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'''守分 十'''(もりわけ ひさし、[[1890年]](明治23年)[[5月10日]] - [[1977年]](昭和52年)[[1月22日]])は、[[日本]]の[[銀行家]]。元[[中国銀行 (日本)|中国銀行]]頭取。中国銀行の“[[中興の祖]]”とされる。
'''守分 十'''(もりわけ ひさし、[[1890年]](明治23年)[[5月10日]] - [[1977年]](昭和52年)[[1月22日]])は、[[日本]]の[[銀行家]]。元[[中国銀行 (日本)|中国銀行]]頭取。中国銀行の“[[中興の祖]]”とされる。

2024年11月29日 (金) 00:00時点における最新版

もりわけ ひさし

守分 十
生誕 1890年5月10日
日本の旗 日本岡山県浅口郡乙島村
(現・倉敷市
死没 1977年1月22日(86歳没)
国籍 日本の旗 日本
出身校 京都帝国大学法学部
職業 銀行家
  • 守分榮吉(父)
家族 守分勉(娘婿)
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守分 十(もりわけ ひさし、1890年(明治23年)5月10日 - 1977年(昭和52年)1月22日)は、日本銀行家。元中国銀行頭取。中国銀行の“中興の祖”とされる。

来歴・人物

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庄屋守分榮吉の長男として、岡山県浅口郡乙島村(現倉敷市)に生まれる。

北海道拓殖銀行勤務を経て[1]1922年(大正11年)6月、第一合同銀行倉敷支店長代理として入行する。翌年には、経営の行き詰まっていた山陽商業銀行に支配人として派遣され、第一合同銀行との合併をまとめ上げた。 さらにその後、姫路倉庫銀行にも派遣され、第一合同銀との合併の準備にあたった[2]

中國銀行の発足に際しては、初代高松支店長に就任。香川銀行との合併に手腕を発揮した。1946年(昭和21年)4月には、公職追放に該当した公森太郎の後を受け頭取に昇格した。

頭取在任は30年余に及び、その間には「自主健全経営」を掲げ、戦後の同行の再建に当たり、日本有数の経営内容を誇る銀行へと育てあげた。

また、長年にわたり岡山県銀行協会会長、岡山経済団体連合会会長、岡山経済同友会顧問などの要職を務め、地元経済界の振興と発展にも多大に尽力した[2]

十の死後、中國銀行第四代頭取に就任した守分勉は娘婿に当たる。

略歴

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栄典

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脚注

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  1. ^ “守分十とは”. コトバンク. https://kotobank.jp/word/%E5%AE%88%E5%88%86%E5%8D%81-1116051 2013年9月20日閲覧。 
  2. ^ a b 創立50周年記念誌編纂委員会編 『中国銀行50年史』 中国銀行、 1983年
  3. ^ “倉敷市名誉市民”. 倉敷市秘書課. http://www.city.kurashiki.okayama.jp/dd.aspx?menuid=1189 2013年9月20日閲覧。 
  4. ^ “岡山市名誉市民”. 岡山市. http://www.city.okayama.jp/hishokouhou/hisho/hisho_00337.html 2013年9月20日閲覧。  アーカイブ 2017年12月3日 - ウェイバックマシン