュンヘン一揆]]に参加して逮捕され、警察を解雇された。15か月の禁固刑判決を受けたが、4か月ほどで釈放された<ref name="ニュルンベルク・インタビュー下55">『ニュルンベルク・インタビュー 下』55頁</ref>。 |
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=== バイエルン公務員 === |
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1924年、ナチ党の偽装政党「[[国家社会主義自由運動]]」から国会議員選挙に出馬し初当選した。1930年、ナチ党員初の閣僚メンバーとして、テューリンゲン州内相兼教育相に就任した。フリックは[[アルフレート・ローゼンベルク]]と結託して、[[バウハウス]]などの近代芸術の排除を推進した。これは後の[[退廃芸術]]狩りに通じるものだったが、[[ドイツ共産党]]との対立を免れず翌年に大臣を解任された。 |
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1903年にバイエルン王国の判事補試験(Assessorexamen)に合格し<ref name="LeMO"/><ref name="ゴールデンソーン54"/>、[[ミュンヘン]]で公務員となった<ref name="ゴールデンソーン54"/>。 |
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1904年から[[オーバーバイエルン]]管区庁で勤務し、また[[ミュンヘン警察本部]]([[:de:Polizeipräsidium München|de]])の次席検事(Amtsanwalt)となる<ref name="LeMO"/>。[[第一次世界大戦]]には従軍していない<ref name="ヴィストリヒ228"/>。1917年からはミュンヘン警察本部で不当利得者や密売買を取り締まる部署の部長を務めた<ref name="ゴールデンソーン54"/>。 |
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1933年、ヒトラー内閣内相に就任した。初期のヒトラー内閣におけるナチ党員は、首相[[アドルフ・ヒトラー]]、無任所相[[ヘルマン・ゲーリング]]、そしてフリックの3名のみで、他の閣僚メンバーは殆どが大統領[[パウル・フォン・ヒンデンブルク]]の息が掛かった政治家だった。その中でフリックは1943年までの10年間にわたって内相を務め続けることになる。 |
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1919年にはミュンヘン警察本部の政治部長に就任。ちょうど[[バイエルン・レーテ共和国]]の樹立騒ぎがあった時期でフリックは共産主義者の取り締まりに尽力した<ref name="ゴールデンソーン55">ゴールデンソーン、55頁</ref>。 |
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フリックは[[プロイセン州]]内相を兼任していたゲーリングがプロイセン警察を独自運営しようとすることに反発した。その対抗として、[[バイエルン州]]警察長官を務めていた[[親衛隊全国指導者]][[ハインリヒ・ヒムラー]]に接近し、1933年末から1934年初頭にかけてヒムラーにプロイセン州を除く全州警察権力をヒムラーに委任した。ヒムラーは1934年4月に[[ゲシュタポ]]の指揮権も獲得し、事実上全ドイツの警察権力を掌握した。1934年6月末から7月初めに行われた[[長いナイフの夜]]の際にも中心になって活躍したのは、ヒムラーや[[ラインハルト・ハイドリヒ]]など、フリックが事件に際して召集した親衛隊幹部だった。 |
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=== ナチ党入党 === |
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こうした一連の暗躍にもかかわらず、フリックの地位は下がることこそなかったが上がることもなかった。それどころかフリックはゲーリングと共闘したはずのヒムラーを警戒するようになり、かつて自らが対抗したゲーリングの庇護を受けることになってしまった。フリックは今度、ヒムラーから半ば独立してベルリンの親衛隊を支配していた[[親衛隊大将]][[クルト・ダリューゲ]]に接近し、ダリューゲを内務省第三局(警察)局長に任命した。ヒムラーを名目的な事務職にしてダリューゲに警察の実権を掌握させようと謀ったのである。しかし1936年6月、ヒトラーはヒムラーを警察指揮権保持者と認め、フリックにヒムラーを全ドイツ警察長官に任じるよう命じた。総統命令にはフリックも応じるしかなく、1936年6月17日にヒムラーを全ドイツ警察長官に任じた。フリックの推すダリューゲはヒムラーから[[秩序警察]]長官に任命され一応厚遇されたが、[[ゲシュタポ]]などの政治警察はすべてハイドリヒの[[保安警察]]にまとめられたため、ダリューゲの権力は低下した。フリックの権力も形骸化し、以降内相は形式的な名誉職と化していった。 |
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1923年に国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の党首[[アドルフ・ヒトラー]]と初めて出会った。ヒトラーが党集会を行いたい旨の申請を警察の政治部長だったフリックのところへ持参したのがきっかけだった。ヒトラーとナチ党の理想に共感したフリックは、同年にナチ党に入党した<ref name="ゴールデンソーン55"/>。1923年11月の[[ミュンヘン一揆]]にも参加したため逮捕され、バイエルン州での公務を解雇された<ref name="LeMO"/>。 |
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[[File:Bundesarchiv Bild 102-00344A, München, nach Hitler-Ludendorff Prozess.jpg|thumb|left|1924年4月1日、ミュンヘン一揆の裁判にかけられる被告たち。左から三人目(背広の人物)がフリック。中央は[[エーリヒ・ルーデンドルフ|ルーデンドルフ]]将軍、その右は[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]。]] |
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1938年1月25日、ゲシュタポは内相の承認を経ずに保護拘禁することを認められ、フリックが内相として所持していたゲシュタポへの僅かな拘束力も完全に消滅した<ref>ジャック・ドラリュ『ゲシュタポ・狂気の歴史』講談社学術文庫、285ページ。</ref>。1943年、ついにフリックは内相職を解任され、[[コンスタンティン・フォン・ノイラート]]の後任として[[ベーメン・メーレン保護領の統治者一覧|ベーメン・メーレン保護領総督]]に任命された。しかし、ここでも実権は同保護領担当相[[カール・ヘルマン・フランク]]が握っており、事実上の左遷措置をとられたフリックは相変わらず形式的な存在でしかなかった。 |
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主要参加者としてヒトラーや[[エーリヒ・ルーデンドルフ|ルーデンドルフ]]、[[エルンスト・レーム|レーム]]らとともに裁判にかけられ、1924年4月1日の判決で15か月の禁固刑判決を受けたが、執行猶予が付けられ、判決後に釈放された<ref name="LeMO"/><ref name="ゴールデンソーン55"/>。 |
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1924年5月4日、ナチ党の友党「[[ドイツ民族自由党]]」から[[ドイツ国会1924年選挙 (5月)|国会議員選挙]]に出馬し初当選した<ref name="LeMO"/>。同年、当時としては衝撃的な二つの法案を国会に提出した。ユダヤ人の公職就任禁止法案とユダヤ人と非ユダヤ人の婚姻を禁止する法案である<ref name="ゴールデンソーン55">パーシコ、下巻55頁</ref>。これは後にナチ党政権下で反ユダヤ主義法「[[ニュルンベルク法]]」として可決成立することとなる。 |
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1945年5月4日、連合軍に逮捕されニュルンベルク裁判に被告として出廷。裁判の公判中、「被告人の中でもっとも面白みのない人物」と揶揄されていた。翌年死刑判決を受け、10月16日に絞首刑が執行された。最後の言葉は「不滅なるドイツ万歳!」であった。 |
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ナチ党が再建するとナチ党に戻り、1928年にはナチ党国会議員団の団長となる<ref name="LeMO"/>。 |
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フリックは国会議員の力を使ってヒトラーがドイツ市民権を取得できるよう尽力した。当時のドイツでは公務員になれば自動的にドイツ市民権を取得することになっていたので<ref name="パーシコ下32">パーシコ、下巻32頁</ref>、ヒトラーを[[ヒルドブルクハウゼン]]という小さな町の治安関係の公務員に成れるよう手筈を整えた。しかしあまりにみすぼらしい役職にヒトラーが激怒して辞令を破り捨ててしまった。結局、1932年2月25日になってフリックは[[ブラウンシュヴァイク州]]のベルリン駐在州公使館付参事官という形式でヒトラーにドイツ国籍を与えることに成功した<ref name="阿部191">阿部、191頁</ref>。フリックはこの業績を最も誇りにしていた<ref name="パーシコ下32"/>。 |
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=== テューリンゲン州内相・教育相 === |
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[[File:Bundesarchiv Bild 102-10543, Weimar, Aufmarsch der Nationalsozialisten.jpg|thumb|1930年10月、[[テューリンゲン州]]州都[[ヴァイマール]]。[[突撃隊]]の行進を見学するテューリンゲン州内相フリック。右隣は[[ヨーゼフ・ゲッベルス]]。]] |
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1929年12月8日の[[テューリンゲン州]]([[:de:Land Thüringen (1920–1952)|de]])議会選挙でナチ党は11パーセントの得票を得て州議会に6名の議員を出した<ref name="阿部160">阿部、160頁</ref><ref name="プリダム112">プリダム、112頁</ref>。 |
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その結果テューリンゲン州首相[[エルヴィン・バウム]]([[:de:Erwin Baum]])はナチ党との連立を決意した。1930年1月23日にフリックがテューリンゲン州内相兼教育相に就任した([[:de:Baum-Frick-Regierung|de]])<ref name="ヴィストリヒ229">ヴィストリヒ、229頁</ref>。地方政府とはいえナチ党員が閣僚職を手にしたのはこの時が初めてだった。テューリンゲン州内相・教育相としてフリックが行った政策は後のナチ党政権の政策の先駆けだった<ref name="ヴィストリヒ229">ヴィストリヒ、229頁</ref>。 |
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[[ヴァイマル共和政]]シンパの警察官はテューリンゲン州警察から次々と追放され、ナチ党員やナチ党シンパの警察官が続々と送りこまれた<ref name="ヴィストリヒ229"/><ref name="阿部160"/>。1930年7月には[[イエナ大学]]にナチ党お抱えの人種学者[[ハンス・ギュンター]]の人種学の特別講座を設けさせた<ref name="ヴィストリヒ229"/><ref name="プリダム244">プリダム、244頁</ref>。反戦映画「[[西部戦線異状なし]]」は上映禁止処分となり、[[ジャズ]]も禁止された<ref name="ヴィストリヒ229"/>。一方で[[反ユダヤ主義]]プロパガンダ作品には一切の検閲が廃されてやりたい放題となった<ref name="ヴィストリヒ229"/>。 |
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1931年4月1日にテューリンゲン州内相・教育相職を辞した<ref name="ヴィストリヒ229"/>。 |
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=== ドイツ国内相 === |
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[[File:Bundesarchiv Bild 102-15348, Reichskabinett Adolf Hitler.jpg|thumb|1933年1月30日、[[アドルフ・ヒトラー内閣]]成立。ヒトラーのすぐ後ろに立っている人物がヴィルヘルム・フリック内相。]] |
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1933年1月30日、[[パウル・フォン・ヒンデンブルク]]大統領より[[アドルフ・ヒトラー]]が[[ドイツの首相|首相]]に任命された。フリックは内相として[[ヒトラー内閣]]に入閣した。成立当初のヒトラー内閣におけるナチ党員は、首相[[アドルフ・ヒトラー]]、無任所相[[ヘルマン・ゲーリング]]、そして内相フリックの3名のみで、他の閣僚メンバーは[[フランツ・フォン・パーペン]]内閣時代からの貴族閣僚とナチ党の連立相手である[[ドイツ国家人民党|国家人民党]]の[[アルフレート・フーゲンベルク]]、[[鉄兜団]]の[[フランツ・ゼルテ]]などによって占められていた。大統領[[パウル・フォン・ヒンデンブルク]]の影響が大きく、権威主義的保守閣僚たちがナチ党閣僚三人を取り囲む構図になっていた<ref name="成瀬201">成瀬・山田・木村、201頁</ref><ref name="阿部213">阿部、213頁</ref>。フリックは1943年までの10年間にわたって内相を務め続けることになる。 |
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政権初期に大きな権限を持っていたフリックはナチ党の[[強制的同一化]]政策を推し進めた。1933年3月23日には[[全権委任法]]に内務大臣として署名した。これによりヒトラー独裁体制が確立された<ref name="阿部226">阿部、226頁</ref><ref name="パーシコ下33">パーシコ、下巻33頁</ref>。さらに1933年12月1日には「党と国家の統一のための法律」に署名。これによりナチ党とドイツ政府は一体化され、ナチ党以外の政党の存続と樹立は禁止された<ref name="阿部258">阿部、258頁</ref><ref name="パーシコ下33"/>。 |
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地方政府の自治権を奪い、[[中央集権]]体制を確立するのを急いだ。フリックは1933年3月に[[ハンブルク]]で「中央政府に服従しようとしない州政府があれば軍隊を差し向ける。」と演説した<ref name="プリダム347">プリダム、347頁</ref>。そして1933年3月9日から3月15日にかけて各州の自治権取り上げが行われた<ref name="阿部222">阿部、222頁</ref>。強い抵抗を見せた[[ハインリヒ・ヘルト]]の[[バイエルン州]]政府も3月9日には[[フランツ・フォン・エップ]]率いる[[突撃隊]]・[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]]部隊によって制圧された<ref name="ヘーネ84">ヘーネ、84頁</ref>。 |
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しかし[[プロイセン州]]だけはうまくいかなかった。プロイセン内相を兼任していたゲーリングはプロイセン行政機関を自らの私的機関に仕立て上げてフリックのドイツ国内務省に吸収されるのを避けようと図ったためである<ref name="ヘーネ88">ヘーネ、88頁</ref>。フリックは1933年11月に警察権を完全に中央政府へ移行させることを企図したが、この時もゲーリングは[[ゲシュタポ]]をプロイセン内務省から独立させて自分の直接指揮下の機関にするなどして逃れようとした<ref name="ヘーネ97">ヘーネ、97頁</ref>。フリックは、ゲーリングへの対抗として、[[バイエルン州]]警察長官を務めていた[[親衛隊全国指導者]][[ハインリヒ・ヒムラー]]に接近し、1933年末から1934年初頭にかけてヒムラーにプロイセン州を除く全州警察権力をヒムラーに委任した<ref name="ヘーネ98">ヘーネ、98頁</ref>。ゲーリングは、この「フリック=ヒムラー連合」との決定的な対立は望まず、1934年3月末に行われたゲーリングとフリックの間で交渉の結果、プロイセン州行政組織はプロイセン州財務省を除いてすべてドイツ国内務省に吸収されることとなった<ref name="ヘーネ99">ヘーネ、99頁</ref>。ゲーリングの下でプロイセン内務省警察局長をしていた[[クルト・ダリューゲ]]はドイツ内務省に入省した<ref name="ヘーネ98"/>。1934年4月20日にはヒムラーがゲーリングから[[ゲシュタポ]]長官代理に任じられゲシュタポの実質的指揮権を獲得した<ref name="阿部269">阿部、269頁</ref>。 |
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[[File:Bundesarchiv Bild 121-911, Kitzbühel, Skimeisterschaft, Frick, Daluege, Hofer.jpg|thumb|left|1939年2月に[[キッツビュール]]で行われた警察のスキー選手権。内相ヴィルヘルム・フリック(左)と秩序警察長官[[クルト・ダリューゲ]](中央)。]] |
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フリックはヒムラーを全面的に支持していたわけではなく、その強引な捜査手法について批判もしていた。1935年1月30日にフリックがヒムラーに宛てた書簡は「バイエルン州における"保護拘禁"数は他の州と比べても異常である」と苦言を呈している<ref name="ヘーネ180">ヘーネ、180頁</ref>。フリックはヒムラーより[[クルト・ダリューゲ]]を高く評価していた。ダリューゲをドイツ国内務省警察局長に任命していた。フリックはヒムラーを名目的な事務職にしてダリューゲに警察の実権を掌握させる構想を持っていた<ref name="ヘーネ196-197">ヘーネ、196-197頁</ref>。しかし1936年6月9日にヒトラーはヒムラーの全ドイツ警察長官就任と閣議への出席の提案を認めた。フリックはヒトラーに抗議したが、ヒトラーは「ヒムラーを閣僚に任命したわけではない。彼は"官房長官"として閣議に出席するだけだ」と述べてフリックを納得させた<ref name="ヘーネ197">ヘーネ、197頁</ref>。フリックも応じるしかなくなり、1936年6月17日にヒムラーを全ドイツ警察長官に任じた。フリックの推すダリューゲはヒムラーから[[秩序警察]]長官に任命され一応厚遇されたが、[[ゲシュタポ]]など権力の源泉となる政治警察はすべてハイドリヒの[[保安警察]]にまとめられたため、ダリューゲの権力は低下した<ref name="ヘーネ197"/>。フリックの権力も形骸化し、以降内相は形式的な名誉職と化していった。 |
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フリックは形式的な内相である事が多かったとはいえ、見逃すことはできない犯罪的な法律の起草にも携わっている。[[ニュルンベルク法]]をはじめとするユダヤ人を社会から排除する法律や、1934年6月の「[[長いナイフの夜]]」での粛清を正当化する法律を起草したのはフリックの内務省であった<ref name="ヴィストリヒ229"/><ref name="パーシコ上巻119">パーシコ、上巻119頁</ref>。 |
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[[File:Bundesarchiv Bild 121-0018, Sudetenland, Besuch Wilhelm Frick.jpg|thumb|1938年9月23日、[[ズデーテンラント]]で演説するフリック。]] |
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1938年1月25日、ゲシュタポは内相の承認を経ずに保護拘禁することを認められ、フリックが内相として所持していたゲシュタポへの僅かな拘束力も完全に消滅した<ref name="ドラリュ文庫285">ドラリュ、文庫版285頁</ref>。 |
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[[第二次世界大戦]]開戦でドイツが完全に軍事国家と化してしまうとフリックの力は一段と低下した<ref name="ヴィストリヒ229"/>。戦時中SS権力がますます巨大化していく中、反SS的なフリックは邪魔な存在になり、1943年8月20日にフリックは内相を解任された。全ドイツ警察長官ハインリヒ・ヒムラーが後任の内相に就任した<ref name="阿部601">阿部、601頁</ref>。ただし代わりにフリックは無任所相に任命され、形式的な閣僚としての地位は保った<ref name="LeMO"/>。 |
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=== ベーメン・メーレン保護領総督 === |
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1943年8月24日、[[コンスタンティン・フォン・ノイラート]]の後任として[[ベーメン・メーレン保護領の統治者一覧|ベーメン・メーレン保護領総督]]に任命された<ref name="ヴィストリヒ229"/>。しかし、ここでも実権は同保護領担当相[[カール・ヘルマン・フランク]]が握っており、事実上の左遷措置をとられたフリックは相変わらず形式的な存在でしかなかった<ref name="ヴィストリヒ229"/>。 |
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=== ニュルンベルク裁判 === |
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[[File:Defendants Nuremberg-War-Crimes-Tribunal 1945-11-27.jpg|thumb|1945年11月27日、ニュルンベルク裁判公判中。前列左から三人目がフリック。]] |
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1945年5月4日、連合軍に逮捕された。1945年11月からはじまったニュルンベルク裁判で起訴された。フリックは4つの起訴事項(第一起訴事項「侵略戦争の共同謀議」、第二起訴事項「[[平和に対する罪]]」、第三起訴事項「[[戦争犯罪]]」、第四起訴事項「[[人道に対する罪]]」)全てで起訴された。 |
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被告人達の精神分析官[[グスタフ・ギルバート]]大尉が開廷前に被告人全員に対して行った[[ウェクスラー成人知能検査|ウェクスラー・ベルビュー成人知能検査]]によると彼の知能指数は124だった<ref>[[レナード・モズレー]]著、[[伊藤哲]]訳、『第三帝国の演出者 ヘルマン・ゲーリング伝 下』、[[1977年]]、[[早川書房]] 166頁</ref>。 |
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公判中、フリックは無表情な顔と生気のない目をしていたため、精精神分析医[[ダグラス・ケリー]]少佐はフリックを「最も目立たない被告」と呼んだ<ref name="パーシコ下32">パーシコ、下巻32頁</ref>。裁判ではフリックは証言を拒否し、証言台に立たなかった<ref name="ヴィストリヒ229"/>。 |
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1946年10月1日に判決が下った。判決はフリックについて「常に過激な反ユダヤ主義者として、ユダヤ人をドイツの生活・経済から締め出す目的を持つ、数多くの法律を起草し、署名し、実施した。」「フリックの反ユダヤ主義法令が"最終解決"への道を開いた。」「ベーメン・メーレン保護領総督としてのフリックの権限は前任者に比べてかなり制限されたものであったことは事実である。しかし彼はヨーロッパにおけるナチスの占領政策、特にユダヤ人に対する処置は十分に承知していた。」「[[メーメル]]、[[ダンツィヒ]]、[[西プロイセン]]、[[ポーゼン]]、[[オイペン]]、[[マルメディ]]、[[モレスネート]]などに[[ドイツ化]]を行ったことに責任を負う。」として、第二起訴事項「[[平和に対する罪]]」、第三起訴事項「[[戦争犯罪]]」、第四起訴事項「[[人道に対する罪]]」の3つで有罪とした<ref name="マーザー321-322">マーザー、321-322頁</ref>。 |
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彼に下された量刑判決は[[絞首刑]]だった。 |
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=== 処刑 === |
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[[File:Dead wilhelmfrick.jpg|thumb|死刑執行後のフリックの遺体。顔の負傷が激しい。]] |
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1946年10月16日午前1時10分から自殺した[[ヘルマン・ゲーリング]]を除く死刑囚10人の絞首刑が順番に執行された。フリックは、[[ヨアヒム・フォン・リッベントロップ|リッベントロップ]]、[[ヴィルヘルム・カイテル|カイテル]]、[[エルンスト・カルテンブルンナー|カルテンブルンナー]]、[[アルフレート・ローゼンベルク|ローゼンベルク]]、[[ハンス・フランク|フランク]]の後、6番目に処刑された<ref name="マーザー392">マーザー、392頁</ref>。フリックは絞首台の階段を昇る際によろけたので支えられながら昇った<ref name="パーシコ下310">パーシコ、下巻310頁</ref>。最後の言葉は「不滅なるドイツ万歳!」だった<ref name="マーザー393">マーザー、393頁</ref>。絞首刑はうまくいったとは言えず、フリックの顔は酷い傷を負った。恐らく落とし戸が小さすぎたことと首に縄をかける位置がよくなかったためと思われる<ref name="マーザー395">マーザー、395頁</ref>。 |
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自殺したゲーリングを含めてフリックら11人の遺体は、ミュンヘン郊外の墓地の火葬場へ運ばれ、そこで焼かれた。遺骨は[[イザール川]]の支流[[コンヴェンツ川]]に流された<ref name="パーシコ313">パーシコ、下巻313頁</ref>。 |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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*{{Cite book|和書 |
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{{Commonscat|Wilhelm Frick}} |
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|author = [[ジャック・ドラリュ]]([[:fr:Jacques Delarue |fr]]) |
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*ハインツ・ヘーネ『髑髏の結社 SSの歴史(上)』講談社学術文庫、ISBN 978-4061594937 |
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|translator = [[片岡啓治]] |
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*ジャック・ドラリュ『ゲシュタポ・狂気の歴史』講談社学術文庫、ISBN 978-4061594333 |
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|year = [[1968年]] |
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*レオン・ゴールデンソーン著、ロバート・ジェラトリー編『ニュルンベルク・インタビュー 下』小林等・高橋早苗・浅岡政子訳、河出書房新書 |
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|title = ゲシュタポ・狂気の歴史―ナチスにおける人間の研究 |
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|publisher = [[サイマル出版会]] |
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}} |
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**{{Cite book|和書 |
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|author = ジャック・ドラリュ |
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|translator = 片岡啓治 |
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|year = [[2000年]] |
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|title = ゲシュタポ・狂気の歴史 |
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|publisher = [[講談社学術文庫]] |
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|isbn = 978-4061594333 |
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}} |
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*{{Cite book|和書 |
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|author = [[ジェフリー・プリダム]]([[:en:Geoffrey Pridham|en]]) |
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|translator = [[垂水節子]]・[[豊永泰子]] |
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|year = [[1975年]] |
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|title = ヒトラー・権力への道:ナチズムとバイエルン1923-1933年 |
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|publisher = [[時事通信社]] |
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}} |
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*{{Cite book|和書 |
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|author = [[ウェルナー・マーザー]] |
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|translator = [[西義之]] |
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|year = [[1979年]] |
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|title = ニュルンベルク裁判:ナチス戦犯はいかにして裁かれたか |
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|publisher = [[TBSブリタニカ]] |
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}} |
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*{{Cite book|和書 |
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|author = [[ハインツ・ヘーネ]]([[:de:Heinz Höhne|de]]) |
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|translator = [[森亮一]] |
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|year = [[1981年]] |
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|title = SSの歴史 -髑髏の結社- |
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|isbn = 978-4892260506 |
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|author = ハインツ・ヘーネ |
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|author = ハインツ・ヘーネ |
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|title = 髑髏の結社・SSの歴史〈下〉 |
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*{{Cite book|和書 |
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|author = [[ジョゼフ・E・パーシコ]]([[:en:Joseph E. Persico|en]]) |
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|author = ジョゼフ・E・パーシコ |
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|author = ジョゼフ・E・パーシコ |
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*{{Cite book|和書 |
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|author = [[成瀬治]]、[[山田欣吾]]、[[木村靖二]] |
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*{{Cite book|和書 |
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|author = [[阿部良男]] |
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|year = [[2001年]] |
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|title = ヒトラー全記録 : 1889-1945 20645日の軌跡 |
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|isbn = 978-4760120581 |
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*{{Cite book|和書 |
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|author = [[ロベルト・ヴィストリヒ]]([[:en:Robert S. Wistrich|en]]) |
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2010年11月12日 (金) 12:43時点における版
ヴィルヘルム・フリック Wilhelm Frick | |
---|---|
| |
生年月日 | 1877年3月12日 |
出生地 |
ドイツ帝国・ バイエルン王国 アルゼンツ |
没年月日 | 1946年10月16日(69歳没) |
死没地 |
連合軍占領下ドイツ ニュルンベルク |
所属政党 |
国家社会主義ドイツ労働者党 ドイツ民族自由党 |
称号 | 法学博士号 |
選挙区 | 24選挙区(オーバーバイエルン) |
当選回数 | 8回 |
在任期間 | 1924年5月4日 - 1945年5月 |
内閣 | エルヴィン・バウム内閣 |
在任期間 | 1930年1月23日 - 1931年4月1日 |
ドイツ国内相 | |
内閣 | アドルフ・ヒトラー内閣 |
在任期間 | 1933年1月30日 - 1943年8月23日 |
在任期間 | 1943年8月24日 - 1945年5月4日 |
ヴィルヘルム・フリック(Wilhelm Frick, 1877年3月12日 - 1946年10月16日)はドイツの政治家。国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)国会議員団長、テューリンゲン州内相兼教育相、ドイツ国内相、ベーメン・メーレン保護領総督を歴任した。全権委任法、ニュルンベルク法、強制的同一化政策の制定、ナチス式敬礼の義務化に大きく貢献した。戦後ニュルンベルク裁判において死刑判決を受け処刑された。
生涯
生い立ち
1877年3月12日、ドイツ帝国領邦バイエルン王国のアルゼンツ (Alsenz) に教師ヴィルヘルム・フリック(Wilhelm Frick)の息子として生まれる[1][2]。母はその妻ヘンリエッタ(Henriette)(旧姓シュミット(Schmidt))[2]。祖父は父方も母方も北プファルツの農民だった[3]。フリックは四人兄弟の末っ子で兄一人と姉二人がいた[3]。
カイザースラウテルンの小学校、ギムナジウムを出た後[4]、1896年から1901年にかけてゲッティンゲン大学、ベルリン大学、ミュンヘン大学、ハイデルベルク大学などに通い[1][2]、1901年にハイデルベルク大学から法学博士号を授与された[4]。1900年から1903年までカイザースラウテルンで弁護士をしていた[4]。
バイエルン公務員
1903年にバイエルン王国の判事補試験(Assessorexamen)に合格し[2][4]、ミュンヘンで公務員となった[4]。
1904年からオーバーバイエルン管区庁で勤務し、またミュンヘン警察本部(de)の次席検事(Amtsanwalt)となる[2]。第一次世界大戦には従軍していない[1]。1917年からはミュンヘン警察本部で不当利得者や密売買を取り締まる部署の部長を務めた[4]。
1919年にはミュンヘン警察本部の政治部長に就任。ちょうどバイエルン・レーテ共和国の樹立騒ぎがあった時期でフリックは共産主義者の取り締まりに尽力した[5]。
ナチ党入党
1923年に国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の党首アドルフ・ヒトラーと初めて出会った。ヒトラーが党集会を行いたい旨の申請を警察の政治部長だったフリックのところへ持参したのがきっかけだった。ヒトラーとナチ党の理想に共感したフリックは、同年にナチ党に入党した[5]。1923年11月のミュンヘン一揆にも参加したため逮捕され、バイエルン州での公務を解雇された[2]。
主要参加者としてヒトラーやルーデンドルフ、レームらとともに裁判にかけられ、1924年4月1日の判決で15か月の禁固刑判決を受けたが、執行猶予が付けられ、判決後に釈放された[2][5]。
1924年5月4日、ナチ党の友党「ドイツ民族自由党」から国会議員選挙に出馬し初当選した[2]。同年、当時としては衝撃的な二つの法案を国会に提出した。ユダヤ人の公職就任禁止法案とユダヤ人と非ユダヤ人の婚姻を禁止する法案である[5]。これは後にナチ党政権下で反ユダヤ主義法「ニュルンベルク法」として可決成立することとなる。
ナチ党が再建するとナチ党に戻り、1928年にはナチ党国会議員団の団長となる[2]。
フリックは国会議員の力を使ってヒトラーがドイツ市民権を取得できるよう尽力した。当時のドイツでは公務員になれば自動的にドイツ市民権を取得することになっていたので[6]、ヒトラーをヒルドブルクハウゼンという小さな町の治安関係の公務員に成れるよう手筈を整えた。しかしあまりにみすぼらしい役職にヒトラーが激怒して辞令を破り捨ててしまった。結局、1932年2月25日になってフリックはブラウンシュヴァイク州のベルリン駐在州公使館付参事官という形式でヒトラーにドイツ国籍を与えることに成功した[7]。フリックはこの業績を最も誇りにしていた[6]。
テューリンゲン州内相・教育相
1929年12月8日のテューリンゲン州(de)議会選挙でナチ党は11パーセントの得票を得て州議会に6名の議員を出した[8][9]。
その結果テューリンゲン州首相エルヴィン・バウム(de:Erwin Baum)はナチ党との連立を決意した。1930年1月23日にフリックがテューリンゲン州内相兼教育相に就任した(de)[10]。地方政府とはいえナチ党員が閣僚職を手にしたのはこの時が初めてだった。テューリンゲン州内相・教育相としてフリックが行った政策は後のナチ党政権の政策の先駆けだった[10]。
ヴァイマル共和政シンパの警察官はテューリンゲン州警察から次々と追放され、ナチ党員やナチ党シンパの警察官が続々と送りこまれた[10][8]。1930年7月にはイエナ大学にナチ党お抱えの人種学者ハンス・ギュンターの人種学の特別講座を設けさせた[10][11]。反戦映画「西部戦線異状なし」は上映禁止処分となり、ジャズも禁止された[10]。一方で反ユダヤ主義プロパガンダ作品には一切の検閲が廃されてやりたい放題となった[10]。
1931年4月1日にテューリンゲン州内相・教育相職を辞した[10]。
ドイツ国内相
1933年1月30日、パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領よりアドルフ・ヒトラーが首相に任命された。フリックは内相としてヒトラー内閣に入閣した。成立当初のヒトラー内閣におけるナチ党員は、首相アドルフ・ヒトラー、無任所相ヘルマン・ゲーリング、そして内相フリックの3名のみで、他の閣僚メンバーはフランツ・フォン・パーペン内閣時代からの貴族閣僚とナチ党の連立相手である国家人民党のアルフレート・フーゲンベルク、鉄兜団のフランツ・ゼルテなどによって占められていた。大統領パウル・フォン・ヒンデンブルクの影響が大きく、権威主義的保守閣僚たちがナチ党閣僚三人を取り囲む構図になっていた[12][13]。フリックは1943年までの10年間にわたって内相を務め続けることになる。
政権初期に大きな権限を持っていたフリックはナチ党の強制的同一化政策を推し進めた。1933年3月23日には全権委任法に内務大臣として署名した。これによりヒトラー独裁体制が確立された[14][15]。さらに1933年12月1日には「党と国家の統一のための法律」に署名。これによりナチ党とドイツ政府は一体化され、ナチ党以外の政党の存続と樹立は禁止された[16][15]。
地方政府の自治権を奪い、中央集権体制を確立するのを急いだ。フリックは1933年3月にハンブルクで「中央政府に服従しようとしない州政府があれば軍隊を差し向ける。」と演説した[17]。そして1933年3月9日から3月15日にかけて各州の自治権取り上げが行われた[18]。強い抵抗を見せたハインリヒ・ヘルトのバイエルン州政府も3月9日にはフランツ・フォン・エップ率いる突撃隊・親衛隊部隊によって制圧された[19]。
しかしプロイセン州だけはうまくいかなかった。プロイセン内相を兼任していたゲーリングはプロイセン行政機関を自らの私的機関に仕立て上げてフリックのドイツ国内務省に吸収されるのを避けようと図ったためである[20]。フリックは1933年11月に警察権を完全に中央政府へ移行させることを企図したが、この時もゲーリングはゲシュタポをプロイセン内務省から独立させて自分の直接指揮下の機関にするなどして逃れようとした[21]。フリックは、ゲーリングへの対抗として、バイエルン州警察長官を務めていた親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーに接近し、1933年末から1934年初頭にかけてヒムラーにプロイセン州を除く全州警察権力をヒムラーに委任した[22]。ゲーリングは、この「フリック=ヒムラー連合」との決定的な対立は望まず、1934年3月末に行われたゲーリングとフリックの間で交渉の結果、プロイセン州行政組織はプロイセン州財務省を除いてすべてドイツ国内務省に吸収されることとなった[23]。ゲーリングの下でプロイセン内務省警察局長をしていたクルト・ダリューゲはドイツ内務省に入省した[22]。1934年4月20日にはヒムラーがゲーリングからゲシュタポ長官代理に任じられゲシュタポの実質的指揮権を獲得した[24]。
フリックはヒムラーを全面的に支持していたわけではなく、その強引な捜査手法について批判もしていた。1935年1月30日にフリックがヒムラーに宛てた書簡は「バイエルン州における"保護拘禁"数は他の州と比べても異常である」と苦言を呈している[25]。フリックはヒムラーよりクルト・ダリューゲを高く評価していた。ダリューゲをドイツ国内務省警察局長に任命していた。フリックはヒムラーを名目的な事務職にしてダリューゲに警察の実権を掌握させる構想を持っていた[26]。しかし1936年6月9日にヒトラーはヒムラーの全ドイツ警察長官就任と閣議への出席の提案を認めた。フリックはヒトラーに抗議したが、ヒトラーは「ヒムラーを閣僚に任命したわけではない。彼は"官房長官"として閣議に出席するだけだ」と述べてフリックを納得させた[27]。フリックも応じるしかなくなり、1936年6月17日にヒムラーを全ドイツ警察長官に任じた。フリックの推すダリューゲはヒムラーから秩序警察長官に任命され一応厚遇されたが、ゲシュタポなど権力の源泉となる政治警察はすべてハイドリヒの保安警察にまとめられたため、ダリューゲの権力は低下した[27]。フリックの権力も形骸化し、以降内相は形式的な名誉職と化していった。
フリックは形式的な内相である事が多かったとはいえ、見逃すことはできない犯罪的な法律の起草にも携わっている。ニュルンベルク法をはじめとするユダヤ人を社会から排除する法律や、1934年6月の「長いナイフの夜」での粛清を正当化する法律を起草したのはフリックの内務省であった[10][28]。
1938年1月25日、ゲシュタポは内相の承認を経ずに保護拘禁することを認められ、フリックが内相として所持していたゲシュタポへの僅かな拘束力も完全に消滅した[29]。
第二次世界大戦開戦でドイツが完全に軍事国家と化してしまうとフリックの力は一段と低下した[10]。戦時中SS権力がますます巨大化していく中、反SS的なフリックは邪魔な存在になり、1943年8月20日にフリックは内相を解任された。全ドイツ警察長官ハインリヒ・ヒムラーが後任の内相に就任した[30]。ただし代わりにフリックは無任所相に任命され、形式的な閣僚としての地位は保った[2]。
ベーメン・メーレン保護領総督
1943年8月24日、コンスタンティン・フォン・ノイラートの後任としてベーメン・メーレン保護領総督に任命された[10]。しかし、ここでも実権は同保護領担当相カール・ヘルマン・フランクが握っており、事実上の左遷措置をとられたフリックは相変わらず形式的な存在でしかなかった[10]。
ニュルンベルク裁判
1945年5月4日、連合軍に逮捕された。1945年11月からはじまったニュルンベルク裁判で起訴された。フリックは4つの起訴事項(第一起訴事項「侵略戦争の共同謀議」、第二起訴事項「平和に対する罪」、第三起訴事項「戦争犯罪」、第四起訴事項「人道に対する罪」)全てで起訴された。
被告人達の精神分析官グスタフ・ギルバート大尉が開廷前に被告人全員に対して行ったウェクスラー・ベルビュー成人知能検査によると彼の知能指数は124だった[31]。
公判中、フリックは無表情な顔と生気のない目をしていたため、精精神分析医ダグラス・ケリー少佐はフリックを「最も目立たない被告」と呼んだ[6]。裁判ではフリックは証言を拒否し、証言台に立たなかった[10]。
1946年10月1日に判決が下った。判決はフリックについて「常に過激な反ユダヤ主義者として、ユダヤ人をドイツの生活・経済から締め出す目的を持つ、数多くの法律を起草し、署名し、実施した。」「フリックの反ユダヤ主義法令が"最終解決"への道を開いた。」「ベーメン・メーレン保護領総督としてのフリックの権限は前任者に比べてかなり制限されたものであったことは事実である。しかし彼はヨーロッパにおけるナチスの占領政策、特にユダヤ人に対する処置は十分に承知していた。」「メーメル、ダンツィヒ、西プロイセン、ポーゼン、オイペン、マルメディ、モレスネートなどにドイツ化を行ったことに責任を負う。」として、第二起訴事項「平和に対する罪」、第三起訴事項「戦争犯罪」、第四起訴事項「人道に対する罪」の3つで有罪とした[32]。 彼に下された量刑判決は絞首刑だった。
処刑
1946年10月16日午前1時10分から自殺したヘルマン・ゲーリングを除く死刑囚10人の絞首刑が順番に執行された。フリックは、リッベントロップ、カイテル、カルテンブルンナー、ローゼンベルク、フランクの後、6番目に処刑された[33]。フリックは絞首台の階段を昇る際によろけたので支えられながら昇った[34]。最後の言葉は「不滅なるドイツ万歳!」だった[35]。絞首刑はうまくいったとは言えず、フリックの顔は酷い傷を負った。恐らく落とし戸が小さすぎたことと首に縄をかける位置がよくなかったためと思われる[36]。
自殺したゲーリングを含めてフリックら11人の遺体は、ミュンヘン郊外の墓地の火葬場へ運ばれ、そこで焼かれた。遺骨はイザール川の支流コンヴェンツ川に流された[37]。
参考文献
- ジャック・ドラリュ(fr) 著、片岡啓治 訳『ゲシュタポ・狂気の歴史―ナチスにおける人間の研究』サイマル出版会、 エラー: この日付はリンクしないでください。。
- ジャック・ドラリュ 著、片岡啓治 訳『ゲシュタポ・狂気の歴史』講談社学術文庫、 エラー: この日付はリンクしないでください。。ISBN 978-4061594333。
- ジェフリー・プリダム(en) 著、垂水節子・豊永泰子 訳『ヒトラー・権力への道:ナチズムとバイエルン1923-1933年』時事通信社、 エラー: この日付はリンクしないでください。。
- ウェルナー・マーザー 著、西義之 訳『ニュルンベルク裁判:ナチス戦犯はいかにして裁かれたか』TBSブリタニカ、 エラー: この日付はリンクしないでください。。
- ハインツ・ヘーネ(de) 著、森亮一 訳『SSの歴史 -髑髏の結社-』フジ出版社、 エラー: この日付はリンクしないでください。。ISBN 978-4892260506。
- ハインツ・ヘーネ 著、森亮一 訳『髑髏の結社・SSの歴史〈上〉』講談社学術文庫、 エラー: この日付はリンクしないでください。。ISBN 978-4061594937。
- ハインツ・ヘーネ 著、森亮一 訳『髑髏の結社・SSの歴史〈下〉』講談社学術文庫、2001。ISBN 978-4061594944。
- ジョゼフ・E・パーシコ(en) 著、白幡憲之 訳『ニュルンベルク軍事裁判〈上〉』原書房、 エラー: この日付はリンクしないでください。。ISBN 978-4562028641。
- ジョゼフ・E・パーシコ 著、白幡憲之 訳『ニュルンベルク軍事裁判〈上〉(新装版)』原書房、 エラー: この日付はリンクしないでください。。ISBN 978-4562036523。
- ジョゼフ・E・パーシコ 著、白幡憲之 訳『ニュルンベルク軍事裁判〈下〉』原書房、1996。ISBN 978-4562028658。
- ジョゼフ・E・パーシコ 著、白幡憲之 訳『ニュルンベルク軍事裁判〈下〉(新装版)』原書房、2003。ISBN 978-4562036530。
- 成瀬治、山田欣吾、木村靖二 著、森亮一 訳『ドイツ史〈3〉1890年~現在』山川出版社、 エラー: この日付はリンクしないでください。。ISBN 978-4634461406。
- 阿部良男『ヒトラー全記録 : 1889-1945 20645日の軌跡』柏書房、 エラー: この日付はリンクしないでください。。ISBN 978-4760120581。
- ロベルト・ヴィストリヒ(en) 著、滝川義人 訳『ナチス時代 ドイツ人名事典』東洋書林、 エラー: この日付はリンクしないでください。。ISBN 978-4887215733。
- レオン・ゴールデンソーン(en) 著、小林等・高橋早苗・浅岡政子 訳、ロバート・ジェラトリー(en) 編『ニュルンベルク・インタビュー 下』河出書房新社、 エラー: この日付はリンクしないでください。。ISBN 978-4309224411。
脚注
- ^ a b c ヴィストリヒ、228頁
- ^ a b c d e f g h i j LeMO
- ^ a b ゴールデンソーン、60頁
- ^ a b c d e f ゴールデンソーン、54頁
- ^ a b c d ゴールデンソーン、55頁 引用エラー: 無効な
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タグ; name "ゴールデンソーン55"が異なる内容で複数回定義されています - ^ a b c パーシコ、下巻32頁
- ^ 阿部、191頁
- ^ a b 阿部、160頁
- ^ プリダム、112頁
- ^ a b c d e f g h i j k l ヴィストリヒ、229頁
- ^ プリダム、244頁
- ^ 成瀬・山田・木村、201頁
- ^ 阿部、213頁
- ^ 阿部、226頁
- ^ a b パーシコ、下巻33頁
- ^ 阿部、258頁
- ^ プリダム、347頁
- ^ 阿部、222頁
- ^ ヘーネ、84頁
- ^ ヘーネ、88頁
- ^ ヘーネ、97頁
- ^ a b ヘーネ、98頁
- ^ ヘーネ、99頁
- ^ 阿部、269頁
- ^ ヘーネ、180頁
- ^ ヘーネ、196-197頁
- ^ a b ヘーネ、197頁
- ^ パーシコ、上巻119頁
- ^ ドラリュ、文庫版285頁
- ^ 阿部、601頁
- ^ レナード・モズレー著、伊藤哲訳、『第三帝国の演出者 ヘルマン・ゲーリング伝 下』、1977年、早川書房 166頁
- ^ マーザー、321-322頁
- ^ マーザー、392頁
- ^ パーシコ、下巻310頁
- ^ マーザー、393頁
- ^ マーザー、395頁
- ^ パーシコ、下巻313頁
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