「イスラム美術」の版間の差分
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{{翻訳直後|1=[http://fr.wikipedia.org/w/index.php?title=Arts_de_l'Islam&oldid=59659082 仏語版 "Arts de l'Islam" 27 novembre 2010 à 23:49 CET]|date=2010年12月}} |
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<!-- 翻訳直後メモ |
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[[イスラーム建築]] [[イスラームの書法]] |
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[[イスラム美術]] [[イスラム世界]] [[イスラム帝国]] [[イスラム教]] |
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最近の文献はほぼ全て「イスラーム」表記を採用しているようなので「イスラーム」で統一。[[イスラム教]]のみ「イスラム」のままとしましたが、そもそもイスラーム関係の文献では「イスラム教」という言葉自体を使わず「イスラーム」と書くようです。 |
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仮リンクについて: |
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イスラーム関係の記事は仏語版が一番充実していることが多いようなのでfrへのリンクが多くなっています。アンダルス関係では西語版の方が充実していることも多いです。アラビア語版は全体にあまり成長していない模様。 |
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訳語メモ: |
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islam(小文字): イスラム教。小文字の時のみ「”イスラム”教」表記を採用しています。「イスラーム」と訳せばいいのですが、日本語だと文化としてのイスラームと区別が付かなくなってしまうので。 |
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Islam(大文字): イスラーム世界、イスラーム文化 |
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plan: 平面図/建築様式。平面的な配置を指すことが多いが「平面図」「間取り」などいずれの訳語もしっくり来ず。→桝屋(2009) p.16-17に倣い「プラン」を採用。初出箇所に脚注で読者に解説。 |
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plan iranien: 「イラン様式」…イラン式の建物の配置。訳語はあるのか?→イラン・プランとして建築節で説明。 |
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art mobilier: 動産美術→工芸品。建築ではない美術の総称。スタッコなども含まれるので微妙な意訳。 |
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lustre métallique: 金属光沢→[[ラスター彩]]としてしまっていいものか? |
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Omeyyades d'Espagne: スペイン/アンダルス/コルドバのウマイヤ朝。とりあえず記事名に沿って[[後ウマイヤ朝]] |
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art du livre: 書物美術。挿絵、装飾、装幀など、書物のアートワーク全体を指す。訳語が苦しい。いっそ「彩飾写本」としてしまうか、あるいは「ブックアート」…?→ブルーム(2001)、桝屋(2009)などから「写本芸術」とします。 |
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polylobés: 多弁形 [桝屋(2009)] |
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calligraphie: カリグラフィー、書道。「書道」にした方が訳がこなれますが、文字文様まで含める必要があるので「カリグラフィー」を採っています。 |
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al-* : 以下、いずれも文献によりまちまち。 |
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(1) 「アル=」「アル・」どちら? |
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(2) al-Rashid: 発音に忠実に「アッ=ラシード」、alはアルとして「アル=ラシード」? |
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作品名:文献、図鑑、所蔵博物館サイト、全部ばらばらの呼称であることが多いです。 |
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加筆メモ: |
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* パトロンについて踏み込んだ説明 |
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* 風土がイスラーム美術に与えた影響を説明 |
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* カリグラフィー、建築などは専門記事とどう棲み分けるか? |
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* 写本芸術、陶芸、絨毯などは書きだすとキリがない。単独立項? |
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* 日仏版のマージの結果「時代・王朝別」と「分野別」の二本立てになって重複多し。要整理 |
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** 時代別と分野別のどちらを上にするのがいいか? |
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* 多様性と統一性の扱いが難しい。これは主題の本質的な問題か |
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* 世界史の参考書によくある、帯状の王朝一覧図があるといい(この記事に限りませんが) |
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[[Image:Twolovers.jpg|thumb|{{仮リンク|リザー・アッバースィー|es|Reza Abbasi}}『宮廷の恋人たち』(エスファハーン、イラン<ref group="注" name="iran">注記:この記事における「イラン」および「シリア」「パレスチナ」は原則として、{{仮リンク|イラン文化圏|fr|Grand Iran|en|Greater Iran}}<!-- ou 「大イラン」 -->(今日の[[イラン]]、[[イラク]]東部、[[ウズベキスタン]]、[[トルクメニスタン]]の一部、[[アフガニスタン]]、[[パキスタン]])と[[歴史的シリア]](今日の[[シリア]]、[[パレスチナ]]、[[イスラエル]]、[[レバノン]]、[[イラク]]西部〔ジェジラ〕)をそれぞれ指す。</ref><!-- この注記、ここでいいのか…? -->、1630年)]] |
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{{Islam}} |
{{Islam}} |
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'''イスラーム美術'''もしくは'''イスラム美術'''は、[[ヒジュラ]](西暦[[622年]])以降現代に至るまでの、[[スペイン]]、[[モロッコ]]から[[インド]]までに亘る「[[イスラム教|イスラーム教]]徒の君主が支配する地域で生み出された[[美術]]作品、もしくはイスラーム教徒のためにつくられた作品」<ref>{{Harv|小林|2004|p=13}}。ここで小林は{{Harv|Grabar|1973}}を論拠としている。{{Harv|杉村|1999|p=9}}; {{Harv|ブルーム|ブレア|2001|p=5}}; {{Harv|桝屋|2009|p=8}}も同様の定義を与えている。</ref>を指す。<!-- どの文献も概ねこんな感じですが、インドネシアはなかったことになっているのでしょうか --> |
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'''イスラム美術'''は[[西アジア]]、[[北アフリカ]]を中心とした[[中東|イスラム文化圏]]において[[7世紀]]から[[18世紀]]ごろにかけて形成された造形芸術を指す。[[イラン高原]]で興った[[サーサーン朝]][[ペルシア]]の美術を起源として各地方に伝わる伝統や[[文化]]を吸収しながら独自の様式として確立していった。 |
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域内での芸術家、商人、パトロン、そして作品の移動のために、イスラーム美術はある程度の様式的な一体性を見せる。[[イスラム世界|イスラーム世界]]全域で共通の文字が用いられ、特に[[カリグラフィー]]が重用されることが一体感を強めている。装飾性に注意が払われ、幾何学的構造や装飾で全体を覆うことが重視されるといった共通の要素も際立っている<ref>Bernus Taylor, Merthe. « L'art de l'Islam ». in ''Moyen Âge, chrétienté et Islam''. Paris : Flammarion, 1996. p. 445</ref><ref>{{Harvnb|杉村|1999|p=20}}</ref>。しかし、形式や装飾には国や時代によって大きな多様性があり、そのためにしばしば単一の「イスラーム美術」よりも「イスラームの諸美術」として捉えられる。[[オレグ・グラバール]]によれば、イスラームの美術は「芸術的創造の過程そのものに対する一連の姿勢」によってしか定義され得ぬものであった<ref>Grabar,Oleg. ''La formation de l'art islamique''. [trad. Yves Thoraval]. Paris : Flammarion, coll. "Champs", 2000. p. 297</ref>。 |
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== 概要 == |
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{{main|イスラーム建築|イスラームの書法}} |
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イスラム美術の根底にある[[イスラム教]]は厳格な[[一神教]]であり、[[神]]を不可視のものと定めている為、イスラム美術では神像、偶像の制作が忌避されており、その結果として発達したのが抽象的・装飾的な美術表現であり、イスラム美術の最も大きな特徴である。また、[[アラビア文字]]は神の文字と捉えられ、イスラム美術において神像、偶像の代替的役割を果たした。アラビア文字はその視覚的特長からイスラム美術の抽象的装飾とうまく調和し、イスラム美術の重要な装飾要素のひとつと位置付けられている。 |
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[[イスラーム建築|建築]]においては、[[モスク]]や[[マドラサ]]のような特定の役割を持つ建物が非常に多様なフォルムで、しかしながらしばしば同一の基本構造に従って建設された。[[彫刻]]はほとんど存在しないが、{{仮リンク|イスラームの金属工芸|fr|art du métal islamique|label=金属}}、象牙、[[イスラームの陶芸|陶器]]などの工芸はしばしば極めて高い技術的完成にまで達した。聖俗双方の書物の中に見られる[[絵画]]と[[ミニアチュール]]の存在も無視できない。 |
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したがって、イスラム美術の本質を厳密に区別した場合、建築・書道・織物の3分野が中心となり、絵画や工芸といった分野は副次的分野と考えなければならない。絵画については宮殿などにおける内壁装飾としての[[壁画]]の発達の他、書物への[[挿絵]]という独特の形式での発達がみられた。 |
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イスラームの美術は厳密に言えば宗教的なものではない——ここでの「イスラーム」という言葉は宗教ではなく、文明として捉えられる<!-- l'Islam est ici considéré avec une majuscule, comme une civilisation et non comme une religion: 訳文では省略しましたが、仏語ではl'islamと小文字で書くとイスラム教を、l'Islamと大文字で書くとイスラーム文化を指します。他の部分でもこの違いは適宜訳文に織り込んで反映させています。 --><ref group="注">『イスラーム美術の形成』においてオレグ・グラバールはイスラーム美術がムスリム美術ではないということをこのように説明している。「『イスラーム美術』は1つの宗教の美術形式を特に指すわけではない。そのモニュメント〔注:ここでのmonumentは「証言となるもの」という原義で理解する必要がある〕にはムスリムの信仰とは僅かしか、もしくは全く関連が見られないのである。ムスリム以外により、ムスリム以外のために作られたのであると明らかになっている美術作品もまた正当に「イスラームの」ものとして研究され得るのである。」(Oleg Grabar, op. cit., p. 11-12.) グラバールはまた、より良く定義しようと努力しながらも「『イスラームの』という概念はあまり明確なものではない」(p. 13)とも言っている。グラバールによれば、イスラームは宗教的な諸傾向によってよりもその時代の初期に「アラブ世界に存在していた文化のインパクトの結果」(p. 132)によって確立された一連の概念によって弁別されるものなのである。</ref>。「キリスト教美術」や「仏教美術」のような概念とは異なり、「イスラーム美術」において直接に宗教美術が占める部分は比較的小さなものである<ref>{{Harvnb|ブルーム|ブレア|2001|p=5}}</ref>。また通念とは異なり、実際には人間、動物、さらには[[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ|ムハンマド]]を表現したものも存在する。多少の例外はあるが、これらは宗教的な場所や作品(モスク、マドラサ、[[クルアーン]])においてのみ禁止されていたに過ぎない<ref>Naef, Silvia. ''Y a-t-il une « question de l'image » en Islam.'' Tétraèdre, 2004. p. 59 - 63 en particulier</ref>。 |
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イスラム美術イコール宮廷美術と捉える解説書も存在するが、イスラム美術に限らず古来より芸術作品の主な[[パトロン]]は貴族や王族などの富豪層であり、割合的にそのような富豪層からの依頼による作品が多かったに過ぎず、社会の様々な階層においてイスラム美術が作られている。 |
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== 「イスラーム美術」という概念 == |
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== 絵画 == |
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この領域の呼称の問題は、研究の初期から難しいものであり続けてきた。19世紀のヨーロッパでは「アラブ美術」「ペルシア美術」「トルコ美術」「サラセン美術(とりわけ「サラセン様式」という呼称として)」「ムーア美術」のように地理や民族により個別に名付けられていたものが、19世紀末には[[オリエント学]]を背景に1つの「イスラーム美術」もしくは「ムスリム美術」として捉えられるようになった<ref>{{Harvnb|ブルーム|ブレア|2001|p=6}}</ref>。「マホメット美術」「ムスリム美術」のような宗教的な呼称は、「{{仮リンク|キリスト教美術|en|Christian art}}」<!-- [[キリスト教美術史]]はあり -->や「[[仏教美術]]」の場合と異なりイスラム教が礼拝のための聖像や聖具を持たず、作品の相当な部分が世俗的なものであったことから不適切であり<ref>{{Harvnb|小林|2004|pp=12-13}}; {{Harvnb|ブルーム|ブレア|2001|p=5}}</ref>、「イスラーム」という語が、その宗教的でなく文化的な受け取られ方により、20世紀後半には好まれるようになった。 |
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イスラム美術における絵画は壁画としてのものと、ムラッカアートと呼ばれる挿絵的絵画に大別できる。壁画は主に[[フレスコ画]]としての技法で描かれることが多く、[[ウマイヤ朝]]時代の[[アムラ城|クルセイル・アムラ]]や、[[ファーティマ朝]]時代の[[カイロ (エジプト)|カイロ]]浴場壁画などが残存している。ムラッカアートは12世紀頃から近世にかけて[[紙]]の普及とともに発達し、[[サファヴィー朝]]時代のバフラーム・ミールザーやファーティヒ・アルバムなどが有名である。 |
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しかしながら、そのような美術の一体性の問題は微妙なものであり続け、たとえば[[オレグ・グラバール]]は『イスラーム美術の形成』においてこれに疑問を投げ掛けている。このため美術史家は「イスラームの諸美術」(arts de l'Islam)という表現を好むようになりつつあるが、「イスラーム美術」(art islamique)という表現も依然として頻繁に出版物に見られる<ref group="注">1971年以降、{{仮リンク|ジャン=ポール・ルー|fr|Jean-Paul Roux (historien)}}は[[ルーヴル美術館]]での展示に「イスラームの諸美術」という呼称を用いるようになり、1993年には「イスラームの諸美術部門」(ルーヴル美術館サイトの日本語訳では「イスラム部門」となっている。[http://www.louvre.fr/llv/oeuvres/detail_departement.jsp?FOLDER%3C%3Efolder_id=1408474395182003&CURRENT_LLV_DEP%3C%3Efolder_id=1408474395182003&FOLDER%3C%3EbrowsePath=1408474395182003&bmLocale=ja_JP イスラム美術 | ルーヴル美術館])が創設されるに至った。呼称の問題に関する研究としては、特に以下の文献を参照。Makariou, Sophie. « Arabes versus Persans : génie des peuples et histoire des arts de l'Islam », in Labrusse, R. (dir.) ''Purs décors ? Arts de l'Islam, regards du XIXe siècle'' [cat. exp. Paris : musée des arts décoratifs, 2007-2008], Paris : Les arts décoratifs/musée du Louvre éditions, 2007, p. 188-197</ref>。ジョナサン・ブルームとシーラ・ブレアは、「イスラーム美術」という考え方自体がイスラームの側からではなく、その外部の人々によって作り出された「明らかに現代的な概念」であると指摘している<ref>{{Harvnb|ブルーム|ブレア|2001|pp=5-6}}</ref>。 |
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== 工芸 == |
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<!-- ブルーム&ブレア、桝屋、小林などみな同じような趣旨のことを書いていますが、いずれも出所はグラバールの『イスラーム美術の形成』のようです。(こういう本の訳書が出ていないのは痛恨……) --> |
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イスラム美術における工芸は非常に高い位置を占め、金属工芸、陶芸、染織、ガラス工芸、象牙細工、木工芸など多種の分野が発達した。特にイスラム美術の金属工芸や陶芸が東洋や西洋の美術に与えた影響は少なくない。 |
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== イスラーム美術の歴史 == |
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=== 金属工芸 === |
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=== イスラーム美術の始まり(7-9世紀) === |
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金属工芸の素材としては[[青銅]]や[[真鍮]]が最もよく使用され、その他[[金]][[銀]][[鉄]]などの使用も見られる。水差し、鉢、杯、インク壷、箱、鏡、シャンデリア、燭台、武具など多岐にわたり、その技法も製作物に応じて多種存在していた。 |
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ムハンマドと共に生まれたイスラームはムハンマドの死後1世紀の間に後継の[[カリフ]]たちの下で急速に版図を拡大し、西はイベリアから東は[[サマルカンド]]に至るまでの広大な[[イスラーム帝国]]が成立した<ref>{{Harvnb|ブルーム|ブレア|2001|pp=19-20}}</ref>。 |
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基本的にはサーサーン朝ペルシアや[[ビサンチン]]といったイスラム以前から存在していた伝統を継承し、発展させた工芸美術である。[[ファーティマ朝]]時代の[[エジプト]]などでは鳥獣をかたどった水差しが流行し、数多く製作されている。[[セルジューク朝]]時代には装飾として刻まれているアラビア文字の末端に人間の頭部や花の紋様など変化をつけた作品も出現し始め、当時の社会情勢の変化を伺うことができる。12世紀ごろには銅や銀を真鍮の器に象嵌する技法が流行するが、14世紀になるとこの技法は廃れていった。象嵌技法はその後[[シリア]]に伝えられ、14世紀初頭にエジプトで「聖ルイの洗礼盤」などといった作品が生まれた。 |
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15世紀にはいると鋼鉄の武具に金線や銀線の装飾を施す[[ダマスコ細工]]が盛んになった。 |
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==== 王朝時代以前 ==== |
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イスラム世界における陶芸の歴史は時代毎に勃興した王朝によってその技、特徴が著しい変化を遂げている。また、主要な窯場も時代に応じて変遷し、[[アフガニスタン]]、[[トルコ]]、[[エジプト]]、[[イベリア半島]]など広域に渡る。[[中国]]の[[陶磁器]]の影響を受けつつも、[[ラスター彩]]や、[[ミナイ手]]などといった独自の陶芸文化を進化させていった。 |
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[[ウマイヤ朝]]以前の建築についてはあまり分かっていない。最初の、そして最も重要なイスラーム建築は恐らく[[マディーナ]]にかつてあったとされる{{仮リンク|預言者の家|fr|maison du Prophète}}<!-- cf. [[預言者のモスク]] -->であろう。イスラム教ではどこででも祈りを捧げることができると考えられているが、この半ば伝説的な建物はムスリムたちが祈るために集まった最初の場所であったろうと思われる。 |
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陶芸技術が飛躍的な発展を遂げたのは、[[アッバース朝]]における[[イラク]]で、白釉陶器、白釉藍緑彩陶器、サスター彩陶器などが誕生した。中でもラスター彩は[[硝酸銀]]や[[硫化銅]]で絵付けし、低温度の窯で焼成することで、金属的な輝きを出す独特の手法で、イスラム陶芸の代表的なものとして知られている。この技術は後に続く[[ファーティマ朝]]や[[セルジューク朝]]などでも受け継がれていった。 |
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預言者の家は、多柱式の礼拝空間、礼拝の方向を示す[[キブラ]]、人々を酷暑から守る日陰という3つの要素を持つ、[[イスラーム建築]]におけるモスク(マスジド、「平伏の場所」)の原型となった<ref>{{Harvnb|ブルーム|ブレア|2001|p=23}}; {{Harvnb|深見|2003|p=33}}</ref>。祈りへと適用されたこの形式は無から生まれたわけではない——フサ寺院([[イエメン]]、2世紀)もしくは{{仮リンク|ドゥラ・エウロポスのシナゴーグ|fr|synagogue de Doura Europos}}(245年に改修)が発想の源となっていた可能性がある<ref>Stierlin, Henri. ''L'architecture islamique''. Paris : PUF, 1993. p. 9 - 10</ref>。腐食しやすい建材(木材と[[アドベ|練土]])で建てられていたため預言者の家が残っていた期間は短かったが、アラブの史料で詳しい描写が行われている<ref>Hillenbrand, Robert. ''Islamic architecture, form, function and meaning'' New York : Columbia University Press. p. 39</ref>。こうした叙述はかなり後の時代になってなされたもののため、どの程度実物に忠実であるのかは明らかではない<ref>{{Harvnb|ブルーム|ブレア|2001|p=23}}</ref>。現在、預言者の家の跡地と推測される場所には[[預言者のモスク]]が建っている。 |
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セルジューク朝に入ると影絵手と呼ばれる技法が発達し、青釉掻落文陶器、ミナイ手などの多彩な装飾が施された陶器が誕生する。[[イル・ハーン朝]]ではさらに装飾技法が発展し、金箔を加えた藍地金彩色絵や、藍釉白盛上陶器などが誕生した。また、中国の陶磁器から影響を受けた建築装飾用のタイルなども生産されるようになった。 |
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イスラームの初期の物品をそれより前の[[サーサーン朝]]、[[東ローマ帝国]]などのものと区別することは非常に難しく、これは[[ウマイヤ朝]]に関してもそうである。実際、イスラム教は、美術に乏しかったと思われる<ref>Grabar,Oleg. ''La Formation de l'art islamique''. [trad. Yves Thoraval] Paris : Flammarion, coll. Champs, 2000. p.105 - 107.</ref> が、美術品の産出で知られる諸帝国に取り囲まれていた地域で誕生した。初期のイスラームの芸術家たちが近隣諸国と同じ技法とモチーフを用いたのはこのためである<ref>「イスラーム美術は、征服した世界の四隅から借用した構造と形式の蓄積と考えることができる。」Grabar, Oleg. ''id.''. p. 296.</ref>。釉を施さない[[陶器]]の大量の産出が知られており、銘からイスラーム時代のものと特定できる[[ルーヴル美術館]]蔵の有名な小碗もそのことを示している<ref>[http://www.louvre.fr/llv/oeuvres/detail_notice.jsp?CONTENT%3C%3Ecnt_id=10134198673225924&CURRENT_LLV_NOTICE%3C%3Ecnt_id=10134198673225924&FOLDER%3C%3Efolder_id=9852723696500781&fromDept=false&baseIndex=20&bmUID=1180340363043 Œuvres choisies sur le site du musée du Louvre]([http://www.louvre.fr/llv/oeuvres/detail_notice.jsp;jsessionid=NQtTL7Kk01hKNGWC2hrqTpTDPBV3QnGJDxTCLQRBSyhJXFKqrZtC!1616472597?CONTENT%3C%3Ecnt_id=10134198673225924&CURRENT_LLV_NOTICE%3C%3Ecnt_id=10134198673225924&FOLDER%3C%3Efolder_id=9852723696500781&baseIndex=20&bmLocale=ja_JP 日本語版])</ref>。この碗はイスラーム以前からイスラーム世界への移行を辿ることの出来る数少ない発掘地点から出土した——イランの[[スーサ]]である<ref>Sophie Makariou (dir.). ''Suse, terres cuites islamiques''. Snoeck, 2005.</ref>。 |
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[[サファヴィー朝]]に入ると[[クバチ]]と呼ばれる絢爛な彩画陶器の作成技法が生まれる。また、オスマン朝時代のトルコ・[[イズニク]]窯場では中国の青花陶器の技法が取り入れられた白地藍彩陶器などが主流となった。 |
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==== ウマイヤ朝 ==== |
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[[Image:Omayyad mosque.jpg|thumb|[[ダマスカス]]の[[ウマイヤド・モスク]]]] |
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イスラム美術におけるガラス工芸は[[アッバース朝]]時代に入り、独自の発達を遂げ、[[ヴェネツィア]]などのヨーロッパ諸都市にも強い影響を与えた。ガラスのカッティング技法による装飾が流行し、[[レリーフ・カット]]などの技術が誕生している。[[11世紀]]に入るとエジプト・[[フスタート]]を中心として新しい技術が次々と生まれ、被せガラスの手法([[アール・ヌーボー]]などの作家が好んで使用する手法)を用いた作品などが生み出された。また、ガラス工芸で生み出された技術は陶芸にも用いられ、イスラム美術独特の陶芸技法である[[ラスター彩]]が誕生している。 |
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<!-- {{main|ウマイヤ朝の美術}} |
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{{仮リンク|ウマイヤ朝の美術|fr|Art omeyyade}} |
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:''歴史時代'':[[ダマスカス]]の[[ウマイヤ朝]] |
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:''主要な作品と建造物'': [[岩のドーム]]、[[ウマイヤド・モスク]] |
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[[ウマイヤ朝]]では宗教的および世俗的な建築が共に新しいコンセプトと様式を伴って発展した。中庭と多柱式の礼拝室からなるアラブ・プラン<ref name="注">「プラン」(plan)は建築の平面(図)的な構造およびその様式を指す。</ref>は、[[ダマスカス]]の最も神聖な場所——古代のユピテルの寺院があった場所に洗礼者ヨハネのバジリカが建てられていた——に[[ウマイヤド・モスク]]が建設されてから真に典型的なプランとして確立された。この大建築は建築者たち(と美術史家たち)にとってアラブ・プランの誕生を知らせる目印となっていった。しかしながら、{{訳語疑問点範囲|ミリアム・ローゼン=アヤロン|2010年11月|Myriam Rosen-Ayalon. イスラエル人なので英語読みにしていますが実際の発音は…?|cand_prefix=コメント}}による最近の研究では、アラブ・プランは堅材でできた初めてのモスクであった[[アル=アクサー・モスク]]の建設と共に生まれたものではないかとしている<ref>Rosen Ayalon, Myriam. ''Art et archéologie islamiques en Palestine''. Paris : PUF, 2002</ref>。 |
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しかし、近代に入ると[[ティムール朝]]の[[シリア戦争]]などの影響により職人技術の散逸が著しく、イスラム美術におけるガラス工芸文化は衰退の一途を辿る事となった。 |
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[[Image:Temple Mount.JPG|thumb|[[エルサレム]]の[[岩のドーム]]]] |
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=== 染織 === |
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[[エルサレム]]の[[岩のドーム]]は疑いなく[[イスラーム建築]]全体を通じ最も重要な建築物の1つであり、ビザンチンの強い影響が見られるが(金地の[[モザイク]]や、[[聖墳墓教会]]のものを想起させる中央部のプランなど)、クルアーンの書かれた銘文を伴う250mに亘る[[フリーズ (建築)|フリーズ]]のような純粋にイスラーム的な要素も既に含んでいた<ref>O. Grabar. ''Le dôme du Rocher, joyau de Jérusalem''. 1997</ref><ref>{{Harvnb|ブルーム|ブレア|2001|p=28}}</ref>。しかしながら、そのモデルは発展を見ず、グラバールが「偉大な美的創造物たらんとしたイスラーム世界で最初の建造物」であるとした<ref>Grabar,Oleg. ''La formation de l'art islamique''. [trad. Yves Thoraval] Paris : Flammarion, coll. Champs, 2000. p.72.</ref>この作品の流れを汲むものは出現しなかった<ref>Hillenbrand, Robert. ''Islamic architecture, form, function and meaning'' New York : Columbia University Press, p. 20. しかしながらロバートは、近年の研究によれば、再利用された柱や柱頭の配置により岩のドームと同じプランが{{仮リンク|カイラワーンの大モスク|fr|Grande Mosquée de Kairouan}}で再現されていることも指摘している。</ref>。 |
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{{節stub}} |
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[[パレスチナ]]の{{仮リンク|砂漠の城|fr|châteaux du désert}}(砂漠の離宮とも)の数々は、その正確な機能については諸説があるが、世俗・軍事的な建築に関する多くの情報を伝えてくれる。[[キャラバンサライ]]、保養地、要塞化した住居、あるいはカリフと遊牧諸民族との会見を可能にする政治的目的を持つ宮殿など、その機能は専門家たちも確定できておらず、場所によって用途も違ったのであろうと思われる<ref>Hillenbrand, Robert. ''Islamic archiitecture, form, function and meaning'' New York : Columbia University Press, p. 384 - 390.<br/> Grabar, Oleg. ''La formation de l'art islamique''. [trad. Yves Thoraval] Paris : Flammarion, coll. Champs, 2000. p. 193 - 236</ref><ref>{{Harvnb|小林|2004|pp=30-31}}</ref>。[[アンジャル]]の街の遺跡はその全体が、[[ラムラ]]のようにまだ[[古代ローマ]]のものに非常に近く{{仮リンク|カルドゥス|fr|cardo}}と{{仮リンク|デクマヌス|fr|decumanus}}<ref group="注">南北と東西の大通り。[[ローマ建築#ローマの都市構造]]を参照。<!-- この脚注は[[カルド]]と[[デクマヌス]]が立項されたら除去してください --></ref>を伴う[[都市計画]]の類型を伝えている<ref>Bernus-Taylor, Marthe. « L'art de l'Islam » in ''Moyen âge, chré tienté et islam''. Paris : Flammarion, 1996. p. 456 - 457.</ref>。 |
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=== 象牙細工 === |
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{{節stub}} |
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建築のほか、職人たちは[[イスラームの陶芸|陶器]](無釉であることが多い<ref>Makariou, Sophie. ''suse, terres cuites islamiques''. Snoeck, 2005</ref>が、緑もしくは黄色の単色透明な[[釉薬|釉]]が施されることもあった)や{{仮リンク|イスラームの金属工芸|fr|art du métal islamique|label=金属}}の工芸も行った。職人たちは西洋([[唐草模様|唐草文様]]や[[アカンサス (装飾)|アカンサス葉飾り]]など)や[[サーサーン朝]](兜から取られた翼のモチーフ)の要素を再利用しており、こうした美術品をイスラーム以前の時代のものと区別することは非常に難しい<ref>「ムスリム支配<!-- Muslim tule: ruleの誤字か -->の最初の125年間の『美術作品』の産出が論じられることがあるとすれば、それはムスリムによる征服の後の1と四半世紀の間には物質文化はほとんど変化しなかったという示唆を伴うのが普通である。」Grabar et Etinghausen, ''Islamic art and architecture, 650 - 1250''. New Haven and London, : Yale university Press, 2001. p. 39.</ref>。 |
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建築においても工芸品においても、ウマイヤ朝の芸術家や職人たちは新しい語彙を作り出すということはせず、地中海とイランの古代後期の語彙を進んで再利用し、例えばダマスカスの大モスク<!-- [[ウマイヤド・モスク]] -->ではモデルとなったビザンチン様式のモザイクの装飾的な諸要素を樹木と街に置き換えて自分たちの芸術概念へと適合させている。とりわけ「砂漠の城」はこうした借用の良い証言となっている。諸伝統を混淆させ、建築のモチーフや要素を再適用しながら徐々に、建造物のみならず工芸品や装飾クルアーンにも見られる[[アラベスク]]の美学でとりわけ明瞭となっているような<ref>Grabar,Oleg. ''La formation de l'art islamique''. [trad. Yves Thoraval]. Paris : Flammarion, coll. "Champs", 2000. p. 291 - 299</ref>イスラーム特有の美術を作り出していったのである<ref>{{Harvnb|杉村|1999|p=346}}。執筆はヤマンラール水野美奈子</ref><ref>「[[地中海]]側を向きながらも、水路([[ユーフラテス川]]と[[インド洋]])と陸路によりイランと極東世界に結び付いた、古代の伝統に富む国にあって、キリスト教、[[ヘレニズム]]、[[サーサーン朝]]の要素が並立し交錯し合い、徐々に<!-- qui se fondent peu à peu en un art rapidement original: 徐々に(peu à peu)/急速に(rapidement) 訳せないのでrapidementは略しました -->独自の美術を形成していったのである。」Bernus-Taylor, Marthe. ''Les arts de l'Islam''. Paris : RMN, 2001. p.9</ref>。 |
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=== 木工芸 === |
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==== アッバース朝 ==== |
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[[Image:Rose cup Susa Louvre MAOS53.jpg|thumb|left|薔薇文様の杯。8-9世紀、[[イラン]]]] |
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<!-- {{main|アッバース朝の美術}} |
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{{仮リンク|アッバース朝の美術|fr|Art abbasside}} |
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:''歴史時代'':[[アッバース朝]] |
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:''主要な作品と建造物'': {{仮リンク|カイラワーンの大モスク|fr|Grande Mosquée de Kairouan}}、[[ラスター彩]] |
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権力の中心地が東に遷ると共に、2つの都市が相次いで首都の役割を果たすようになり歴史の前面に出て来る——[[イラク]]の[[バグダード]]と[[サーマッラー]]である。バグダードの街は現代の建物に覆われているので発掘調査を行うことはできていない。円形をした街で、その中央には大きなモスクと宮殿が建っていたと複数の情報源が描写している。他方、サーマッラーは{{仮リンク|エルンスト・ヘルツフェルト|de|Ernst Herzfeld}}やより最近では{{仮リンク|アラステア・ノーセッジ|fr|Alastair Northedge}}によるものなど複数次の発掘調査の対象となっている。[[836年]]に[[ムウタスィム|アル=ムウタスィム]]によりほぼ「無から」<!-- ex-nihilo -->建設されたサーマッラーは{{訳語疑問点範囲|長径約30kmにも及び|2010年11月|«elle s'étend sur une trentaine de kilomètres» : 半径なのか直径なのか長径なのか…?|cand_prefix=コメント}}、数多くの宮殿、2つの大モスクおよび兵営があった。[[892年]]の{{仮リンク|アル=ムウタミド|fr|Al-Mutamid (Abbasside)}}の死と共に完全に放棄されたため、年代学上の信頼できる目印となっている<ref>Voir les différentes publications d'Alastair Narthedge, en particulier : « Samarra », in ''Encyclopédie de l'Islam''. Brill, 2e édition. « Remarks on Samarra and the archaeology of the large cities ». ''Antiquity'', mars 2005</ref>。アッバース朝の建築には[[チグリス川|ティグリス川]]・[[ユーフラテス川]]の堆積土で作られた風化しやすいレンガが用いられていたため、当時の姿を知ることは難しい<ref>{{Harvnb|ブルーム|ブレア|2001|p=38}}</ref>。 |
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サーマッラーからは膨大な備品類<!-- mobiliers -->、とりわけ建築の装飾となっていたスタッコ([[化粧しっくい|化粧漆喰]])が発見されており、そのモチーフは建物の年代決定をある程度可能にした<ref>Herzfeld, Ernst. ''Der Wanndschmuck der Bauten von Samarra''. Berlin, 1923</ref>。これらのモチーフはエジプトの[[トゥールーン朝]]からイランに至るまでの工芸品、特に木製のものにもまた見出される<ref group="注">たとえば『様式化された鳥のパネル』([http://louvre.fr/llv/oeuvres/detail_notice_popup.jsp?CONTENT%3C%3Ecnt_id=10134198673237533&CURRENT_LLV_NOTICE%3C%3Ecnt_id=10134198673237533&FOLDER%3C%3Efolder_id=9852723696500830 ルーヴル美術館 AO 6023])を参照</ref>。 |
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[[Image:GreatMosqueofKairouanTunisia.jpg|thumb|right|250px|{{仮リンク|カイラワーンの大モスク|fr|Grande Mosquée de Kairouan}}。9世紀の建築と装飾。[[チュニジア]]の[[ケルアン|カイラワーン]]]] |
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陶芸では[[ファイアンス焼き]]と金属光沢([[ラスター彩]])の発明という2つの大きな革新があり、これらは王朝が消滅した後には陶工の移動によりカイロなど別の諸地域の諸王朝で再び見出されるようになる<ref>Grabar, Oleg ; Ettinghausen, Richard. ''Islamic art and architecture 650 - 1250''. New Haven et London : Yale University Press, 2001. p. 68 - 69</ref><ref>{{Harvnb|桝屋|2009|pp=114-115}}; {{Harvnb|クーパー|1997|p=105}}</ref>。イスラームでの「ファイアンス」は胎土に不透明な[[酸化錫]]の釉を施し、その上に装飾した焼き物を指す。この時代には中国の磁器を模倣したものが広がった<ref>この時代における中国との関係は複雑であるが、確かに存在した。中国の焼き物が[[スーサ]]や{{仮リンク|シラフ|fr|Siraf}}など多くの地で発見されている。例えばSoustiel, Jean. ''La céramique islamique''. Fribourg, office du livre, 1985 を参照。</ref>。磁器に必要な胎土である[[カオリナイト|カオリン]]が入手できなかったため薄くすることはできなかったが<ref>{{Harvnb|小林|2004|pp=100-101}}</ref>、8世紀以降[[スーサ]]で使われるようになった[[酸化コバルト(II)|酸化コバルト]]の青<ref>selon les recherches de Monik Kervran, publiées dans les ''cahiers de la Délégation Archéologique Française en Iran''</ref>で白釉に彩色する白地藍彩が可能となったのである<ref>{{Harvnb|ブルーム|ブレア|2001|p=107}}; {{Harvnb|桝屋|2009|pp=112,118}}</ref>。モチーフのレパートリーは植物や銘文<!-- épigraphie: 「文字」でいいかな -->など限られたもののままであった<ref>グルーベによると、銘文はコレクションの各品を識別する役に立っていたものと考えられる。Grube, Ernst J. ''Islamic Pottery of the Eight to the Fifteenth Century in the Keir Collection''. Londres, 1976.</ref>。 |
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ラスター彩は9世紀に、恐らくはガラス工芸で既に存在していたものが陶芸に移し替えられて誕生したもののようである<ref>ラスター彩に関しては、Carboni, S. Glass of the sultans''. [Expo . Corning, New York, Athènes. 2001 - 2002] New York : Metropolitan museum of art, 2001 を参照。[[フスタート]]のスカンロンの発掘で772-773年と779年のものと推定される2つの例が発見された。</ref>。この発明の年代の特定や、最初の数世紀の歩み<!--La chronologie de cette invention, et des premiers siècles-->を跡付けることは非常に難しく、複数の論争の的となっている。最も優勢な意見によるならば、最初期のラスター彩は多色で、人や動物の形を全く取らぬものであったが、10世紀からは単色で具象的なものへと変化していったと考えられており、これは部分的には{{仮リンク|カイラワーンの大モスク|fr|Grande Mosquée de Kairouan}}の[[ミフラーブ]]<!-- のラスター彩の化粧板。cf. [http://www.kairouan.org/fr/culture/architecture/faiencesdec.htm] -->を根拠としている<ref>Lane, Arthur. ''Early islamic pottery''. Londres : Faber et Faber, 1947</ref>。 |
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鋳型での吹き込み形成、もしくは部品の追加により装飾された透明もしくは不透明のガラス細工もまた生産されていた<ref>Hasson, Rachel. ''Early Islamic Glass''. Jérusalem, 1979.</ref>。カットガラスの例も複数が知られており、その中で最も高名なのはおそらくヴェネツィアの[[サン・マルコ寺院]]の宝物庫に保存されている「野兎の杯」<!-- 'bol aux lièvres'' -->であろう<ref>Carboni, S. Glass of the sultans''. [Expo . Corning, New York, Athènes. 2001 - 2002] New York : Metropolitan museum of art, 2001.</ref>。またカットガラスによる建築装飾が[[サーマッラー]]で発見されている。 |
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=== 中世(9-15世紀) === |
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9世紀以降、アッバース朝権力は中央イラクの僻地で抵抗を受けるようになる。それは[[ファーティマ朝]]と[[後ウマイヤ朝]]という敵対する[[シーア派]]のカリフ制の誕生として具現化し、また同時期に[[イラン]]では自治的な統治者の諸小王朝が誕生した。境界の安定せぬ細分化された勢力がせめぎあい、権力と権威の確保が共通する政治課題であった<ref>{{Harvnb|ブルーム|ブレア|2001|pp=131-137}}</ref>。 |
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==== スペインとマグリブ ==== |
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[[Image:Mosque Cordoba.jpg|thumb|[[メスキータ|コルドバの大モスク]]の礼拝堂]] |
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<!-- {{main|... }} |
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{{仮リンク|コルドバのウマイヤ朝の美術|fr|Art des Omeyyades de Cordoue}} |
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{{仮リンク|ムラービト朝とムワッヒド朝の美術|fr|Art almoravide et almohade}} |
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{{仮リンク|ナスル朝の美術|fr|Art nasride}} |
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{{仮リンク|ハフス朝、ザイヤーン朝、マリーン朝の美術|fr|Art hafside, zianide et mérinide}}) |
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:''歴史時代'':[[後ウマイヤ朝]]、[[タイファ]]時代、[[ムラービト朝]]と[[ムワッヒド朝]]の[[スルターン]]治世、[[ハフス朝]]、[[ザイヤーン朝]]、[[ナスル朝]]、[[マリーン朝]] |
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:''主要な作品と建造物'':コルドバの大モスク([[メスキータ]])、[[クトゥビーヤ・モスク]]、[[アルハンブラ宮殿]] |
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スペイン(もしくは[[アンダルス]])に定着した最初の王朝は[[後ウマイヤ朝]]であった。その名の示すように、この王統は9世紀に虐殺されたシリアの[[ウマイヤ朝]]の末裔である。後ウマイヤ朝は諸々の自治的な王朝([[タイファ]]:1031-1091年)の台頭により瓦解したが、この政治的変動により美術作品が根本的に変化するということはなかった。11世紀末には、[[レコンキスタ]]のただ中にあって、[[ベルベル人]]の2つの部族が相続いてマグリブとスペインを支配した——[[ムラービト朝]]と[[ムワッヒド朝]]であり、両者は美術にマグリブの影響をもたらした。しかしながら、キリスト教の諸王により徐々に征服され、14世紀にはイスラーム支配のスペインは[[グラナダ]]の[[ナスル朝]]のみとなり、[[1238年]]<!-- [[ナスル朝]]には1237年とあり -->にこの街を首都としたナスル朝は[[1492年]]まで存続した<ref>Boswrth, Clifford Edmund. ''Les dynasties musulmanes'' [trad. Yves Thoraval]. Actes Sud, ed. Sindbad, 1996. p. 37 - 48</ref>。 |
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[[Image:Pyxid Al Mughira OA 4068.jpg|thumb|left|{{仮リンク|ムギーラの小箱|fr|pyxide d'al-Mughira}}<!-- 桝屋2009 p.131「ムギーラの小箱」、大全集pp.369-370『王子ムギーラの小箱』-->。[[968年]]、象牙製、高さ17.6cm。[[ルーヴル美術館]]蔵]] |
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マグリブにおいては、ムワッヒド朝の後継となったのは[[ハフス朝]]([[1230年]])、[[ザイヤーン朝]]([[1235年]])、[[マリーン朝]]([[1258年]])であった。マリーン朝は、その首都である[[フェズ]]を出発点に、スペインのみならずチュニジアでも数多くの軍事遠征に加わったが、チュニジアにしっかりと根を下ろしていたハフス朝を追い出すには至らなかった。[[ザイヤーン朝]]は[[ナスル朝]]と密な交易を行っており、また[[アラゴン連合王国]]および[[マリーン朝]]とも同盟を結んでいた<ref>Orientalia Hispanica: Sive Studia F. M. Pareja Octogenario Dicata, Felix M. Pareja Casanas, F. M. Pareja, J. M. Barral.Collaborateur F. M. Pareja. Page 34. Publié par Brill Archive, 1974.ISBN 90-04-03996-1 ([http://books.google.fr/books?id=NugUAAAAIAAJ&pg=PA33&dq=Z%C3%A9n%C3%A8tes+nasrides&lr=#PPA34,M1 google Books])</ref>。マリーン朝は15世紀には衰退を始め、[[1549年]]には{{仮リンク|シャリーフ|fr|Chérif}}たちにより完全に取って代わられた。ハフス朝は[[1574年]]にトルコの[[オスマン帝国]]により征服された<ref>Boswrth, Clifford Edmund. ''Les dynasties musulmanes'' [trad. Yves Thoraval]. Actes Sud, ed. Sindbad, 1996. p. p. 49 - 71</ref>。 |
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[[アンダルス]]は中世に偉大な文化が栄えた地であった。[[イブン=ルシュド]]のものなど、西洋世界では知られていなかった哲学や科学の広がりを可能にした大きな大学の数々のほか、この地はまた美術にも富んでいた。建築では[[メスキータ|コルドバの大モスク]]がすぐに思い浮かぶであろうが、[[トレド]]の{{仮リンク|バブ・マルドゥム|fr|Bab Mardum}}<!-- エル・クリスト・デ・ラ・ルス -->やカリフの都{{仮リンク|メディナ・アサーラ|fr|Madinat al-Zahra}}<!-- 清音になるのは西語風? -->などもそれに劣らず重要である。この時代の傑出した建築としてはグラナダの[[アルハンブラ宮殿]]もある。西ゴート族、さらにはローマをモデルとした半円アーチのフォルム<ref>「661年({{仮リンク|サン・ファン・デ・バニョス教会|es|Iglesia de San Juan (Baños de Cerrato)}})以降、この建築フォルムは[[エブロ川]]から[[ドウロ川]]にかけての地域で見られており〔…〕馬蹄形アーチの起源はさらに先で、ローマ帝国時代のただ中であったとさえ言えるであろう。」Stierlin, Henri. ''Islam, de Bagdad à Cordoue, des origines au XIIIe siècle'' Taschen, 2002. p. 113</ref>に代表されるような数々の特徴はスペイン建築の特色を示しているが、同様に頻繁に使用される多弁形のアーチはイスラーム時代の典型的な特徴のようである。[[ミフラーブ]]を小さな部屋として扱うのもスペインの特徴である<ref>Stierlin, Henri. ''Id''. p. 100</ref>。 |
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<!-- [[Image:Rabat tour Hassan.jpg|thumb|{{仮リンク|ハッサン塔|en|Hassan Tower}}。[[モロッコ]]の[[ラバト]]]] --> |
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工芸ではさまざまな技法が凝らされた。後ウマイヤ朝の北アフリカ進出に伴い象牙が入手しやすくなったことから象牙細工が発展し、 |
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精緻な箱や宝石箱<!-- de boîtes et de coffrets -->がカリフ一族など富裕層のために作られた<ref>{{Harvnb|ブルーム|ブレア|2001|pp=256-257}}; {{Harvnb|杉村|1999|p=76}}</ref>。中でも{{仮リンク|ムギーラの小箱|fr|pyxide d'al-Mughira}}が傑作であり、精緻な浮彫で4つの場面が描かれているが、その図像の意味は詳らかにはなっていない<ref>[http://www.louvre.fr/llv/oeuvres/detail_notice.jsp?CONTENT%3C%3Ecnt_id=10134198673237453&CURRENT_LLV_NOTICE%3C%3Ecnt_id=10134198673237453&FOLDER%3C%3Efolder_id=9852723696500781&fromDept=false&baseIndex=29&bmUID=1180340910274 Œuvre choisie du site du musée du Louvre]</ref><ref>{{Harvnb|杉村|1999|p=370}} 解説は桝屋友子</ref>。 |
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[[Image:Granada Alhambra Fuente de los leones detalle.jpg|thumb|upright|[[アルハンブラ宮殿]]の獅子の噴水]] |
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イスラーム圏ではどちらかと言えば稀であった大きな{{仮リンク|丸彫り|fr|ronde-bosse}}彫刻<ref>« La ronde bosse est très rare dans le monde islamique. » Bernus-Taylor, Marthe. ''Les Arts de l'Islam''. Paris : RMN, 2001. p. 59</ref>も日の目を見た。金属製の丸彫りは{{仮リンク|水盤|fr|aquamanile}}や噴水の吐水口として<ref group="注">例としては、メディナ・アサーラの噴水に由来するカタールのドーハのコレクションにある牝鹿や、ルーヴル美術館蔵の孔雀の水盤(MR 1569)と獅子の噴水吐水口(OA 7883)などを参照。</ref>、石製の丸彫りは例えばアルハンブラ宮殿の「獅子の噴水」の支えとして用いられた。 |
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織物、特に[[絹]]は大部分が輸出された。その多くの例が西洋の教会の宝物庫で、聖人たちの骸骨を包む布として再発見されている<ref>スペインの織物はティラーズと呼ばれる王立の工房で独占的に生産されていた。 Grabar, Oleg et Ettinghausen, Richard. ''Islamic art and architecture, 650 - 1250''. New Haven and London : Yale University Press, 2001. p. 97</ref>。焼き物では、「伝統技術」が駆使され、とりわけラスター彩が化粧板や一連の「アルハンブラの壺」に用いられた<ref>Bernus Taylor, Marthe. « L'art de l'Islam ». in Moyen âge, chrétienté et Islam. Paris : Flammarion, 1996. p. 513</ref>。マグリブ人の諸王朝による支配を受けてからは、彫刻と彩色の施された木工芸への趣味も見られるようになる。[[1137年]]のものとされる[[マラケシュ]]の[[クトゥビーヤ・モスク]]の[[ミンバル]](説教壇)はその最良の例の1つである<ref>Grabar, Oleg et Ettinghausen, Richard. ''Islamic art and architecture, 650 - 1250''. New Haven and London : Yale University Press, 2001. p. 278.</ref>。 |
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[[北アフリカ]]の建築については、[[脱植民地化]]以降に研究が行われなかったためあまり知られていない。<!-- qui importent des nouveautés en Espagne: スペインに新しい文物をもたらした …略 -->[[ムラービト朝]]と[[ムワッヒド朝]]は、裸の<!-- 装飾のない -->壁を持つモスクなどから窺い知れるような簡素さの探求が特徴となっている。[[マリーン朝]]と[[ハフス朝]]は重要だがほとんど知られていない建築様式や、彩色・彫刻・象嵌を施した木工芸を生み出した<ref>Blair, Sheila S. ; Bloom, Jonathan M. ''The art and architecture of Islam''. New Haven et London : Yale University Press, 1994. p. 114 à 123</ref>。 |
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==== エジプトとシリア ==== |
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[[Image:Al Azhar, Egypt.jpg|thumb|left|アル=アズハル・モスクの中庭]] |
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<!-- {{main|...}} |
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{{仮リンク|ファーティマ朝の美術|fr|Art fatimide}} |
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{{仮リンク|ファーティマ朝からマムルーク朝までのエジプトとシリアの美術|fr|Art d'Égypte et de Syrie des Fatimides aux Mamelouks}} <!- 仏語版のイスラーム美術記事は層が恐ろしく厚いです -> |
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{{仮リンク|マムルーク朝の美術|fr|Art mamelouk}} |
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{{仮リンク|マムルーク朝の建築|fr|Architecture mamelouke}}) |
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:''歴史時代'':[[ケルアン|カイラワーン]]と[[カイロ (エジプト)|カイロ]]の[[ファーティマ朝]]、[[アイユーブ朝]]、[[マムルーク朝]] <!-- ファーティマ朝はcalifat、マムルーク朝はsultanatという違いがあるが訳出せず --> |
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:''主要な作品と建造物'': {{仮リンク|向かい合う鳥の水差し|fr|Aiguière aux oiseaux}}、{{仮リンク|聖ルイ王の洗礼盤|fr|Baptistère de saint Louis}}<!-- 訳語はルーヴルの日本語サイトから取りました。http://www.louvre.fr/llv/oeuvres/detail_notice.jsp?CONTENT%3C%3Ecnt_id=10134198673226027&CURRENT_LLV_NOTICE%3C%3Ecnt_id=10134198673226027&FOLDER%3C%3Efolder_id=9852723696500909&baseIndex=1&bmLocale=ja_JP http://www.louvre.fr/llv/activite/detail_parcours.jsp?CURRENT_LLV_PARCOURS%3C%3Ecnt_id=10134198673226920&CURRENT_LLV_CHEMINEMENT%3C%3Ecnt_id=10134198673226807&CONTENT%3C%3Ecnt_id=10134198673226807&bmLocale=ja_JP --> |
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[[909年]]から[[1171年]]まで[[エジプト]]を支配した[[ファーティマ朝]]はイスラーム世界で数少ない[[シーア派]]王朝の1つであった。ファーティマ朝は[[909年]]に[[イフリーキヤ]]で誕生し、[[969年]]には[[エジプト]]に到達し[[フスタート]]の北に[[カイロ (エジプト)|カイロ]]に首都<!-- ville califale: カリフの(宮殿のある)都 -->を建設した(フスタートも経済の中心地であり続けた)。ファーティマ朝は聖俗の重要な建築様式を生み出し、アル=アズハルとアル=ハキムのモスクや、宰相バドル・アル=ジャマリが建設したカイロの城壁などが残存している。また木、象牙、釉の下にラスター彩と彩色を施した焼き物、金銀、象嵌した金属、不透明ガラス、それからとりわけ天然水晶など、最も多様な素材による美術品の豊かな産出の源でもあった。当時の職人には多数のキリスト教徒のコプト人が含まれており、キリスト教の図像を持つ数多くの作品がそのことを裏付けている<ref>Bernus -Taylor, Marthe. « L'art de l'Islam » in ''Moyen âge, chrétienté et islam''. Paris : Flammarion, 1996. p. 498.</ref>。とりわけ寛容であったファーティマ朝の治世下ではキリスト教徒が多数を占めていたのである。その美術は豊かな図像が特徴となっており、人間と動物の姿が活き活きとした表現で多用され、ラスター彩の陶器に施された目玉文様のような純粋に装飾的な要素であることからは解放される傾向にあった<ref group="注">{{Harvnb|ブルーム|ブレア|2001|p=252}}はこの写実主義の発展を、ファーティマ朝による精密科学の奨励によるものではないかとしている。</ref>。地中海沿岸、とりわけビザンチンの文化との商業的接触により技法と様式の両面で豊かなものとなったのである。また丸彫り彫刻を(多くの場合ブロンズで)作らせた数少ない王朝の1つでもあった<ref>Voir : Casanelli, Roberto (dir). ''La méditerranée des croisades''. Paris, Citadelles et Mazenod, 2000. et ''Trésors Fatimides du Caire. [Cat exp. Paris, Institut du monde arabe, 1998] Paris : Institut du monde arabe, 1998.</ref>。 |
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同時期に[[シリア]]<ref group="注" name="iran" />では、[[セルジューク朝]]の王子たちの養育係的な存在である[[アタベク]]たちが権力を簒奪していた。独立独歩の<!-- Très indépendants -->アタベクたちは王子たちの間の反目に乗じ、また大半はフランク人の{{仮リンク|十字軍騎士|fr|chevalier croisé}}の定住を甘受した。[[1171年]]に[[サラーフッディーン]]がファーティマ朝のエジプトを占領し、短命な王朝となる[[アイユーブ朝]]を創設した<ref>Tate, Georges. ''L'Orient des Croisades''. Paris : Gallimard, colll. découvertes, 2000</ref>。建築にとってはあまり良い時代ではなかったが、それでもカイロの街の防衛施設の修繕と改良は行われた。高級品の生産も途切れた訳ではなかった。釉の下にラスター彩や彩色を施した焼き物や、高品質な象嵌した金属工芸の生産は続けられ、12世紀末<!-- le dernier quart: 最後の四半世紀 -->には揃い物のゴブレットや特に瓶などのエナメル装飾を施したガラスも出現した<ref>Bernus Taylor, Marthe. ''Les arts de l'Islam'' PAris : RMN, 2001. p. 70. Voir aussi ''L'Orient de Saladin, l'art des Ayyoubides'' [Cat Exp. Paris, Institut du monde arabe. 2001] Paris : Gallimard, 2001.</ref>。 |
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[[Image:Bassin Syrie 1.JPG|thumb|{{仮リンク|聖ルイ王の洗礼盤|fr|Baptistère de saint Louis}}、マムルーク朝、14世紀初頭]] |
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[[マムルーク]]たちが[[1250年]]にはエジプトでアイユーブ朝から権力を奪い、[[1261年]]にはシリアでモンゴル人と戦いその価値を認めさせた。君主の世襲が行われた訳ではなかったので、[[マムルーク朝]]は厳密な意味では王朝ではない。事実、マムルークたちはトルコの解放[[奴隷]]であり、(理屈上は)権力を解放奴隷の仲間同士で引き継いだ。この特異な政体は[[1517年]]までの3世紀弱に亘って続き、スルタンもしくは首長による巨大な総合施設からなる豊かな石造建築の様式が特にカイロで実現することになる。スルタンの地位が不安定であったため支配権を保つには多くの施設を寄進せざるを得ず、この時期には幾千もの建物が建造された<ref>f. Blair, Sheila S et Bloom, Jonathan M. ''The art and architecture of Islam, 1250 - 1800''. New Haven et London : Yale University Press, 1994. p. 70 - 96</ref><ref>{{Harvnb|ブルーム|ブレア|2001|p=174}}</ref>。装飾は概して[[アブラク]]<!-- l'ablaq -->の技法に沿って色取り取りの石を嵌め込むことや放射状の幾何学文様を持つ寄せ木細工を木部に施すことで行われた。エナメル彩のガラスや象嵌した金属工芸も庇護の対象となり、各地に輸出された<ref>{{Harvnb|杉村|1999|pp=148-149}}</ref>。真鍮製品製造者<!-- dinandier -->ムハンマド・イブン・アル=ザインの署名がある、イスラームの美術品で最も高名なものの1つである{{仮リンク|聖ルイ王の洗礼盤|fr|Baptistère de saint Louis}}はこの時代のものと推定されている<ref>[http://www.louvre.fr/llv/oeuvres/detail_notice.jsp?CONTENT%3C%3Ecnt_id=10134198673225769&CURRENT_LLV_NOTICE%3C%3Ecnt_id=10134198673225769&FOLDER%3C%3Efolder_id=9852723696500831&fromDept=false&baseIndex=0&bmUID=1180341354365 Oeuvre choisie du site du musée du Louvre]([http://www.louvre.fr/llv/activite/detail_parcours.jsp?CURRENT_LLV_PARCOURS%3C%3Ecnt_id=10134198673226920&CURRENT_LLV_CHEMINEMENT%3C%3Ecnt_id=10134198673226807&CONTENT%3C%3Ecnt_id=10134198673226807&bmLocale=ja_JP 日本語の略説]) Voir aussi D.S. Rice. ''Le Baptistère de saint Louis''. Éditions du Chêne, 1951</ref>。 |
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==== イランと中央アジア ==== |
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[[Image:Small cup Khorasan Louvre MAO857.jpg|left|thumb|釉の上下に{{仮リンク|スリップ (陶芸)|fr|engobe|label=スリップ}}による装飾を施した杯。11-13世紀頃。[[ルーヴル美術館]]蔵]] |
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10世紀の[[イラン]]<ref group="注" name="iran" />と[[インド]]北部では、[[ターヒル朝]]、[[サーマーン朝]]、[[ガズナ朝]]、[[ゴール朝]]が覇権を争った。そのため美術は隣人から抜きん出るための不可欠な手段となっていた。[[ニーシャープール]]や[[ガズニー]]のような大きな街が建設され、また現在の形の[[エスファハーンの金曜モスク]]が作られたのもこの時期である。墳墓建築が発達し、また陶工は黄色の地に万華鏡のような装飾や、有彩の釉薬の流れた跡や釉の上と下の双方に施された{{仮リンク|スリップ (陶芸)|fr|engobe|label=スリップ}}(エンゴーベ)で構成された碧玉文様の装飾を施し1つ1つが大きく違う作品を作り出した<ref>Soustiel, Jean. ''La Céramique islamique''. Fribourg : Office du Livre, 1895</ref>。 |
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トルコ(現在の[[モンゴル国]]も含む<!-- cf. [[テュルク諸語]]-->)を起源とする遊牧民であった[[セルジューク朝]]が10世紀の終わり頃にイスラーム世界に急激に広がった。[[セルジューク朝]]は[[1048年]]に[[バグダード]]を占領し、[[1194年]]にはイランにおいては滅亡したが、その名を持つ<!-- éponymes -->品物の生産が12世紀末から13世紀初頭にかけても行われており、これは独立したより小規模な君主たちのためのものだったのであろう。中庭の4辺に[[イーワーン]]を持つイラン・プランのモスクが初めて出現したのはセルジューク朝時代であった<ref>Hillenbrand, Robert. ''Islamic architecture, form, function and meaning''. New York : Columbia University Press, 1994. p. 103</ref><ref>{{Harvnb|ブルーム|ブレア|2001|pp=155-158}}</ref>。石英の粉に白い粘土と釉薬の粉を混ぜた人工胎土(ストーン・ペースト)により陶器を白く薄く作ることが可能になり<ref>{{Harvnb|ブルーム|ブレア|2001|p=265}}; {{Harvnb|桝屋|2009|p=112}}</ref><ref group="注">一部の研究者は依然として珪質の胎土がイランで誕生したと考えているが、大部分の研究者はこれがエジプトでの発明であり、ファーティマ朝の滅亡の後に逃亡してきたエジプト人の陶工たちと共にイランに齎されたのであると考えている。Cf. Watson, Oliver. ''Persian lustre ware'' London : Faber and Faber, 1985 et Grube, Ernst J. ''Cobalt and lustre : the first centuries of Islamic pottery''. Londres : Nour Foundation, 1994.</ref>、[[カーシャーン]]では色彩豊かなミーナーイー手もしくはハフト・ランギの陶器が作られペルシア陶器は黄金期を迎えた<ref>{{Harvnb|桝屋|2009|p=116}}; {{Harvnb|杉村|1999|pp=108-109}}</ref>。またブロンズに貴金属を象嵌することも行われた<ref>Melikian-Chirvani, Assadulah Souren. ''Le bronze iranien''[expo. Musée des arts décoratifs] 1973. p. 11</ref>。 |
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13世紀には[[中央アジア]]からの新たな侵略の波がイスラーム世界に襲来し、[[ウィーン]]の城門にまで到達した——[[チンギス・カン]]の率いる[[モンゴル]]である。チンギス・カンが死ぬと、その帝国は息子たちによって分割され、いくつもの支流が生まれた。[[中国]]においては[[元 (王朝)|元]]、イランにおいては[[イルハン朝]]であるが、イラン北部は「黄金のオルド」([[ジョチ・ウルス]])の遊牧民<!-- 遊牧政権。イルハン朝にしてもそうですが -->らが支配した。 |
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===== イルハン朝 ===== |
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[[Image:Ceramique chameau.JPG|thumb|駱駝が描かれた[[ラスター彩]]の化粧板。14世紀。[[ルーヴル美術館]]蔵]] |
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:''歴史時代'':[[イルハン朝]] |
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最初は元の皇帝に従属していたが急速に独立したものとなっていった「小ハーン」たちの下で、豊かな文明が発達した。モンゴル人たちが定住化するにつれ建築活動も活発になっていったが、遊牧民の伝統の跡も多少なりとも残り、それは建物を南北に向けることなどに現れた<ref>イスラームでは稀なこの方向付けの最良の例は[[タフテ・スレイマーン]]の配置である。</ref>。しかし著しいペルシア化や、イラン・プランとして既に確立されていた形式の再来もまた見られる。[[ソルターニーイェ]]にある[[オルジェイトゥ]]の墓はイランで最も大きく堂々とした建造物の1つであるが、破壊が夥しい。宰相[[ラシードゥッディーン]]の命により編纂された『[[集史]]』のような重要な写本を通じてペルシアの写本芸術<!-- l'art du livre: 「挿絵」では狭すぎる -->が誕生したのもこの王朝の下であった<ref>{{Harvnb|ブルーム|ブレア|2001|pp=200-201}}; {{Harvnb|杉村|1999|p=171}}</ref>。陶芸ではラージュヴァルディーナ彩<!-- lajvardina -->やスルターナバード彩をはじめとするさまざまな新技法が出現した<ref name="lajvardina">{{Harvnb|杉村|1999|pp=173-176}} 執筆者はヤマンラール水野美奈子</ref>。イルハン朝の工房は多民族の職人で構成されていたが、モンゴル人は中国の文物に慣れ親しんでいたため美術のあらゆる分野に中国の影響が見出される<ref>{{Harvnb|杉村|1999|p=170}}</ref><ref>cf. [http://www.lacma.org/khan/ 展覧会「チンギス・カンの遺産」のサイト]およびカタログ: Komaroff, Linda et Carboni, Stefano (dirs.). ''The Legacy of Genghis Khan : courtly art and culture in Western Asia, 1256 - 1353''. [Expo. New York, Metropolitan museum of art. 2002 - 2003 ; Los Angeles, Los Angeles county museum of art. 2003]. New York : Metropolitan museum of art, 2002.</ref>。 |
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===== 「黄金のオルド」 ===== |
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[[Image:Kamal-ud-din Bihzad 001.jpg|left|thumb|壁の建設。{{仮リンク|ビフザード|fr|Behzad}}画、1494-1495年頃。[[大英博物館]]蔵]] <!-- ハマール・ウッディーン像 (とgalleryのキャプションにありましたが…) --> |
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{{仮リンク|セルジューク朝以前の自治イランの美術|fr|Art de l'Iran autonome avant les Seljoukides}} |
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{{仮リンク|セルジューク朝イランの美術|fr|Art des Saljukides d'Iran}} |
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{{仮リンク|モンゴル帝国下のイランの美術|fr|Art de l'Iran mongol}} |
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{{仮リンク|ティムール朝の美術|fr|Art timouride}} |
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:''歴史時代'':[[セルジューク朝]]、[[ジョチ・ウルス]]、[[ティムール朝]] |
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これら遊牧民の美術については極めて僅かしか知られていない。ようやく関心を向けはじめた研究者たちは、これらの地域に都市計画と建築が存在していたことを発見した。金銀細工も大いに発展しており、その作品の大部分には中国からの強い影響が見られる。[[サンクトペテルブルク]]の[[エルミタージュ美術館]]に所蔵されているこれらの作品はようやく研究されはじめたばかりである{{要出典|date=2010年12月}}。 |
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遊牧民からの3度目の侵略は[[ティムール]]の軍勢によるもので、これは中世イラン3番目の重要な時代を打ち立てた——[[ティムール朝]]である。15世紀におけるこの王朝の発展に伴い、特に[[ヘラート]]への遷都後には{{仮リンク|ビフザード|fr|Behzad}}<!-- 大全集「ビヒザード」-->らの画家や、数々の中心地<!-- foyers -->と庇護者たちによってペルシアの写本芸術は頂点に達した<ref>{{Harvnb|ブルーム|ブレア|2001|pp=214-218}}</ref> <ref>{{Harvnb|杉村|1999|pp=193-195}}</ref>。[[サマルカンド]]の建造物などを通して知られるペルシアの建築と都市計画もまた黄金時代を迎えた。タイルによる装飾や[[ムカルナス]]のドームがとりわけ見事である。写本芸術および中国の美術の強い影響が他のあらゆる領域で見出される。ティムール朝時代における写本芸術とペルシア美術の結び付きは後の[[サファヴィー朝]]の大帝国におけるペルシア美術の飛躍を可能にした要素の1つである。 |
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==== アナトリア ==== |
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{{仮リンク|アナトリアのセルジューク朝の美術|fr|Art des Saljukides d'Anatolie}} |
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{{仮リンク|トルクメンの美術|fr|Art turkmène}} |
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{{仮リンク|トルクメン・アナトリアおよび初期オスマン帝国の美術|fr|Art de l'Anatolie turkmène et des premiers Ottomans}} |
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:''歴史時代'':[[セルジューク朝]]、[[オスマン帝国]] |
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拡大を続けるセルジューク朝トルコは[[アナトリア半島]]にまで征服の手を伸ばした。[[1071年]]の[[マラズギルトの戦い]]後、アナトリアのセルジューク朝はイランのものとは独立したスルタン国を形成した。モンゴルの侵攻を受け、その権力は[[1243年]]には消滅したものと思われるが、その名を冠した硬貨は[[1304年]]まで鋳造され続けていた。イランやシリアのさまざまな様式を折衷した建築や美術品は帰属の決定が困難である場合も多い。木工芸が主要な美術分野の1つとなっており<ref>Grabar, Oleg, et Ettinghausen Richard. ''Islamic art and architecture, 650 - 1250''. New Haven et London : Yale University Press, 2001. p. 255</ref><ref>{{Harvnb|杉村|1999|p=114}}</ref>、またこの時代のものとされる傑出した装飾写本も知られている<ref>[[ジャラール・ウッディーン・ルーミー]]の『{{仮リンク|マスナヴィー|fr|Masnavi-I Ma'navi}}』の、6巻からなる写本。[[コンヤ|コニヤ]]にて1268-1269年に制作されたものと考えられる。Ettinghausen et Grabar. ''id''. p. 257-258</ref><!-- refになってますが本文に織り込んだ方がいい? --><!-- 杉村(1999)p.118では『ワルカとグルシャー』を代表的としています -->。建築では通商路に[[キャラバンサライ]]を充実させ、建築装飾には人物や鳥獣などの具象的なモチーフが多く用いられた<ref>{{Harvnb|杉村|1999|p=112}}</ref>。 |
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[[ヴァン湖]]周辺の地域で遊牧生活を営んでいた[[トルクメン人]]については極めて僅かしか知られていない。しかしながら{{仮リンク|タブリーズの青のモスク|fr|mosquée bleue de Tabriz}}<!-- マスジェデ・カブード。ブルーモスクとも。-->をはじめとする数々のモスクはトルクメン人によるものであり、また[[ルーム・セルジューク朝]]の瓦解後のアナトリアや、ティムール朝時代のイランにも決定的な影響を及ぼしている。13世紀以降アナトリアは、ここに住みつきビザンチンの領土を徐々に侵食していったトルクメン人の小規模な諸王朝により支配されるようになった。そうして徐々に1つの王朝が勃興してくる——[[オスマン帝国]]([[1453年]]以前のものは「初期オスマン帝国」と呼ぶ)である。この時代には建築に庇護が与えられ、建築では丸天井を用いることにより空間の統一を探求しようとしたものと思われる。陶芸でも、「[[ミレトス]]陶器」(ミレトス手)やアナトリアの青と白と呼ばれるようになるオスマン帝国固有の特徴となるものが現れた<ref>Blair, Sheila S. et Bloom, Jonathan M. ''The art and architecture of Islam, 1250 - 1800'' New Haven et London : Yale University Press, 1994. p. 132 - 148.</ref>。 |
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==== インド ==== |
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[[Image:Delhi Qutb Minar.jpg|thumb|[[デリー]]のクッワト・アル=イスラーム・モスク]] |
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{{仮リンク|スルタン時代のインドの美術|fr|Art de l'Inde des sultanats}} :どころか[[インド美術]]もまだないですが… |
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:''歴史時代'':[[デリー・スルタン朝]] |
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[[インド]]は[[ガズナ朝]]と[[ゴール朝]]によって9世紀に征服され、[[1206年]]にムイッズィー(奴隷王)たちが権力の座に就き[[デリー・スルタン朝]]が誕生してようやく自治を回復した。後には、[[ベンガル地方]]、[[カシミール]]、[[グジャラート州|グジャラート]]、{{仮リンク|ジャウンプール|fr|Jawnpur}}、[[マールワー]]、および[[デカン高原]]北部([[バフマニー朝]])にも競合するスルタン国が形成された。これらの国々は徐々にペルシアの伝統から遠ざかってゆき、ヒンドゥー美術との融合が見られる独自の建築と都市計画が誕生することになった。美術作品の制作については現時点<!-- 古くなる表現ではありますが、脚注からいつごろの話かは分かりますのでそのまま -->ではほとんど研究されていないが、重要な写本芸術のあることが知られている<ref>Blair et Bloom, ''op. cit.'' p. 149 - 162</ref>。スルタン諸国の時代は、インド全域を徐々に占領していった[[ムガル帝国]]の到来と共に終焉する。 |
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=== 三大帝国(15-19世紀) === |
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イスラーム世界全体を統一する帝国が再び現れることはなかったが、この時期にはトルコの[[オスマン帝国]]、インドの[[ムガル帝国]]、およびイランの[[サファヴィー朝]]という3つの安定した大帝国が成立し中世の地方王朝を取り込んでいった<ref>{{Harvnb|ブルーム|ブレア|2001|pp=287-292}}</ref>。 |
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==== オスマン帝国 ==== |
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[[Image:Tile panel flowers Louvre OA3919-2-297.jpg|thumb|left|[[イズニク]]で作られた[[タイル]]。[[オスマン帝国]]時代の16世紀の作品。[[ルーヴル美術館]]蔵]] |
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{{仮リンク|オスマン帝国の美術|fr|Art de l'empire ottoman}} |
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{{see also|オスマン建築}} |
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:''歴史時代'':[[オスマン帝国]] |
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14世紀に誕生した[[オスマン帝国]]は[[第一次世界大戦]]<!-- の少し後(lendemain) -->まで存続する。非常に広い地域と長い時代に亘ったこの帝国には多産な美術が存在した——多数の建築、陶器の大量生産(とりわけ[[イズニク]]陶器)、重要な宝石細工活動、ならびに多方面からの影響を受けた傑出した写本芸術などである。この時代には、イランや中国などの東洋およびヴェネツィアに代表される西洋の双方との交易が行われていた<ref>近年開催された2つの展覧会でもこうした関係性が強調されている——''Topkapi à Versailles, trésors de la cour Ottomane'' au château de Versailles en 1999, et ''Venise et l'Orient'' à l'institut du monde arabe en 2007</ref>。 |
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[[メフメト2世]]が[[コンスタンティノポリス]]を征服した際にムスリムに知られるようになった教会[[アヤソフィア]]はオスマン帝国初期の建築に大きな影響を与え、壮大なドーム・コンプレックスを持つオスマン・プラン<!-- plan ottoman -->のモスクが作られるようになった<ref>{{Harvnb|深見|2003|p=186}}</ref>。100歳近くまで長生きし数百もの建築物を手掛けた建築家[[ミマール・スィナン]]の存在が特に重要である<ref>[http://www.mymerhaba.com/fr/main/content.asp_Q_id_E_1239 notice sur Sinan]</ref>。 |
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<!-- [[オスマン建築]]の方ではアヤソフィアの影響に懐疑的な記述。要すり合わせ --> |
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写本芸術においては、特記すべきものとして例えば1つは14世紀末に、もう1つはスルタンの[[ムラト3世]](1574-1595)のために作られた2冊の『祝典の書』があり、これらには数多くの[[イラストレーション|挿絵]]が含まれている<ref>{{Harvnb|杉村|1999|p=253}}</ref>。[[ミニアチュール]]は16世紀初頭に戦利品としてもたらされた大量の美術品や、到来した数々のイラン絵画による[[サファヴィー朝]]イランからの影響を強く受けている。 |
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また陶芸において「イズニク赤」と呼ばれる鮮やかな赤が作り出されたのもオスマン帝国においてであった。非常に際立ったこの赤は1557年頃に出現したもので、現在はロンドンの[[ヴィクトリア&アルバート博物館]]に所蔵されている[[スレイマニエ・モスク]]のランプやタイルがその証となっている<ref>Blair, Sheila et Bloom, Jonathan. ''The art and architecture of Islam 1250 - 1800'' New-Haven and London : Yale University Press, 1994. p. 242</ref><ref>{{Harvnb|ブルーム|ブレア|2001|p=395}}</ref>。 |
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==== ムガル帝国 ==== |
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[[Image:Meister des Rasikapriyâ-Manuskripts 002.jpg|thumb|{{訳語疑問点範囲|ラシカプリヤ|2010年12月|Rasikapriyâ|cand_prefix=原文}}写本。インド、1610-1615年頃]] |
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{{see also|ムガル絵画}} |
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<!-- {{main|ムガル帝国の美術|ムガル帝国の建築}} |
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{{仮リンク|ムガル帝国の建築|fr|architecture moghole}} |
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{{仮リンク|ムガル帝国の美術|fr|Art moghol}}). |
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:''歴史時代'':[[ムガル帝国]] |
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:''主要な作品と建造物'': [[タージ・マハル]] |
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[[ムガル帝国]]は[[1526年]]から[[1858年]]、[[イギリス]]に占領され保護領とされるまでインドを支配した<ref>Berinstain, Valérie. ''L'Inde impériale des Grands Moghols'' Paris : Gallimad, coll. Découverte, 1997.</ref>。ムガル帝国の建築はモスクのムガル・プラン<!-- plan moghol -->の確立や<!-- la mise en place définitive du plan moghol pour les mosquées 意訳 -->[[タージ・マハル]]の建設で名高く、宝石細工や[[ヒスイ|翡翠]]などの硬石加工も栄えた<!-- l'art de la joaillerie et le travail des pierres dures comme le [[jade]] : architecture...avec... にかかるとも思えないので意訳 -->。とりわけ、たとえば馬の頭を象ったもののような軟玉製<!-- poignards en pierre dure ですが、桝屋(2009)pp.126-7などから判断して「軟玉」としています。 -->の短剣が作られた<ref>Okada, Amina. ''L'Inde des Princes. La donation Jean et Krishna Riboud''. Paris : RMN, 2000. p. 45</ref>。{{仮リンク|クンダン|en|kundan}}のような独自の金銀細工技法によってルビー・エメラルド・ダイヤモンドなどの緻密な象嵌が可能となり、花のモチーフを象ることが一般的であった<ref>Keene, Manuel. ''« Le trésor du monde ». Joyaux indiens au temps des Grands Moghols''. Paris : Thames et Husdon, 2006.</ref>。なお王族が金や玉器の食器を用いた一方、[[カースト]]間の汚染を恐れたためか陶芸は発達しなかった<ref>{{Harvnb|ブルーム|ブレア|2001|pp=401-402}}</ref>。 |
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[[フマーユーン]]の治世下で、逃亡先から帰還したフマーユーンと共にやってきたペルシアの職人たちの指導を受け写本芸術が生まれるようになった。しかしまた、[[遠近法]]の使用と彫版術というヨーロッパの着想といった、西洋からの強い影響もはじめて見出される。ヒンドゥーの特徴もまた、特に地方の中心地で見られる<ref>Blair, Sheila et Bloom, Jonathan. ''The art and architecture of Islam 1250 - 1800'' New-Haven and London : Yale University Press, 1994. p. 287 - 298.</ref>。 |
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<!-- [[Image:Bidriware_Hookah.jpg|thumb|upright|{{仮リンク|ビードリー器|en|Bidriware}}の水パイプ]] --> |
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17世紀の{{仮リンク|ビードリー器|en|Bidriware}}の発明も特記すべきで、卑金属の合金を強く艶消した黒とし金銀の象嵌モチーフを引き立たせる技法により、代表的である[[水タバコ|フーカ]]の基部の他、水差し、キンマの箱<!-- 噛み煙草 -->、「痰壷」などといったさまざまな金属工芸が製作された<ref>Okada, Amina. ''L'Inde des Princes. La donation Jean et Krishna Riboud''. Paris : RMN, 2000. p. 84 - 115</ref><ref name="bidri">{{Harvnb|ブルーム|ブレア|2001|p=410}}</ref>。 |
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==== サファヴィー朝とガージャール朝 ==== |
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<!-- {{main|サファヴィー朝の美術|ガージャール朝の美術}} |
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{{仮リンク|サファヴィー朝の美術|fr|Art safavide}} |
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{{仮リンク|ガージャール朝の美術|fr|Art kadjar}} |
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{{see also|イランの芸術|サファヴィー建築}} |
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:''歴史時代'':[[サファヴィー朝]]、[[ガージャール朝]] |
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:''主要な作品と建造物'': {{仮リンク|シャー・タフマースプの偉大なるシャー・ナーメ|fr|Grand Shah Nama de Shah Tahmasp}} |
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[[Image:Riza_Abbasi_Reclining_Nude.jpg|thumb|left|upright|{{仮リンク|リザー・アッバースィー|es|Reza Abbasi}}『横たわる裸婦』(1590-92年頃、エスファハーン、[[フリーア美術館]]蔵)。イスラームでは極めて稀<ref>{{Harvnb|桝屋|2009|p=104}}</ref>な裸婦画。]] |
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ムガル帝国とオスマン帝国に並んで、イランも[[1501年]]から[[十二イマーム派]]の王朝を頂き、[[1786年]]まではどうにか存続していた<!-- résiste tant bien que mal -->。サファヴィー朝の美術においては、陶芸と金属工芸に大きな変化が徐々に起き、16世紀以降は高価な素材ではなく色のついた生地を埋め込むようになった。専門家の中には、16世紀には金属工芸が衰退したとする者もある<ref>Allan, James. « Early Safavid Metalwork ». ''in'' Thompson, Jon, and Canby, Sheila R. ''Hunt for paradise, courts arts of Safavid Iran 1501 - 1576''. [expo. New York, Milan, 2003 - 2004]. Milan : Skira, 2003. p227 - 228.</ref>。中国の磁器が非常に高く評価されており、写本芸術や絨毯において極めて中国的なモチーフを青と白で模倣することが行われた<ref>Bernus Taylor, Marthe. ''Les arts de l'Islam''. Paris : RMN, 2001. p. 102.</ref>。建築が繁栄し、[[アッバース1世]]により[[エスファハーン]]に新都が建設された——数多くの庭園、{{仮リンク|アリ・カプ|fr|Ali Qapu}}のような離宮<!-- des palais de plaisance: 別荘宮殿。「離宮」と意訳 -->、広大な[[バザール]]<!-- 「バーザール」の方が忠実 -->、壮大な{{仮リンク|シャー・モスク|fr|mosquée du Shah}}<!-- 「王のモスク」「イマーム・モスク」-->などが建造された<ref>Canby, Sheila. ''The Golden age of Persian art''. London, British Museum Press, 2002. p. 92 - 102</ref>。 |
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写本芸術は、250以上もの絵画を含む巨大な写本である{{仮リンク|シャー・タフマースプの偉大なるシャー・ナーメ|fr|Grand Shah Nama de Shah Tahmasp}}<!-- 桝屋(2009)p.94は「タフマースプの『シャーナーメ』」とする。タフマースプの所有する『シャー・ナーメ』の偉大な写本ということ -->によってその頂点を迎えた<ref>Canby, Sheila R. « Safavid Painting ». ''in''. Thompson, Jon, and Canby, Sheila R. ''Hunt for paradise, courts arts of Safavid Iran 1501 - 1576''. [expo. New-York, Milan, 2003 - 2004]. Milan : Skira, 2003. p227 - 228.</ref>。17世紀になると王族が高価な装飾写本をあまり注文しなくなり、新しい種類の絵画が発達した——アルバム絵({{仮リンク|ムラッカア|en|muraqqa}})である<ref>{{Harvnb|ブルーム|ブレア|2001|pp=331,352}}; {{Harvnb|桝屋|2009|p=102}}</ref>。これはさまざまな芸術家たちが絵やデッサンやカリグラフィーを紙葉<!-- feuilles -->に描き、それを愛好家が集めてアルバム(画帖)にするものである。この新しい美術形式を代表する画家の1人に{{仮リンク|リザー・アッバースィー|es|Reza Abbasi}}がいる<ref>Canby, Sheila. ''The Golden age of Persian art''. London, British Museum Press, 2002. p. 105 - 107.</ref>。 |
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[[Image:Felin iran.JPG|thumb|ネコ科の動物像<!-- Félin ネコとは断言できないのかな -->。[[イラン]]、19世紀。[[ルーヴル美術館]]蔵]] |
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アフガン人の侵略による[[サファヴィー朝]]の滅亡に伴い1世紀の間混乱が続くが、モンゴル支配の時代に[[カスピ海]]沿岸に定住したトルクメン人の部族による新しい権力である[[ガージャール朝]]の台頭により混乱には終止符が打たれた。西洋の強い影響を受けた美術が生まれた——ガージャール朝のシャーたちの油絵による立派な肖像画には、ミニアチュールの作法の名残は多少あるにせよ、それまでのペルシア絵画とはほとんど関係のないものとなっている<ref>Bernus Taylor, Marthe. ''Les arts de l'Islam''. Paris : RMN, 2001. p. 106 - 107</ref><ref>{{Harvnb|ブルーム|ブレア|2001|p=418}}</ref>。ガージャール朝の下では、[[テヘラン]]の街の発展と共に壮大な建築もまた建設されるようになった<ref>Scarce, Jennifer M. « The art of the eighteenth to the twentieth century ». in Avery, Peter ; Hambly, Gavin ; Melville, Charles (eds.). The cambridge history of Iran. 7. From Nadir Shah to the Islamic republic. Cambridge : Cambridge Univesity Press, 1991. p. 840 – 930.</ref>。鋼鉄などの新しい技法も美術に取り入れられた。 |
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=== 近現代(20世紀以降) === |
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{{節stub}} |
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== イスラーム美術の技法 == |
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=== 水晶細工 === |
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=== 都市計画、建築およびその装飾 === |
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<!-- というセクション名ですが「都市計画」の話は出て来ません。要加筆([[イスラーム建築]]が充実しているのでいいかな?) --> |
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<!-- TODO: ミナレットとムカルナスに触れる --> |
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[[Image:Meknes Medersa Bou Inania Minaret.jpg|left|thumb|upright|{{仮リンク|ブー・イナニア・マドラサ|fr|Medersa Bou Inania de Meknès}}の、釉をかけた瓦屋根と四角形の[[ミナレット]]。[[モロッコ]]]] |
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{{main|イスラーム建築}} |
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イスラームの建築はイスラーム世界に特有のさまざまな形態を取り、それは[[イスラム教]]と関係していることが多い。[[モスク]]はもちろんであるが、[[マドラサ]]や隠居所なども信仰に対応したイスラーム国に典型的な建物となっている<ref>「イスラーム美術は初期はビザンチンとペルシアに基礎を置いて注目すべき傑作を生み出したが、モスクの多柱式の空間を通じてその固有性も明確に<!-- d'emblée: 1回で、雑作もなく -->打ち出されている。イスラーム教徒が集まり儀式的な祈りを行うために横方向の「トポロジー的な」配置が採用され、水平な長方形をした広間が生まれたのである。」{{訳語疑問点|date=2010年12月|text=C'est là que les croyants s'assemblent et adoptent, pour la prière rituelle, une disposition ''topologique'' en largeur qui donne naissance à la salle barlongue et horizontale.}} Stierlin, Henri. ''Islam, de Bagdad à Cordoue, des origines au XIIIe siècle''. Köln : Taschen, 2002. p. 228 - 229.</ref>。 |
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建物の類型は時代と地域によって大きく異なっている。13世紀以前には、今のエジプト、シリア、イラク、トルコにあたるアラブ世界の発祥の地ではモスクはどこもほぼ同じ「アラブ・プラン」<!-- plan dit ''arabe'' -->と呼ばれる間取りに従っており<ref>ミリアム・ローゼン=アヤロンの研究によれば、この間取りは堅材でできた初めてのモスクであった[[アル=アクサー・モスク]]の建設と共に生まれたものと考えられる。<!-- 冒頭の注と同じ --> 実際には、ダマスカスの[[ウマイヤド・モスク]]がその祖型となっていた。Rosen Ayalon, Myriam. ''Art et archéologie islamiques en Palestine. PUF, 2002. Hillenbrand, Robert. ''Islamic architecture. Form, function and meaning.'' New-York : Columbia University Press, 1994. p. 69 - 70.</ref> 1つの広い中庭と1つの多柱式の礼拝空間を持つが、その装飾とさらにはフォルムには大きな差異があった。マグリブのモスクは[[キブラ]]に垂直な身廊を持つ「T」形を採用していたが、エジプトとシリアでは身廊はキブラと平行であった。イランは、煉瓦の使用、スタッコと陶芸を用いた装飾<ref>Bernus Taylor, Marthe. « L'art de l'Islam ». in ''Moyen âge, chrétienté et Islam''. Paris : Flammarion, 1996. p. 484 - 485</ref>、また[[イーワーン]]やペルシア式アーチといった{{仮リンク|サーサーン朝の美術|fr|art sassanide|label=サーサーン朝の建築}}に由来していることの多い独特のフォルムといった固有の特徴(イラン・プラン)を有している<ref>Hillenbrand, Robert. ''Islamic architecture. Form, function and meaning.'' New-York : Columbia University Press, 1994. p. 100 - 114.</ref>。マドラサもまたイラン世界で生まれたものである<ref>« The undoubtedly eastern Iranian origin of the ''madrasa'' makes that ovious area in which to seek the archutectural of the institution. » <(仏語版での引用のまま)!-- 引用が怪しく、意味が取れませんでした。 --> Hillenbrand, Robert. ''Islamic architecture. Form, function and meaning.'' New-York : Columbia University Press, 1994. p. 174.</ref>。スペイン<!-- Espagne: 「アンダルス」と訳した方がいいか? -->では蹄鉄や多弁形<!-- polylobés -->などさまざまな[[アーチ]]を用いた色鮮やかな建築への嗜好が見られる<ref>特に[[メスキータ|コルドバの大モスク]]、{{仮リンク|メディナ・アサーラ|fr|Madinat al-Zahra}}の宮殿、さらにはグラナダの[[アルハンブラ宮殿]]などが当て嵌まる。Cf. Bernus Taylor, Marthe. « L'art de l'Islam ». in ''Moyen âge, chrétienté et Islam''. Paris : Flammarion, 1996. p. 481 - 482</ref>。アナトリアでは、ビザンチン建築の影響下にありつつもアラブ様式の中でこの地域独自の発展も見せる、独特で並外れた丸屋根を持つオスマン式(オスマン・プラン)の大モスク<!-- de grandes mosquées ottomanes -->が建設された<ref>Goodwin, Godfrey. ''A History of Ottoman Architecture''. Baltimore: Johns Hopkins Press, 1971.</ref> 。ムガル帝国のインドでは徐々にイランの様式を離れ球根状のドームを強調した独自の様式が発達した<ref>Blair, Sheila s. et Bloom, Jonathan M. ''The art and architecture of Islam, 1250 - 1800''. New Haven and London : Yale University Press, 1994. p. 266 - 286</ref>。 |
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<!-- ギャラリー指針:イスラーム建築の基礎知識を補う画像をキーワード単位で掲載します。--> |
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Image:Samaraa Grand Mosque Plan.png|852年に完成した{{仮リンク|サーマッラーの大モスク|fr|Grande Mosquée de Samarra}}の平面図。多柱式の礼拝空間を持つ典型的なアラブ・プランのモスク。 |
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Image:Selimiye Mosque, Dome.jpg|[[セリミエ・モスク]]の[[ドーム]]。幾何学文様とカリグラフィーによる装飾が施されている。1557年、[[イスタンブル]] |
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Image:DSC03789 Istanbul - Aya Sophia - Mirhab - Foto G. Dall'Orto 24-5-2006.jpg|[[アヤソフィア]]の[[ミフラーブ]]。礼拝の方向を示すための窪みである。<!-- TODO: もう少し典型的なものと交換 --> |
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<!-- Image:Mehrab majed-e-jomeh yazd femmes en priere cor.jpg --> |
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Image:Details of Muqarnas corbel balcony, Qutb Minar.jpg| [[クトゥブ・ミナール]]の[[ムカルナス]]。ムカルナスはイスラーム建築でよく用いられる、幾何学的要素の反復による[[持ち送り]]構造の装飾である。1200年頃、インド。 |
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Image:Herat_Masjidi_Jami_iwan.jpg|[[ヘラート]]の金曜モスクの[[イーワーン]]。イーワーンは屋外に向かって開き、高いアーチの天井を持つ空間。特にイランでよく使われ、これを中庭の四方に配する4イーワーン構造も発達した<ref>{{Harvnb|桝屋|2009|pp=16-17}}</ref>。 |
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Image:Rabat tour Hassan.jpg|{{仮リンク|ハッサン塔|en|Hassan Tower}}。地域差の大きい[[ミナレット]]のバリエーションの1つ<ref>{{Harvnb|深見|2003|pp=88-95}}</ref>。[[モロッコ]]の[[ラバト]] |
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Image:Taj_Mahal_in_March_2004.jpg|球根状のドームを持つ廟墓建築、[[タージ・マハル]]。ムガル帝国、1653年。 |
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Image:Madrasah1.jpg|[[インド]]の[[モスク]]に併設された[[マドラサ]]の風景。ムスリムの学びの場である。寄進制度[[ワクフ]]により、マドラサや宿泊・福祉などの機能も併せ持つモスク複合施設が各地に作られた<ref>{{Harvnb|桝屋|2009|pp=32-33}}</ref>。 |
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<!-- TODO: 壁面装飾の基本的な画像。モザイク、フレスコ、タイル、浮彫 <ref>{{Harvnb|桝屋|2009|p=15}}</ref> --> |
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=== 写本芸術 === |
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<!-- Art du livre: 本全体が1つのアート。訳語は難しい。 --> |
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{{commonscat|Islamic manuscripts|イスラームの写本}} |
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[[Image:Arabischer Maler um 1375 001.jpg|thumb|upright|「アルグン・シャーのための『クルアーン』」装飾ページ。1368-88年頃、マムルーク朝]] |
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<!-- {{main|アラブの写本芸術|ペルシアのミニアチュール|ムガル絵画}} |
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{{仮リンク|アラブの写本芸術|fr|Art du livre arabe}} |
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{{仮リンク|ペルシアのミニアチュール|fr|miniature persane}} |
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{{仮リンク|イスラームの写本芸術|fr|art du livre en terres d'Islam}}は[[絵画]]、[[カリグラフィー]]、[[ミニアチュール]](余白や扉に描かれる[[アラベスク]]や図案など)、[[装幀]]を全て含めたものである<ref>そのさまざまな側面については、Déroche, François (dir.). ''Manuel de codicologie'' Paris, 2000を参照</ref><ref>{{Harvnb|桝屋|2009|pp=68-71}}も参照</ref>。 |
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伝統的に、写本芸術は3つの領域に分けて考えられてきた。シリア、エジプト、[[ジャズィーラ]]、マグリブ、それからオスマン(オスマンは別の領域とも考えられる)の写本に対応する「アラブ」、特にモンゴル時代以降のイラン世界で作られた写本に対応する「ペルシア」、そしてムガル帝国の作品に対応する「インド」である。それぞれの領域には特有の様式があり、それはさらに独自の芸術家たちや慣習などを持つ相異なった流派に分かれる。諸流派やさらには地理的領域の間での、政治状況の変化や芸術家の頻繁な移動(特にペルシアの芸術家はオスマンやインドに多く移住した)による影響関係が存在したことは明らかであるが、それぞれの変遷は並行して進行していた<ref>Voir Ettinghausen, Richard. ''La Peinture arabe''. Genève : Skira, 1962 ; Gray, Basil. ''La Peinture persane''. Genève, Skira : 1995 (2e ed.)</ref>。 |
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遅くとも9世紀にはクルアーンの写本が存在した。クルアーン写本には挿絵は描かれなかったが、6書体による美麗なカリグラフィー、幾何学・植物文による装飾、芸術的な装幀が施された<ref>{{Harvnb|桝屋|2009|pp=70-71,78-81}}</ref>。中世に科学がよく発達したイスラーム圏では[[天文学]]や[[力学]]など科学書の写本も盛んに作られ、 |
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[[アブド・アル・ラフマン・アル・スーフィー]]の『恒星論』の1009年の写本が現存する最古の挿絵入り写本である<ref name="star">{{Harvnb|桝屋|2009|pp=86-87}}</ref>。挿絵入りの写本はアラブ圏では14世紀に衰退が起きた一方<ref>{{Harvnb|桝屋|2009|p=88}}</ref>、ペルシア圏では宮廷書画院(ケターブ・ハーネ)の下で物語や歴史書の挿絵入り写本が開花し<ref>{{Harvnb|小林|2004|pp=54-57}}</ref>、イスラーム絵画の主要な舞台となった。 |
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なお中国から伝来した[[紙|製紙]]は10世紀にはイスラーム世界に定着し写本繁栄の礎となった<ref>{{Harvnb|小林|2004|p=53}}</ref>が、アラビア文字の組版の困難さやカリグラフィーの重視のため[[印刷]]術の導入は18世紀まで遅れた |
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<ref>{{Harvnb|桝屋|2009|p=80}}</ref>。 |
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Image:Kufi - D III style.jpg|クーフィー体で書かれたクルアーン写本(49:11)。9世紀 |
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Image:Folio 165 from manuscript of as-Sufi treatese on the fixed stars. 1009-10. Bodleian Library, Oxford..jpg|[[アブド・アル・ラフマン・アル・スーフィー]]『恒星論』の1009年の写本より「[[アンドロメダ座]]」 |
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Image:Court of Gayumars by Sultan Mohammed.png|{{仮リンク|シャー・タフマースプの偉大なるシャー・ナーメ|fr|Grand Shah Nama de Shah Tahmasp}}。1537年頃 <!-- サムネイルは残念な感じですが拡大表示すると素晴らしいです --> |
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Image:Yusef Zuleykha.jpg|{{仮リンク|ビフザード|fr|Behzad}}画「ユースフの誘惑」。[[サアディー]]『ブースターン』の写本より。1488年 |
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<!-- WANTED:装飾たっぷりのクルアーン写本の装幀 --> |
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=== 絵画 === |
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{{commonscat|Islamic paintings|イスラームの絵画}} |
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[[Image:Irakischer Maler von 1287 002.jpg|thumb|upright|書記。1287年イラクの写本の細部。]] <!-- XXX もう少しましなキャプションを --> |
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{{see also|ムガル絵画}} |
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[[ウマイヤ朝]]から[[アッバース朝]]にかけては壁画や床絵として[[フレスコ画]]などの絵画が描かれ<ref>{{Harvnb|杉村|1999|pp=44,50}}</ref>、ウマイヤ朝時代の[[アムラ城|クルセイル・アムラ]]や、[[ファーティマ朝]]時代の[[カイロ (エジプト)|カイロ]]浴場壁画などが残存している<ref>{{Harvnb|小林|2004|pp=33-37}}<!-- カイロの浴場の方はこの出典はカバーしておりません --></ref>。また陶芸、金属工芸、ガラス工芸、象牙彫刻が絵画的表現の媒体となっていた<ref>{{Harvnb|ブルーム|ブレア|2001|p=249}}</ref>。 |
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写本芸術が発展すると、科学書から始まった挿絵が発展し絵画の舞台となった<ref>{{Harvnb|桝屋|2009|p=68}}</ref>。[[ティムール朝]]・[[サファヴィー朝]]を中心にペルシア語の物語や歴史書の装飾写本が盛んに作られた。アラビア語では画家は神と同じ語「ムサッウィル」(創造者)であったこともあり糾弾の対象であった<ref>{{Harvnb|杉村|1999|p=11}}</ref>が、その画家の地位も確立され、署名を通じて名前が残るようになり、16世紀には画家論が書かれるまでになった<ref>{{Harvnb|桝屋|2009|p=68}}</ref>。代表的な画家は{{仮リンク|ビフザード|fr|Behzad}}である<ref>{{Harvnb|桝屋|2009|p=97}}</ref>。 |
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16世紀後半になるとペルシアでは王族が高価な写本をあまり作らせなくなり、一枚ものの絵が描かれるようになった。これを愛好者が収集して画帖({{仮リンク|ムラッカア|en|muraqqa}})とするようになり、画家の地位はさらに向上した<ref>{{Harvnb|桝屋|2009|p=102}}</ref>。{{仮リンク|リザー・アッバースィー|es|Reza Abbasi}}は鮮やかな色彩で宮廷の優雅な男女を描き評判を取り、その作風は広く模倣された<ref>{{Harvnb|杉村|1999|pp=222-223}}</ref>。 |
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イスラーム美術における絵画は壁画としてのものと、ムラッカアートと呼ばれる挿絵的絵画に大別できる。壁画は主に[[フレスコ画]]としての技法で描かれることが多く、[[ウマイヤ朝]]時代の[[アムラ城|クルセイル・アムラ]]や、[[ファーティマ朝]]時代の[[カイロ (エジプト)|カイロ]]浴場壁画などが残存している。ムラッカアートは12世紀頃から近世にかけて[[紙]]の普及とともに発達し、[[サファヴィー朝]]時代のバフラーム・ミールザーやファーティヒ・アルバムなどが有名である。 |
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Image:Maler der Geschichte von Bayâd und Riyâd 003.jpg|『バヤードとリヤード』第17葉「リヤードからバヤードに宛てた手紙を渡すシャムール」。13世紀、[[ムワッヒド朝]] |
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Image:Miniature from Rose Garden of the Pious. Jami. 1553. Freer..jpg| {{仮リンク|ジャーミー|fr|Djami}}『信心深き者の薔薇園』(1553年)の挿絵 |
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Image:Behzad hunting ground.jpg|{{仮リンク|ビフザード|fr|Behzad}}『猟場』(16世紀前半) |
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Image:Риза йи-Аббаси. Птичка. 1634. Метрополитен.jpg|{{仮リンク|リザー・アッバースィー|es|Reza Abbasi}}『鳥』(1634年) |
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=== 工芸・装飾美術 === |
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<!-- === 「付随的」とされる諸美術 === --> |
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装飾美術の<!--一部をなす-->諸分野はヨーロッパでは「マイナー美術」<!-- arts mineurs / minor art -->と呼ばれている<ref>{{Harvnb|メトロポリタン美術館|1987|p=14}}</ref>。しかしながら、数多くのヨーロッパ以外の文明や古代の文明でそうであったように、イスラームの地でもこれらの媒体<!-- médias -->は実用よりも芸術的な目的のために用いられており、職人仕事と分類してしまえなくなるほどの完成にまで至る傾向があった<ref>「美術品は宮廷だけでなく都市のブルジョワたちにとっても重要な役割を担っていた。これらの品々は富の外面的な現れとして宮殿に次いで頻繁にテクストで言及され、その制作にはさまざまな管理制限の手段が行使されていた。」Grabar, Oleg. ''La formation de l'art islamique''. [trad. Yves Thoraval] Paris : Flammarion, 2000 (2de ed.). p. 264.</ref>。イスラームの芸術家たちは主に宗教的な理由から[[彫刻]]には興味を示さなかった<ref>「偶像崇拝の禁止は三次元芸術をほぼ完全に追放した。グラナダのアルハンブラ宮殿の獅子や、アナトリアの一部のモスクの柱頭を装飾している具象的な彫刻などは確かにあるが、恐らくは例外的なものであったのだろう。」Naef, Silvia. ''Y a-t-il une « question de l'image » en Islam ?'' Paris : Tétraèdre, 2004</ref>が、時代や地域により、 金属工芸、陶芸、ガラス工芸、宝飾([[石英]]が代表的であるが、{{仮リンク|紅玉髄|fr|sardoine}}のような硬石も用いられた)、木工芸、象牙細工などの幅広い領域で独創性と卓越した技量を示した<ref>「イスラームの芸術的な方法は小さな品物、置物に、大いなる完璧さを与えるのに寄与している。」« Islam. 8. Les arts » ''in.''Encyclopaedia Universalis.'' Vol. 9. Interférences - Liszt. Paris : Encyclopaedia universalis France, 1968. p. 186</ref>。 |
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==== 金属工芸 ==== |
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{{commonscat|Islamic metal art|イスラームの金属工芸}} |
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<!-- {{main|イスラームの金属工芸}} |
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{{仮リンク|イスラームの金属工芸|fr|Art du métal islamique}} |
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金属工芸の素材としては[[青銅]]や[[真鍮]]が最もよく使用され、その他[[金]][[銀]][[鉄]]などの使用も見られるが、金銀はしばしば熔かして再利用され、また[[アッバース朝]]以降では[[シャリーア]]を基に本格的に禁止されたため現存する作品は少ない<ref>{{Harvnb|桝屋|2009|p=128}}; {{Harvnb|小林|2004|p=105}}</ref>。水差し、鉢、杯、インク壷、箱、鏡、シャンデリア、燭台、武具など多岐にわたり、その技法も製作物に応じて多種存在していた。基本的にはサーサーン朝ペルシアや[[ビザンチン]]といったイスラーム以前から存在していた伝統を継承し、発展させた工芸美術である。[[ファーティマ朝]]時代の[[エジプト]]などでは鳥獣をかたどった水差しが流行し、数多く製作されている。[[セルジューク朝]]時代には装飾として刻まれているアラビア文字の末端に人間の頭部や花の紋様など変化をつけた作品も出現し始め、当時の社会情勢の変化を伺うことができる。他の地域ではあまり発達しなかった技法に、12世紀ごろから見られるようになった銅や銀を真鍮の器に嵌め込む象嵌細工があり、1163年にヘラートで制作された[[ボブリンスキーの手桶]]が代表的である<ref>{{Harvnb|桝屋|2009|p=128}}; {{Harvnb|小林|2004|pp=82-84}}</ref>。象嵌技法はその後[[シリア]]に伝えられ、14世紀初頭にエジプトで傑作「{{仮リンク|聖ルイ王の洗礼盤|fr|Baptistère de saint Louis}}」などの作品が生まれた。しかしそれ以降は理由は不明であるが人物や動物を描いた象嵌装飾は下火となり、15世紀末には単純な打出しや線刻が主流となり金工は衰退を迎えた<ref>{{Harvnb|杉村|1999|p=149}}; {{Harvnb|ブルーム|ブレア|2001|p=279}}</ref>。 |
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<!-- 15世紀にはいると鋼鉄の武具に金線や銀線の装飾を施す{{仮リンク|ダマスコ細工|fr|Damasquinage}}が盛んになった。--> |
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特徴ある金属工芸としては17世紀[[ムガル帝国]]の{{仮リンク|ビードリー器|en|Bidriware}}があり、これは |
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卑金属の合金に金銀を象嵌し、アンモニア塩を含む泥で覆うことで艶消しの黒を得て象嵌を引き立たせるものであり、特に[[大麻]]や[[煙草]]の吸引用[[水タバコ|フーカ]]の基部が多く作られた<ref name="bidri" />。 |
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Image:Astrolabio andalusí Toledo 1067 (M.A.N.) 02.jpg|アッ=サッファールの[[アストロラーベ]](天体観測儀)。中世イスラームでは[[天文学]]が大きく発展していた<ref>{{Harvnb|杉村|1999|p=367}}</ref>。直径24.2cm。1067年、[[後ウマイヤ朝]]。{{仮リンク|スペイン国立考古学博物館|es|Museo Arqueológico Nacional (España)}}蔵 |
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Image:Aguamanil medieval paloma (M.A.N. Inv.2005-72-1) 01.jpg|鳥を象った真鍮の水差し。11-12世紀、イラン。[[スペイン国立考古学博物館]]蔵 |
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Image:Seljuq Ewer.jpg|[[セルジューク朝]]の真鍮製水差し。打出し加工され、銀と[[ビスマス]]の象嵌がある。1180-1210年頃。[[メトロポリタン美術館]]蔵 |
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Image:Hookah base Louvre MAO739.jpg|[[ビードリー器]]の水パイプの基部。17世紀末-18世紀初頭、インド・[[ビーダル]]地方。[[ルーヴル美術館]]蔵 |
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<!-- Image:Bidriware_Hookah.jpg|[[ビードリー器]]の水パイプ --> |
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</gallery> |
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<!-- WANTED: ボブリンスキー釜([[ボブリンスキーの手桶]]) --> |
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==== 陶芸 ==== |
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{{main|イスラームの陶芸}} |
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{{commonscat|Islamic ceramics|イスラームの陶芸}} |
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[[Image:Buffalo milking Louvre MAO2031.jpg|thumb|野牛の乳を絞るトルクメン人の焼き物。12-13世紀、北シリア]] |
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イスラーム世界における陶芸の歴史は時代毎に勃興した王朝によってその技、特徴が著しい変化を遂げている。また、主要な窯場も時代に応じて変遷し、[[アフガニスタン]]、[[トルコ]]、[[エジプト]]、[[イベリア半島]]など広域に渡る。[[中国]]の[[陶磁器]]の影響を受け、[[磁器]]の完全な再現こそ果たされなかったが<ref>{{Harvnb|メトロポリタン美術館|1987|pp=16-17}}; {{Harvnb|小林|2004|p=101}}</ref>、[[ラスター彩]]や、[[ミーナーイー手]]などといった独自の陶芸文化を進化させていった。 |
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{{Cquote|というのも実に、お盆にはありとあらゆる種類の料理が、全て〔中国の〕金彩の[[磁器]]に盛られていたのです。|4=『[[千夜一夜物語]]』「[[千夜一夜物語のあらすじ#不精な若者の物語(第666夜 - 第671夜)|怠け者アブー・ムハンマドの物語]]」<ref>[[wikisource:en:The Book of the Thousand Nights and a Night/Volume 4|ウィキソース所収、バートン版『千夜一夜物語』]]</ref>}} |
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陶芸技術が飛躍的な発展を遂げたのは、[[アッバース朝]]における[[イラク]]で、白釉陶器、白釉藍緑彩陶器、ラスター彩陶器などが誕生した<ref>{{Harvnb|杉村|1999|pp=49-50}}</ref>。中でもラスター彩は一度施釉して焼いた器に[[硝酸銀]]や[[硫化銅]]で絵付けし、低温度の窯で再度還元焼成することで金属的な輝きを出す独特の手法で、イスラーム陶芸の代表的なものとして知られている。この技術は後に続く[[ファーティマ朝]]や[[セルジューク朝]]などでも受け継がれていった<ref>{{Harvnb|桝屋|2009|pp=114-115}}</ref>。 |
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セルジューク朝に入ると影絵手と呼ばれる技法が発達し<ref>{{Harvnb|三上|1986|p=143}}</ref>、青釉掻落文陶器、ミナイ手(ミーナーイー陶器。ペルシア語で「[[エナメル]]」の意)などの多彩な装飾が施された陶器が誕生する<ref>{{Harvnb|杉村|1999|pp=108-109}}</ref>。[[イル・ハーン朝]]ではさらに装飾技法が発展し、金箔を加えた藍地金彩色絵(ラージュヴァルディーナ彩)や藍釉白盛上陶器(スルターナバード彩)などが誕生した<ref name="lajvardina" />。また、中国の陶磁器から影響を受けた建築装飾用のタイルなども生産されるようになった。 |
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オスマン朝時代のトルコ・[[イズニク]]窯場では中国の青花陶器の技法が取り入れられた白地藍彩陶器などが主流となり<ref>{{Harvnb|桝屋|2009|p=118}}</ref>、また「イズニク赤」と呼ばれる鮮やかな赤も用いられた<ref>{{Harvnb|ブルーム|ブレア|2001|p=395}}</ref>。 |
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[[サファヴィー朝]]ではこれを模倣した[[クバチ]]と呼ばれる絢爛な彩画陶器の作成技法が生まれた<ref>{{Harvnb|ブルーム|ブレア|2001|pp=399-401}}</ref><ref>{{Harvnb|杉村|1999|p=228}}</ref>。 |
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<!-- [[サファヴィー朝]]に入ると[[クバチ]]と呼ばれる絢爛な彩画陶器の作成技法が生まれる。また、オスマン朝時代のトルコ・[[イズニク]]窯場では中国の青花陶器の技法が取り入れられた白地藍彩陶器などが主流となった。 --> |
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Image:Cup blossoming shrub Louvre OA7249.jpg|白釉藍彩陶器。9-10世紀、イラク |
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Image:Cup feline hare Louvre MAO18.jpg|ネコ様の動物と野兎が描かれた[[ラスター彩]]の杯。10世紀、イラクもしくはエジプト |
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<!-- Image:Bowl_Bahram_Gur_Azadeh_MET_57-36-14.jpg|『[[シャー・ナーメ]]』の一場面を描いた杯。12-13世紀、セルジューク朝 --> |
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Image:WLA brooklynmuseum Bowl 13th century Ceramic minai ware.jpg|13世紀のミーナーイー陶器。[[ブルックリン美術館]]蔵 |
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Image:Cup carnations Louvre OA6325.jpg|16世紀後半、[[イズニク]]産の陶器。カーネーションが描かれている。いわゆる「イズニク赤」。 |
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</gallery> |
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<!-- 単調かな? --> |
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==== ガラス工芸 ==== |
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<!-- {{main|イスラームのガラス工芸}} |
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{{仮リンク|イスラームのガラス工芸|fr|verre islamique}} |
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--> |
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{{commonscat|Islamic glass art|イスラームのガラス工芸}} |
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[[Image:Lamp enameled glass Louvre OA 7880-66.jpg|thumb|upright|[[マムルーク朝]]のスルタン、[[ナースィル・ムハンマド]](1294-1340)の名前が入ったエナメル彩ガラスのモスク・ランプ。[[クルアーン]]24:35が書かれている。ルーヴル美術館蔵]] |
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[[Image:DSC04484 Istanbul - Sultan Ahmet camii (Moschea blu) - Foto G. Dall'Orto 28-5-2006.jpg|thumb|upright|[[スルタンアフメト・モスク]]内部]] |
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{{multiple image |
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| header = モスク・ランプ |
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| image1 = Lamp enameled glass Louvre OA 7880-66.jpg |
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| width1 = 140 |
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| caption1 = [[マムルーク朝]]のスルタン、[[ナースィル・ムハンマド]](1294-1340)の名前が入ったエナメル彩ガラスのモスク・ランプ。[[クルアーン]]24:35が書かれている。ルーヴル美術館蔵 |
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| image2 = DSC04484 Istanbul - Sultan Ahmet camii (Moschea blu) - Foto G. Dall'Orto 28-5-2006.jpg |
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| width2 = 140 |
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| caption2 = [[スルタンアフメト・モスク]]内部 |
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}} |
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[[Image:Sprinkler flask Louvre OA6350.jpg|thumb|left|吹きガラス<!-- verre soufflé -->の撒水器。12-13世紀]] |
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イスラーム時代以前より、地中海沿岸<!-- エジプトとシリア-->ではローマ由来の宙吹きガラス、ペルシア<!--イランとイラク-->ではサーサーン朝由来の面カット装飾を用いるガラスが作られていたが、[[アッバース朝]]時代に入り両者が融合し独自の発達を遂げ、イスラームのガラスは世界の最先端となり |
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[[ヴェネツィア]]などのヨーロッパ諸都市にも強い影響を与えた<ref>{{Harvnb|小林|2004|pp=65-66}}</ref>。ガラスのカッティング技法による装飾が流行し、[[レリーフ・カット]]などの技術が誕生している。[[11世紀]]に入るとエジプト・[[フスタート]]を中心として新しい技術が次々と生まれ、被せガラス<ref group="注">きせガラス。透明なガラスの上に色ガラスを被せてから削る技法{{Harv|杉村|1999|p=144}}。[[アール・ヌーヴォー]]などの作家も好んで使用した。</ref>の手法を用いた作品などが生み出された。また、ガラス工芸で生み出された技術は陶芸にも用いられ、イスラーム美術独特の陶芸技法である[[ラスター彩]]が誕生している<ref>{{Harvnb|桝屋|2009|p=114}}</ref>。 |
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さまざまな器形がある中でも代表的であったのは大型の吊りランプ(モスク・ランプ)であり、エナメル彩の豪華なランプがモスク、マドラサ、廟墓などに神を光に喩えた以下のクルアーンの章句を添えて寄進されるのが常であった<ref>{{Harvnb|ブルーム|ブレア|2001|pp=279-280}}; {{Harvnb|小林|2004|pp=72-73}}</ref>。 |
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{{Cquote|アッラーは天と地の光である。その光は喩えるなら壁龕に置かれたランプである。ランプはガラスに包まれ、ガラスは輝く星のよう。|4=『[[クルアーン]]』24章35節({{仮リンク|御光 (クルアーン)|en|An-Nur|label=光の章}})}} |
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<!-- 井筒訳などを使ってもよいと思いますが一応独自訳で --> |
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しかし、近代に入ると[[ティムール朝]]の[[シリア戦争]]などの影響により職人技術の散逸が著しく、イスラーム美術におけるガラス工芸文化は衰退の一途を辿る事となった{{要出典|date=2010年12月}}。 |
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Image:Millefiori Jawsaq al-Khaqani Louvre OA7735 44-45.jpg|[[サーマッラー]]の宮殿由来の、モザイクガラスのタイルの破片。836年頃。[[ルーヴル美術館]]蔵 |
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Image:Lamp enameled glass Louvre OA 7880-66.jpg|[[マムルーク朝]]のスルタン、[[ナースィル・ムハンマド]](1294-1340)の名前が入ったエナメル彩ガラスのモスク・ランプ。[[クルアーン]]24:35が書かれている。[[ルーヴル美術館]]蔵 |
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Image:DSC04484 Istanbul - Sultan Ahmet camii (Moschea blu) - Foto G. Dall'Orto 28-5-2006.jpg|無数のランプが提げられた[[スルタンアフメト・モスク]]内部 |
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Image:Sprinkler Iran Louvre 4046.jpg|19世紀イランの撒水器 |
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==== 染織・絨毯 ==== |
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<!-- {{see also|ペルシア絨毯}} |
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{{仮リンク|ペルシア絨毯|en|Persian carpet}} |
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<!-- [[Image:Ardabil_carpet.jpg|thumb|240px|ペルシア絨毯の最高傑作とされる1対の{{仮リンク|アルダビール絨毯|en|Ardabil Carpet}}のうち1枚。10.51×5.35m。946年。[[ヴィクトリア&アルバート博物館]]蔵]] 絨毯は二次元美術扱いにできる?できない? --> |
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[[Image:Tiraz - Kufic.jpg||thumb|[[ティラーズ]]の断片。銘文から{{仮リンク|マルワーン1世|fr|Marwan_Ier}}時代(684-685年)のものと分かる。これは現存する最古のイスラームの布である<ref>[http://www.islamic-awareness.org/History/Islam/Inscriptions/tiraz.html A Tiraz Inscription From The Time Of Marwan I, 64-65 AH / 683-685 CE]</ref>。{{仮リンク|ホイットワース・アート・ギャラリー|en|Whitworth Art Gallery}}蔵]] |
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高温乾燥の気候から身を守るための衣服、涼しい床の直上で生活し同じ空間を使い分けるための絨毯、遊牧民にとって住居そのものとなるテント(天蓋)など、イスラーム世界では布が重要な役割を担った<ref>{{Harvnb|ブルーム|ブレア|2001|pp=81-83}}</ref>。日用品としての布地は大半が無地であったが、装飾のある布は珍重された。銘文の刺繍([[ティラーズ]] ''tiraz'')がある布を君主が家臣に下賜することが行われ、これを制作するための国立の工房もティラーズと呼ばれた。この制度は[[アッバース朝]]で拡大し、膨大なテキスタイルを生産した<ref>{{Harvnb|ブルーム|ブレア|2001|pp=92-93}}</ref>。<!-- 中国からもたらされた絹織物はイスラームの重要な産業となり<ref>{{Harvnb|ブルーム|ブレア|2001|p=88}}</ref>、 -->空引機で作り出されるイスラームの複雑な図案の絹織物は14世紀まで世界市場を独占し、19世紀まで重要な輸出品であり続けた<ref>{{Harvnb|ブルーム|ブレア|2001|pp=227-231}}</ref>。 |
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絨毯はペルシアやトルコ(アナトリア)が現在も続く主要な産地であるが、礼拝用に絨毯を必要とすることなどからかつてはイスラーム世界ほぼ全域で絨毯の生産が行われていた<ref>{{Harvnb|桝屋|2009|p=134}}</ref>。絨毯や掛け布などの贅沢な布は家の中にこの世の楽園を作り出すものであった<ref>{{Harvnb|ブルーム|ブレア|2001|pp=236-237}}</ref>。{{仮リンク|ペルシア絨毯|en|Persian carpet}}の最高傑作とされる{{仮リンク|アルダビール絨毯|en|Ardabil Carpet}}はティラーズで作られモスクか霊廟に奉納されたものと考えられており、こうしたデザインは速やかに地方に伝播していった<ref>{{Harvnb|小林|2004|pp=120-121}}</ref>。 |
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Image:Phoenix and dragon carpet Anatolia first half or middle 15th century.jpg|メダイヨン(中央の装飾枠)に龍と不死鳥が描かれたアナトリアの絨毯。15世紀 |
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<!-- Image:Re entrant prayer rug Anatolia late 15th early 16th century reverse.jpg|15-16世紀アナトリアの礼拝用絨毯 --> |
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Image:Mantes carpet Louvre OA6610 detail1.jpg|動物と狩りの場面が描かれたペルシアの絨毯。16世紀。[[ルーヴル美術館]]蔵 |
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<!-- Image:Compo-tapis.jpg|絨毯用語図解。内側からメダイヨン、フィールド(装飾面)、コーナー、ガード、ボーダー/カルトゥーシュ(ボーダー内の装飾枠)、フリンジ。 :フランス語では仕方がない。日本語版か数字版が必要 --> |
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Image:Ковроткачиха.jpg|絨毯を織る織工の蝋人形。経糸に多色のパイル毛糸を絡ませ、緯糸で固定する<ref>{{Harvnb|桝屋|2009|p=134}}</ref>。イランの[[ファールス州|ファールス]]歴史博物館の展示。 |
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Image:Kabaa.jpg|黒い布「[[キスワ]]」に包まれた[[カアバ]]。キスワの寄進は大変な名誉であり、イスラームにおける布の重要性の象徴ともなっている<ref>{{Harvnb|ブルーム|ブレア|2001|p=83}}</ref>。 |
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==== 象牙細工 ==== |
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{{commonscat|Islamic ivory|イスラームの象牙細工}} |
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中世の象牙はほぼ全てが[[サハラ砂漠]]を越える陸路でもたらされており、これを入手しやすい地勢にあった[[後ウマイヤ朝]]や[[ファーティマ朝]]では象牙細工が発達した<ref>{{Harvnb|ブルーム|ブレア|2001|p=257}}; {{Harvnb|桝屋|2009|p=131}}</ref>。 |
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後ウマイヤ朝の{{仮リンク|ムギーラの小箱|fr|pyxide d'al-Mughira}}が代表的な傑作である。またパンプローナ・ナバッラ美術館に所蔵されているファーティマ朝の象牙の30cmほどの箱には一面に高浮彫が施され、夥しい数の職人の署名があり、極めて高価なものだったことを窺わせる<ref>{{Harvnb|ブルーム|ブレア|2001|pp=256-257}}</ref>。またファーティマ朝では調度品などの装飾にも象牙細工が用いられた<ref>{{Harvnb|杉村|1999|p=144}}</ref>。 |
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Image:Pyxid Al Mughira OA 4068.jpg|[[ムギーラの小箱]]。[[968年]]、象牙製、高さ17.6cm。[[ルーヴル美術館]]蔵 <!-- 2重に掲載しています --> |
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Image:Panel hunters Louvre OA 6265-1.jpg|狩人を描いた象牙製の装飾パネル。11-12世紀、エジプト。[[ルーヴル美術館]]蔵 |
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Image:Casket ivory Louvre UCAD4417.jpg|象牙の小箱。966年、[[後ウマイヤ朝]]スペイン。[[ルーヴル美術館]]蔵 |
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<!-- Image:BLW Ivory Casket.jpg|象牙の箱。11世紀前半、スペイン。[[ヴィクトリア&アルバート博物館]]蔵 --> |
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Image:Olifant-berlin-pergam.jpg|象牙の角笛(オリファント)。[[ペルガモン博物館]]蔵 <!-- 年代、地域を特定するか差し替えるかすること --> |
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==== 木工芸 ==== |
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[[Image:Kairouan. Minbar und Maqsura.jpg|thumb|{{仮リンク|カイラワーンの大モスク|fr|Grande Mosquée de Kairouan}}の[[ミンバル]]]] |
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<!-- Image:MinbarMosqueKairouan.jpg 現在のカラー写真は保護ガラスがあるので画像としては今一つ --> |
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<!-- Image:Yakovali Hassan minbar.jpg ハンガリーの現代のもの --> |
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<!-- [[Image:Great Mosque of Aleppo 05.jpg|thumb|upright|{{仮リンク|アレッポの大モスク|en|Great Mosque of Aleppo}}のミンバル。15世紀]] --> |
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イスラーム世界には木材の入手しにくい地域が多く<ref>{{Harvnb|ブルーム|ブレア|2001|p=189}}</ref>、また家具もあまり必要とされなかった<ref>{{Harvnb|杉村|1999|p=417}}</ref>が、指物技術により貴重な木材を継ぎ合わせて箱や衝立などが作られた<ref>{{Harvnb|ブルーム|ブレア|2001|p=189}}; {{Harvnb|桝屋|2009|p=130}}</ref>。特に、モスクの重要な備品である[[ミンバル]](説教壇)やクルアーン台は木で作られる。現存する最古の木製ミンバルは{{仮リンク|カイラワーンの大モスク|fr|Grande Mosquée de Kairouan}}にある9世紀のものである<ref>{{Harvnb|桝屋|2009|p=20}}</ref>。 |
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建築には主に煉瓦・石材・タイルが使用されたが |
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<ref>{{Harvnb|深見|2003|pp=37-41}}</ref>、 |
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木材が豊富であった地域では建築装飾にも木工芸が用いられ、 |
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例えば[[ナスル朝]]の[[アルハンブラ宮殿]]の天井は数千の木材を組み合わせた木造である |
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<ref>{{Harvnb|ブルーム|ブレア|2001|p=189}}</ref>。トルコでは木工芸がよく発達し、オスマン帝国のクルアーン収納箱のような傑作が残されている<ref>{{Harvnb|ブルーム|ブレア|2001|pp=334-335}}; {{Harvnb|杉村|1999|p=417}}</ref>。 |
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Image:Frieze running animals Louvre AA165.jpg|走る動物を描いた[[フリーズ (建築)|フリーズ]]。8-9世紀エジプト。[[ルーヴル美術館]]蔵 |
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Image:Kairouan Great Mosque Mirhab.jpg|[[カイラワーンの大モスク]]の木製[[ミフラーブ]] |
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Image:Great Mosque of Aleppo 05.jpg|{{仮リンク|アレッポの大モスク|en|Great Mosque of Aleppo}}の[[ミンバル]]。15世紀 |
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Image:Hungary pecs - jakovali2.jpg|装飾の施された木彫りのクルアーン台 |
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==== 玉器・水晶・宝石細工 ==== |
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[[Image:Dagger_horse_head_Louvre_OA7891.jpg|thumb|upright|馬の頭を象った翡翠製の柄を持つ短剣。17世紀、ムガル帝国。[[ルーヴル美術館]]蔵]] |
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<!-- [[Image:Rock crystal ewer.jpg|thumb|upright|水晶の水差し。高さ19.5cm。11世紀、エジプト。[[ヴィクトリア&アルバート博物館]]蔵]] --> |
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[[エメラルド]]や[[ルビー]]のような宝石が装飾として他の工芸品に嵌め込まれる一方、[[水晶]]や[[ヒスイ|翡翠]]などはそれ自身を彫り込んだ工芸品が作られた<ref>{{Harvnb|桝屋|2009|pp=126-127}}</ref>。水晶細工に最も優れたのは[[ファーティマ朝]]であった<ref>{{Harvnb|桝屋|2009|p=126}}; {{Harvnb|杉村|1999|p=144}}</ref>。ファーティマ朝の宝飾はほとんどが再利用され残存していないが、水晶から彫り出された高価な水差しやランプの一部はヨーロッパに渡り、教会の宝物庫などに収められ今日まで伝わっている<ref>{{Harvnb|ブルーム|ブレア|2001|pp=252-253}}</ref><ref name="aiguiere" />。こうした非常に高価な工芸品はカリフ一族や高官が個人的に使用するためのものであった<ref>{{Harvnb|杉村|1999|p=344}}</ref>。 |
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玉器が最も盛んであったのは[[ムガル帝国]]で、宝石細工や[[ヒスイ|翡翠]]([[ヒスイ輝石|硬玉]]と[[ネフライト|軟玉]]の2種がある)などの硬石加工が栄え、軟玉製の柄を持つ短剣や全体を宝石で埋め尽くした短剣などが作られた<ref>Okada, Amina. ''L'Inde des Princes. La donation Jean et Krishna Riboud''. Paris : RMN, 2000. p. 45</ref><ref>{{Harvnb|ブルーム|ブレア|2001|pp=404-407}}</ref>。{{仮リンク|クンダン|en|kundan}}のような独自の金銀細工技法によってルビー・エメラルド・ダイヤモンドなどの緻密な象嵌が可能となり、花のモチーフを象ることが一般的であった<ref>Keene, Manuel. ''« Le trésor du monde ». Joyaux indiens au temps des Grands Moghols''. Paris : Thames et Husdon, 2006.</ref>。 |
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Image:Rock crystal ewer.jpg|水晶の水差し。高さ19.5cm。11世紀、エジプト。[[ヴィクトリア&アルバート博物館]]蔵 |
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Image:GNM - Reliquienostensorium.jpg|1036年のイスラームの水晶細工。1350年に[[ヴェネツィア]]で台座が取り付けられ聖遺物箱となった。{{仮リンク|ゲルマン民族博物館|de|Germanisches Nationalmuseum}}蔵 |
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Image:Gunpowder horn India Louvre R436.jpg|金糸、ルビー、ターコイズで象嵌した翡翠の火薬容器。17世紀、ムガル帝国。[[ルーヴル美術館]]蔵 |
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Image:Cup jade India Louvre R331-332.jpg|翡翠製のティーセット。金糸、エメラルド、ルビー、ガラスの象嵌がある。18世紀、ムガル帝国。[[ルーヴル美術館]]蔵 |
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<!-- 宝飾の画像が出て来ない…水筒あたりが欲しいところ --> |
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== モチーフ、テーマ、図像、背景 == |
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<!-- TODO: パトロン、風土について触れる --> |
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「イスラーム美術」という言葉からは、偶像を排し幾何学文様と[[アラベスク]]だけから構成された美術が思い浮かべられることが多い。しかしながら、イスラームの美術には人や動物の姿の表現が数多く見られ、宗教とは関係しない領域ではとりわけそうである。 |
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=== 美術と宗教 === |
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<!-- {{main|イスラーム美術と宗教}} |
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{{仮リンク|イスラーム美術と宗教|fr|Art islamique et religion}} |
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<!-- [[Image:Tour_mausolee_Gonbad-e_Qabus.jpg]] --> |
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さまざまな宗教がイスラーム美術の発達において重要な役割を演じ、神聖な目的に向けられた美術も多い。[[イスラム教]]はもちろんであるが、しかしながらイスラーム世界でイスラム教が多数派となったのは13世紀以降のことに過ぎず、他の宗教もまた無視できない役割を演じている。現在のエジプトからトルコまでの一帯では[[キリスト教]] <ref>ダマスカスの[[ウマイヤド・モスク]]を建設したのがビザンチンの芸術家たちであったと思われることも想起されるであろう。cf. Ettinghausen, Richard, et Grabar, Oleg. ''Islamic art and architecture''. New Haven and London : Yale University Oress, p. 26.同様に、主にエジプトやシリアに由来する、キリスト教の図像を持つ作品も数多く存在している。</ref>、イラン世界では[[ゾロアスター教]] <ref group="注">例えば{{仮リンク|ゴンバデ・カーブース|fr|Gonbad-e Qabus}}で誕生したイスラームの葬送塔のモチーフはゾロアスター教の儀式に由来するものである。「マズダー教の何らかの記念モニュメントにその背景があるという仮説を立ててみることもできるであろう。」Ettinghausen, Richard, et Grabar, Oleg. ''Islamic art and architecture''. New Haven and London : Yale University Oress, p. 115</ref>、インド世界では[[ヒンドゥー教]]と[[仏教]]、[[マグリブ]]では[[アニミズム]]が特にそうである。 |
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イスラム教は偶像を禁じたため、モスクなどの宗教建築やクルアーンの写本などを除くと宗教美術は存在せず、また宗教的な図像の需要も生まなかった。他方で、王族や都市の富裕層などは[[ワクフ]]として宗教や慈善への寄進を行う傍ら、宮殿や贅沢な調度品など宗教以外の美術品のパトロンともなった<ref>{{Harvnb|杉村|1999|pp=337-344}}ウルク・Ü・ベーツ「イスラーム美術とパトロン」</ref>。よってイスラーム美術に占める宗教美術の割合は大きくないのであるが、全面的ではないにせよ生物描写の忌避、モスクやクルアーンを飾ることのできる抽象的な装飾や<ref>{{Harvnb|桝屋|2009|p=8}}</ref>神の完璧な創造を暗示する[[数学的な美|数学的に計算された無限の美]]<ref>{{Harvnb|桝屋|2009|p=43}}</ref>の追求、神の言葉を記す[[カリグラフィー]]に与えられる高い価値<ref>{{Harvnb|桝屋|2009|p=68}}</ref>などの美意識や慣行を通して、乾燥地帯という気候風土などと並び<ref>{{Harvnb|杉村|1999|p=20}}</ref>イスラーム美術に共通の特質の一部を作り出している<ref>{{Harvnb|小林|2004|pp=14-15}}</ref>。 |
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<!-- 「美術作品を『イスラーム的』にしたのはその機能であり、それを作った職人の宗教が何であるかではなかったのである。」<ref>{{Harvnb|ブルーム|ブレア|2001|p=30}}</ref> --> |
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=== 美術と文学 === |
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[[Image:Persischer Meister 001.jpg|thumb|『[[シャー・ナーメ]]』。16世紀末]] |
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<!-- イスラーム美術が全て宗教的なものであった訳ではないどころかそれとは程遠く、-->芸術家は宗教以外のさまざまな源泉を用いており、中でも[[文学]]との関係が深い。[[フェルドウスィー]]により10世紀初頭に作られた国民的叙事詩『[[シャー・ナーメ]]』(『王書』)や、[[ニザーミー]]の『5つの詩』(もしくは『[[ハムサ]]』。12世紀)といった{{仮リンク|ペルシア文学|en|Persian literature}}<!-- ≠[[イラン文学]] -->が写本芸術<ref>{{Harvnb|ブルーム|ブレア|2001|p=342}}</ref>のみならず美術品(陶芸<ref group="注">『シャー・ナーメ』の12の場面が描かれた13世紀のミーナーイー手のコップがあり、これは物語を想起・朗唱する助けとなっていたと考えられている。写本を読むよりも記憶から朗唱する方が一般的な鑑賞方法だったのである。{{Harv|ブルーム|ブレア|2001|pp=270-271}}</ref>、絨毯など)のモチーフの源となっている<ref>''L'Étrange et le merveilleux en terres d'Islam''. [exposition musée du Louvre 23 avril - 23 juillet 2001] Paris : RMN, 2001. p. 176 - 179 pour le Shah Nama</ref>。特に、権力者たちは自分の伝記物語よりも『シャー・ナーメ』の豪華な写本を作らせるのが常であった<ref>{{Harvnb|桝屋|2009|pp=94,100}}</ref>。[[神秘主義]]の詩人[[サアディー]]と{{仮リンク|ジャーミー|fr|Djami}}の作品を表現したものも多い。14世紀初頭に宰相[[ラシードゥッディーン]]により編纂された『[[集史]]』(『歴史集成』)はイスラーム世界全体で数多くの表現の支えとなっている<ref>S. Blair, ''A compendium of chronicles : Rashid al-Din’s illustrated history of the world'', 1995</ref>。ペルシア語はムガル帝国やオスマン帝国でも宮廷語となっており、ペルシア文学の写本が作られた<ref>{{Harvnb|桝屋|2009|p=92}}</ref>。 |
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ペルシア語以外のものとしては<!-- La littérature arabe n'est cependant pas en reste et : 「しかしながらアラブ文学も借りっぱなしという訳ではなく」超訳 -->、『[[パンチャタントラ]]』のインド起源の寓話、{{仮リンク|アル=ハリリ|fr|al-Hariri}}の『{{仮リンク|マカーマ|fr|Maqâma}}』やその他のテクストに[[バグダード]]や[[シリア]]の工房で[[イラストレーション]]が施された。なお『[[千夜一夜物語]]』は879年までには原型が出来ていたが、イスラーム世界の歴史的な挿絵入り写本は現存しておらず、19世紀以降のものがあるのみである<ref>{{Harvnb|桝屋|2009|p=91}}</ref>。 |
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=== 抽象的なモチーフとカリグラフィー === |
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<!-- 加筆用メモ:文様については{{Harv|杉村|1999|pp=345-352}}(「イスラーム美術と文様」)、{{Harv|小林|2004|pp=127-142}}に記述あり。 --> |
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[[Image:Meknes Medersa Bou Inania Calligraphie.jpg|thumb|left|スルス体のカリグラフィー。[[モロッコ]]、[[メクネス]]]] |
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{{see also|イスラームの書法}} |
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<!-- {{main|イスラームの書法|イスラーム美術の装飾的モチーフ|アラブの幾何学文様}} |
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{{仮リンク|イスラーム美術の装飾的モチーフ|fr|Motifs décoratifs de l'art islamique}} |
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{{仮リンク|モジュールの概念|fr|Notion de module}} <!- [[Notion de module#Module et calligraphie arabe : de la formule d’atelier aux jeux de l’esprit|Notion de module]] -> |
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{{仮リンク|アラブの幾何学文様|fr|Figures géométriques arabes}} |
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--> |
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<!-- [[イスラム教]]は厳格な[[一神教]]であり、[[神]]を不可視のものと定めている為、イスラーム美術では神像、偶像の制作が忌避されており、その結果として抽象的・装飾的な美術表現が発達した{{要出典|date=2010年12月}}。:後段にも出て来ますが、そう簡単に図式化できるものでもないようです。 --> |
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こうした美術形式における抽象的・装飾的なモチーフは無数にあり、{{仮リンク|アラブの幾何学文様|fr|Figures géométriques arabes|label=幾何学文様}}から植物文様([[アラベスク]])<ref group="注">[[アラベスク]]は狭義には蔓草の連続植物文、広義にはイスラーム美術の文様全般を指す。いずれにしても西洋からの呼び方である。{{Harv|桝屋|2009|p=84}}</ref>まで極めて変化に富んでいる。[[クルアーン]]の章([[スーラ (クルアーン)|スーラ]])は神の言葉であると考えられているため、[[イスラームの書法|カリグラフィー]]はイスラーム世界では重要な、さらには神聖な活動であるとされている。また、生き物の姿を表現することは宗教的な場所や作品では認められていない。そのためカリグラフィーには宗教的な領域のみならず世俗的な作品においても特別な注意が払われている<ref>« Islam, les arts ». in ''Encyclopaedia Universalis''. T. 9. Paris, 1968. p. 182 - 184.</ref>。 |
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[[アラビア文字]]は神の文字と捉えられ、イスラーム美術において神像、偶像の代替的役割を果たした。アラビア文字はその視覚的特性からイスラーム美術の抽象的装飾とうまく調和し、イスラーム美術の重要な装飾要素のひとつと位置付けられている。装飾に用いられる文字文様は読解が困難であったり、文字に似せているだけ(倣文字文)であったりする場合もあり、必ずしも読まれることを前提とはしていなかった<ref>{{Harvnb|桝屋|2009|p=65}}</ref><ref>{{Harvnb|ブルーム|ブレア|2001|p=109}}</ref>。 |
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Image:Roof hafez tomb.jpg|{{仮リンク|ファーフェズ廟|en|Tomb of Hafez}}のドームの天井に描かれた幾何学文様 |
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Image:Saz-style panel Louvre OA3919-2-287.jpg|植物文様の装飾パネル。[[イズニク]]、16世紀後半 |
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Image:Vaseapothicaire.jpg|文字文様の施された壺。エジプト、16世紀 |
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</gallery> |
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<!-- WANTED: 6書体を一目で比較できる画像 --> |
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=== 人や動物の図像表現 === |
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[[Image:Mohammed kaaba 1315.jpg|thumb|『[[集史]]』の[[挿絵]](1315年頃)。[[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ|ムハンマド]](中央の人物)と[[メッカ]]の部族の長老たちが、[[黒石]]を[[カアバ]]へと運んでいる場面。ムハンマドの顔が描かれている。]] <!-- 英語版およびウィキメディア・コモンズで宗教的理由によると見られる除去や差し替えが行われる場合があるようですが、一時的なものですぐ対処されますのでこの画像(リンク)はそのままにしておいてください。 --> |
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[[Image:Siyer-i Nebi 151b.jpg|thumb|upright|『預言者伝』の写本(1595年、イスタンブル)。ムハンマドに光背が描かれ、顔にベールがかけられている。]] |
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<!-- === Les représentations figurées === --> |
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<!-- {{main|イスラーム美術における図像表現}} |
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{{仮リンク|イスラーム美術における図像表現|fr|Représentation figurée dans les arts de l'Islam}} |
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イスラーム美術には全く偶像が存在しないと考えられがちであるが、陶芸や写本芸術などでは数多くの人や動物の姿が表されている。クルアーンは偶像を禁じているが、これは神の姿を像に表し崇めることを禁じたもので、人間や動物を描くことを禁じたものではない。他方、[[ハディース]](ムハンマドの言行録)の中には、動物の姿を描くことを神への挑戦であるとして非難するものがある。よって、あらゆる領域において神の表現は行われないが、人間や動物を描くことはモスクなどの宗教的文脈でこそ忌避されても、世俗の領域では必ずしもそうではなかった<ref>{{Harvnb|小林|2004|pp=14-15}}; {{Harvnb|桝屋|2009|pp=8-9}}; {{Harvnb|メトロポリタン美術館|1987|p=12}}; {{Harvnb|杉村|1999|p=346}}</ref>。 |
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<!-- アナトリアのモスクには龍が描かれていたりするので、モスクにも全く存在しないとまでは言えないようです --> |
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{{Cquote|おお信ずる者たちよ! 酒、賭博、石(偶像)、矢(矢占い)は忌むべきサタンの業である。これらを避けよ、さすれば汝らは栄えるであろう。|4=『[[クルアーン]]』5章90節({{仮リンク|食卓 (クルアーン)|en|Al-Ma'ida|label=食卓の章}})}} |
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また[[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ|ムハンマド]]だけでなく[[イエス・キリスト|イエス]]やその他の[[旧約聖書]]に登場する[[預言者]]たちや、さらには[[イマーム]]たちの宗教的な図像も描かれることがあり、時代や地域によって顔に覆いがかけられていたりいなかったりする。ムハンマドは神ではなく預言者であり、よってクルアーンの偶像禁止とは関係せず、また当初は神格化もされなかった。時代が下ると共に光背や頭光が描かれるようになり、16世紀には顔にベールがかけられ、18世紀には姿全体を隠すことも行われるようになった<ref>{{Harvnb|桝屋|2009|pp=106-107}}</ref>。このように図像表現の問題は複雑なものであり、時代や地域による変遷もあるのでさらに理解は困難なものとなっている<ref>Voir Naef, Sylvia. ''Y a-t-il une « question de l'image » en Islam ?'' Paris : Tétraèdres, 2004</ref>。 |
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== 世界でのイスラーム美術の認識 == |
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=== イスラーム美術の歴史の歴史 === |
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<!-- {{main|イスラーム美術の歴史の歴史}} |
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{{仮リンク|イスラーム美術の歴史の歴史|fr|Histoire de l'histoire de l'art islamique}} |
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--> |
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ヨーロッパにおいては、[[中世]]に高価な物品(絹、天然水晶)を多数輸入していたため、古くからイスラーム美術が知られていた。こうした物品の多くが聖遺物箱に使用され、西洋の教会の宝物庫で保存されている<ref> [[ルーヴル美術館]]によれば、「(イスラームの)贅沢品は既にフランス王室のコレクションに加わっていた。現在美術品部門に展示されている、11世紀初頭にエジプトでカットされた天然水晶の美しい水差しはサン=ドニの修道院のSuger氏により寄贈されたものである。」Bernus-Taylor, Marthe. ''Les arts de l'Islam'' Paris : RMN, 2001. Voir aussi les objets du trésor de saint-Marc de Venise : ''Le Trésor de Saint Marc de Venise''. [expo Paris, Grand Palais, 1984.] paris : Réunion des musées nationaux, 1984.</ref><ref name="aiguiere">[http://www.louvre.fr/llv/oeuvres/detail_notice.jsp?CONTENT%3C%3Ecnt_id=10134198673226027&CURRENT_LLV_NOTICE%3C%3Ecnt_id=10134198673226027&FOLDER%3C%3Efolder_id=9852723696500909&baseIndex=11&bmLocale=ja_JP 向かい合う鳥の水差し:クーフィー書体の銘文 - 工芸品 | ルーヴル美術館]</ref>。初期のガラス器の完品の大部分はイスラーム世界ではなく教会の宝物庫に残っていたものである<ref>{{Harvnb|ブルーム|ブレア|2001|p=123}}</ref>。しかしながら、学問としてのイスラーム美術史はたとえば(西洋)古代美術史などよりも遥かに最近になって生まれた分野である。それに加え、考古学の分野ではイスラーム美術は、古代の層に達したいと望みそのため現代に近いものを荒らしてしまう考古学者たちによってしばしば犠牲にされている。 |
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19世紀に誕生し[[オリエンタリズム]]<!-- mouvement orientaliste: オリエンタリズム運動/東洋学運動 -->によって推進されたこの学問は世界的な政治・宗教上の出来事のために幾多の紆余曲折を経てきた。{{仮リンク|植民地化|fr|colonisation}}は一部の国々の研究に有利に働き、ヨーロッパとアメリカに複数のコレクションも誕生したが、完全に無視された時代地域<!-- des périodes -->も数多あった。後期オスマン帝国や[[ガージャール朝]]の美術がその典型で、今日ようやく再発見されつつある。 |
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西洋的なオリエンタリズムはイスラームの過去の1つの統一された黄金時代を見ようとし、他方で[[植民地主義]]から解放されたイスラーム諸国では{{仮リンク|汎イスラーム主義|en|Pan-Islamism}}と[[民族主義]]との相克があった<ref>{{Harvnb|ブルーム|ブレア|2001|p=6}}</ref>。また[[冷戦]]は研究と発見の伝播を妨げ、イスラーム美術の研究を大幅に遅らせた。 |
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日本へは7世紀末には[[唐招提寺]]舎利容器(国宝)としてイスラームのガラスが[[鑑真]]によりもたらされたほか、東大寺[[正倉院]]中倉に3点のイスラーム・ガラス器が収められている。中近世にも陶磁器、絨毯、織物は伝来を続けており、特に織物は[[名物裂]]として扱われた<ref>{{Harvnb|桝屋|2009|p=140}}</ref>。しかしながら学問としてのイスラーム美術の確立は遅く、2009年現在もイスラーム美術の講座を持つ大学は2-3校<!-- どこ? -->に過ぎない<ref>{{Cite journal|和書|author = 阿部克彦|year = 2009 |month = 1 |title = イスラーム美術と日本|journal = 国総研だより|volume = |issue = 20 |pages = p. 3 |publisher = 神奈川大学国際経営研究所|issn = |doi = |url = http://iibm.kanagawa-u.ac.jp/pdf/kkk020.pdf |accesdate = 2010-12-20 |format = PDF |quote = }}</ref>。 |
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=== イスラーム美術の主要なコレクション === |
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[[Image:Fragment bird Syria Louvre OA7512.jpg|thumb|鳥の描かれた陶片。シリア、13世紀初頭。[[ルーヴル美術館]]蔵]] |
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<!-- <!-- {{main|世界のイスラーム美術コレクション}} -- |
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{{仮リンク|世界のイスラーム美術コレクション|fr|Collections d'art islamique dans le monde}} |
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--> |
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他でもよくあるように、イスラーム美術の大規模なコレクションはイスラーム世界よりもむしろ西洋に多い。19世紀末の[[オリエンタリズム]]の隆盛や[[アーツ・アンド・クラフツ]]運動による手工業工芸品の再評価などにより優れたイスラーム美術のコレクションが欧米に形成された<ref>{{Harvnb|ブルーム|ブレア|2001|pp=413,417}}</ref>。具体的には[[ルーヴル美術館]]、[[メトロポリタン美術館]]、[[大英博物館]]、[[ヴィクトリア&アルバート博物館]]などがある。しかしながらイスラーム世界にも{{仮リンク|イスラーム芸術博物館|fr|musée islamique du Caire}}、{{仮リンク|カタール国立博物館|fr|musée National du Qatar}}などのコレクションが存在する。[[リスボン]]の[[カルースト・グルベンキアン財団]]とハリリ・コレクションも多くの作品を所蔵している。[[ワシントンD.C.]]の[[フリーア美術館]]のようなアメリカ合衆国の博物館にも美術品や写本<!-- fond: 「コンテンツ」? -->を有しているものがある。{{仮リンク|コーニング・ガラス博物館|en|corning Museum of Glass}}には世界で最も重要なイスラームのガラス作品のコレクション<!-- fonds -->がある。写本では、[[大英図書館]]や[[ビブリオテーク・ナショナル]]などの大図書館も重要で、東洋の写本のコレクションがかなり充実しているが、また博物館も写本の装飾されたページを保存している場合がある。 |
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<!-- コレクションがあるのは自明ですが、可能ならこれらの施設を挙げる根拠となる情報源が欲しいところです。 --> |
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日本にも陶器とテキスタイルを中心としたコレクションが存在し<ref>{{Harvnb|桝屋|2009|p=142}}</ref>、国内では[[中近東文化センター]]、[[東京国立博物館]]<!--東洋館第3室-->、[[国立民族学博物館]]、[[岡山市立オリエント美術館]]、[[MIHO MUSEUM]]などでイスラーム美術の一端に触れることができる<ref>{{Harvnb|小林|2004|pp=168-169}}; {{Harvnb|桝屋|2009|p=148}}<!-- の両方にあるものを中心に抜粋しました --></ref>。 |
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=== イスラーム美術の発掘現場 === |
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<!-- 仏語版由来ですが情報源なし。節としての維持が難しければ一度外しましょう --> |
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{{節stub}} |
{{節stub}} |
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<!-- {{main|イスラーム考古学}} |
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{{仮リンク|イスラーム考古学|fr|Archéologie islamique}} |
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--> |
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建築ならびに美術品の最も古い産品を求めて[[サーマッラー]]、[[スーサ]]、[[カイロ (エジプト)|カイロ]]などでイスラーム考古学が行われている。政治状況にもかかわらず、[[パキスタン]]から[[マグリブ]]に至るまでのイスラーム世界全域の重要な発掘現場で現在も発掘が行われている。 |
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== 脚注 == |
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<references /> |
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== 画像 == |
== 画像 == |
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<Gallery> |
<Gallery> |
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Image:Pyxid Al Mughira OA 4068.jpg|[[968年]]にサハラ地方で作られた陶磁器。[[ルーブル美術館]]所蔵。 |
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Image:Bassin Syrie 1.JPG|13世紀から14世紀の間に、シリアで作られた陶磁器のズーム。モチーフは[[ルイ9世 (フランス王)]]。ルーブル美術館所蔵。 |
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Image:Iskandar (Alexander the Great) at the Talking Tree.jpg|[[アレクサンドロス3世]]像。[[フレグ・ウルス]]期の作品。[[スミソニアン博物館]]所蔵。 |
Image:Iskandar (Alexander the Great) at the Talking Tree.jpg|[[アレクサンドロス3世]]像。[[フレグ・ウルス]]期の作品。[[スミソニアン博物館]]所蔵。 |
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Image:Kamal-ud-din Bihzad 001.jpg|ハマール・ウッディーン 像。1494年ごろの作品。[[大英博物館]]所蔵。 |
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Image:Tile panel flowers Louvre OA3919-2-297.jpg|[[イズニク]]で作られた[[タイル]]。[[オスマン帝国]]時代の16世紀の作品。ルーブル美術館所蔵。 |
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Image:Indischer Maler um 1580 001.jpg|[[1585年]]頃のムガール美術の傑作。 |
Image:Indischer Maler um 1580 001.jpg|[[1585年]]頃のムガール美術の傑作。 |
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</gallery> |
</gallery> |
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--> |
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== 脚注 == |
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<!-- 「注釈 + 出典」の形のものをどちらに入れるかは迷うところ。注記があっても本文の記述を支える情報源があれば「出典」の方にしています。 --> |
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=== 注釈 === |
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{{脚注ヘルプ}} |
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{{Reflist|2|group="注"}} |
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=== 出典 === |
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{{脚注ヘルプ}} |
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{{Reflist|2}} |
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== 参考文献 == |
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<!-- {{see also|:fr:Bibliographie détaillée concernant l'art islamique}} --> |
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* {{Citation |
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|editor-last=Hattstein |
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|editor-first=Markus |
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|editor-last2=Delius |
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|editor-first2=Peter |
|||
|year=2000 |
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|title=Arts et civilisations de l'Islam |
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|place= |
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|language=フランス語 |
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|publisher=Könemann |
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|isbn= |
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}} |
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* {{Citation |
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|year=1960 |
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|title=Encyclopédie de l'Islam |
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|language=フランス語 |
|||
|edition=2e |
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|publisher=Brill |
|||
|isbn= |
|||
}} |
|||
*: 『[[イスラーム百科事典]]』第2版の仏語版。 |
|||
* {{Citation |
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|last=Bosworth |
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|first=C.E. |
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|author2= trad. Y. Thoraval |
|||
|year=1996 |
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|title=''Les Dynasties musulmanes'' |
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|series=« Sinbad » |
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|language=フランス語 |
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|publisher=Actes sud |
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}} |
|||
* {{Citation |
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|last=Grabar |
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|first=Oleg |
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|author-link=オレグ・グラバール |
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|year=1973 |
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|title=The Formation of Islamic Art |
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|language=英語 |
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|publisher=Yale University Press |
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|place=New Haven, London |
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|isbn=978-0-30001505-8 |
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}} |
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** {{Citation |
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|last=Grabar |
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|first=Oleg |
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|author-link=オレグ・グラバール |
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|author2=trad. Yves Thoraval |
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|year=2000 |
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|title=La Formation de l'art islamique |
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|language=フランス語 |
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|publisher=Flammarion |
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|isbn=978-2-08081645-0 |
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* {{Citation |
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|last=Blair |
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|first=Sheila |
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|last2=Jonathan |
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|first2=Bloom |
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|year=1994 |
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|title=The art and architecture of Islam 1250-1800 |
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}} |
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* {{Citation |
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|author=R. Ettinghausen |
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|author2=O. Grabar |
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|author2-link=オレグ・グラバール |
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|author3=M. Jenkins-Madina |
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|year=2001 |
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|title=Islamic Art and Architecture 650–1250 |
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}} |
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* {{Citation |
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|author=R. Hillenbrand |
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|year=1994 |
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|title=Islamic architecture : form, function and meaning |
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|language=英語 |
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|publisher=Edinburgh university press |
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|isbn=978-4- |
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}} |
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* {{Citation |last=ブルーム |first=ジョナサン |last2=ブレア |first2=シーラ |author3=桝屋友子(翻訳)<!-- translator引数が欲しい --> |year=2001 |date=2001-03-26 |title=岩波 世界の美術 イスラーム美術|place=東京|publisher=[[岩波書店]] |isbn=4-00-008925-0 |ref=CITEREFブルームブレア2001}} |
|||
*: 447ページ、フルカラー。{{仮リンク|ファイドン出版社|en|Phaidon Press}}による美術書シリーズの訳書。イスラームの歴史をこの記事と同様の3つの時代に大別し、それぞれの時代の建築・写本・織物・装飾美術を章立てして解説。 |
|||
* {{Citation|last=桝屋|first=友子|author=桝屋友子|year=2009|date=2009-10-20|title=すぐわかるイスラームの美術 建築・写本芸術・工芸|place=東京|publisher=[[東京美術]]|isbn=978-4-8087-0835-1}} |
|||
*: 151ページ、フルカラー。{{Harvnb|ブルーム|ブレア|2001}}の訳者による入門用の小著。重要な概念と作品を多数の図版つきでコンパクトに押さえている。この記事の訳語は主にこの本から採った。<!-- ブルーム&ブレア(2009)の便利なまとめといった本です。 --> |
|||
* {{Citation |last=小林|first=一枝|year=2004 |date=2004-08-25 |title=『アラビアン・ナイト』の国の美術史——イスラーム美術入門|place=東京|publisher=[[八坂書房]] |isbn=4-89694-845-9 }} |
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*: 169ページ。『[[千夜一夜物語]]』の引用を解説する形で分野別に章立てしイスラーム世界の文化と美術を解説。 |
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* {{Citation |
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|author=メトロポリタン美術館 |
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|year=1987 |
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|date=1987-10-01 |
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|title=メトロポリタン美術全集 第10巻 イスラム |
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|place=東京 |
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|language= |
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|publisher=[[福武書店]] |
|||
|isbn=4-8288-1510-4 |
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}} |
|||
*: 180ページ、フルカラーの大型美術書。同美術館の所蔵品の写真とその解説(従って建築にはほとんど触れていない)。ステュアート・キャリー・ウェルチによる序文「イスラムの美術」(pp.7-19)あり。 |
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* {{Citation |
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|editor-last=杉村 |
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|editor-first=棟 |
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|year=1999 |
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|date=1999-08-20 |
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|title=イスラーム |
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|series=世界美術大全集 東洋編 |
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|volume=第17巻 |
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|place=東京 |
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|language= |
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|publisher=[[小学館]] |
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|isbn=4-09-601067-7 |
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}} |
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*: 466ページの大型美術書。主要な王朝・帝国別に章立てし、潤沢な図版と共にイスラーム美術全体を解説。代表的な作品の大部分を申し分のない品質で見ることができる。ムガル帝国は対象外(第14巻)。 |
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* {{Citation |
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|last=深見 |
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|first=奈緒子 |
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|year=2003 |
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|date=2003-07-10 |
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|title=イスラーム建築の見かた |
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|place=東京 |
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|language= |
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|publisher=[[東京堂出版]] |
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|isbn=4-490-20481-1 |
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}} |
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*: 191ページ。イスラーム建築を構成する[[ドーム]]・[[ミナレット]]・[[ミフラーブ]]・[[ムカルナス]]などの要素で章立てし、その建築的特性とイスラームにおける意味を解説。 |
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* {{Citation |
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|editor-last=三上 |
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|editor-first=次男 |
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|year=1986 |
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|date=1986-01-10 |
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|title=世界陶磁全集 21 世界(二) |
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|place=東京 |
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|language= |
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|publisher=[[小学館]] |
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|isbn=4-09-641021-7 |
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|url=http://www.shogakukan.co.jp/books/detail/_isbn_4096410217 |
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}} |
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*: 299ページの大型美術書。多数のカラー写真と共にイスラーム陶器全体を通説。年表と文献目録あり。<!-- 索引がないのが残念。 --> |
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* {{Citation |
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|last=クーパー |
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|first=エマニュエル |
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|year=1997 |
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|date=1997-10-01 |
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|title=世界の陶芸史 |
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|place=東京 |
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|language= |
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|publisher=日貿出版社 |
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|isbn=4-8170-8011-6 |
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}} |
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*: 南雲龍比古訳、345ページ。pp.99-122がイスラーム時代の中近東に割かれているほか、イスラーム以前のこの地域の陶芸についてもpp.26-38で触れている。 |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
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<!-- 相補的な関係にある記事および、本文に盛り込めなかった記事のみにしてください。多くなるようなら{{イスラーム美術}}の導入を考えましょう。cf. [[fr:Modèle:Art islamique]] --> |
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*[[イスラム教]] |
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* [[イスラーム建築]] |
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* [[イスラームの書法]] |
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* [[イスラームの陶芸]] |
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* [[イランの芸術]] |
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* [[ムガル絵画]] |
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* [[ビザンティン美術]] |
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* [[イスラム世界]] |
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* [[イスラム帝国]] |
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* [[イスラム教]] |
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== 外部リンク == |
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{{Link FA|fr}} |
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{{commonscat|Islamic art}} |
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* {{en icon}} {{dmoz|Arts/Periods_and_Movements/Islamic/|イスラーム美術}} |
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* {{fr icon}} [http://www.louvre.fr/llv/oeuvres/detail_departement.jsp?FOLDER%3C%3Efolder_id=1408474395181063&CURRENT_LLV_DEP%3C%3Efolder_id=1408474395181063&FOLDER%3C%3EbrowsePath=1408474395181063&bmUID=1133344701309 ルーヴル美術館のイスラム部門] |
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** {{ja icon}} [http://www.louvre.fr/llv/oeuvres/detail_departement.jsp?FOLDER%3C%3Efolder_id=1408474395182003&CURRENT_LLV_DEP%3C%3Efolder_id=1408474395182003&FOLDER%3C%3EbrowsePath=1408474395182003&bmLocale=ja_JP イスラム美術 | ルーヴル美術館] <!-- 仏語版より情報量は落ちます --> |
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* {{en icon}} [http://www.metmuseum.org/Works_of_Art/department.asp?dep=14 メトロポリタン美術館のイスラーム美術部門] |
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* {{fr icon}} {{en icon}} {{es icon}} {{ar icon}} [http://www.qantara-med.org/qantara4/index.php Qantara, 地中海美術のデータベース] |
|||
* {{fr icon}} [http://www.clio.fr/BIBLIOTHEQUE/la_premiere_peinture_arabe_image_des_paradis_profanes.asp 最初期のアラブ絵画、世俗的な天国のイメージ] - [[フランス国立科学研究センター]]の名誉研究ディレクター、{{仮リンク|ジャン=ポール・ルー|fr|Jean-Paul Roux (historien)}}による |
|||
<!-- * {{ja icon}} [http://www.tnm.go.jp/jp/servlet/Con?pageId=B06&processId=01&event_id=4155&event_idx=1&dispdate=2007/10/02 西アジア・エジプトの考古美術] - [[東京国立博物館]] web展示には見るべきものなし --> |
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{{DEFAULTSORT:いすらむひしゆつ}} |
{{DEFAULTSORT:いすらむひしゆつ}} |
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69行目: | 801行目: | ||
[[Category:宗教美術]] |
[[Category:宗教美術]] |
||
[[Category:東洋美術史]] |
[[Category:東洋美術史]] |
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{{Islam-stub}} |
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{{Link FA|fr}} |
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{{Link FA|sq}} |
{{Link FA|sq}} |
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2011年1月18日 (火) 17:44時点における版
この項目「イスラム美術」は翻訳されたばかりのものです。不自然あるいは曖昧な表現などが含まれる可能性があり、このままでは読みづらいかもしれません。(原文:仏語版 "Arts de l'Islam" 27 novembre 2010 à 23:49 CET) 修正、加筆に協力し、現在の表現をより自然な表現にして下さる方を求めています。ノートページや履歴も参照してください。(2010年12月) |
秀逸な記事 |
ポータル・イスラーム |
イスラーム美術もしくはイスラム美術は、ヒジュラ(西暦622年)以降現代に至るまでの、スペイン、モロッコからインドまでに亘る「イスラーム教徒の君主が支配する地域で生み出された美術作品、もしくはイスラーム教徒のためにつくられた作品」[1]を指す。
域内での芸術家、商人、パトロン、そして作品の移動のために、イスラーム美術はある程度の様式的な一体性を見せる。イスラーム世界全域で共通の文字が用いられ、特にカリグラフィーが重用されることが一体感を強めている。装飾性に注意が払われ、幾何学的構造や装飾で全体を覆うことが重視されるといった共通の要素も際立っている[2][3]。しかし、形式や装飾には国や時代によって大きな多様性があり、そのためにしばしば単一の「イスラーム美術」よりも「イスラームの諸美術」として捉えられる。オレグ・グラバールによれば、イスラームの美術は「芸術的創造の過程そのものに対する一連の姿勢」によってしか定義され得ぬものであった[4]。
建築においては、モスクやマドラサのような特定の役割を持つ建物が非常に多様なフォルムで、しかしながらしばしば同一の基本構造に従って建設された。彫刻はほとんど存在しないが、金属、象牙、陶器などの工芸はしばしば極めて高い技術的完成にまで達した。聖俗双方の書物の中に見られる絵画とミニアチュールの存在も無視できない。
イスラームの美術は厳密に言えば宗教的なものではない——ここでの「イスラーム」という言葉は宗教ではなく、文明として捉えられる[注 2]。「キリスト教美術」や「仏教美術」のような概念とは異なり、「イスラーム美術」において直接に宗教美術が占める部分は比較的小さなものである[5]。また通念とは異なり、実際には人間、動物、さらにはムハンマドを表現したものも存在する。多少の例外はあるが、これらは宗教的な場所や作品(モスク、マドラサ、クルアーン)においてのみ禁止されていたに過ぎない[6]。
「イスラーム美術」という概念
この領域の呼称の問題は、研究の初期から難しいものであり続けてきた。19世紀のヨーロッパでは「アラブ美術」「ペルシア美術」「トルコ美術」「サラセン美術(とりわけ「サラセン様式」という呼称として)」「ムーア美術」のように地理や民族により個別に名付けられていたものが、19世紀末にはオリエント学を背景に1つの「イスラーム美術」もしくは「ムスリム美術」として捉えられるようになった[7]。「マホメット美術」「ムスリム美術」のような宗教的な呼称は、「キリスト教美術」や「仏教美術」の場合と異なりイスラム教が礼拝のための聖像や聖具を持たず、作品の相当な部分が世俗的なものであったことから不適切であり[8]、「イスラーム」という語が、その宗教的でなく文化的な受け取られ方により、20世紀後半には好まれるようになった。
しかしながら、そのような美術の一体性の問題は微妙なものであり続け、たとえばオレグ・グラバールは『イスラーム美術の形成』においてこれに疑問を投げ掛けている。このため美術史家は「イスラームの諸美術」(arts de l'Islam)という表現を好むようになりつつあるが、「イスラーム美術」(art islamique)という表現も依然として頻繁に出版物に見られる[注 3]。ジョナサン・ブルームとシーラ・ブレアは、「イスラーム美術」という考え方自体がイスラームの側からではなく、その外部の人々によって作り出された「明らかに現代的な概念」であると指摘している[9]。
イスラーム美術の歴史
イスラーム美術の始まり(7-9世紀)
ムハンマドと共に生まれたイスラームはムハンマドの死後1世紀の間に後継のカリフたちの下で急速に版図を拡大し、西はイベリアから東はサマルカンドに至るまでの広大なイスラーム帝国が成立した[10]。
王朝時代以前
ウマイヤ朝以前の建築についてはあまり分かっていない。最初の、そして最も重要なイスラーム建築は恐らくマディーナにかつてあったとされる預言者の家であろう。イスラム教ではどこででも祈りを捧げることができると考えられているが、この半ば伝説的な建物はムスリムたちが祈るために集まった最初の場所であったろうと思われる。
預言者の家は、多柱式の礼拝空間、礼拝の方向を示すキブラ、人々を酷暑から守る日陰という3つの要素を持つ、イスラーム建築におけるモスク(マスジド、「平伏の場所」)の原型となった[11]。祈りへと適用されたこの形式は無から生まれたわけではない——フサ寺院(イエメン、2世紀)もしくはドゥラ・エウロポスのシナゴーグ(245年に改修)が発想の源となっていた可能性がある[12]。腐食しやすい建材(木材と練土)で建てられていたため預言者の家が残っていた期間は短かったが、アラブの史料で詳しい描写が行われている[13]。こうした叙述はかなり後の時代になってなされたもののため、どの程度実物に忠実であるのかは明らかではない[14]。現在、預言者の家の跡地と推測される場所には預言者のモスクが建っている。
イスラームの初期の物品をそれより前のサーサーン朝、東ローマ帝国などのものと区別することは非常に難しく、これはウマイヤ朝に関してもそうである。実際、イスラム教は、美術に乏しかったと思われる[15] が、美術品の産出で知られる諸帝国に取り囲まれていた地域で誕生した。初期のイスラームの芸術家たちが近隣諸国と同じ技法とモチーフを用いたのはこのためである[16]。釉を施さない陶器の大量の産出が知られており、銘からイスラーム時代のものと特定できるルーヴル美術館蔵の有名な小碗もそのことを示している[17]。この碗はイスラーム以前からイスラーム世界への移行を辿ることの出来る数少ない発掘地点から出土した——イランのスーサである[18]。
ウマイヤ朝
ウマイヤ朝では宗教的および世俗的な建築が共に新しいコンセプトと様式を伴って発展した。中庭と多柱式の礼拝室からなるアラブ・プラン[19]は、ダマスカスの最も神聖な場所——古代のユピテルの寺院があった場所に洗礼者ヨハネのバジリカが建てられていた——にウマイヤド・モスクが建設されてから真に典型的なプランとして確立された。この大建築は建築者たち(と美術史家たち)にとってアラブ・プランの誕生を知らせる目印となっていった。しかしながら、ミリアム・ローゼン=アヤロン[訳語疑問点]による最近の研究では、アラブ・プランは堅材でできた初めてのモスクであったアル=アクサー・モスクの建設と共に生まれたものではないかとしている[20]。
エルサレムの岩のドームは疑いなくイスラーム建築全体を通じ最も重要な建築物の1つであり、ビザンチンの強い影響が見られるが(金地のモザイクや、聖墳墓教会のものを想起させる中央部のプランなど)、クルアーンの書かれた銘文を伴う250mに亘るフリーズのような純粋にイスラーム的な要素も既に含んでいた[21][22]。しかしながら、そのモデルは発展を見ず、グラバールが「偉大な美的創造物たらんとしたイスラーム世界で最初の建造物」であるとした[23]この作品の流れを汲むものは出現しなかった[24]。
パレスチナの砂漠の城(砂漠の離宮とも)の数々は、その正確な機能については諸説があるが、世俗・軍事的な建築に関する多くの情報を伝えてくれる。キャラバンサライ、保養地、要塞化した住居、あるいはカリフと遊牧諸民族との会見を可能にする政治的目的を持つ宮殿など、その機能は専門家たちも確定できておらず、場所によって用途も違ったのであろうと思われる[25][26]。アンジャルの街の遺跡はその全体が、ラムラのようにまだ古代ローマのものに非常に近くカルドゥスとデクマヌス[注 4]を伴う都市計画の類型を伝えている[27]。
建築のほか、職人たちは陶器(無釉であることが多い[28]が、緑もしくは黄色の単色透明な釉が施されることもあった)や金属の工芸も行った。職人たちは西洋(唐草文様やアカンサス葉飾りなど)やサーサーン朝(兜から取られた翼のモチーフ)の要素を再利用しており、こうした美術品をイスラーム以前の時代のものと区別することは非常に難しい[29]。
建築においても工芸品においても、ウマイヤ朝の芸術家や職人たちは新しい語彙を作り出すということはせず、地中海とイランの古代後期の語彙を進んで再利用し、例えばダマスカスの大モスクではモデルとなったビザンチン様式のモザイクの装飾的な諸要素を樹木と街に置き換えて自分たちの芸術概念へと適合させている。とりわけ「砂漠の城」はこうした借用の良い証言となっている。諸伝統を混淆させ、建築のモチーフや要素を再適用しながら徐々に、建造物のみならず工芸品や装飾クルアーンにも見られるアラベスクの美学でとりわけ明瞭となっているような[30]イスラーム特有の美術を作り出していったのである[31][32]。
アッバース朝
- 歴史時代:アッバース朝
- 主要な作品と建造物: カイラワーンの大モスク、ラスター彩
権力の中心地が東に遷ると共に、2つの都市が相次いで首都の役割を果たすようになり歴史の前面に出て来る——イラクのバグダードとサーマッラーである。バグダードの街は現代の建物に覆われているので発掘調査を行うことはできていない。円形をした街で、その中央には大きなモスクと宮殿が建っていたと複数の情報源が描写している。他方、サーマッラーはエルンスト・ヘルツフェルトやより最近ではアラステア・ノーセッジによるものなど複数次の発掘調査の対象となっている。836年にアル=ムウタスィムによりほぼ「無から」建設されたサーマッラーは長径約30kmにも及び[訳語疑問点]、数多くの宮殿、2つの大モスクおよび兵営があった。892年のアル=ムウタミドの死と共に完全に放棄されたため、年代学上の信頼できる目印となっている[33]。アッバース朝の建築にはティグリス川・ユーフラテス川の堆積土で作られた風化しやすいレンガが用いられていたため、当時の姿を知ることは難しい[34]。
サーマッラーからは膨大な備品類、とりわけ建築の装飾となっていたスタッコ(化粧漆喰)が発見されており、そのモチーフは建物の年代決定をある程度可能にした[35]。これらのモチーフはエジプトのトゥールーン朝からイランに至るまでの工芸品、特に木製のものにもまた見出される[注 5]。
陶芸ではファイアンス焼きと金属光沢(ラスター彩)の発明という2つの大きな革新があり、これらは王朝が消滅した後には陶工の移動によりカイロなど別の諸地域の諸王朝で再び見出されるようになる[36][37]。イスラームでの「ファイアンス」は胎土に不透明な酸化錫の釉を施し、その上に装飾した焼き物を指す。この時代には中国の磁器を模倣したものが広がった[38]。磁器に必要な胎土であるカオリンが入手できなかったため薄くすることはできなかったが[39]、8世紀以降スーサで使われるようになった酸化コバルトの青[40]で白釉に彩色する白地藍彩が可能となったのである[41]。モチーフのレパートリーは植物や銘文など限られたもののままであった[42]。
ラスター彩は9世紀に、恐らくはガラス工芸で既に存在していたものが陶芸に移し替えられて誕生したもののようである[43]。この発明の年代の特定や、最初の数世紀の歩みを跡付けることは非常に難しく、複数の論争の的となっている。最も優勢な意見によるならば、最初期のラスター彩は多色で、人や動物の形を全く取らぬものであったが、10世紀からは単色で具象的なものへと変化していったと考えられており、これは部分的にはカイラワーンの大モスクのミフラーブを根拠としている[44]。
鋳型での吹き込み形成、もしくは部品の追加により装飾された透明もしくは不透明のガラス細工もまた生産されていた[45]。カットガラスの例も複数が知られており、その中で最も高名なのはおそらくヴェネツィアのサン・マルコ寺院の宝物庫に保存されている「野兎の杯」であろう[46]。またカットガラスによる建築装飾がサーマッラーで発見されている。
中世(9-15世紀)
9世紀以降、アッバース朝権力は中央イラクの僻地で抵抗を受けるようになる。それはファーティマ朝と後ウマイヤ朝という敵対するシーア派のカリフ制の誕生として具現化し、また同時期にイランでは自治的な統治者の諸小王朝が誕生した。境界の安定せぬ細分化された勢力がせめぎあい、権力と権威の確保が共通する政治課題であった[47]。
スペインとマグリブ
- 歴史時代:後ウマイヤ朝、タイファ時代、ムラービト朝とムワッヒド朝のスルターン治世、ハフス朝、ザイヤーン朝、ナスル朝、マリーン朝
- 主要な作品と建造物:コルドバの大モスク(メスキータ)、クトゥビーヤ・モスク、アルハンブラ宮殿
スペイン(もしくはアンダルス)に定着した最初の王朝は後ウマイヤ朝であった。その名の示すように、この王統は9世紀に虐殺されたシリアのウマイヤ朝の末裔である。後ウマイヤ朝は諸々の自治的な王朝(タイファ:1031-1091年)の台頭により瓦解したが、この政治的変動により美術作品が根本的に変化するということはなかった。11世紀末には、レコンキスタのただ中にあって、ベルベル人の2つの部族が相続いてマグリブとスペインを支配した——ムラービト朝とムワッヒド朝であり、両者は美術にマグリブの影響をもたらした。しかしながら、キリスト教の諸王により徐々に征服され、14世紀にはイスラーム支配のスペインはグラナダのナスル朝のみとなり、1238年にこの街を首都としたナスル朝は1492年まで存続した[48]。
マグリブにおいては、ムワッヒド朝の後継となったのはハフス朝(1230年)、ザイヤーン朝(1235年)、マリーン朝(1258年)であった。マリーン朝は、その首都であるフェズを出発点に、スペインのみならずチュニジアでも数多くの軍事遠征に加わったが、チュニジアにしっかりと根を下ろしていたハフス朝を追い出すには至らなかった。ザイヤーン朝はナスル朝と密な交易を行っており、またアラゴン連合王国およびマリーン朝とも同盟を結んでいた[49]。マリーン朝は15世紀には衰退を始め、1549年にはシャリーフたちにより完全に取って代わられた。ハフス朝は1574年にトルコのオスマン帝国により征服された[50]。
アンダルスは中世に偉大な文化が栄えた地であった。イブン=ルシュドのものなど、西洋世界では知られていなかった哲学や科学の広がりを可能にした大きな大学の数々のほか、この地はまた美術にも富んでいた。建築ではコルドバの大モスクがすぐに思い浮かぶであろうが、トレドのバブ・マルドゥムやカリフの都メディナ・アサーラなどもそれに劣らず重要である。この時代の傑出した建築としてはグラナダのアルハンブラ宮殿もある。西ゴート族、さらにはローマをモデルとした半円アーチのフォルム[51]に代表されるような数々の特徴はスペイン建築の特色を示しているが、同様に頻繁に使用される多弁形のアーチはイスラーム時代の典型的な特徴のようである。ミフラーブを小さな部屋として扱うのもスペインの特徴である[52]。
工芸ではさまざまな技法が凝らされた。後ウマイヤ朝の北アフリカ進出に伴い象牙が入手しやすくなったことから象牙細工が発展し、
精緻な箱や宝石箱がカリフ一族など富裕層のために作られた[53]。中でもムギーラの小箱が傑作であり、精緻な浮彫で4つの場面が描かれているが、その図像の意味は詳らかにはなっていない[54][55]。
イスラーム圏ではどちらかと言えば稀であった大きな丸彫り彫刻[56]も日の目を見た。金属製の丸彫りは水盤や噴水の吐水口として[注 6]、石製の丸彫りは例えばアルハンブラ宮殿の「獅子の噴水」の支えとして用いられた。
織物、特に絹は大部分が輸出された。その多くの例が西洋の教会の宝物庫で、聖人たちの骸骨を包む布として再発見されている[57]。焼き物では、「伝統技術」が駆使され、とりわけラスター彩が化粧板や一連の「アルハンブラの壺」に用いられた[58]。マグリブ人の諸王朝による支配を受けてからは、彫刻と彩色の施された木工芸への趣味も見られるようになる。1137年のものとされるマラケシュのクトゥビーヤ・モスクのミンバル(説教壇)はその最良の例の1つである[59]。
北アフリカの建築については、脱植民地化以降に研究が行われなかったためあまり知られていない。ムラービト朝とムワッヒド朝は、裸の壁を持つモスクなどから窺い知れるような簡素さの探求が特徴となっている。マリーン朝とハフス朝は重要だがほとんど知られていない建築様式や、彩色・彫刻・象嵌を施した木工芸を生み出した[60]。
エジプトとシリア
909年から1171年までエジプトを支配したファーティマ朝はイスラーム世界で数少ないシーア派王朝の1つであった。ファーティマ朝は909年にイフリーキヤで誕生し、969年にはエジプトに到達しフスタートの北にカイロに首都を建設した(フスタートも経済の中心地であり続けた)。ファーティマ朝は聖俗の重要な建築様式を生み出し、アル=アズハルとアル=ハキムのモスクや、宰相バドル・アル=ジャマリが建設したカイロの城壁などが残存している。また木、象牙、釉の下にラスター彩と彩色を施した焼き物、金銀、象嵌した金属、不透明ガラス、それからとりわけ天然水晶など、最も多様な素材による美術品の豊かな産出の源でもあった。当時の職人には多数のキリスト教徒のコプト人が含まれており、キリスト教の図像を持つ数多くの作品がそのことを裏付けている[61]。とりわけ寛容であったファーティマ朝の治世下ではキリスト教徒が多数を占めていたのである。その美術は豊かな図像が特徴となっており、人間と動物の姿が活き活きとした表現で多用され、ラスター彩の陶器に施された目玉文様のような純粋に装飾的な要素であることからは解放される傾向にあった[注 7]。地中海沿岸、とりわけビザンチンの文化との商業的接触により技法と様式の両面で豊かなものとなったのである。また丸彫り彫刻を(多くの場合ブロンズで)作らせた数少ない王朝の1つでもあった[62]。
同時期にシリア[注 1]では、セルジューク朝の王子たちの養育係的な存在であるアタベクたちが権力を簒奪していた。独立独歩のアタベクたちは王子たちの間の反目に乗じ、また大半はフランク人の十字軍騎士の定住を甘受した。1171年にサラーフッディーンがファーティマ朝のエジプトを占領し、短命な王朝となるアイユーブ朝を創設した[63]。建築にとってはあまり良い時代ではなかったが、それでもカイロの街の防衛施設の修繕と改良は行われた。高級品の生産も途切れた訳ではなかった。釉の下にラスター彩や彩色を施した焼き物や、高品質な象嵌した金属工芸の生産は続けられ、12世紀末には揃い物のゴブレットや特に瓶などのエナメル装飾を施したガラスも出現した[64]。
マムルークたちが1250年にはエジプトでアイユーブ朝から権力を奪い、1261年にはシリアでモンゴル人と戦いその価値を認めさせた。君主の世襲が行われた訳ではなかったので、マムルーク朝は厳密な意味では王朝ではない。事実、マムルークたちはトルコの解放奴隷であり、(理屈上は)権力を解放奴隷の仲間同士で引き継いだ。この特異な政体は1517年までの3世紀弱に亘って続き、スルタンもしくは首長による巨大な総合施設からなる豊かな石造建築の様式が特にカイロで実現することになる。スルタンの地位が不安定であったため支配権を保つには多くの施設を寄進せざるを得ず、この時期には幾千もの建物が建造された[65][66]。装飾は概してアブラクの技法に沿って色取り取りの石を嵌め込むことや放射状の幾何学文様を持つ寄せ木細工を木部に施すことで行われた。エナメル彩のガラスや象嵌した金属工芸も庇護の対象となり、各地に輸出された[67]。真鍮製品製造者ムハンマド・イブン・アル=ザインの署名がある、イスラームの美術品で最も高名なものの1つである聖ルイ王の洗礼盤はこの時代のものと推定されている[68]。
イランと中央アジア
10世紀のイラン[注 1]とインド北部では、ターヒル朝、サーマーン朝、ガズナ朝、ゴール朝が覇権を争った。そのため美術は隣人から抜きん出るための不可欠な手段となっていた。ニーシャープールやガズニーのような大きな街が建設され、また現在の形のエスファハーンの金曜モスクが作られたのもこの時期である。墳墓建築が発達し、また陶工は黄色の地に万華鏡のような装飾や、有彩の釉薬の流れた跡や釉の上と下の双方に施されたスリップ(エンゴーベ)で構成された碧玉文様の装飾を施し1つ1つが大きく違う作品を作り出した[69]。
トルコ(現在のモンゴル国も含む)を起源とする遊牧民であったセルジューク朝が10世紀の終わり頃にイスラーム世界に急激に広がった。セルジューク朝は1048年にバグダードを占領し、1194年にはイランにおいては滅亡したが、その名を持つ品物の生産が12世紀末から13世紀初頭にかけても行われており、これは独立したより小規模な君主たちのためのものだったのであろう。中庭の4辺にイーワーンを持つイラン・プランのモスクが初めて出現したのはセルジューク朝時代であった[70][71]。石英の粉に白い粘土と釉薬の粉を混ぜた人工胎土(ストーン・ペースト)により陶器を白く薄く作ることが可能になり[72][注 8]、カーシャーンでは色彩豊かなミーナーイー手もしくはハフト・ランギの陶器が作られペルシア陶器は黄金期を迎えた[73]。またブロンズに貴金属を象嵌することも行われた[74]。
13世紀には中央アジアからの新たな侵略の波がイスラーム世界に襲来し、ウィーンの城門にまで到達した——チンギス・カンの率いるモンゴルである。チンギス・カンが死ぬと、その帝国は息子たちによって分割され、いくつもの支流が生まれた。中国においては元、イランにおいてはイルハン朝であるが、イラン北部は「黄金のオルド」(ジョチ・ウルス)の遊牧民らが支配した。
イルハン朝
- 歴史時代:イルハン朝
最初は元の皇帝に従属していたが急速に独立したものとなっていった「小ハーン」たちの下で、豊かな文明が発達した。モンゴル人たちが定住化するにつれ建築活動も活発になっていったが、遊牧民の伝統の跡も多少なりとも残り、それは建物を南北に向けることなどに現れた[75]。しかし著しいペルシア化や、イラン・プランとして既に確立されていた形式の再来もまた見られる。ソルターニーイェにあるオルジェイトゥの墓はイランで最も大きく堂々とした建造物の1つであるが、破壊が夥しい。宰相ラシードゥッディーンの命により編纂された『集史』のような重要な写本を通じてペルシアの写本芸術が誕生したのもこの王朝の下であった[76]。陶芸ではラージュヴァルディーナ彩やスルターナバード彩をはじめとするさまざまな新技法が出現した[77]。イルハン朝の工房は多民族の職人で構成されていたが、モンゴル人は中国の文物に慣れ親しんでいたため美術のあらゆる分野に中国の影響が見出される[78][79]。
「黄金のオルド」
これら遊牧民の美術については極めて僅かしか知られていない。ようやく関心を向けはじめた研究者たちは、これらの地域に都市計画と建築が存在していたことを発見した。金銀細工も大いに発展しており、その作品の大部分には中国からの強い影響が見られる。サンクトペテルブルクのエルミタージュ美術館に所蔵されているこれらの作品はようやく研究されはじめたばかりである[要出典]。
遊牧民からの3度目の侵略はティムールの軍勢によるもので、これは中世イラン3番目の重要な時代を打ち立てた——ティムール朝である。15世紀におけるこの王朝の発展に伴い、特にヘラートへの遷都後にはビフザードらの画家や、数々の中心地と庇護者たちによってペルシアの写本芸術は頂点に達した[80] [81]。サマルカンドの建造物などを通して知られるペルシアの建築と都市計画もまた黄金時代を迎えた。タイルによる装飾やムカルナスのドームがとりわけ見事である。写本芸術および中国の美術の強い影響が他のあらゆる領域で見出される。ティムール朝時代における写本芸術とペルシア美術の結び付きは後のサファヴィー朝の大帝国におけるペルシア美術の飛躍を可能にした要素の1つである。
アナトリア
拡大を続けるセルジューク朝トルコはアナトリア半島にまで征服の手を伸ばした。1071年のマラズギルトの戦い後、アナトリアのセルジューク朝はイランのものとは独立したスルタン国を形成した。モンゴルの侵攻を受け、その権力は1243年には消滅したものと思われるが、その名を冠した硬貨は1304年まで鋳造され続けていた。イランやシリアのさまざまな様式を折衷した建築や美術品は帰属の決定が困難である場合も多い。木工芸が主要な美術分野の1つとなっており[82][83]、またこの時代のものとされる傑出した装飾写本も知られている[84]。建築では通商路にキャラバンサライを充実させ、建築装飾には人物や鳥獣などの具象的なモチーフが多く用いられた[85]。
ヴァン湖周辺の地域で遊牧生活を営んでいたトルクメン人については極めて僅かしか知られていない。しかしながらタブリーズの青のモスクをはじめとする数々のモスクはトルクメン人によるものであり、またルーム・セルジューク朝の瓦解後のアナトリアや、ティムール朝時代のイランにも決定的な影響を及ぼしている。13世紀以降アナトリアは、ここに住みつきビザンチンの領土を徐々に侵食していったトルクメン人の小規模な諸王朝により支配されるようになった。そうして徐々に1つの王朝が勃興してくる——オスマン帝国(1453年以前のものは「初期オスマン帝国」と呼ぶ)である。この時代には建築に庇護が与えられ、建築では丸天井を用いることにより空間の統一を探求しようとしたものと思われる。陶芸でも、「ミレトス陶器」(ミレトス手)やアナトリアの青と白と呼ばれるようになるオスマン帝国固有の特徴となるものが現れた[86]。
インド
- 歴史時代:デリー・スルタン朝
インドはガズナ朝とゴール朝によって9世紀に征服され、1206年にムイッズィー(奴隷王)たちが権力の座に就きデリー・スルタン朝が誕生してようやく自治を回復した。後には、ベンガル地方、カシミール、グジャラート、ジャウンプール、マールワー、およびデカン高原北部(バフマニー朝)にも競合するスルタン国が形成された。これらの国々は徐々にペルシアの伝統から遠ざかってゆき、ヒンドゥー美術との融合が見られる独自の建築と都市計画が誕生することになった。美術作品の制作については現時点ではほとんど研究されていないが、重要な写本芸術のあることが知られている[87]。スルタン諸国の時代は、インド全域を徐々に占領していったムガル帝国の到来と共に終焉する。
三大帝国(15-19世紀)
イスラーム世界全体を統一する帝国が再び現れることはなかったが、この時期にはトルコのオスマン帝国、インドのムガル帝国、およびイランのサファヴィー朝という3つの安定した大帝国が成立し中世の地方王朝を取り込んでいった[88]。
オスマン帝国
- 歴史時代:オスマン帝国
14世紀に誕生したオスマン帝国は第一次世界大戦まで存続する。非常に広い地域と長い時代に亘ったこの帝国には多産な美術が存在した——多数の建築、陶器の大量生産(とりわけイズニク陶器)、重要な宝石細工活動、ならびに多方面からの影響を受けた傑出した写本芸術などである。この時代には、イランや中国などの東洋およびヴェネツィアに代表される西洋の双方との交易が行われていた[89]。
メフメト2世がコンスタンティノポリスを征服した際にムスリムに知られるようになった教会アヤソフィアはオスマン帝国初期の建築に大きな影響を与え、壮大なドーム・コンプレックスを持つオスマン・プランのモスクが作られるようになった[90]。100歳近くまで長生きし数百もの建築物を手掛けた建築家ミマール・スィナンの存在が特に重要である[91]。
写本芸術においては、特記すべきものとして例えば1つは14世紀末に、もう1つはスルタンのムラト3世(1574-1595)のために作られた2冊の『祝典の書』があり、これらには数多くの挿絵が含まれている[92]。ミニアチュールは16世紀初頭に戦利品としてもたらされた大量の美術品や、到来した数々のイラン絵画によるサファヴィー朝イランからの影響を強く受けている。
また陶芸において「イズニク赤」と呼ばれる鮮やかな赤が作り出されたのもオスマン帝国においてであった。非常に際立ったこの赤は1557年頃に出現したもので、現在はロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館に所蔵されているスレイマニエ・モスクのランプやタイルがその証となっている[93][94]。
ムガル帝国
ムガル帝国は1526年から1858年、イギリスに占領され保護領とされるまでインドを支配した[95]。ムガル帝国の建築はモスクのムガル・プランの確立やタージ・マハルの建設で名高く、宝石細工や翡翠などの硬石加工も栄えた。とりわけ、たとえば馬の頭を象ったもののような軟玉製の短剣が作られた[96]。クンダンのような独自の金銀細工技法によってルビー・エメラルド・ダイヤモンドなどの緻密な象嵌が可能となり、花のモチーフを象ることが一般的であった[97]。なお王族が金や玉器の食器を用いた一方、カースト間の汚染を恐れたためか陶芸は発達しなかった[98]。
フマーユーンの治世下で、逃亡先から帰還したフマーユーンと共にやってきたペルシアの職人たちの指導を受け写本芸術が生まれるようになった。しかしまた、遠近法の使用と彫版術というヨーロッパの着想といった、西洋からの強い影響もはじめて見出される。ヒンドゥーの特徴もまた、特に地方の中心地で見られる[99]。
17世紀のビードリー器の発明も特記すべきで、卑金属の合金を強く艶消した黒とし金銀の象嵌モチーフを引き立たせる技法により、代表的であるフーカの基部の他、水差し、キンマの箱、「痰壷」などといったさまざまな金属工芸が製作された[100][101]。
サファヴィー朝とガージャール朝
- 歴史時代:サファヴィー朝、ガージャール朝
- 主要な作品と建造物: シャー・タフマースプの偉大なるシャー・ナーメ
ムガル帝国とオスマン帝国に並んで、イランも1501年から十二イマーム派の王朝を頂き、1786年まではどうにか存続していた。サファヴィー朝の美術においては、陶芸と金属工芸に大きな変化が徐々に起き、16世紀以降は高価な素材ではなく色のついた生地を埋め込むようになった。専門家の中には、16世紀には金属工芸が衰退したとする者もある[103]。中国の磁器が非常に高く評価されており、写本芸術や絨毯において極めて中国的なモチーフを青と白で模倣することが行われた[104]。建築が繁栄し、アッバース1世によりエスファハーンに新都が建設された——数多くの庭園、アリ・カプのような離宮、広大なバザール、壮大なシャー・モスクなどが建造された[105]。
写本芸術は、250以上もの絵画を含む巨大な写本であるシャー・タフマースプの偉大なるシャー・ナーメによってその頂点を迎えた[106]。17世紀になると王族が高価な装飾写本をあまり注文しなくなり、新しい種類の絵画が発達した——アルバム絵(ムラッカア)である[107]。これはさまざまな芸術家たちが絵やデッサンやカリグラフィーを紙葉に描き、それを愛好家が集めてアルバム(画帖)にするものである。この新しい美術形式を代表する画家の1人にリザー・アッバースィーがいる[108]。
アフガン人の侵略によるサファヴィー朝の滅亡に伴い1世紀の間混乱が続くが、モンゴル支配の時代にカスピ海沿岸に定住したトルクメン人の部族による新しい権力であるガージャール朝の台頭により混乱には終止符が打たれた。西洋の強い影響を受けた美術が生まれた——ガージャール朝のシャーたちの油絵による立派な肖像画には、ミニアチュールの作法の名残は多少あるにせよ、それまでのペルシア絵画とはほとんど関係のないものとなっている[109][110]。ガージャール朝の下では、テヘランの街の発展と共に壮大な建築もまた建設されるようになった[111]。鋼鉄などの新しい技法も美術に取り入れられた。
イスラーム美術の技法
都市計画、建築およびその装飾
イスラームの建築はイスラーム世界に特有のさまざまな形態を取り、それはイスラム教と関係していることが多い。モスクはもちろんであるが、マドラサや隠居所なども信仰に対応したイスラーム国に典型的な建物となっている[112]。
建物の類型は時代と地域によって大きく異なっている。13世紀以前には、今のエジプト、シリア、イラク、トルコにあたるアラブ世界の発祥の地ではモスクはどこもほぼ同じ「アラブ・プラン」と呼ばれる間取りに従っており[113] 1つの広い中庭と1つの多柱式の礼拝空間を持つが、その装飾とさらにはフォルムには大きな差異があった。マグリブのモスクはキブラに垂直な身廊を持つ「T」形を採用していたが、エジプトとシリアでは身廊はキブラと平行であった。イランは、煉瓦の使用、スタッコと陶芸を用いた装飾[114]、またイーワーンやペルシア式アーチといったサーサーン朝の建築に由来していることの多い独特のフォルムといった固有の特徴(イラン・プラン)を有している[115]。マドラサもまたイラン世界で生まれたものである[116]。スペインでは蹄鉄や多弁形などさまざまなアーチを用いた色鮮やかな建築への嗜好が見られる[117]。アナトリアでは、ビザンチン建築の影響下にありつつもアラブ様式の中でこの地域独自の発展も見せる、独特で並外れた丸屋根を持つオスマン式(オスマン・プラン)の大モスクが建設された[118] 。ムガル帝国のインドでは徐々にイランの様式を離れ球根状のドームを強調した独自の様式が発達した[119]。
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852年に完成したサーマッラーの大モスクの平面図。多柱式の礼拝空間を持つ典型的なアラブ・プランのモスク。
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球根状のドームを持つ廟墓建築、タージ・マハル。ムガル帝国、1653年。
写本芸術
イスラームの写本芸術は絵画、カリグラフィー、ミニアチュール(余白や扉に描かれるアラベスクや図案など)、装幀を全て含めたものである[123][124]。
伝統的に、写本芸術は3つの領域に分けて考えられてきた。シリア、エジプト、ジャズィーラ、マグリブ、それからオスマン(オスマンは別の領域とも考えられる)の写本に対応する「アラブ」、特にモンゴル時代以降のイラン世界で作られた写本に対応する「ペルシア」、そしてムガル帝国の作品に対応する「インド」である。それぞれの領域には特有の様式があり、それはさらに独自の芸術家たちや慣習などを持つ相異なった流派に分かれる。諸流派やさらには地理的領域の間での、政治状況の変化や芸術家の頻繁な移動(特にペルシアの芸術家はオスマンやインドに多く移住した)による影響関係が存在したことは明らかであるが、それぞれの変遷は並行して進行していた[125]。
遅くとも9世紀にはクルアーンの写本が存在した。クルアーン写本には挿絵は描かれなかったが、6書体による美麗なカリグラフィー、幾何学・植物文による装飾、芸術的な装幀が施された[126]。中世に科学がよく発達したイスラーム圏では天文学や力学など科学書の写本も盛んに作られ、 アブド・アル・ラフマン・アル・スーフィーの『恒星論』の1009年の写本が現存する最古の挿絵入り写本である[127]。挿絵入りの写本はアラブ圏では14世紀に衰退が起きた一方[128]、ペルシア圏では宮廷書画院(ケターブ・ハーネ)の下で物語や歴史書の挿絵入り写本が開花し[129]、イスラーム絵画の主要な舞台となった。
なお中国から伝来した製紙は10世紀にはイスラーム世界に定着し写本繁栄の礎となった[130]が、アラビア文字の組版の困難さやカリグラフィーの重視のため印刷術の導入は18世紀まで遅れた [131]。
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クーフィー体で書かれたクルアーン写本(49:11)。9世紀
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アブド・アル・ラフマン・アル・スーフィー『恒星論』の1009年の写本より「アンドロメダ座」
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シャー・タフマースプの偉大なるシャー・ナーメ。1537年頃
絵画
ウマイヤ朝からアッバース朝にかけては壁画や床絵としてフレスコ画などの絵画が描かれ[132]、ウマイヤ朝時代のクルセイル・アムラや、ファーティマ朝時代のカイロ浴場壁画などが残存している[133]。また陶芸、金属工芸、ガラス工芸、象牙彫刻が絵画的表現の媒体となっていた[134]。
写本芸術が発展すると、科学書から始まった挿絵が発展し絵画の舞台となった[135]。ティムール朝・サファヴィー朝を中心にペルシア語の物語や歴史書の装飾写本が盛んに作られた。アラビア語では画家は神と同じ語「ムサッウィル」(創造者)であったこともあり糾弾の対象であった[136]が、その画家の地位も確立され、署名を通じて名前が残るようになり、16世紀には画家論が書かれるまでになった[137]。代表的な画家はビフザードである[138]。
16世紀後半になるとペルシアでは王族が高価な写本をあまり作らせなくなり、一枚ものの絵が描かれるようになった。これを愛好者が収集して画帖(ムラッカア)とするようになり、画家の地位はさらに向上した[139]。リザー・アッバースィーは鮮やかな色彩で宮廷の優雅な男女を描き評判を取り、その作風は広く模倣された[140]。
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『バヤードとリヤード』第17葉「リヤードからバヤードに宛てた手紙を渡すシャムール」。13世紀、ムワッヒド朝
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ジャーミー『信心深き者の薔薇園』(1553年)の挿絵
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ビフザード『猟場』(16世紀前半)
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リザー・アッバースィー『鳥』(1634年)
工芸・装飾美術
装飾美術の諸分野はヨーロッパでは「マイナー美術」と呼ばれている[141]。しかしながら、数多くのヨーロッパ以外の文明や古代の文明でそうであったように、イスラームの地でもこれらの媒体は実用よりも芸術的な目的のために用いられており、職人仕事と分類してしまえなくなるほどの完成にまで至る傾向があった[142]。イスラームの芸術家たちは主に宗教的な理由から彫刻には興味を示さなかった[143]が、時代や地域により、 金属工芸、陶芸、ガラス工芸、宝飾(石英が代表的であるが、紅玉髄のような硬石も用いられた)、木工芸、象牙細工などの幅広い領域で独創性と卓越した技量を示した[144]。
金属工芸
金属工芸の素材としては青銅や真鍮が最もよく使用され、その他金銀鉄などの使用も見られるが、金銀はしばしば熔かして再利用され、またアッバース朝以降ではシャリーアを基に本格的に禁止されたため現存する作品は少ない[145]。水差し、鉢、杯、インク壷、箱、鏡、シャンデリア、燭台、武具など多岐にわたり、その技法も製作物に応じて多種存在していた。基本的にはサーサーン朝ペルシアやビザンチンといったイスラーム以前から存在していた伝統を継承し、発展させた工芸美術である。ファーティマ朝時代のエジプトなどでは鳥獣をかたどった水差しが流行し、数多く製作されている。セルジューク朝時代には装飾として刻まれているアラビア文字の末端に人間の頭部や花の紋様など変化をつけた作品も出現し始め、当時の社会情勢の変化を伺うことができる。他の地域ではあまり発達しなかった技法に、12世紀ごろから見られるようになった銅や銀を真鍮の器に嵌め込む象嵌細工があり、1163年にヘラートで制作されたボブリンスキーの手桶が代表的である[146]。象嵌技法はその後シリアに伝えられ、14世紀初頭にエジプトで傑作「聖ルイ王の洗礼盤」などの作品が生まれた。しかしそれ以降は理由は不明であるが人物や動物を描いた象嵌装飾は下火となり、15世紀末には単純な打出しや線刻が主流となり金工は衰退を迎えた[147]。
特徴ある金属工芸としては17世紀ムガル帝国のビードリー器があり、これは 卑金属の合金に金銀を象嵌し、アンモニア塩を含む泥で覆うことで艶消しの黒を得て象嵌を引き立たせるものであり、特に大麻や煙草の吸引用フーカの基部が多く作られた[101]。
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鳥を象った真鍮の水差し。11-12世紀、イラン。スペイン国立考古学博物館蔵
陶芸
イスラーム世界における陶芸の歴史は時代毎に勃興した王朝によってその技、特徴が著しい変化を遂げている。また、主要な窯場も時代に応じて変遷し、アフガニスタン、トルコ、エジプト、イベリア半島など広域に渡る。中国の陶磁器の影響を受け、磁器の完全な再現こそ果たされなかったが[149]、ラスター彩や、ミーナーイー手などといった独自の陶芸文化を進化させていった。
「 | というのも実に、お盆にはありとあらゆる種類の料理が、全て〔中国の〕金彩の磁器に盛られていたのです。 | 」 |
陶芸技術が飛躍的な発展を遂げたのは、アッバース朝におけるイラクで、白釉陶器、白釉藍緑彩陶器、ラスター彩陶器などが誕生した[151]。中でもラスター彩は一度施釉して焼いた器に硝酸銀や硫化銅で絵付けし、低温度の窯で再度還元焼成することで金属的な輝きを出す独特の手法で、イスラーム陶芸の代表的なものとして知られている。この技術は後に続くファーティマ朝やセルジューク朝などでも受け継がれていった[152]。
セルジューク朝に入ると影絵手と呼ばれる技法が発達し[153]、青釉掻落文陶器、ミナイ手(ミーナーイー陶器。ペルシア語で「エナメル」の意)などの多彩な装飾が施された陶器が誕生する[154]。イル・ハーン朝ではさらに装飾技法が発展し、金箔を加えた藍地金彩色絵(ラージュヴァルディーナ彩)や藍釉白盛上陶器(スルターナバード彩)などが誕生した[77]。また、中国の陶磁器から影響を受けた建築装飾用のタイルなども生産されるようになった。
オスマン朝時代のトルコ・イズニク窯場では中国の青花陶器の技法が取り入れられた白地藍彩陶器などが主流となり[155]、また「イズニク赤」と呼ばれる鮮やかな赤も用いられた[156]。 サファヴィー朝ではこれを模倣したクバチと呼ばれる絢爛な彩画陶器の作成技法が生まれた[157][158]。
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白釉藍彩陶器。9-10世紀、イラク
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ネコ様の動物と野兎が描かれたラスター彩の杯。10世紀、イラクもしくはエジプト
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13世紀のミーナーイー陶器。ブルックリン美術館蔵
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16世紀後半、イズニク産の陶器。カーネーションが描かれている。いわゆる「イズニク赤」。
ガラス工芸
イスラーム時代以前より、地中海沿岸ではローマ由来の宙吹きガラス、ペルシアではサーサーン朝由来の面カット装飾を用いるガラスが作られていたが、アッバース朝時代に入り両者が融合し独自の発達を遂げ、イスラームのガラスは世界の最先端となり ヴェネツィアなどのヨーロッパ諸都市にも強い影響を与えた[159]。ガラスのカッティング技法による装飾が流行し、レリーフ・カットなどの技術が誕生している。11世紀に入るとエジプト・フスタートを中心として新しい技術が次々と生まれ、被せガラス[注 9]の手法を用いた作品などが生み出された。また、ガラス工芸で生み出された技術は陶芸にも用いられ、イスラーム美術独特の陶芸技法であるラスター彩が誕生している[160]。
さまざまな器形がある中でも代表的であったのは大型の吊りランプ(モスク・ランプ)であり、エナメル彩の豪華なランプがモスク、マドラサ、廟墓などに神を光に喩えた以下のクルアーンの章句を添えて寄進されるのが常であった[161]。
「 | アッラーは天と地の光である。その光は喩えるなら壁龕に置かれたランプである。ランプはガラスに包まれ、ガラスは輝く星のよう。 | 」 |
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無数のランプが提げられたスルタンアフメト・モスク内部
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19世紀イランの撒水器
染織・絨毯
高温乾燥の気候から身を守るための衣服、涼しい床の直上で生活し同じ空間を使い分けるための絨毯、遊牧民にとって住居そのものとなるテント(天蓋)など、イスラーム世界では布が重要な役割を担った[163]。日用品としての布地は大半が無地であったが、装飾のある布は珍重された。銘文の刺繍(ティラーズ tiraz)がある布を君主が家臣に下賜することが行われ、これを制作するための国立の工房もティラーズと呼ばれた。この制度はアッバース朝で拡大し、膨大なテキスタイルを生産した[164]。空引機で作り出されるイスラームの複雑な図案の絹織物は14世紀まで世界市場を独占し、19世紀まで重要な輸出品であり続けた[165]。
絨毯はペルシアやトルコ(アナトリア)が現在も続く主要な産地であるが、礼拝用に絨毯を必要とすることなどからかつてはイスラーム世界ほぼ全域で絨毯の生産が行われていた[166]。絨毯や掛け布などの贅沢な布は家の中にこの世の楽園を作り出すものであった[167]。ペルシア絨毯の最高傑作とされるアルダビール絨毯はティラーズで作られモスクか霊廟に奉納されたものと考えられており、こうしたデザインは速やかに地方に伝播していった[168]。
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メダイヨン(中央の装飾枠)に龍と不死鳥が描かれたアナトリアの絨毯。15世紀
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動物と狩りの場面が描かれたペルシアの絨毯。16世紀。ルーヴル美術館蔵
象牙細工
中世の象牙はほぼ全てがサハラ砂漠を越える陸路でもたらされており、これを入手しやすい地勢にあった後ウマイヤ朝やファーティマ朝では象牙細工が発達した[171]。
後ウマイヤ朝のムギーラの小箱が代表的な傑作である。またパンプローナ・ナバッラ美術館に所蔵されているファーティマ朝の象牙の30cmほどの箱には一面に高浮彫が施され、夥しい数の職人の署名があり、極めて高価なものだったことを窺わせる[172]。またファーティマ朝では調度品などの装飾にも象牙細工が用いられた[173]。
木工芸
イスラーム世界には木材の入手しにくい地域が多く[174]、また家具もあまり必要とされなかった[175]が、指物技術により貴重な木材を継ぎ合わせて箱や衝立などが作られた[176]。特に、モスクの重要な備品であるミンバル(説教壇)やクルアーン台は木で作られる。現存する最古の木製ミンバルはカイラワーンの大モスクにある9世紀のものである[177]。
建築には主に煉瓦・石材・タイルが使用されたが [178]、 木材が豊富であった地域では建築装飾にも木工芸が用いられ、 例えばナスル朝のアルハンブラ宮殿の天井は数千の木材を組み合わせた木造である [179]。トルコでは木工芸がよく発達し、オスマン帝国のクルアーン収納箱のような傑作が残されている[180]。
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装飾の施された木彫りのクルアーン台
玉器・水晶・宝石細工
エメラルドやルビーのような宝石が装飾として他の工芸品に嵌め込まれる一方、水晶や翡翠などはそれ自身を彫り込んだ工芸品が作られた[181]。水晶細工に最も優れたのはファーティマ朝であった[182]。ファーティマ朝の宝飾はほとんどが再利用され残存していないが、水晶から彫り出された高価な水差しやランプの一部はヨーロッパに渡り、教会の宝物庫などに収められ今日まで伝わっている[183][184]。こうした非常に高価な工芸品はカリフ一族や高官が個人的に使用するためのものであった[185]。
玉器が最も盛んであったのはムガル帝国で、宝石細工や翡翠(硬玉と軟玉の2種がある)などの硬石加工が栄え、軟玉製の柄を持つ短剣や全体を宝石で埋め尽くした短剣などが作られた[186][187]。クンダンのような独自の金銀細工技法によってルビー・エメラルド・ダイヤモンドなどの緻密な象嵌が可能となり、花のモチーフを象ることが一般的であった[188]。
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水晶の水差し。高さ19.5cm。11世紀、エジプト。ヴィクトリア&アルバート博物館蔵
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金糸、ルビー、ターコイズで象嵌した翡翠の火薬容器。17世紀、ムガル帝国。ルーヴル美術館蔵
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翡翠製のティーセット。金糸、エメラルド、ルビー、ガラスの象嵌がある。18世紀、ムガル帝国。ルーヴル美術館蔵
モチーフ、テーマ、図像、背景
「イスラーム美術」という言葉からは、偶像を排し幾何学文様とアラベスクだけから構成された美術が思い浮かべられることが多い。しかしながら、イスラームの美術には人や動物の姿の表現が数多く見られ、宗教とは関係しない領域ではとりわけそうである。
美術と宗教
さまざまな宗教がイスラーム美術の発達において重要な役割を演じ、神聖な目的に向けられた美術も多い。イスラム教はもちろんであるが、しかしながらイスラーム世界でイスラム教が多数派となったのは13世紀以降のことに過ぎず、他の宗教もまた無視できない役割を演じている。現在のエジプトからトルコまでの一帯ではキリスト教 [189]、イラン世界ではゾロアスター教 [注 10]、インド世界ではヒンドゥー教と仏教、マグリブではアニミズムが特にそうである。
イスラム教は偶像を禁じたため、モスクなどの宗教建築やクルアーンの写本などを除くと宗教美術は存在せず、また宗教的な図像の需要も生まなかった。他方で、王族や都市の富裕層などはワクフとして宗教や慈善への寄進を行う傍ら、宮殿や贅沢な調度品など宗教以外の美術品のパトロンともなった[190]。よってイスラーム美術に占める宗教美術の割合は大きくないのであるが、全面的ではないにせよ生物描写の忌避、モスクやクルアーンを飾ることのできる抽象的な装飾や[191]神の完璧な創造を暗示する数学的に計算された無限の美[192]の追求、神の言葉を記すカリグラフィーに与えられる高い価値[193]などの美意識や慣行を通して、乾燥地帯という気候風土などと並び[194]イスラーム美術に共通の特質の一部を作り出している[195]。
美術と文学
芸術家は宗教以外のさまざまな源泉を用いており、中でも文学との関係が深い。フェルドウスィーにより10世紀初頭に作られた国民的叙事詩『シャー・ナーメ』(『王書』)や、ニザーミーの『5つの詩』(もしくは『ハムサ』。12世紀)といったペルシア文学が写本芸術[196]のみならず美術品(陶芸[注 11]、絨毯など)のモチーフの源となっている[197]。特に、権力者たちは自分の伝記物語よりも『シャー・ナーメ』の豪華な写本を作らせるのが常であった[198]。神秘主義の詩人サアディーとジャーミーの作品を表現したものも多い。14世紀初頭に宰相ラシードゥッディーンにより編纂された『集史』(『歴史集成』)はイスラーム世界全体で数多くの表現の支えとなっている[199]。ペルシア語はムガル帝国やオスマン帝国でも宮廷語となっており、ペルシア文学の写本が作られた[200]。
ペルシア語以外のものとしては、『パンチャタントラ』のインド起源の寓話、アル=ハリリの『マカーマ』やその他のテクストにバグダードやシリアの工房でイラストレーションが施された。なお『千夜一夜物語』は879年までには原型が出来ていたが、イスラーム世界の歴史的な挿絵入り写本は現存しておらず、19世紀以降のものがあるのみである[201]。
抽象的なモチーフとカリグラフィー
こうした美術形式における抽象的・装飾的なモチーフは無数にあり、幾何学文様から植物文様(アラベスク)[注 12]まで極めて変化に富んでいる。クルアーンの章(スーラ)は神の言葉であると考えられているため、カリグラフィーはイスラーム世界では重要な、さらには神聖な活動であるとされている。また、生き物の姿を表現することは宗教的な場所や作品では認められていない。そのためカリグラフィーには宗教的な領域のみならず世俗的な作品においても特別な注意が払われている[202]。 アラビア文字は神の文字と捉えられ、イスラーム美術において神像、偶像の代替的役割を果たした。アラビア文字はその視覚的特性からイスラーム美術の抽象的装飾とうまく調和し、イスラーム美術の重要な装飾要素のひとつと位置付けられている。装飾に用いられる文字文様は読解が困難であったり、文字に似せているだけ(倣文字文)であったりする場合もあり、必ずしも読まれることを前提とはしていなかった[203][204]。
人や動物の図像表現
イスラーム美術には全く偶像が存在しないと考えられがちであるが、陶芸や写本芸術などでは数多くの人や動物の姿が表されている。クルアーンは偶像を禁じているが、これは神の姿を像に表し崇めることを禁じたもので、人間や動物を描くことを禁じたものではない。他方、ハディース(ムハンマドの言行録)の中には、動物の姿を描くことを神への挑戦であるとして非難するものがある。よって、あらゆる領域において神の表現は行われないが、人間や動物を描くことはモスクなどの宗教的文脈でこそ忌避されても、世俗の領域では必ずしもそうではなかった[205]。
「 | おお信ずる者たちよ! 酒、賭博、石(偶像)、矢(矢占い)は忌むべきサタンの業である。これらを避けよ、さすれば汝らは栄えるであろう。 | 」 |
またムハンマドだけでなくイエスやその他の旧約聖書に登場する預言者たちや、さらにはイマームたちの宗教的な図像も描かれることがあり、時代や地域によって顔に覆いがかけられていたりいなかったりする。ムハンマドは神ではなく預言者であり、よってクルアーンの偶像禁止とは関係せず、また当初は神格化もされなかった。時代が下ると共に光背や頭光が描かれるようになり、16世紀には顔にベールがかけられ、18世紀には姿全体を隠すことも行われるようになった[206]。このように図像表現の問題は複雑なものであり、時代や地域による変遷もあるのでさらに理解は困難なものとなっている[207]。
世界でのイスラーム美術の認識
イスラーム美術の歴史の歴史
ヨーロッパにおいては、中世に高価な物品(絹、天然水晶)を多数輸入していたため、古くからイスラーム美術が知られていた。こうした物品の多くが聖遺物箱に使用され、西洋の教会の宝物庫で保存されている[208][184]。初期のガラス器の完品の大部分はイスラーム世界ではなく教会の宝物庫に残っていたものである[209]。しかしながら、学問としてのイスラーム美術史はたとえば(西洋)古代美術史などよりも遥かに最近になって生まれた分野である。それに加え、考古学の分野ではイスラーム美術は、古代の層に達したいと望みそのため現代に近いものを荒らしてしまう考古学者たちによってしばしば犠牲にされている。
19世紀に誕生しオリエンタリズムによって推進されたこの学問は世界的な政治・宗教上の出来事のために幾多の紆余曲折を経てきた。植民地化は一部の国々の研究に有利に働き、ヨーロッパとアメリカに複数のコレクションも誕生したが、完全に無視された時代地域も数多あった。後期オスマン帝国やガージャール朝の美術がその典型で、今日ようやく再発見されつつある。 西洋的なオリエンタリズムはイスラームの過去の1つの統一された黄金時代を見ようとし、他方で植民地主義から解放されたイスラーム諸国では汎イスラーム主義と民族主義との相克があった[210]。また冷戦は研究と発見の伝播を妨げ、イスラーム美術の研究を大幅に遅らせた。
日本へは7世紀末には唐招提寺舎利容器(国宝)としてイスラームのガラスが鑑真によりもたらされたほか、東大寺正倉院中倉に3点のイスラーム・ガラス器が収められている。中近世にも陶磁器、絨毯、織物は伝来を続けており、特に織物は名物裂として扱われた[211]。しかしながら学問としてのイスラーム美術の確立は遅く、2009年現在もイスラーム美術の講座を持つ大学は2-3校に過ぎない[212]。
イスラーム美術の主要なコレクション
他でもよくあるように、イスラーム美術の大規模なコレクションはイスラーム世界よりもむしろ西洋に多い。19世紀末のオリエンタリズムの隆盛やアーツ・アンド・クラフツ運動による手工業工芸品の再評価などにより優れたイスラーム美術のコレクションが欧米に形成された[213]。具体的にはルーヴル美術館、メトロポリタン美術館、大英博物館、ヴィクトリア&アルバート博物館などがある。しかしながらイスラーム世界にもイスラーム芸術博物館、カタール国立博物館などのコレクションが存在する。リスボンのカルースト・グルベンキアン財団とハリリ・コレクションも多くの作品を所蔵している。ワシントンD.C.のフリーア美術館のようなアメリカ合衆国の博物館にも美術品や写本を有しているものがある。コーニング・ガラス博物館には世界で最も重要なイスラームのガラス作品のコレクションがある。写本では、大英図書館やビブリオテーク・ナショナルなどの大図書館も重要で、東洋の写本のコレクションがかなり充実しているが、また博物館も写本の装飾されたページを保存している場合がある。
日本にも陶器とテキスタイルを中心としたコレクションが存在し[214]、国内では中近東文化センター、東京国立博物館、国立民族学博物館、岡山市立オリエント美術館、MIHO MUSEUMなどでイスラーム美術の一端に触れることができる[215]。
イスラーム美術の発掘現場
この節の加筆が望まれています。 |
建築ならびに美術品の最も古い産品を求めてサーマッラー、スーサ、カイロなどでイスラーム考古学が行われている。政治状況にもかかわらず、パキスタンからマグリブに至るまでのイスラーム世界全域の重要な発掘現場で現在も発掘が行われている。
脚注
注釈
- ^ a b c 注記:この記事における「イラン」および「シリア」「パレスチナ」は原則として、イラン文化圏(今日のイラン、イラク東部、ウズベキスタン、トルクメニスタンの一部、アフガニスタン、パキスタン)と歴史的シリア(今日のシリア、パレスチナ、イスラエル、レバノン、イラク西部〔ジェジラ〕)をそれぞれ指す。
- ^ 『イスラーム美術の形成』においてオレグ・グラバールはイスラーム美術がムスリム美術ではないということをこのように説明している。「『イスラーム美術』は1つの宗教の美術形式を特に指すわけではない。そのモニュメント〔注:ここでのmonumentは「証言となるもの」という原義で理解する必要がある〕にはムスリムの信仰とは僅かしか、もしくは全く関連が見られないのである。ムスリム以外により、ムスリム以外のために作られたのであると明らかになっている美術作品もまた正当に「イスラームの」ものとして研究され得るのである。」(Oleg Grabar, op. cit., p. 11-12.) グラバールはまた、より良く定義しようと努力しながらも「『イスラームの』という概念はあまり明確なものではない」(p. 13)とも言っている。グラバールによれば、イスラームは宗教的な諸傾向によってよりもその時代の初期に「アラブ世界に存在していた文化のインパクトの結果」(p. 132)によって確立された一連の概念によって弁別されるものなのである。
- ^ 1971年以降、ジャン=ポール・ルーはルーヴル美術館での展示に「イスラームの諸美術」という呼称を用いるようになり、1993年には「イスラームの諸美術部門」(ルーヴル美術館サイトの日本語訳では「イスラム部門」となっている。イスラム美術 | ルーヴル美術館)が創設されるに至った。呼称の問題に関する研究としては、特に以下の文献を参照。Makariou, Sophie. « Arabes versus Persans : génie des peuples et histoire des arts de l'Islam », in Labrusse, R. (dir.) Purs décors ? Arts de l'Islam, regards du XIXe siècle [cat. exp. Paris : musée des arts décoratifs, 2007-2008], Paris : Les arts décoratifs/musée du Louvre éditions, 2007, p. 188-197
- ^ 南北と東西の大通り。ローマ建築#ローマの都市構造を参照。
- ^ たとえば『様式化された鳥のパネル』(ルーヴル美術館 AO 6023)を参照
- ^ 例としては、メディナ・アサーラの噴水に由来するカタールのドーハのコレクションにある牝鹿や、ルーヴル美術館蔵の孔雀の水盤(MR 1569)と獅子の噴水吐水口(OA 7883)などを参照。
- ^ ブルーム & ブレア 2001, p. 252はこの写実主義の発展を、ファーティマ朝による精密科学の奨励によるものではないかとしている。
- ^ 一部の研究者は依然として珪質の胎土がイランで誕生したと考えているが、大部分の研究者はこれがエジプトでの発明であり、ファーティマ朝の滅亡の後に逃亡してきたエジプト人の陶工たちと共にイランに齎されたのであると考えている。Cf. Watson, Oliver. Persian lustre ware London : Faber and Faber, 1985 et Grube, Ernst J. Cobalt and lustre : the first centuries of Islamic pottery. Londres : Nour Foundation, 1994.
- ^ きせガラス。透明なガラスの上に色ガラスを被せてから削る技法(杉村 1999, p. 144)。アール・ヌーヴォーなどの作家も好んで使用した。
- ^ 例えばゴンバデ・カーブースで誕生したイスラームの葬送塔のモチーフはゾロアスター教の儀式に由来するものである。「マズダー教の何らかの記念モニュメントにその背景があるという仮説を立ててみることもできるであろう。」Ettinghausen, Richard, et Grabar, Oleg. Islamic art and architecture. New Haven and London : Yale University Oress, p. 115
- ^ 『シャー・ナーメ』の12の場面が描かれた13世紀のミーナーイー手のコップがあり、これは物語を想起・朗唱する助けとなっていたと考えられている。写本を読むよりも記憶から朗唱する方が一般的な鑑賞方法だったのである。(ブルーム & ブレア 2001, pp. 270–271)
- ^ アラベスクは狭義には蔓草の連続植物文、広義にはイスラーム美術の文様全般を指す。いずれにしても西洋からの呼び方である。(桝屋 2009, p. 84)
出典
- ^ (小林 2004, p. 13)。ここで小林は(Grabar 1973)を論拠としている。(杉村 1999, p. 9); (ブルーム & ブレア 2001, p. 5); (桝屋 2009, p. 8)も同様の定義を与えている。
- ^ Bernus Taylor, Merthe. « L'art de l'Islam ». in Moyen Âge, chrétienté et Islam. Paris : Flammarion, 1996. p. 445
- ^ 杉村 1999, p. 20
- ^ Grabar,Oleg. La formation de l'art islamique. [trad. Yves Thoraval]. Paris : Flammarion, coll. "Champs", 2000. p. 297
- ^ ブルーム & ブレア 2001, p. 5
- ^ Naef, Silvia. Y a-t-il une « question de l'image » en Islam. Tétraèdre, 2004. p. 59 - 63 en particulier
- ^ ブルーム & ブレア 2001, p. 6
- ^ 小林 2004, pp. 12–13; ブルーム & ブレア 2001, p. 5
- ^ ブルーム & ブレア 2001, pp. 5–6
- ^ ブルーム & ブレア 2001, pp. 19–20
- ^ ブルーム & ブレア 2001, p. 23; 深見 2003, p. 33
- ^ Stierlin, Henri. L'architecture islamique. Paris : PUF, 1993. p. 9 - 10
- ^ Hillenbrand, Robert. Islamic architecture, form, function and meaning New York : Columbia University Press. p. 39
- ^ ブルーム & ブレア 2001, p. 23
- ^ Grabar,Oleg. La Formation de l'art islamique. [trad. Yves Thoraval] Paris : Flammarion, coll. Champs, 2000. p.105 - 107.
- ^ 「イスラーム美術は、征服した世界の四隅から借用した構造と形式の蓄積と考えることができる。」Grabar, Oleg. id.. p. 296.
- ^ Œuvres choisies sur le site du musée du Louvre(日本語版)
- ^ Sophie Makariou (dir.). Suse, terres cuites islamiques. Snoeck, 2005.
- ^ 「プラン」(plan)は建築の平面(図)的な構造およびその様式を指す。
- ^ Rosen Ayalon, Myriam. Art et archéologie islamiques en Palestine. Paris : PUF, 2002
- ^ O. Grabar. Le dôme du Rocher, joyau de Jérusalem. 1997
- ^ ブルーム & ブレア 2001, p. 28
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- ^ Hillenbrand, Robert. Islamic architecture, form, function and meaning New York : Columbia University Press, p. 20. しかしながらロバートは、近年の研究によれば、再利用された柱や柱頭の配置により岩のドームと同じプランがカイラワーンの大モスクで再現されていることも指摘している。
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- ^ 杉村 1999, p. 346。執筆はヤマンラール水野美奈子
- ^ 「地中海側を向きながらも、水路(ユーフラテス川とインド洋)と陸路によりイランと極東世界に結び付いた、古代の伝統に富む国にあって、キリスト教、ヘレニズム、サーサーン朝の要素が並立し交錯し合い、徐々に独自の美術を形成していったのである。」Bernus-Taylor, Marthe. Les arts de l'Islam. Paris : RMN, 2001. p.9
- ^ Voir les différentes publications d'Alastair Narthedge, en particulier : « Samarra », in Encyclopédie de l'Islam. Brill, 2e édition. « Remarks on Samarra and the archaeology of the large cities ». Antiquity, mars 2005
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- ^ この時代における中国との関係は複雑であるが、確かに存在した。中国の焼き物がスーサやシラフなど多くの地で発見されている。例えばSoustiel, Jean. La céramique islamique. Fribourg, office du livre, 1985 を参照。
- ^ 小林 2004, pp. 100–101
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- ^ ブルーム & ブレア 2001, p. 107; 桝屋 2009, pp. 112, 118
- ^ グルーベによると、銘文はコレクションの各品を識別する役に立っていたものと考えられる。Grube, Ernst J. Islamic Pottery of the Eight to the Fifteenth Century in the Keir Collection. Londres, 1976.
- ^ ラスター彩に関しては、Carboni, S. Glass of the sultans. [Expo . Corning, New York, Athènes. 2001 - 2002] New York : Metropolitan museum of art, 2001 を参照。フスタートのスカンロンの発掘で772-773年と779年のものと推定される2つの例が発見された。
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- ^ 「661年(サン・ファン・デ・バニョス教会)以降、この建築フォルムはエブロ川からドウロ川にかけての地域で見られており〔…〕馬蹄形アーチの起源はさらに先で、ローマ帝国時代のただ中であったとさえ言えるであろう。」Stierlin, Henri. Islam, de Bagdad à Cordoue, des origines au XIIIe siècle Taschen, 2002. p. 113
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- ^ Œuvre choisie du site du musée du Louvre
- ^ 杉村 1999, p. 370 解説は桝屋友子
- ^ « La ronde bosse est très rare dans le monde islamique. » Bernus-Taylor, Marthe. Les Arts de l'Islam. Paris : RMN, 2001. p. 59
- ^ スペインの織物はティラーズと呼ばれる王立の工房で独占的に生産されていた。 Grabar, Oleg et Ettinghausen, Richard. Islamic art and architecture, 650 - 1250. New Haven and London : Yale University Press, 2001. p. 97
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- ^ Oeuvre choisie du site du musée du Louvre(日本語の略説) Voir aussi D.S. Rice. Le Baptistère de saint Louis. Éditions du Chêne, 1951
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- ^ イスラームでは稀なこの方向付けの最良の例はタフテ・スレイマーンの配置である。
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- ^ a b 杉村 1999, pp. 173–176 執筆者はヤマンラール水野美奈子
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- ^ cf. 展覧会「チンギス・カンの遺産」のサイトおよびカタログ: Komaroff, Linda et Carboni, Stefano (dirs.). The Legacy of Genghis Khan : courtly art and culture in Western Asia, 1256 - 1353. [Expo. New York, Metropolitan museum of art. 2002 - 2003 ; Los Angeles, Los Angeles county museum of art. 2003]. New York : Metropolitan museum of art, 2002.
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- ^ 杉村 1999, p. 114
- ^ ジャラール・ウッディーン・ルーミーの『マスナヴィー』の、6巻からなる写本。コニヤにて1268-1269年に制作されたものと考えられる。Ettinghausen et Grabar. id. p. 257-258
- ^ 杉村 1999, p. 112
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- ^ Blair et Bloom, op. cit. p. 149 - 162
- ^ ブルーム & ブレア 2001, pp. 287–292
- ^ 近年開催された2つの展覧会でもこうした関係性が強調されている——Topkapi à Versailles, trésors de la cour Ottomane au château de Versailles en 1999, et Venise et l'Orient à l'institut du monde arabe en 2007
- ^ 深見 2003, p. 186
- ^ notice sur Sinan
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- ^ 「イスラーム美術は初期はビザンチンとペルシアに基礎を置いて注目すべき傑作を生み出したが、モスクの多柱式の空間を通じてその固有性も明確に打ち出されている。イスラーム教徒が集まり儀式的な祈りを行うために横方向の「トポロジー的な」配置が採用され、水平な長方形をした広間が生まれたのである。」[訳語疑問点] Stierlin, Henri. Islam, de Bagdad à Cordoue, des origines au XIIIe siècle. Köln : Taschen, 2002. p. 228 - 229.
- ^ ミリアム・ローゼン=アヤロンの研究によれば、この間取りは堅材でできた初めてのモスクであったアル=アクサー・モスクの建設と共に生まれたものと考えられる。 実際には、ダマスカスのウマイヤド・モスクがその祖型となっていた。Rosen Ayalon, Myriam. Art et archéologie islamiques en Palestine. PUF, 2002. Hillenbrand, Robert. Islamic architecture. Form, function and meaning. New-York : Columbia University Press, 1994. p. 69 - 70.
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- ^ « The undoubtedly eastern Iranian origin of the madrasa makes that ovious area in which to seek the archutectural of the institution. » <(仏語版での引用のまま)!-- 引用が怪しく、意味が取れませんでした。 --> Hillenbrand, Robert. Islamic architecture. Form, function and meaning. New-York : Columbia University Press, 1994. p. 174.
- ^ 特にコルドバの大モスク、メディナ・アサーラの宮殿、さらにはグラナダのアルハンブラ宮殿などが当て嵌まる。Cf. Bernus Taylor, Marthe. « L'art de l'Islam ». in Moyen âge, chrétienté et Islam. Paris : Flammarion, 1996. p. 481 - 482
- ^ Goodwin, Godfrey. A History of Ottoman Architecture. Baltimore: Johns Hopkins Press, 1971.
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- ^ 桝屋 2009, pp. 16–17
- ^ 深見 2003, pp. 88–95
- ^ 桝屋 2009, pp. 32–33
- ^ そのさまざまな側面については、Déroche, François (dir.). Manuel de codicologie Paris, 2000を参照
- ^ 桝屋 2009, pp. 68–71も参照
- ^ Voir Ettinghausen, Richard. La Peinture arabe. Genève : Skira, 1962 ; Gray, Basil. La Peinture persane. Genève, Skira : 1995 (2e ed.)
- ^ 桝屋 2009, pp. 70–71, 78–81
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- ^ 「美術品は宮廷だけでなく都市のブルジョワたちにとっても重要な役割を担っていた。これらの品々は富の外面的な現れとして宮殿に次いで頻繁にテクストで言及され、その制作にはさまざまな管理制限の手段が行使されていた。」Grabar, Oleg. La formation de l'art islamique. [trad. Yves Thoraval] Paris : Flammarion, 2000 (2de ed.). p. 264.
- ^ 「偶像崇拝の禁止は三次元芸術をほぼ完全に追放した。グラナダのアルハンブラ宮殿の獅子や、アナトリアの一部のモスクの柱頭を装飾している具象的な彫刻などは確かにあるが、恐らくは例外的なものであったのだろう。」Naef, Silvia. Y a-t-il une « question de l'image » en Islam ? Paris : Tétraèdre, 2004
- ^ 「イスラームの芸術的な方法は小さな品物、置物に、大いなる完璧さを与えるのに寄与している。」« Islam. 8. Les arts » in.Encyclopaedia Universalis. Vol. 9. Interférences - Liszt. Paris : Encyclopaedia universalis France, 1968. p. 186
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- ^ ダマスカスのウマイヤド・モスクを建設したのがビザンチンの芸術家たちであったと思われることも想起されるであろう。cf. Ettinghausen, Richard, et Grabar, Oleg. Islamic art and architecture. New Haven and London : Yale University Oress, p. 26.同様に、主にエジプトやシリアに由来する、キリスト教の図像を持つ作品も数多く存在している。
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- ブルーム, ジョナサン; ブレア, シーラ; 桝屋友子(翻訳) (2001-03-26), 岩波 世界の美術 イスラーム美術, 東京: 岩波書店, ISBN 4-00-008925-0
- 447ページ、フルカラー。ファイドン出版社による美術書シリーズの訳書。イスラームの歴史をこの記事と同様の3つの時代に大別し、それぞれの時代の建築・写本・織物・装飾美術を章立てして解説。
- 桝屋, 友子 (2009-10-20), すぐわかるイスラームの美術 建築・写本芸術・工芸, 東京: 東京美術, ISBN 978-4-8087-0835-1
- 151ページ、フルカラー。ブルーム & ブレア 2001の訳者による入門用の小著。重要な概念と作品を多数の図版つきでコンパクトに押さえている。この記事の訳語は主にこの本から採った。
- 小林, 一枝 (2004-08-25), 『アラビアン・ナイト』の国の美術史——イスラーム美術入門, 東京: 八坂書房, ISBN 4-89694-845-9
- 169ページ。『千夜一夜物語』の引用を解説する形で分野別に章立てしイスラーム世界の文化と美術を解説。
- メトロポリタン美術館 (1987-10-01), メトロポリタン美術全集 第10巻 イスラム, 東京: 福武書店, ISBN 4-8288-1510-4
- 180ページ、フルカラーの大型美術書。同美術館の所蔵品の写真とその解説(従って建築にはほとんど触れていない)。ステュアート・キャリー・ウェルチによる序文「イスラムの美術」(pp.7-19)あり。
- 杉村, 棟, ed. (1999-08-20), イスラーム, 世界美術大全集 東洋編, 第17巻, 東京: 小学館, ISBN 4-09-601067-7
- 466ページの大型美術書。主要な王朝・帝国別に章立てし、潤沢な図版と共にイスラーム美術全体を解説。代表的な作品の大部分を申し分のない品質で見ることができる。ムガル帝国は対象外(第14巻)。
- 深見, 奈緒子 (2003-07-10), イスラーム建築の見かた, 東京: 東京堂出版, ISBN 4-490-20481-1{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。
- 三上, 次男, ed. (1986-01-10), 世界陶磁全集 21 世界(二), 東京: 小学館, ISBN 4-09-641021-7
- 299ページの大型美術書。多数のカラー写真と共にイスラーム陶器全体を通説。年表と文献目録あり。
- クーパー, エマニュエル (1997-10-01), 世界の陶芸史, 東京: 日貿出版社, ISBN 4-8170-8011-6
- 南雲龍比古訳、345ページ。pp.99-122がイスラーム時代の中近東に割かれているほか、イスラーム以前のこの地域の陶芸についてもpp.26-38で触れている。