「エーリヒ・ルーデンドルフ」の版間の差分
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'''エーリヒ・フリー |
'''エーリヒ・フリードリヒ・ヴィルヘルム・ルーデンドルフ'''('''Erich Friedrich Wilhelm Ludendorff''', [[1865年]][[4月9日]] - [[1937年]][[12月20日]])は[[ドイツ]]の[[軍人]]、[[政治家]]である。<br>[[第一次世界大戦]]初期の[[タンネンベルクの戦い (1914年)|タンネンベルクの戦い]]において第8軍司令官[[パウル・フォン・ヒンデンブルク]]を補佐してドイツ軍を勝利に導いた。大戦中期から後期には参謀本部総長となったヒンデンブルクの下で参謀本部次長を務め、「ルーデンドルフ独裁」とも呼ばれる巨大な実権を握った。最終階級は[[歩兵]][[大将]](General der Infanterie)。戦後は[[アドルフ・ヒトラー]]と結び、[[ミュンヘン一揆]]を起こした。<br>『[[総力戦 (ルーデンドルフ)|総力戦]]』の著者としても知られる。 |
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[[第一次世界大戦]]において[[タンネンベルクの戦い]]で勝利し、その後の戦争遂行を指導し、また『[[総力戦 (ルーデンドルフ)|総力戦]]』を著したことで有名である。 |
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== 略歴 == |
== 略歴 == |
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=== 生まれ === |
=== 生まれ === |
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ルーデンドルフは[[プロイセン王国]]が1793年から1919年まで統治した[[ポーゼン]]州のシュヴェルゼンツ近くのクレシェフニア村([[:en:Kruszewnia|Kruszewnia]])にアウグスト・ヴィルヘルム・ルーデンドルフ(August Wilhelm Ludendorff)とその妻クラーラ(Klara)(旧姓フォン・テンペルホーフ(von Tempelhoff))夫妻の息子として生まれた。現在この地はポーランド領である。ルーデンドルフ家は[[ポンメルン]]の商人の一族であり、[[ユンカー]]ではなかったが、母親のフォン・テンペルホーフ家は有名なユンカー一家の出身であった。 |
ルーデンドルフは[[プロイセン王国]]が1793年から1919年まで統治した[[ポーゼン]]州のシュヴェルゼンツ近くのクレシェフニア村([[:en:Kruszewnia|Kruszewnia]])に地主アウグスト・ヴィルヘルム・ルーデンドルフ(August Wilhelm Ludendorff)とその妻クラーラ(Klara)(旧姓フォン・テンペルホーフ(von Tempelhoff))夫妻の息子として生まれた。現在この地はポーランド領である。ルーデンドルフ家は[[ポンメルン]]の商人の一族であり、[[ユンカー]]ではなかったが、[[ブルジョワ]]だった。母親のフォン・テンペルホーフ家は有名なユンカー一家の出身であった。母の家系は[[テンプル騎士団]]以来のプロイセン軍人家系である<ref name="ゲルリッツ(1998)284">[[#ゲルリッツ(1998)|ゲルリッツ(1998)、p.284]]</ref>。 |
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=== 第一次大戦前の軍歴 === |
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1877年に[[プーレン (ドイツ)|プレーン]]([[:de:Plön|de]])の士官学校(Kadettenkorps)に入学し、ついで1879年7月より[[ベルリン]]・[[グロース・リヒターフェルデ]]([[:de:Groß-Lichterfelde|de]])の[[プロイセン高級士官学校]]([[:de:Preußische Hauptkadettenanstalt|de]]) に入学した<ref name=" Machine">[http://home.comcast.net/~jcviser/aok/ludendorff.htm The Prussian Machine - Generals]</ref>。1882年まで在学した<ref name="LeMO">[http://www.dhm.de/lemo/html/biografien/LudendorffErich/index.html LeMO]</ref><ref name="Tannenberg">[http://www.tannenberg1914.de/4_feldh/lud3_wdg.htm Die Schlacht bei Tannenberg 1914]</ref>。[[1882年]]4月より[[ヴェーゼル]]([[:de:Wesel|de]])の第57歩兵連隊の少尉に任官した<ref name="Tannenberg"/>。1887年から1890年にかけて[[ヴィルヘルムハーフェン]]([[:de:Wilhelmshaven|de]])で海軍の陸上部隊と共に任務にあたっていた。1890年7月に中尉に昇進<ref name=" Machine"/><ref name="Bund">[http://www.ludendorff.info/Wichtigste/erich_ludendorff.htm Bund für Gotterkenntnis (Ludendorff) e.V.]</ref>。 |
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[[File:Hindenburg, Kaiser, Ludendorff HD-SN-99-02150.JPG|thumb|200px|第一次世界大戦中の参謀本部総長ヒンデンブルク(左)、皇帝[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]](中央)、参謀本部次長ルーデンドルフ(右)]] |
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彼はプロイセンの幼年学校を経て[[1882年]]に18歳で入隊して少尉に任官された。陸軍大学校を卒業後には大尉に昇進して[[1894年]]に[[プロイセン参謀本部|参謀本部]]に入る。[[1908年]]から[[1912年]]までフランス攻撃計画[[シェリーフェン・プラン]]のための作戦部(Militärische Plannungsabteilung)を率いたが、陸大の増強を主張する建白書を起草したことがきっかけとなり、1913年にデュッセルドルフの第39ニーダーライン歩兵連隊の部隊長へ左遷された。1914年には陸軍少将に昇進するとともにシュトラスブルク旅団の部隊長として勤務する。 |
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1890年10月から[[プロイセン戦争大学校|プロイセン戦争大学(陸軍大学)]]([[:de:Preußische Kriegsakademie|de]])に入学した。卒業後の1893年6月からバーデン近衛擲弾兵連隊「フリードリヒ・ヴィルヘルム3世」に勤務した<ref name=" Machine"/>。1894年4月に[[プロイセン参謀本部|参謀本部]]に配属される<ref name=" Machine"/>。1895年3月に大尉に昇進するととも[[マグデブルク]]の第4軍団に参謀として配属された<ref name=" Machine"/>。1898年4月に[[トルン]]の第61(第8[[ポンメルン]])歩兵連隊「フォン・デア・マールヴィッツ」の中隊長、1900年7月には[[グローガウ]]の第7歩兵連隊の参謀、1902年7月にポーゼンの第5軍団の参謀に転属する。1902年7月に少佐昇進。1904年4月にベルリンの参謀本部の第2部(戦時中に作戦部(Militärische Plannungsabteilung)となると定められていた部署)の部長に就任した。1906年10月には戦争大学で教鞭をとった<ref name=" Machine"/>。 |
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[[第一次世界大戦]]の開戦時は[[西部戦線 (第一次世界大戦)|西部戦線]]のドイツ第2軍の参謀長代理だったが、リェージュ要塞の攻略での戦功が認められたために、[[パウル・フォン・ヒンデンブルク]]に抜擢されて[[東部戦線 (第一次世界大戦)|東部戦線]]の指揮を任される。ルーデンドルフは[[マックス・ホフマン]]の計画もあって1914年8月に[[タンネンベルクの戦い (1914年)|タンネンベルクの戦い]]で大勝するなど、一連の戦功を挙げることに成功する。[[1916年]]8月に参謀次長に就任し、ヒンデンブルクと共にドイツ軍の全権を握った。 |
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1908年4月に中佐に昇進するとともに参謀本部の第2部の部長に復帰した。同年、工場所有者の娘マルガレーテ・シュミット(Margarete Schmidt)と結婚した<ref name="LeMO"/>。1911年に第1部部長が「軍人より外交官にふさわしい」と評された[[ゲオルク・フォン・ヴァルテンゼー]][[中将]]になったのを機にルーデンドルフの影響力が拡大し始めた<ref name="ゲルリッツ(1998)225">[[#ゲルリッツ(1998)|ゲルリッツ(1998)、p.225]]</ref>。彼は一貫して「真の形態での戦争」を主張した。平和とは二つの戦争に挟まれた休戦期間に過ぎず、全ての手段は戦争指導に従属させるべしと主張していた。これは戦争は政治の手段とした[[カール・フォン・クラウゼヴィッツ]]の考えに完全に反駁するものであった。ルーデンドルフによれば政治の方が戦争指導の手段であった<ref>[[#ゲルリッツ(1998)|ゲルリッツ(1998)、p.225-226]]</ref>。そのためルーデンドルフは職業軍人でありながら「全ドイツ協会」という政治団体を使って積極的に政治の世界に参加した。[[帝国議会 (ドイツ帝国)|帝国議会議員]]の取り込みを図り、巨額な軍拡を認めさせ、1912年には二個軍団の増設と野砲の増強、陸軍11万7000人の増員、航空機の拡張などを実現した<ref>[[#ゲルリッツ(1998)|ゲルリッツ(1998)、p.227-228]]</ref>。しかし当時のドイツ帝国の財政は[[建艦競争]]や社会保障費のために極度に逼迫しており、また陸相[[ヨシアス・フォン・ヘーリンゲン]]([[:de:Josias von Heeringen|de]])大将も急速な軍拡によって将校団の教育や構成に弊害が生じ、将校団が「民主化」する事を恐れていた。そのためやがてルーデンドルフの行動は「出過ぎ」と看做されるようになり、1913年1月に[[デュッセルドルフ]]の第39ニーダーライン歩兵連隊の連隊長へ左遷された<ref name=" Machine"/><ref name="ゲルリッツ(1998)228">[[#ゲルリッツ(1998)|ゲルリッツ(1998)、p.228]]</ref>。 |
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戦時補給局に鉄道の専門家を起用し、また軍需物資の生産にヒンデンブルク綱領の実施を強制するなどの戦時独裁を実践した。1917年にイギリスに対する[[海上封鎖]]を徹底化するために[[無制限潜水艦作戦]]を開始し、結果的に[[アメリカ合衆国]]の参戦を招いた。1918年の春以後に東部戦線で成功を収めたものの、国力の限界を迎えてドイツは第一次世界大戦に敗れている。 |
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1914年4月に少将に昇進するとともに5月から[[シュトラスブルク]]の第85歩兵旅団の旅団長に就任した<ref name=" Machine"/>。 |
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=== ヴァイマル共和政時代 === |
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[[File:Bundesarchiv Bild 102-00344A, München, nach Hitler-Ludendorff Prozess retouched.jpg|thumb|200px|ルーデンドルフ(中央)と[[ヒトラー]](ルーデンドルフの右)]] |
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ドイツの敗戦でスウェーデンに亡命したが1919年に帰国した。この頃に著作『世界大戦を語る』を出版している。帰国後は専ら反[[ヴァイマル共和政]]の政治活動に専念するようになり、右翼・保守の人望を得た。1923年11月、ミュンヘンの右翼政党[[国家社会主義ドイツ労働者党]](ナチ党)の党首[[アドルフ・ヒトラー]]は、[[バイエルン州]]総督[[グスタフ・フォン・カール]]、バイエルン駐在の第7師団司令官[[オットー・フォン・ロッソウ]]([[:de:Otto von Lossow|Otto von Lossow]])少将、州警察長官の[[ハンス・フォン・ザイサー]]([[:de:Hans von Seißer|Hans von Seißer]])大佐の三名に「ベルリン進軍」を迫るため、[[ミュンヘン一揆]]を起こす事を企図した。ヒトラーはルーデンドルフ将軍に接近して、彼を一揆指導者に祭り上げた。 |
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=== 第一次世界大戦 === |
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一揆当日の1923年11月8日、ヒトラーがカールが演説中の「[[ビュルガーブロイケラー]]」を占拠したと聞いたルーデンドルフ将軍はここに駆け付けた。しかしヒトラーが後をルーデンドルフ将軍に任せてビュルガーブロイケラーを一時離れた際、ルーデンドルフ将軍は、カール、ロッソウ、ザイサーらの言葉を信じて彼らを釈放してしまった。この後、彼らは一揆の鎮圧を命令している。 |
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==== リェージュ要塞攻略 ==== |
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[[第一次世界大戦]]が開戦した直後の1914年8月2日に[[西部戦線 (第一次世界大戦)|西部戦線]]のドイツ第2軍で司令官[[カール・フォン・ビューロウ]]上級大将の下で第二補給部長となった。第14歩兵師団に連絡将校として同行していた時に同師団の師団長が戦死したのを受けて代わって師団の指揮を執り、難攻不落と言われた[[リェージュ要塞]]([[:fr:Position fortifiée de Liège|fr]])を攻略した。ルーデンドルフは参謀本部第2部長時代からこの要塞をめぐって激しい争いになる事を予測してその奇襲を研究していたのだった<ref name=" Machine"/><ref name="ゲルリッツ(1998)242">[[#ゲルリッツ(1998)|ゲルリッツ(1998)、p.242]]</ref>。リェージュ要塞の陥落によってドイツ軍はベルギー国内に続々となだれ込むことが可能となった<ref name="ゲルリッツ(1998)242"/>。 |
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ルーデンドルフは、[[ドイツ皇帝|カイザー]]・[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]や参謀総長の「小モルトケ」こと[[ヘルムート・ヨハン・ルートヴィヒ・フォン・モルトケ]]から高く評価された。 |
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11月9日朝、ルーデンドルフ将軍はヒトラーとともにナチ党員を率いてミュンヘン市中心部へ向けて行進を開始した。ヒトラーを中心にして左にルーデンドルフ、右に[[マックス・エルヴィン・フォン・ショイブナー=リヒター]]が先頭に並び、三人は腕を組んだ。ヒトラーもルーデンドルフ自身も一次大戦の英雄であるルーデンドルフに発砲はしまいという過信があった。しかしバイエルン警官隊は彼らに向けて発砲した。ナチ党員たちの一団は総崩れになり、撤退した。ルーデンドルフは逃げることなく、警官たちの方へ歩み、そのまま逮捕されている。 |
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==== タンネンベルクの戦い ==== |
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1924年2月26日、逃亡先で逮捕されたヒトラーとともに裁判にかけられた。4月1日に判決が出たが、ルーデンドルフ将軍は無罪であった。その後、[[グレゴール・シュトラッサー]]や[[エルンスト・レーム]]とともに党の再建を開始し、非合法にされたナチ党の偽装政党[[国家社会主義自由党]]を立ち上げた。その後、同党は[[ドイツ民族自由党]]と合流して国家社会主義自由運動となった。[[ドイツ国会1924年選挙 (5月)|1924年の国会選挙]]で国会議員に当選した。[[1925年ドイツ大統領選挙]]では再建されたナチ党の大統領候補となるが選挙で惨敗した。この惨敗で事実上政治生命を断たれた。さらにヒトラーと意見が合わなくなり、ナチ党の提携から離れ、独自の考えによる著述・著作活動を始める。 |
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[[東部戦線 (第一次世界大戦)|東部戦線]]で[[マクシミリアン・フォン・プリトヴィッツ・ウント・ガフロン]][[上級大将]]([[:de:Maximilian von Prittwitz und Gaffron|de]])率いるドイツ第8軍が敗れたのを機にプリトヴィッツは更迭され、東部戦線はルーデンドルフ少将に任せることが決定した。しかしルーデンドルフは勤続年数から軍司令官就任資格がなく、参謀長にしか任命できなかった。そのため第8軍司令官には退役していた[[パウル・フォン・ヒンデンブルク]][[大将]]が就任した。ルーデンドルフはその補佐役の参謀長に就任した<ref name="ゲルリッツ(1998)253">[[#ゲルリッツ(1998)|ゲルリッツ(1998)、p.253]]</ref><ref name="ベネット(1970)20">[[#ベネット(1970)|ベネット(1970)、p.20]]</ref>。この二人は第一次世界大戦を通じてコンビを組み続けることになるが、二人の関係では常にルーデンドルフが頭脳であり、ヒンデンブルクはお飾りの存在であった<ref name="ベネット(1970)24">[[#ベネット(1970)|ベネット(1970)、p.24]]</ref>。 |
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[[Image:Hindenburg-ludendorff.jpg|250px|left|thumb|第8軍参謀長ルーデンドルフ(右)と軍議をする第8軍司令官'''ヒンデンブルク'''を描いた絵(フーゴー・フォーゲル画・1928年)]] |
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この時期の代表的な著作に「[[総力戦 (ルーデンドルフ)|総力戦]]」(1935)がある。この著作でルーデンドルフは戦争と政治の関係が変化した結果として政治そのものが変化したとして、総力政治の概念を導入して総力戦の必然性を論じた。この著作の刊行後にその理念の一部は[[エチオピア戦争]]や[[スペイン内戦]]で現実のものとなったが、ヒトラーは[[第二次世界大戦]]の開戦においてこの理論を排除している。つまり軍人が国家を指導するのではなく、政治家ヒトラーによって軍人を統制することが徹底されていた。しかしこの著作を含めたルーデンドルフの戦間期における言論活動はしばしば問題の多い刺激を与えている。日本では[[石原莞爾]]がルーデンドルフを深く研究するなど、ドイツに留学・駐在を経験した武官を中心に、昭和期の日本陸軍の思考に大きな影響を与えた。 |
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ヒンデンブルクとともに8月23日夜に[[マリエンブルク]]の第8軍司令部に着任した。先任の第8軍作戦参謀[[マックス・ホフマン]]中佐とともにドイツ第8軍の反撃作戦を指揮した。損害や補給不足の影響でロシア第1軍がしばらく動かない事を電信の傍受で掴んでいたドイツ第8軍は、大部隊と見せかけた第1騎兵師団だけをロシア第1軍の正面に残し、また[[タンネンベルク]]付近で第20軍団をロシア第2軍に当たらせている間に他の各[[軍団]]・[[師団]]をロシア第2軍の左翼と右翼に移動させた。 |
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8月26日からこれらの軍団や師団がロシア第2軍に攻撃を開始した。[[ヘルマン・フォン・フランソワ]]大将([[:de:Hermann von François|de]])率いる第1軍団は左翼から、[[アウグスト・フォン・マッケンゼン]]大将率いる第17軍団は右翼からロシア第2軍の背後に回り込み、8月29日早朝には同軍を包囲する事に成功した。ロシア第2軍20万人のうちロシアへ帰国する事が出来たのはわずか1万7000人だった<ref name="学研上27">[[#学研上|『図説 第一次世界大戦 <上>』、p.27]]</ref>。 |
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世界中で起こっている様々な問題を[[キリスト教徒]]・[[ユダヤ人]]と[[フリーメイソン]]に因るものとする[[陰謀論]]を著作で主張した。[[1935年]]に[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]によって陸軍[[元帥 (ドイツ)|元帥]]に列するとの申し出があったが、この頃のルーデンドルフはヒトラーを内心で敵視・危険視しており「'''ヒトラー君!君はまだ元帥を承認することは出来ない'''」と激怒して拒絶。またヒンデンブルクがヒトラーを首相に任命した時には「'''あなたは偉大な祖国を最悪な扇動者に渡してしまった。この男は我がドイツに不幸な災いをもたらすだろう'''」と激しく糾弾する手紙を送っている。1937年に[[トゥッツィング]] [[:de:Tutzing|Tutzing]]で没したが、その葬儀は[[国葬]]として執り行われた。 |
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西部戦線から引き抜かれた2個軍団が新たに第8軍に加えられ、9月5日からロシア第1軍への攻撃を開始した。4個軍団でロシア第1軍に正面から攻撃をかけるとともに第1軍団と第17軍団にロシア第1軍左翼に当たる湖沼地帯を突破させ、その背後に回り込ませようとした。ロシア第1軍司令官レンネンカンプは第2軍の二の舞になる事を恐れて2個師団を後衛として擁護させながら、東プロイセンから撤退した。ロシア軍の退却は9月10日から14日に及んだが、その間にもドイツ軍は砲撃を加え、ロシア第1軍は死傷者と捕虜で14万5000人の兵を失った<ref name="ベネット(1970)30">[[#ベネット(1970)|ベネット(1970)、p.30]]</ref><ref name="学研上27"/>。こうして東プロイセンを巡ってドイツ帝国とロシア帝国で争われた「[[タンネンベルクの戦い (1914年)|タンネンベルクの戦い]]」はドイツ軍の大勝利に終わった。 |
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==== 東部方面軍参謀長 ==== |
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[[File:Bundesarchiv Bild 183-2005-0828-525, Erich Ludendorff.jpg|200px|right|thumb|1915年のルーデンドルフ]] |
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オーストリア軍支援の[[ガリチア]]方面出兵のためにドイツ第8軍は急遽第9軍を編成し、東部戦線のドイツ軍は第8軍と第9軍の2軍となり、その両軍の上に東部[[方面軍]]が置かれ、ヒンデンブルクが東部方面軍司令官、ルーデンドルフが東部方面軍参謀長にそれぞれ就任した。実権は引き続きルーデンドルフが握った。 |
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1914年9月28日に第9軍と第8軍の一部はオーストリア軍支援のために[[ポーランド]]南部で攻勢に出て、[[ワルシャワ]]占領を目指し、10月6日には[[ヴィスワ川|ヴァイクセル川]]に到着した。しかし[[ヴィスワ川の戦い|ヴァイクセル川の戦い]]([[:de:Schlacht an der Weichsel (1914)|de]])でロシア軍の頑強な抵抗にあい、突破できなかった。ドイツ軍は10月17日に退却し、オーストリア軍も[[カルパティア山脈]]まで押し戻された。ロシア軍はシュレージエンやハンガリーをうかがうまでに勢力を回復した<ref name="学研上81">[[#学研上|『図説 第一次世界大戦 <上>』、p.81]]</ref><ref name="ベネット(1970)45">[[#ベネット(1970)|ベネット(1970)、p.45]]</ref>。 |
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11月3日の作戦会議で東部方面軍は作戦を立て直した。ロシア軍に気づかれぬように鉄道で第9軍をすばやく移動させ、11月11日に[[ロッヅ]]を強襲したのであった。[[ロッヅの戦い]]([[:de:Schlacht um Łódź|de]])の末に12月6日にドイツ第9軍がロッヅを占領した。これによりロシア軍のシュレージエン侵入の野望は潰えた<ref name="学研上81"/><ref name="ベネット(1970)47">[[#ベネット(1970)|ベネット(1970)、p.47]]</ref>。 |
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1915年1月にヴィルヘルム2世の決裁で新たに4個軍団を得た東部方面軍は第10軍を創設した。オーストリア軍からの要請を受け、東プロイセンとカルパティアからロシア軍の突出部を攻撃する計画が実行された。東プロイセン・[[マズリア湖の戦い]]([[:de:Winterschlacht in Masuren|de]])でロシア軍に勝利をおさめたが、ロシア軍は新手の第12軍を投入し、また[[カルパティアの戦い]]([[:de:Schlacht in den Karpaten|de]])のオーストリア軍の敗北でドイツの情勢はむしろ悪化した<ref name="学研上91">[[#学研上|『図説 第一次世界大戦 <上>』、p.91]]</ref>。 |
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東部方面軍に業を煮やしたファルケンハイン参謀総長は新設の第11軍とともに東部戦線を訪れ、直接指揮を執った。第11軍の司令官には[[アウグスト・フォン・マッケンゼン]]が任じられ、5月2日に第11軍は[[ゴルリッツの戦い]]([[:de:Schlacht von Gorlice-Tarnów|de]])で攻撃を仕掛け、勝利を収めた。これを機にロシア軍は押し込められた。8月には[[ワルシャワ]]が陥落。ロシア軍は[[大退却]]([[:ru:Великое отступление 1915 года|ru]])を行い、1915年秋には東部戦線はひとまず安定した<ref name="学研上93">[[#学研上|『図説 第一次世界大戦 <上>』、p.93]]</ref>。 |
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ファルケンハインはこの成功を盾に東部方面軍に対して態度を強め、東部方面軍の師団を別の戦線へ移動させるようになった。これに対してヒンデンブルクは1915年10月6日に「夏の作戦だけではロシア軍の攻撃力は完全に破られてはいない」としてこれ以上東部方面軍から師団を送ることを拒絶した。しかしヴィルヘルム2世の決裁でファルケンハインの命令通り、師団を送るよう命じられた<ref name="ベネット(1970)64">[[#ベネット(1970)|ベネット(1970)、p.64]]</ref>。ファルケンハインは1915年夏の勝利でロシアは当分立ち直れないと踏んでいたが、その見通しは甘かった。ロシア軍は迅速に再編成を済ませ、フランス軍の要請を受けて1916年3月19日に[[ナーロチ湖の戦い]]([[:de:Schlacht am Naratsch-See|de]])で攻勢に出た。東部方面軍は何とかこれを撃退したが、6月4日にはロシア軍はオーストリア軍に対して[[ブルシーロフ攻勢]]をかけて勝利を収めた。ロシア軍は7月にドイツ東部方面軍に対する攻勢にでたが、ドイツ東部方面軍はこれを食い止め、戦線を保った。ロシア軍は10月まで攻勢を続けたが、すでに不意打ちの効果は失われていた。ロシア軍はこの一連の攻勢で100万の兵を失った<ref name="学研下53">[[#学研下|『図説 第一次世界大戦 <下>』、p.53]]</ref>。ロシアで厭戦気分が高まり、1917年2月には[[ロシア革命]]が発生し、ロシア帝政が崩壊した。 |
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==== 参謀本部次長 ==== |
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[[File:Hindenburg, Kaiser, Ludendorff HD-SN-99-02150.JPG|thumb|250px|1917年、参謀本部総長ヒンデンブルク(左)、皇帝[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]](中央)、参謀本部次長ルーデンドルフ(右)]] |
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[[File:Bundesarchiv Bild 183-1992-0707-500, Erich Ludendorff.jpg|thumb|250px|1918年のルーデンドルフ]] |
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[[File:Ludendorf Hindenburg.jpg|thumb|250px|1918年5月、スパの大本営。ヒンデンブルク(左)とルーデンドルフ(右)]] |
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ファルケンハインが発動した西部戦線の[[ヴェルダンの戦い]]は思わしくなく、また彼が東部から兵力を引き抜いた後に東部戦線でロシア軍の攻勢があったことで彼の面目は潰れた。[[1916年]]8月にファルケンハインは更迭されることとなった。ヒンデンブルクが後任の参謀総長(Chef des Generalstaffs des Feldheeres)に任じられた。ルーデンドルフは参謀次長に任じられたが、この際に彼はこの役職の名称を「第一兵站総監」(Erster Oberquartiermeister)に改めたいと願い出て許可された<ref name="ゲルリッツ(1998)276">[[#ゲルリッツ(1998)|ゲルリッツ(1998)、p.276]]</ref>。この人事はモルトケの推挙によるものだったという<ref name="渡部(2009)232">[[#渡部(2009)|渡部(2009)、p.232]]</ref>。これまで同様にヒンデンブルクはお飾りでルーデンドルフが実質的に役割を果たした。 |
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ルーデンドルフはただちに各軍集団、軍、師団の司令部において司令官よりもベルリン参謀本部の指揮下にある野戦参謀本部が指揮をとるように改め、自分の指揮権限を拡大した<ref name="ゲルリッツ(1998)288">[[#ゲルリッツ(1998)|ゲルリッツ(1998)、p.288]]</ref>。これ以降のドイツの戦争は実質的にルーデンドルフによって指導されるようになった。またヴィルヘルム2世と宰相[[テオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェーク]]がそろって国家指導の才能に乏しく、国の政治指導部が「真空状態」になっていたこともあり、彼は政治にも干渉して「ルーデンドルフ独裁」と呼ばれる時代を築くこととなった<ref name="学研下144">[[#学研下|『図説 第一次世界大戦 <下>』、p.144]]</ref><ref name="渡部(2009)233">[[#渡部(2009)|渡部(2009)、p.233]]</ref>。 |
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情報部を独立部署として発足させ、また外務省の参謀本部の出先機関を外務部とし、同部の下に宣伝を目的とする写真・映像課を設置させた。この課の下に映画会社[[ウーファ]]が設立された<ref name="ゲルリッツ(1998)284">[[#ゲルリッツ(1998)|ゲルリッツ(1998)、p.284]]</ref>。また鉄道部の[[ヴィルヘルム・グレーナー]]に軍需生産の中枢として「戦争局」を設置させた<ref name="ゲルリッツ(1998)286">[[#ゲルリッツ(1998)|ゲルリッツ(1998)、p.286]]</ref>。ますます重要な存在と化し始めていた航空隊を陸海軍に次ぐ「第三の軍」と認め、これを参謀本部の直接指揮下に置いた<ref name="ゲルリッツ(1998)286">[[#ゲルリッツ(1998)|ゲルリッツ(1998)、p.286]]</ref>。 |
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参謀本部は軍事はもちろん、新聞や映画や絵画などの統制、宣伝、外交政策、軍需生産などあらゆる分野に手を伸ばすようになった<ref name="ゲルリッツ(1998)289">[[#ゲルリッツ(1998)|ゲルリッツ(1998)、p.289]]</ref>。ドイツが戦争に勝つためには国内のあらゆる分野を全て統制下において、その戦争潜在能力を最大限に引き出して活用する総力戦しか道はなかった。ヒンデンブルクとルーデンドルフの承認によってグレーナーが総力戦体制を「ヒンデンブルク綱領」としてまとめた。あらゆる消費財と食料の徹底的統制を命じ、また最後まで残されていた予備労働力である女性の動員を命じた。しかし総力戦体制は急速に社会の均一化をもたらし、「戦時社会主義」ともいうべき社会状況を発生させた。前線でも数百万人の動員、塹壕戦といった特殊な環境の中で兵士と将校の平等化が起こっていた。後の「[[ドイツ革命]]」への下地は着実に築かれていった<ref name="ゲルリッツ(1998)292">[[#ゲルリッツ(1998)|ゲルリッツ(1998)、p.292]]</ref>。 |
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宰相ホルヴェークは[[無制限潜水艦作戦]]に反対し、ルーデンドルフと対立を深めた。ルーデンドルフは1917年7月に彼を失脚させた。後任に元宰相[[ベルンハルト・フォン・ビューロー]]侯爵か元海軍大臣[[アルフレート・フォン・ティルピッツ]]提督を考えたが、この二人はかつてヴィルヘルム2世が解任した人物であったからヴィルヘルム2世から反対があり、結局[[ゲオルク・ミヒャエリス]]が就任することとなった<ref name="ゲルリッツ(1998)293">[[#ゲルリッツ(1998)|ゲルリッツ(1998)、p.293]]</ref>。しかしこのミヒャエリスは1917年夏の最初の水兵の反乱、軍需工場のストライキなどにうまく対応できずに早々に辞職し、結局[[ゲオルク・フォン・ヘルトリング]]伯爵が宰相となった<ref name="ゲルリッツ(1998)300">[[#ゲルリッツ(1998)|ゲルリッツ(1998)、p.300]]</ref>。 |
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一方戦争指導ではこれまでの東部戦線大攻勢論を撤回して西部戦線の立て直しに力を入れた。連合軍の攻勢に先んじて戦線を後退させ、強固な塹壕陣地帯「[[ジークフリート線 (第一次世界大戦)|ジークフリート線]]([[:de:Siegfriedstellung]])」(連合国は「ヒンデンブルク線」と呼んだ)を構築して防御を固めた。 |
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1917年4月にイギリス軍は[[アラス会戦]]([[:de:Schlacht von Arras (1917)|de]])で攻勢を強め、5月から6月の[[メッシーネの戦い]]([[:de:Schlacht von Messines|de]])でドイツ軍の突出部を攻略。さらに7月末から11月にかけて[[パッシェンデールの戦い]]、11月から12月にかけて戦車軍団を動員した[[カンブレーの戦い]]([[:de:Schlacht von Cambrai|de]])で攻勢をかけたが、ドイツ軍は頑強に抵抗してイギリス軍の侵攻を防いだ。 |
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一方フランス軍は1917年4月に[[エーヌ会戦]]([[:de:Schlacht an der Aisne (1917)|de]])で攻勢をかけたが、ドイツ軍が勝利した。フランスで厭戦気分が高まり、4月29日に68個師団で反乱が勃発した。首相[[ジョルジュ・クレマンソー]]が何とか抑え込み、ドイツとの戦争を継続した<ref name="学研下59">[[#学研下|『図説 第一次世界大戦 <下>』、p.59]]</ref>。 |
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海戦ではイギリスに対する[[海上封鎖]]を徹底化するために1917年2月に[[無制限潜水艦作戦]]を決定した。これは1917年4月の[[アメリカ合衆国]]の参戦を招いた。しかし当時のアメリカには本格的な陸軍はなく、軍の組織から開始する状況だったのでアメリカの実際的な参戦は1年先だった<ref name="学研下58">[[#学研下|『図説 第一次世界大戦 <下>』、p.58]]</ref>。 |
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一方、[[ロシア革命]]により帝政が崩壊したロシアに対しては和平交渉を行った。ロシア臨時政府首相[[アレクサンドル・ケレンスキー]]は連合国の求めに応じてドイツとの戦争を続行したが、ケレンスキー政府は1917年10月の[[ボルシェヴィキ]]によるロシア革命により崩壊した。[[ウラジーミル・レーニン]]のボルシェヴィキ政府が立ち上げられた。ドイツはレーニン政府に[[ウクライナ]]や[[バルト三国]]の分離独立を求めた。レーニンは初め拒絶したが、ロシアの軍事力は革命の混乱で崩壊状態であり、1918年2月にドイツ軍がロシア軍へ攻撃を開始したことで要求を飲むしかなくなった。1918年3月3日に[[ブレスト・リトフスク条約]]が締結され、ドイツはロシアを下した。3月5日にはロシアの後援を失った[[ルーマニア]]も降伏。東部戦線は終結した<ref name="学研下58"/>。 |
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ロシア脱落を受けてドイツ軍はアメリカが本格参戦してくる前に西部戦線に最後の攻勢をかけることにした。ドイツ軍は1918年3月から7月にかけて東部の兵力をすべて西側に回して最後の大攻勢「[[カイザーシュラハト]](皇帝の戦い)」([[:de:Deutsche Frühjahrsoffensive 1918|de]])作戦を行った。しかしドイツ軍の奮闘もむなしく、戦局を好転させることはできなかった<ref name="学研下39">[[#学研下|『図説 第一次世界大戦 <下>』、p.39]]</ref>。さらに[[1918年]]8月8日に[[アミアンの戦い]]([[:de:Schlacht bei Amiens (1918)|de]])でドイツ陸軍が決定的な敗北を喫した。ルーデンドルフはこの日を「ドイツ陸軍暗黒の日」と称した<ref name="学研下40">[[#学研下|『図説 第一次世界大戦 <下>』、p.40]]</ref><ref name="阿部(2001)39">[[#阿部(2001)|阿部(2001)、p.39]]</ref>。 |
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戦況を絶望視したルーデンドルフは、連合国との和平交渉をアメリカに取り持ってもらうため、アメリカから条件として突きつけられたドイツの民主化を急ぐようになった。宰相[[ゲオルク・フォン・ヘルトリング]]を辞職させ、アメリカから自由主義者として評価が高かった[[マクシミリアン・フォン・バーデン]]を宰相に任じ、議会制民主主義を導入させた。しかしアメリカは戦争指導者の追放も要求していたので、マクシミリアンや議会から戦争指導者としてルーデンドルフを辞職させるよう皇帝ヴィルヘルム2世に圧力が強まった。10月26日にヴィルヘルム2世はルーデンドルフに参謀本部次長を辞させた<ref name="阿部(2001)41">[[#阿部(2001)|阿部(2001)、p.41]]</ref><ref name="林(1968)6">[[#林(1968)|林(1968)、p.6]]</ref>。なおヒンデンブルクは留任した。ルーデンドルフはこれに不満があったらしく、ヒンデンブルクと別れる時に「貴方も辞職されるべきだった」と述べた<ref name="ベネット(1970)158">[[#ベネット(1970)|ベネット(1970)、p.158]]</ref>。 |
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=== 戦後 === |
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ドイツの敗戦でスウェーデンに亡命し、『戦争回顧録』(Kriegserinnerungen)を著した。1919年2月にドイツ、[[バイエルン州]]のミュンヘンへ帰国し、帰国後は専ら反[[ヴァイマル共和政]]の政治活動に専念するようになり、右翼・保守の人望を得た。1920年の[[カップ一揆]]にも参加した<ref name="ヴィストリヒ(2002)307">[[#ヴィストリヒ(2002)|ヴィストリヒ(2002)、p.307]]</ref>。 |
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=== ミュンヘン一揆 === |
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[[File:Bundesarchiv Bild 183-R41120, Erich Ludendorff, Gustav v. Kahr.jpg|thumb|250px|1921年、ルーデンドルフ(中央)と[[グスタフ・フォン・カール]](左)]] |
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[[File:Bundesarchiv Bild 102-00344A, München, nach Hitler-Ludendorff Prozess retouched.jpg|thumb|250px|1924年4月1日、ミュンヘン一揆裁判の判決の日。ルーデンドルフ(中央)と[[ヒトラー]](ルーデンドルフの右)。]] |
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1923年11月、ミュンヘンの右翼政党[[国家社会主義ドイツ労働者党]](ナチ党)の党首[[アドルフ・ヒトラー]]は、[[バイエルン州]]総督[[グスタフ・フォン・カール]]、バイエルン駐在の第7師団司令官[[オットー・フォン・ロッソウ]]([[:de:Otto von Lossow|Otto von Lossow]])少将、州警察長官の[[ハンス・フォン・ザイサー]]([[:de:Hans von Seißer|Hans von Seißer]])大佐の三名に「ベルリン進軍」を迫るため、[[ミュンヘン一揆]]を起こす事を企図した。ヒトラーはルーデンドルフ将軍に接近して、彼を一揆指導者に祭り上げた。 |
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一揆当日の1923年11月8日、ヒトラーがカールが演説中の「[[ビュルガーブロイケラー]]」を占拠したと聞いたルーデンドルフ将軍はここに駆け付けた。ヒトラーの一揆協力要請にカール、ロッソウ、ザイサーらは渋っていたが、ルーデンドルフ将軍の説得を受けるとまず軍人のロッソウ少将が協力を申し出た。ついで警察のザイサー大佐もこれに従った。文官のカールだけはその後もしばらく渋っていたが、結局最後はカールも協力することを表明した<ref name="フェスト(1975)上238">[[#フェスト(1975)上|フェスト(1975)、上巻p.238]]</ref>。しかしヒトラーが後をルーデンドルフ将軍に任せてビュルガーブロイケラーを一時離れた際、ルーデンドルフ将軍は、ロッソウ少将の言葉を信じて彼に外へ出る許可を与えた。ついでカール総督とザイサー大佐にも外へ出る許可を与えた。ヒトラーが戻るとカールやロッソウたちがいないのにヒトラーはびっくりして解放したルーデンドルフを非難したが、ルーデンドルフは元伍長を冷ややかな目で見ると「ドイツ軍将校は誓いを破らない」と言い返したという。しかしこの後、ロッソウ少将は一揆の鎮圧命令を発している<ref>[[#トーランド(1979)上|トーランド(1979)、上巻p.183-187]]</ref>。これを聞いたルーデンドルフは「私はドイツ軍将校の誓いを二度と信用できない」と述べて意気消沈してしまったという<ref name="トーランド(1979)上188">[[#トーランド(1979)上|トーランド(1979)、上巻p.188]]</ref>。 |
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11月9日朝、ルーデンドルフ将軍はヒトラーとともにナチ党員を率いてミュンヘン市中心部へ向けて行進を開始した。ヒトラーを中心にして左にルーデンドルフ、右に[[マックス・エルヴィン・フォン・ショイブナー=リヒター]]が先頭に並び、三人は腕を組んだ。ヒトラーもルーデンドルフ自身も一次大戦の英雄であるルーデンドルフに発砲はしまいという過信があった。しかしバイエルン警官隊は彼らに向けて発砲した。ナチ党員たちの一団は総崩れになり、撤退した。ルーデンドルフは逃げることなく、警官たちの方へ歩み、そのまま逮捕されている<ref name="トーランド(1979)上194">[[#トーランド(1979)上|トーランド(1979)、上巻p.194]]</ref><ref name="フェスト(1975)上244">[[#フェスト(1975)上|フェスト(1975)、上巻p.244]]</ref>。 |
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1924年2月26日、逃亡先で逮捕されたヒトラーとともに裁判にかけられた。裁判中、その雄弁で法廷を圧倒したヒトラーに比べ、ルーデンドルフ将軍は脇役になってしまった。ヒトラーが一揆の責任を一身に引き受けたのに対して、ルーデンドルフはひたすら責任を回避する弁に終始したためだった。しかしルーデンドルフ将軍の尊大な態度と威厳は凄まじく、しばしば判事や検事を怒鳴りつけ、裁判長はこれにぶるぶると震えていた<ref name="トーランド(1979)上214">[[#トーランド(1979)上|トーランド(1979)、上巻p.214]]</ref>。 |
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4月1日に判決が下った。ヒトラーは5年の禁固刑、ルーデンドルフ将軍は無罪であった<ref name="阿部(2001)110">[[#阿部(2001)|阿部(2001)、p.110]]</ref><ref name="フェスト(1975)上249">[[#フェスト(1975)上|フェスト(1975)、上巻p.249]]</ref>。 |
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=== 政治活動 === |
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この後、ルーデンドルフ将軍は北部ドイツの[[プロテスタント]]右翼政党[[ドイツ民族自由党]]に賓客として招かれ、その旗印に担がれた。ドイツ民族自由党とナチ党残党勢力が合同して「[[国家社会主義自由運動]]」が創設されるとその最高機関である全国執行部の三名の構成員の一人となった。他の二人はドイツ民族自由党党首[[アルブレヒト・フォン・グラーフェ]]と[[グレゴール・シュトラッサー]]である。シュトラッサーはヒトラーの代理として入っていた。ヒトラーが代理に指名していた[[アルフレート・ローゼンベルク]]がルーデンドルフに嫌われていたのでシュトラッサーになったという経緯があった。 |
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また[[エルンスト・レーム]]は突撃隊の偽装組織「[[フロントバン]]」を創設したが、この組織はルーデンドルフ、ヒトラー、グラーフェの三人に忠誠を誓っている。 |
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国家社会主義自由運動は[[ドイツ国会1924年選挙 (5月)|1924年5月の国会選挙]]で32議席を獲得し、ルーデンドルフ将軍は国会議員となった<ref name="阿部(2001)112">[[#阿部(2001)|阿部(2001)、p.112]]</ref>。 |
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1924年12月20日にヒトラーがランツベルク刑務所から出獄した。ヒトラーはナチ党禁止命令を解除してもらう必要からカトリックの[[ハインリヒ・ヘルト]]バイエルン州首相の機嫌を損ねまいと反カトリック的なルーデンドルフ将軍とドイツ民族自由党との連立を解消した。ルーデンドルフとドイツ民族自由党は1925年2月12日に国家社会主義自由運動から離脱した<ref name="阿部(2001)121">[[#阿部(2001)|阿部(2001)、p.121]]</ref>。 |
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以降はドイツ民族自由党の指導に当たるとともに「フロントバン」の中のルーデンドルフ派を「[[タンネンベルク団]]」([[:de:Tannenbergbund]])として組織し、その指導に当たった。この「タンネンベルク団」でヒンデンブルクは彼の二番目の妻である女医マチルデ・フォン・ケムニッツ博士の影響を受けて、[[ユダヤ人]]と[[カトリック]]と[[フリーメーソン]]の三重の「世界支配の陰謀」を批判する[[陰謀論]]的な言論活動を行うようになった<ref name="阿部(2001)122">[[#阿部(2001)|阿部(2001)、p.122]]</ref>。 |
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[[1925年ドイツ大統領選挙]]の第一次選挙で大統領候補として出馬したが惨敗した。この惨敗でルーデンドルフは事実上政治生命を断たれた。ドイツ民族自由党やタンネンベルク団のメンバーもほとんどがルーデンドルフを見限ってナチ党へ移ってしまった。 |
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ヒトラーとルーデンドルフの関係は悪化の一図をたどり、ヒトラーは1927年に[[レーゲンスブルク]]の集会で「ルーデンドルフこそがフリーメーソンである」と言明した<ref name="ヴィストリヒ(2002)308">[[#ヴィストリヒ(2002)|ヴィストリヒ(2002)、p.308]]</ref>。 |
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=== 晩年 === |
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1935年には「[[総力戦 (ルーデンドルフ)|総力戦]]」を著した。この著作でルーデンドルフは戦争と政治の関係が変化した結果として政治そのものが変化したとして、総力政治の概念を導入して総力戦の必然性を論じた。この著作の刊行後にその理念の一部は[[エチオピア戦争]]や[[スペイン内戦]]で現実のものとなったが、ヒトラーは[[第二次世界大戦]]の開戦においてこの理論を排除している。つまり軍人が国家を指導するのではなく、政治家ヒトラーによって軍人を統制することが徹底されていた。日本では[[石原莞爾]]がルーデンドルフを深く研究するなど、ドイツに留学・駐在を経験した武官を中心に、昭和期の日本陸軍の思考に大きな影響を与えた。 |
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[[1935年]]に[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]によって陸軍[[元帥 (ドイツ)|元帥]]に列するとの申し出があったが、この頃のルーデンドルフはヒトラーを内心で敵視・危険視しており「'''ヒトラー君!君はまだ元帥を承認することは出来ない'''」と激怒して拒絶。またヒンデンブルクがヒトラーを首相に任命した時には「'''あなたは偉大な祖国を最悪な扇動者に渡してしまった。この男は我がドイツに不幸な災いをもたらすだろう'''」と激しく糾弾する手紙を送っている。 |
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しかし1937年12月20日にルーデンドルフが[[トゥッツィング]]([[:de:Tutzing|Tutzing]])で没した際には、ナチ党政権は彼を「偉大な愛国者」として[[国葬]]に付した<ref name="ヴィストリヒ(2002)308"/>。また古代[[スカンジナビア半島]]の異教の神々を信仰の対象としてルーデンドルフが創設した宗教「ドイツ信徒の家」(Deutsche Gotteserkenntnis)はナチ党政権によって公認されている<ref name="ヴィストリヒ(2002)309">[[#ヴィストリヒ(2002)|ヴィストリヒ(2002)、p.309]]</ref>。 |
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== キャリア<ref name=" Machine"/> == |
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=== 軍階級 === |
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*1882年4月15日、[[少尉]](Leutnant) |
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*1890年7月1日、[[中尉]](Oberleutnant) |
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*1895年3月、[[大尉]](Hauptmann) |
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*1902年7月1日、[[少佐]](Major) |
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*1908年4月1日、[[中佐]](Oberstleutnant) |
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*1913年、[[大佐]](Oberst) |
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*1914年4月22日、[[少将]](Generalmajor) |
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*1914年11月27日、[[中将]](Generalleutnant) |
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*1916年8月29日、[[大将|歩兵大将]](General der Infanterie) |
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=== 受章 === |
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*[[プール・ル・メリット勲章]](1914年8月8日) |
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*[[大鉄十字章]](1918年3月24日) |
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== 研究書 == |
== 研究書 == |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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*{{Cite book|和書|author=[[阿部良男]]著|year=2001|title=ヒトラー全記録 <small>20645日の軌跡</small>|publisher=[[柏書房]]|isbn=978-4760120581|ref=阿部(2001)}} |
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*[[G.プリダム]]著、[[垂水節子]]・[[豊永泰子]]訳『ヒトラー権力への道 <small>ナチズムとバイエルン1923-1933年</small>』、[[1975年]]、[[時事通信社]]。 |
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*[[ロベルト・ヴィストリヒ]] |
*{{Cite book|和書|author=[[ロベルト・S・ヴィストリヒ]]([[:en:Robert S. Wistrich|en]])|translator=[[滝川義人]]|year=[[2002年]]|title=ナチス時代 ドイツ人名事典|publisher=[[東洋書林]]|isbn=978-4887215733|ref=ヴィストリヒ(2002)}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[ヴァルター・ゲルリッツ]]|translator=[[守屋純]]|year=[[1998年]]|title=ドイツ参謀本部興亡史|publisher=[[学研]]|isbn=978-4054009813|ref=ゲルリッツ(1998)}} |
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*[[児島襄]]著『第二次世界大戦 ヒトラーの戦い』([[文春文庫]])1巻 ISBN 978-4087601817 |
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**{{Cite book|和書|author=ヴァルター・ゲルリッツ|translator=守屋純|year=[[2000年]]|title=ドイツ参謀本部興亡史 上(上記の文庫版)|publisher=[[学研M文庫]]|isbn=978-4059010173|ref=ゲルリッツ(2000)上}} |
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**{{Cite book|和書|author=ヴァルター・ゲルリッツ|translator=守屋純|year=2000年|title=ドイツ参謀本部興亡史 下(上記の文庫版)|publisher=[[学研M文庫]]|isbn=978-4059010180|ref=ゲルリッツ(2000)下}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[ジョン・トーランド]]([[:en:John Toland (author)|en]])|translator=[[永井淳]]|year=[[1979年]]|title=アドルフ・ヒトラー 上|publisher=[[集英社]]|ref=トーランド(1979)上}} |
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**{{Cite book|和書|author=ジョン・トーランド|translator=永井淳|year=1990年|title=アドルフ・ヒトラー 1(上記の文庫版)|publisher=[[集英社文庫]]|isbn=978-4087601800|ref=トーランド(1990)1}} |
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**{{Cite book|和書|author=ジョン・トーランド|translator=永井淳|year=1990年|title=アドルフ・ヒトラー 2(上記の文庫版)|publisher=集英社文庫|isbn=978-4087601817|ref=トーランド(1990)2}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[林健太郎]]|year=[[1968年]]|title=ワイマル共和国 :ヒトラーを出現させたもの|publisher=[[中公新書]]|isbn=978-4121000279|ref=林(1968)}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[桧山良昭]]|year=[[1976年]]|title=ナチス突撃隊|publisher=[[白金書房]]|asin=B000J9F2ZA|ref=桧山(1976)}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[ヨアヒム・フェスト]]|translator=[[赤羽竜夫]]|year=[[1975年]]|title=ヒトラー〈上〉|publisher=[[河出書房新社]]|asin=B000J9D51I|ref=フェスト(1975)上}} |
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*{{Cite book|和書|author=ジョン・ウィーラー=ベネット|translator=[[木原健男]]|year=[[1970年]]|title=ヒンデンブルクからヒトラーへ :ナチス第三帝国への道|publisher=[[東邦出版]]|asin=B000J9FIVS|ref=ベネット(1970)}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[ジェフリー・プリダム]]([[:en:Geoffrey Pridham|en]])|translator=[[垂水節子]]・[[豊永泰子]]|year=[[1975年]]|title=ヒトラー・権力への道:ナチズムとバイエルン1923-1933年|publisher=[[時事通信社]]|asin=B000J9FNO0|ref=プリダム(1975)}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[渡部昇一]]|year=[[2009年]]|title=ドイツ参謀本部 その栄光と終焉|publisher=[[祥伝社新書]]|isbn=978-4396111687|ref=渡部(2009)}} |
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*{{Cite book|和書|year=[[2008年]]|title=戦略・戦術・兵器詳解 図説 第一次世界大戦 <上>|series=[[歴史群像シリーズ]]|publisher=[[学研]]|isbn=978-4056050233|ref=学研上}} |
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*{{Cite book|和書|year=2008年|title=戦略・戦術・兵器詳解 図説 第一次世界大戦 <下>|series=歴史群像シリーズ|publisher=学研|isbn=978-4056050516|ref=学研下}} |
|||
*{{Cite book|author=Ronald Pawly|year=2003|title=Elite 97:The Kaiser's Warlords|publisher=Osprey Publishing|isbn=978-1841765587|language=[[英語]]|ref=Pawly}} |
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== 出典 == |
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<references /> |
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== 関連事項 == |
== 関連事項 == |
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* [[国家総力戦]] |
* [[国家総力戦]] |
2010年12月26日 (日) 19:48時点における版
エーリヒ・ルーデンドルフ | |
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1865年4月9日 - 1937年12月20日 | |
[[ファイル:|200px]] | |
生誕 | ポーゼン州(現ポーランド) |
死没 | トゥッツィング |
軍歴 | 1883 - 1918 |
戦闘 | 第一次世界大戦 |
勲章 |
プール・ル・メリット勲章戦功章 大鉄十字章 国葬 |
除隊後 | 国会議員 |
エーリヒ・フリードリヒ・ヴィルヘルム・ルーデンドルフ(Erich Friedrich Wilhelm Ludendorff, 1865年4月9日 - 1937年12月20日)はドイツの軍人、政治家である。
第一次世界大戦初期のタンネンベルクの戦いにおいて第8軍司令官パウル・フォン・ヒンデンブルクを補佐してドイツ軍を勝利に導いた。大戦中期から後期には参謀本部総長となったヒンデンブルクの下で参謀本部次長を務め、「ルーデンドルフ独裁」とも呼ばれる巨大な実権を握った。最終階級は歩兵大将(General der Infanterie)。戦後はアドルフ・ヒトラーと結び、ミュンヘン一揆を起こした。
『総力戦』の著者としても知られる。
略歴
生まれ
ルーデンドルフはプロイセン王国が1793年から1919年まで統治したポーゼン州のシュヴェルゼンツ近くのクレシェフニア村(Kruszewnia)に地主アウグスト・ヴィルヘルム・ルーデンドルフ(August Wilhelm Ludendorff)とその妻クラーラ(Klara)(旧姓フォン・テンペルホーフ(von Tempelhoff))夫妻の息子として生まれた。現在この地はポーランド領である。ルーデンドルフ家はポンメルンの商人の一族であり、ユンカーではなかったが、ブルジョワだった。母親のフォン・テンペルホーフ家は有名なユンカー一家の出身であった。母の家系はテンプル騎士団以来のプロイセン軍人家系である[1]。
第一次大戦前の軍歴
1877年にプレーン(de)の士官学校(Kadettenkorps)に入学し、ついで1879年7月よりベルリン・グロース・リヒターフェルデ(de)のプロイセン高級士官学校(de) に入学した[2]。1882年まで在学した[3][4]。1882年4月よりヴェーゼル(de)の第57歩兵連隊の少尉に任官した[4]。1887年から1890年にかけてヴィルヘルムハーフェン(de)で海軍の陸上部隊と共に任務にあたっていた。1890年7月に中尉に昇進[2][5]。
1890年10月からプロイセン戦争大学(陸軍大学)(de)に入学した。卒業後の1893年6月からバーデン近衛擲弾兵連隊「フリードリヒ・ヴィルヘルム3世」に勤務した[2]。1894年4月に参謀本部に配属される[2]。1895年3月に大尉に昇進するとともマグデブルクの第4軍団に参謀として配属された[2]。1898年4月にトルンの第61(第8ポンメルン)歩兵連隊「フォン・デア・マールヴィッツ」の中隊長、1900年7月にはグローガウの第7歩兵連隊の参謀、1902年7月にポーゼンの第5軍団の参謀に転属する。1902年7月に少佐昇進。1904年4月にベルリンの参謀本部の第2部(戦時中に作戦部(Militärische Plannungsabteilung)となると定められていた部署)の部長に就任した。1906年10月には戦争大学で教鞭をとった[2]。
1908年4月に中佐に昇進するとともに参謀本部の第2部の部長に復帰した。同年、工場所有者の娘マルガレーテ・シュミット(Margarete Schmidt)と結婚した[3]。1911年に第1部部長が「軍人より外交官にふさわしい」と評されたゲオルク・フォン・ヴァルテンゼー中将になったのを機にルーデンドルフの影響力が拡大し始めた[6]。彼は一貫して「真の形態での戦争」を主張した。平和とは二つの戦争に挟まれた休戦期間に過ぎず、全ての手段は戦争指導に従属させるべしと主張していた。これは戦争は政治の手段としたカール・フォン・クラウゼヴィッツの考えに完全に反駁するものであった。ルーデンドルフによれば政治の方が戦争指導の手段であった[7]。そのためルーデンドルフは職業軍人でありながら「全ドイツ協会」という政治団体を使って積極的に政治の世界に参加した。帝国議会議員の取り込みを図り、巨額な軍拡を認めさせ、1912年には二個軍団の増設と野砲の増強、陸軍11万7000人の増員、航空機の拡張などを実現した[8]。しかし当時のドイツ帝国の財政は建艦競争や社会保障費のために極度に逼迫しており、また陸相ヨシアス・フォン・ヘーリンゲン(de)大将も急速な軍拡によって将校団の教育や構成に弊害が生じ、将校団が「民主化」する事を恐れていた。そのためやがてルーデンドルフの行動は「出過ぎ」と看做されるようになり、1913年1月にデュッセルドルフの第39ニーダーライン歩兵連隊の連隊長へ左遷された[2][9]。
1914年4月に少将に昇進するとともに5月からシュトラスブルクの第85歩兵旅団の旅団長に就任した[2]。
第一次世界大戦
リェージュ要塞攻略
第一次世界大戦が開戦した直後の1914年8月2日に西部戦線のドイツ第2軍で司令官カール・フォン・ビューロウ上級大将の下で第二補給部長となった。第14歩兵師団に連絡将校として同行していた時に同師団の師団長が戦死したのを受けて代わって師団の指揮を執り、難攻不落と言われたリェージュ要塞(fr)を攻略した。ルーデンドルフは参謀本部第2部長時代からこの要塞をめぐって激しい争いになる事を予測してその奇襲を研究していたのだった[2][10]。リェージュ要塞の陥落によってドイツ軍はベルギー国内に続々となだれ込むことが可能となった[10]。
ルーデンドルフは、カイザー・ヴィルヘルム2世や参謀総長の「小モルトケ」ことヘルムート・ヨハン・ルートヴィヒ・フォン・モルトケから高く評価された。
タンネンベルクの戦い
東部戦線でマクシミリアン・フォン・プリトヴィッツ・ウント・ガフロン上級大将(de)率いるドイツ第8軍が敗れたのを機にプリトヴィッツは更迭され、東部戦線はルーデンドルフ少将に任せることが決定した。しかしルーデンドルフは勤続年数から軍司令官就任資格がなく、参謀長にしか任命できなかった。そのため第8軍司令官には退役していたパウル・フォン・ヒンデンブルク大将が就任した。ルーデンドルフはその補佐役の参謀長に就任した[11][12]。この二人は第一次世界大戦を通じてコンビを組み続けることになるが、二人の関係では常にルーデンドルフが頭脳であり、ヒンデンブルクはお飾りの存在であった[13]。
ヒンデンブルクとともに8月23日夜にマリエンブルクの第8軍司令部に着任した。先任の第8軍作戦参謀マックス・ホフマン中佐とともにドイツ第8軍の反撃作戦を指揮した。損害や補給不足の影響でロシア第1軍がしばらく動かない事を電信の傍受で掴んでいたドイツ第8軍は、大部隊と見せかけた第1騎兵師団だけをロシア第1軍の正面に残し、またタンネンベルク付近で第20軍団をロシア第2軍に当たらせている間に他の各軍団・師団をロシア第2軍の左翼と右翼に移動させた。
8月26日からこれらの軍団や師団がロシア第2軍に攻撃を開始した。ヘルマン・フォン・フランソワ大将(de)率いる第1軍団は左翼から、アウグスト・フォン・マッケンゼン大将率いる第17軍団は右翼からロシア第2軍の背後に回り込み、8月29日早朝には同軍を包囲する事に成功した。ロシア第2軍20万人のうちロシアへ帰国する事が出来たのはわずか1万7000人だった[14]。
西部戦線から引き抜かれた2個軍団が新たに第8軍に加えられ、9月5日からロシア第1軍への攻撃を開始した。4個軍団でロシア第1軍に正面から攻撃をかけるとともに第1軍団と第17軍団にロシア第1軍左翼に当たる湖沼地帯を突破させ、その背後に回り込ませようとした。ロシア第1軍司令官レンネンカンプは第2軍の二の舞になる事を恐れて2個師団を後衛として擁護させながら、東プロイセンから撤退した。ロシア軍の退却は9月10日から14日に及んだが、その間にもドイツ軍は砲撃を加え、ロシア第1軍は死傷者と捕虜で14万5000人の兵を失った[15][14]。こうして東プロイセンを巡ってドイツ帝国とロシア帝国で争われた「タンネンベルクの戦い」はドイツ軍の大勝利に終わった。
東部方面軍参謀長
オーストリア軍支援のガリチア方面出兵のためにドイツ第8軍は急遽第9軍を編成し、東部戦線のドイツ軍は第8軍と第9軍の2軍となり、その両軍の上に東部方面軍が置かれ、ヒンデンブルクが東部方面軍司令官、ルーデンドルフが東部方面軍参謀長にそれぞれ就任した。実権は引き続きルーデンドルフが握った。
1914年9月28日に第9軍と第8軍の一部はオーストリア軍支援のためにポーランド南部で攻勢に出て、ワルシャワ占領を目指し、10月6日にはヴァイクセル川に到着した。しかしヴァイクセル川の戦い(de)でロシア軍の頑強な抵抗にあい、突破できなかった。ドイツ軍は10月17日に退却し、オーストリア軍もカルパティア山脈まで押し戻された。ロシア軍はシュレージエンやハンガリーをうかがうまでに勢力を回復した[16][17]。
11月3日の作戦会議で東部方面軍は作戦を立て直した。ロシア軍に気づかれぬように鉄道で第9軍をすばやく移動させ、11月11日にロッヅを強襲したのであった。ロッヅの戦い(de)の末に12月6日にドイツ第9軍がロッヅを占領した。これによりロシア軍のシュレージエン侵入の野望は潰えた[16][18]。
1915年1月にヴィルヘルム2世の決裁で新たに4個軍団を得た東部方面軍は第10軍を創設した。オーストリア軍からの要請を受け、東プロイセンとカルパティアからロシア軍の突出部を攻撃する計画が実行された。東プロイセン・マズリア湖の戦い(de)でロシア軍に勝利をおさめたが、ロシア軍は新手の第12軍を投入し、またカルパティアの戦い(de)のオーストリア軍の敗北でドイツの情勢はむしろ悪化した[19]。
東部方面軍に業を煮やしたファルケンハイン参謀総長は新設の第11軍とともに東部戦線を訪れ、直接指揮を執った。第11軍の司令官にはアウグスト・フォン・マッケンゼンが任じられ、5月2日に第11軍はゴルリッツの戦い(de)で攻撃を仕掛け、勝利を収めた。これを機にロシア軍は押し込められた。8月にはワルシャワが陥落。ロシア軍は大退却(ru)を行い、1915年秋には東部戦線はひとまず安定した[20]。
ファルケンハインはこの成功を盾に東部方面軍に対して態度を強め、東部方面軍の師団を別の戦線へ移動させるようになった。これに対してヒンデンブルクは1915年10月6日に「夏の作戦だけではロシア軍の攻撃力は完全に破られてはいない」としてこれ以上東部方面軍から師団を送ることを拒絶した。しかしヴィルヘルム2世の決裁でファルケンハインの命令通り、師団を送るよう命じられた[21]。ファルケンハインは1915年夏の勝利でロシアは当分立ち直れないと踏んでいたが、その見通しは甘かった。ロシア軍は迅速に再編成を済ませ、フランス軍の要請を受けて1916年3月19日にナーロチ湖の戦い(de)で攻勢に出た。東部方面軍は何とかこれを撃退したが、6月4日にはロシア軍はオーストリア軍に対してブルシーロフ攻勢をかけて勝利を収めた。ロシア軍は7月にドイツ東部方面軍に対する攻勢にでたが、ドイツ東部方面軍はこれを食い止め、戦線を保った。ロシア軍は10月まで攻勢を続けたが、すでに不意打ちの効果は失われていた。ロシア軍はこの一連の攻勢で100万の兵を失った[22]。ロシアで厭戦気分が高まり、1917年2月にはロシア革命が発生し、ロシア帝政が崩壊した。
参謀本部次長
ファルケンハインが発動した西部戦線のヴェルダンの戦いは思わしくなく、また彼が東部から兵力を引き抜いた後に東部戦線でロシア軍の攻勢があったことで彼の面目は潰れた。1916年8月にファルケンハインは更迭されることとなった。ヒンデンブルクが後任の参謀総長(Chef des Generalstaffs des Feldheeres)に任じられた。ルーデンドルフは参謀次長に任じられたが、この際に彼はこの役職の名称を「第一兵站総監」(Erster Oberquartiermeister)に改めたいと願い出て許可された[23]。この人事はモルトケの推挙によるものだったという[24]。これまで同様にヒンデンブルクはお飾りでルーデンドルフが実質的に役割を果たした。
ルーデンドルフはただちに各軍集団、軍、師団の司令部において司令官よりもベルリン参謀本部の指揮下にある野戦参謀本部が指揮をとるように改め、自分の指揮権限を拡大した[25]。これ以降のドイツの戦争は実質的にルーデンドルフによって指導されるようになった。またヴィルヘルム2世と宰相テオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェークがそろって国家指導の才能に乏しく、国の政治指導部が「真空状態」になっていたこともあり、彼は政治にも干渉して「ルーデンドルフ独裁」と呼ばれる時代を築くこととなった[26][27]。
情報部を独立部署として発足させ、また外務省の参謀本部の出先機関を外務部とし、同部の下に宣伝を目的とする写真・映像課を設置させた。この課の下に映画会社ウーファが設立された[1]。また鉄道部のヴィルヘルム・グレーナーに軍需生産の中枢として「戦争局」を設置させた[28]。ますます重要な存在と化し始めていた航空隊を陸海軍に次ぐ「第三の軍」と認め、これを参謀本部の直接指揮下に置いた[28]。
参謀本部は軍事はもちろん、新聞や映画や絵画などの統制、宣伝、外交政策、軍需生産などあらゆる分野に手を伸ばすようになった[29]。ドイツが戦争に勝つためには国内のあらゆる分野を全て統制下において、その戦争潜在能力を最大限に引き出して活用する総力戦しか道はなかった。ヒンデンブルクとルーデンドルフの承認によってグレーナーが総力戦体制を「ヒンデンブルク綱領」としてまとめた。あらゆる消費財と食料の徹底的統制を命じ、また最後まで残されていた予備労働力である女性の動員を命じた。しかし総力戦体制は急速に社会の均一化をもたらし、「戦時社会主義」ともいうべき社会状況を発生させた。前線でも数百万人の動員、塹壕戦といった特殊な環境の中で兵士と将校の平等化が起こっていた。後の「ドイツ革命」への下地は着実に築かれていった[30]。
宰相ホルヴェークは無制限潜水艦作戦に反対し、ルーデンドルフと対立を深めた。ルーデンドルフは1917年7月に彼を失脚させた。後任に元宰相ベルンハルト・フォン・ビューロー侯爵か元海軍大臣アルフレート・フォン・ティルピッツ提督を考えたが、この二人はかつてヴィルヘルム2世が解任した人物であったからヴィルヘルム2世から反対があり、結局ゲオルク・ミヒャエリスが就任することとなった[31]。しかしこのミヒャエリスは1917年夏の最初の水兵の反乱、軍需工場のストライキなどにうまく対応できずに早々に辞職し、結局ゲオルク・フォン・ヘルトリング伯爵が宰相となった[32]。
一方戦争指導ではこれまでの東部戦線大攻勢論を撤回して西部戦線の立て直しに力を入れた。連合軍の攻勢に先んじて戦線を後退させ、強固な塹壕陣地帯「ジークフリート線(de:Siegfriedstellung)」(連合国は「ヒンデンブルク線」と呼んだ)を構築して防御を固めた。
1917年4月にイギリス軍はアラス会戦(de)で攻勢を強め、5月から6月のメッシーネの戦い(de)でドイツ軍の突出部を攻略。さらに7月末から11月にかけてパッシェンデールの戦い、11月から12月にかけて戦車軍団を動員したカンブレーの戦い(de)で攻勢をかけたが、ドイツ軍は頑強に抵抗してイギリス軍の侵攻を防いだ。
一方フランス軍は1917年4月にエーヌ会戦(de)で攻勢をかけたが、ドイツ軍が勝利した。フランスで厭戦気分が高まり、4月29日に68個師団で反乱が勃発した。首相ジョルジュ・クレマンソーが何とか抑え込み、ドイツとの戦争を継続した[33]。
海戦ではイギリスに対する海上封鎖を徹底化するために1917年2月に無制限潜水艦作戦を決定した。これは1917年4月のアメリカ合衆国の参戦を招いた。しかし当時のアメリカには本格的な陸軍はなく、軍の組織から開始する状況だったのでアメリカの実際的な参戦は1年先だった[34]。
一方、ロシア革命により帝政が崩壊したロシアに対しては和平交渉を行った。ロシア臨時政府首相アレクサンドル・ケレンスキーは連合国の求めに応じてドイツとの戦争を続行したが、ケレンスキー政府は1917年10月のボルシェヴィキによるロシア革命により崩壊した。ウラジーミル・レーニンのボルシェヴィキ政府が立ち上げられた。ドイツはレーニン政府にウクライナやバルト三国の分離独立を求めた。レーニンは初め拒絶したが、ロシアの軍事力は革命の混乱で崩壊状態であり、1918年2月にドイツ軍がロシア軍へ攻撃を開始したことで要求を飲むしかなくなった。1918年3月3日にブレスト・リトフスク条約が締結され、ドイツはロシアを下した。3月5日にはロシアの後援を失ったルーマニアも降伏。東部戦線は終結した[34]。
ロシア脱落を受けてドイツ軍はアメリカが本格参戦してくる前に西部戦線に最後の攻勢をかけることにした。ドイツ軍は1918年3月から7月にかけて東部の兵力をすべて西側に回して最後の大攻勢「カイザーシュラハト(皇帝の戦い)」(de)作戦を行った。しかしドイツ軍の奮闘もむなしく、戦局を好転させることはできなかった[35]。さらに1918年8月8日にアミアンの戦い(de)でドイツ陸軍が決定的な敗北を喫した。ルーデンドルフはこの日を「ドイツ陸軍暗黒の日」と称した[36][37]。
戦況を絶望視したルーデンドルフは、連合国との和平交渉をアメリカに取り持ってもらうため、アメリカから条件として突きつけられたドイツの民主化を急ぐようになった。宰相ゲオルク・フォン・ヘルトリングを辞職させ、アメリカから自由主義者として評価が高かったマクシミリアン・フォン・バーデンを宰相に任じ、議会制民主主義を導入させた。しかしアメリカは戦争指導者の追放も要求していたので、マクシミリアンや議会から戦争指導者としてルーデンドルフを辞職させるよう皇帝ヴィルヘルム2世に圧力が強まった。10月26日にヴィルヘルム2世はルーデンドルフに参謀本部次長を辞させた[38][39]。なおヒンデンブルクは留任した。ルーデンドルフはこれに不満があったらしく、ヒンデンブルクと別れる時に「貴方も辞職されるべきだった」と述べた[40]。
戦後
ドイツの敗戦でスウェーデンに亡命し、『戦争回顧録』(Kriegserinnerungen)を著した。1919年2月にドイツ、バイエルン州のミュンヘンへ帰国し、帰国後は専ら反ヴァイマル共和政の政治活動に専念するようになり、右翼・保守の人望を得た。1920年のカップ一揆にも参加した[41]。
ミュンヘン一揆
1923年11月、ミュンヘンの右翼政党国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の党首アドルフ・ヒトラーは、バイエルン州総督グスタフ・フォン・カール、バイエルン駐在の第7師団司令官オットー・フォン・ロッソウ(Otto von Lossow)少将、州警察長官のハンス・フォン・ザイサー(Hans von Seißer)大佐の三名に「ベルリン進軍」を迫るため、ミュンヘン一揆を起こす事を企図した。ヒトラーはルーデンドルフ将軍に接近して、彼を一揆指導者に祭り上げた。
一揆当日の1923年11月8日、ヒトラーがカールが演説中の「ビュルガーブロイケラー」を占拠したと聞いたルーデンドルフ将軍はここに駆け付けた。ヒトラーの一揆協力要請にカール、ロッソウ、ザイサーらは渋っていたが、ルーデンドルフ将軍の説得を受けるとまず軍人のロッソウ少将が協力を申し出た。ついで警察のザイサー大佐もこれに従った。文官のカールだけはその後もしばらく渋っていたが、結局最後はカールも協力することを表明した[42]。しかしヒトラーが後をルーデンドルフ将軍に任せてビュルガーブロイケラーを一時離れた際、ルーデンドルフ将軍は、ロッソウ少将の言葉を信じて彼に外へ出る許可を与えた。ついでカール総督とザイサー大佐にも外へ出る許可を与えた。ヒトラーが戻るとカールやロッソウたちがいないのにヒトラーはびっくりして解放したルーデンドルフを非難したが、ルーデンドルフは元伍長を冷ややかな目で見ると「ドイツ軍将校は誓いを破らない」と言い返したという。しかしこの後、ロッソウ少将は一揆の鎮圧命令を発している[43]。これを聞いたルーデンドルフは「私はドイツ軍将校の誓いを二度と信用できない」と述べて意気消沈してしまったという[44]。
11月9日朝、ルーデンドルフ将軍はヒトラーとともにナチ党員を率いてミュンヘン市中心部へ向けて行進を開始した。ヒトラーを中心にして左にルーデンドルフ、右にマックス・エルヴィン・フォン・ショイブナー=リヒターが先頭に並び、三人は腕を組んだ。ヒトラーもルーデンドルフ自身も一次大戦の英雄であるルーデンドルフに発砲はしまいという過信があった。しかしバイエルン警官隊は彼らに向けて発砲した。ナチ党員たちの一団は総崩れになり、撤退した。ルーデンドルフは逃げることなく、警官たちの方へ歩み、そのまま逮捕されている[45][46]。
1924年2月26日、逃亡先で逮捕されたヒトラーとともに裁判にかけられた。裁判中、その雄弁で法廷を圧倒したヒトラーに比べ、ルーデンドルフ将軍は脇役になってしまった。ヒトラーが一揆の責任を一身に引き受けたのに対して、ルーデンドルフはひたすら責任を回避する弁に終始したためだった。しかしルーデンドルフ将軍の尊大な態度と威厳は凄まじく、しばしば判事や検事を怒鳴りつけ、裁判長はこれにぶるぶると震えていた[47]。
4月1日に判決が下った。ヒトラーは5年の禁固刑、ルーデンドルフ将軍は無罪であった[48][49]。
政治活動
この後、ルーデンドルフ将軍は北部ドイツのプロテスタント右翼政党ドイツ民族自由党に賓客として招かれ、その旗印に担がれた。ドイツ民族自由党とナチ党残党勢力が合同して「国家社会主義自由運動」が創設されるとその最高機関である全国執行部の三名の構成員の一人となった。他の二人はドイツ民族自由党党首アルブレヒト・フォン・グラーフェとグレゴール・シュトラッサーである。シュトラッサーはヒトラーの代理として入っていた。ヒトラーが代理に指名していたアルフレート・ローゼンベルクがルーデンドルフに嫌われていたのでシュトラッサーになったという経緯があった。
またエルンスト・レームは突撃隊の偽装組織「フロントバン」を創設したが、この組織はルーデンドルフ、ヒトラー、グラーフェの三人に忠誠を誓っている。
国家社会主義自由運動は1924年5月の国会選挙で32議席を獲得し、ルーデンドルフ将軍は国会議員となった[50]。
1924年12月20日にヒトラーがランツベルク刑務所から出獄した。ヒトラーはナチ党禁止命令を解除してもらう必要からカトリックのハインリヒ・ヘルトバイエルン州首相の機嫌を損ねまいと反カトリック的なルーデンドルフ将軍とドイツ民族自由党との連立を解消した。ルーデンドルフとドイツ民族自由党は1925年2月12日に国家社会主義自由運動から離脱した[51]。
以降はドイツ民族自由党の指導に当たるとともに「フロントバン」の中のルーデンドルフ派を「タンネンベルク団」(de:Tannenbergbund)として組織し、その指導に当たった。この「タンネンベルク団」でヒンデンブルクは彼の二番目の妻である女医マチルデ・フォン・ケムニッツ博士の影響を受けて、ユダヤ人とカトリックとフリーメーソンの三重の「世界支配の陰謀」を批判する陰謀論的な言論活動を行うようになった[52]。
1925年ドイツ大統領選挙の第一次選挙で大統領候補として出馬したが惨敗した。この惨敗でルーデンドルフは事実上政治生命を断たれた。ドイツ民族自由党やタンネンベルク団のメンバーもほとんどがルーデンドルフを見限ってナチ党へ移ってしまった。
ヒトラーとルーデンドルフの関係は悪化の一図をたどり、ヒトラーは1927年にレーゲンスブルクの集会で「ルーデンドルフこそがフリーメーソンである」と言明した[53]。
晩年
1935年には「総力戦」を著した。この著作でルーデンドルフは戦争と政治の関係が変化した結果として政治そのものが変化したとして、総力政治の概念を導入して総力戦の必然性を論じた。この著作の刊行後にその理念の一部はエチオピア戦争やスペイン内戦で現実のものとなったが、ヒトラーは第二次世界大戦の開戦においてこの理論を排除している。つまり軍人が国家を指導するのではなく、政治家ヒトラーによって軍人を統制することが徹底されていた。日本では石原莞爾がルーデンドルフを深く研究するなど、ドイツに留学・駐在を経験した武官を中心に、昭和期の日本陸軍の思考に大きな影響を与えた。
1935年にヒトラーによって陸軍元帥に列するとの申し出があったが、この頃のルーデンドルフはヒトラーを内心で敵視・危険視しており「ヒトラー君!君はまだ元帥を承認することは出来ない」と激怒して拒絶。またヒンデンブルクがヒトラーを首相に任命した時には「あなたは偉大な祖国を最悪な扇動者に渡してしまった。この男は我がドイツに不幸な災いをもたらすだろう」と激しく糾弾する手紙を送っている。
しかし1937年12月20日にルーデンドルフがトゥッツィング(Tutzing)で没した際には、ナチ党政権は彼を「偉大な愛国者」として国葬に付した[53]。また古代スカンジナビア半島の異教の神々を信仰の対象としてルーデンドルフが創設した宗教「ドイツ信徒の家」(Deutsche Gotteserkenntnis)はナチ党政権によって公認されている[54]。
キャリア[2]
軍階級
- 1882年4月15日、少尉(Leutnant)
- 1890年7月1日、中尉(Oberleutnant)
- 1895年3月、大尉(Hauptmann)
- 1902年7月1日、少佐(Major)
- 1908年4月1日、中佐(Oberstleutnant)
- 1913年、大佐(Oberst)
- 1914年4月22日、少将(Generalmajor)
- 1914年11月27日、中将(Generalleutnant)
- 1916年8月29日、歩兵大将(General der Infanterie)
受章
- プール・ル・メリット勲章(1914年8月8日)
- 大鉄十字章(1918年3月24日)
研究書
- ウィーラー・ベネット著、木原健男訳『ヒンデンブルクからヒトラーへ』東邦出版社、1971年
- ルーデンドルフの第一次世界大戦における活動について詳説している。
- E・M・アール編著、山田積昭訳『新戦略の創始者(下)』原書房、1979年
- 第13章では総力戦理論の提唱者としてルーデンドルフを取り上げている。
- 前原透監修、片岡徹也編集『戦略思想家事典』芙蓉書房出版、2003年
- ルーデンドルフの項目ではその経歴と著作の中で展開されている総力戦の理論について概観している。
- 清水多吉・石津朋之編『クラウゼヴィッツと「戦争論」』彩流社、2008年。
- ルーデンドルフの戦略論についての言及を含む最新研究。軍事史研究家の小堤盾がゼークト、ルーデンドルフ、ベックの軍事戦略思想について詳しく言及している。
参考文献
- 阿部良男著『ヒトラー全記録 20645日の軌跡』柏書房、2001年。ISBN 978-4760120581。
- ロベルト・S・ヴィストリヒ(en) 著、滝川義人 訳『ナチス時代 ドイツ人名事典』東洋書林、 エラー: この日付はリンクしないでください。。ISBN 978-4887215733。
- ヴァルター・ゲルリッツ 著、守屋純 訳『ドイツ参謀本部興亡史』学研、 エラー: この日付はリンクしないでください。。ISBN 978-4054009813。
- ヴァルター・ゲルリッツ 著、守屋純 訳『ドイツ参謀本部興亡史 上(上記の文庫版)』学研M文庫、 エラー: この日付はリンクしないでください。。ISBN 978-4059010173。
- ヴァルター・ゲルリッツ 著、守屋純 訳『ドイツ参謀本部興亡史 下(上記の文庫版)』学研M文庫、2000。ISBN 978-4059010180。
- ジョン・トーランド(en) 著、永井淳 訳『アドルフ・ヒトラー 上』集英社、 エラー: この日付はリンクしないでください。。
- ジョン・トーランド 著、永井淳 訳『アドルフ・ヒトラー 1(上記の文庫版)』集英社文庫、1990。ISBN 978-4087601800。
- ジョン・トーランド 著、永井淳 訳『アドルフ・ヒトラー 2(上記の文庫版)』集英社文庫、1990。ISBN 978-4087601817。
- 林健太郎『ワイマル共和国 :ヒトラーを出現させたもの』中公新書、 エラー: この日付はリンクしないでください。。ISBN 978-4121000279。
- 桧山良昭『ナチス突撃隊』白金書房、 エラー: この日付はリンクしないでください。。ASIN B000J9F2ZA。
- ヨアヒム・フェスト 著、赤羽竜夫 訳『ヒトラー〈上〉』河出書房新社、 エラー: この日付はリンクしないでください。。ASIN B000J9D51I。
- ジョン・ウィーラー=ベネット 著、木原健男 訳『ヒンデンブルクからヒトラーへ :ナチス第三帝国への道』東邦出版、 エラー: この日付はリンクしないでください。。ASIN B000J9FIVS。
- ジェフリー・プリダム(en) 著、垂水節子・豊永泰子 訳『ヒトラー・権力への道:ナチズムとバイエルン1923-1933年』時事通信社、 エラー: この日付はリンクしないでください。。ASIN B000J9FNO0。
- 渡部昇一『ドイツ参謀本部 その栄光と終焉』祥伝社新書、 エラー: この日付はリンクしないでください。。ISBN 978-4396111687。
- 『戦略・戦術・兵器詳解 図説 第一次世界大戦 <上>』学研〈歴史群像シリーズ〉、 エラー: この日付はリンクしないでください。。ISBN 978-4056050233。
- 『戦略・戦術・兵器詳解 図説 第一次世界大戦 <下>』学研〈歴史群像シリーズ〉、2008。ISBN 978-4056050516。
- Ronald Pawly (2003) (英語). Elite 97:The Kaiser's Warlords. Osprey Publishing. ISBN 978-1841765587
出典
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- ^ 阿部(2001)、p.121
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- ^ ヴィストリヒ(2002)、p.309
関連事項
- 国家総力戦
- ルーデンドルフ橋(レマーゲン鉄橋)
- 国家社会主義ドイツ労働者党
- ミュンヘン一揆
外部リンク
- エーリヒ・ルーデンドルフ Firstworldwar.com Who's Who
- Ludendorff by H. L. Mencken published in the June 1917 edition of the Atlantic Monthly
- エーリヒ・ルーデンドルフ伝記 Spartacus Educational