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2024年10月29日 (火) 00:01時点における版

ヒッタイト王国
Ḫa-at-tu-ša / 𒄩𒀜𒌅𒊭
紀元前16世紀 - 紀元前1180年 シロ・ヒッタイト国家
フリギア
リュディア
メディア王国
アケメネス朝
ヒッタイトの位置
ヒッタイト王国の最大の範囲の地図。紀元前1350年から1300年の間にヒッタイト王国が支配していた領域を緑の線で示している。
公用語 ヒッタイト語ルウィ語パラー語フルリ語アッカド語、その他アナトリア語派
首都 クッシャラ英語版
ハットゥシャ
元首等
紀元前1586年 - 紀元前1556年 ハットゥシリ1世
紀元前1321年 - 紀元前1295年ムルシリ2世
変遷
ラバルナ1世による建国 紀元前16世紀
ヒッタイト中興と新王国時代の幕開けトゥドハリヤ1世
周辺海洋民族による包囲と滅亡紀元前1180年

ヒッタイト(/ˈhɪtaɪts/)(英語: Hittites[ˈhɪtts]古代ギリシア語: Χετταίοιラテン語: Hetthaei)は、紀元前1600年頃にアナトリアの北中部に位置するハットゥシャを中心とした王国を樹立する上で重要な役割を果たしたアナトリア人である。この王国は、アナトリアの大部分だけでなく、レバント北部と上部メソポタミアの一部を含む領域を領有していたシュッピルリウマ1世の下で紀元前14世紀半ばにその絶頂に達した。

概要

紀元前15世紀から紀元前13世紀の間に、慣習的にヒッタイトと呼ばれるハットゥシャの王国は、近東の支配のためにエジプト新王国、中アッシリア帝国やミタンニ帝国と競合するようになった。中アッシリア帝国が最終的に優勢な勢力として現れ、ヒッタイト王国の多くを併合したが、残りの部分はこの地域へのフリュギア人の新参者によって略奪された。紀元前1180年以降、青銅器時代後期の崩壊時に、ヒッタイト人はいくつかの独立したシロ・ヒッタイト国家に分裂し、そのうちのいくつかは新アッシリア王国に屈服する前に紀元前8世紀まで存続した。

ヒッタイト語インド・ヨーロッパ語族アナトリア語派の言語のうちの一つで、密接に関連しているルーアン語とともに、歴史的に記録されている最古のインド・ヨーロッパ語であり[1]、その話者によってnešili「ネサの言語」と呼ばれている。ヒッタイト人は自分たちの国をハットゥシャ王国(アッカド語ではハッティ)と呼んでいたが、これは紀元前2千年紀の初めまでこの地域に住んでいたハッティ人に由来する。しかしハッティ人の言語であるハッティ語は、ヒッタイト語とは無関係の言語である[2]。慣習的な「ヒッタイト人」という名称は、19世紀の考古学が最初に彼らが聖書のヒッタイト人であると識別したことによるものである。

ハットゥシャ(現トルコ共和国ボアズカレ)のライオンの門

ヒッタイト文明の歴史は、彼らの王国の地域で発見された楔形文字のテキストから主に知られており、アッシリアバビロニアエジプト中東の様々な史書で発見された外交と商業の文通から、その解読はまた、インド・ヨーロッパ研究の歴史の中で重要なイベントであった。

鉄の製錬の発展は、かつて青銅器時代後期のアナトリアのヒッタイト人に起因するとされ、その成功は、当時の鉄の加工を独占していたという利点に大きく依存していた。しかし、このような「ヒッタイトの独占」という見方は、現在では学者の間でも批判されており、もはや学問的なコンセンサスとはなっていない[3]。後期青銅器時代/初期鉄器時代の一部として、青銅器時代後期の崩壊により、この地域では鉄工技術が比較的継続的にゆっくりと普及してきた。青銅器時代のアナトリアの鉄器はいくつかあるが、その数はエジプトなどで発見された鉄器に匹敵するものであり、武器となるものはごく少数である[4]。ヒッタイト人は溶かした鉄ではなく、隕石を使っていた[5]。ヒッタイト軍は戦車(チャリオット)の使用に成功した[6]

古代には、民族的なヒッタイト王朝は、現在のシリアレバノンイスラエルの周りに散らばった小さな王国で生き残った。統一された連続性を欠いていたため、その子孫は散らばっていき、最終的にはバント、トルコ、メソポタミア近代的な民族に統合された[7]

1920年代、トルコ建国に伴い、ヒッタイト人への関心が高まり、ハレット・チャンベルタフシン・オズギュチなどのトルコ人考古学者の注目を集めた。この間、ヒッタイト学という新しい分野は、国営のエティバンク(「ヒッタイト銀行」)[8]や、ヒッタイト人の首都から西に200キロ離れたアンカラにあるアナトリア文明博物館の設立にも影響を与え、世界で最も包括的なヒッタイト人の美術品や遺物の展示を行っている。

名称

ハッティ (: Hatti) の英語名で、旧約聖書ヘテ人英語版: Hitti、ヘト人とも)をもとにして、イギリス人のアッシリア学者アーチボルド・セイスが命名した。

なお、この聖書の「ヘト人」はカナン人の一派として何度か名前が出てくるが、『エズラ記』9章1節のユダ王国の指導者たちがバビロン捕囚から戻っていた時、氏族長たちの報告で周辺の異民族の名前として出てくるのを最後に名前が上がらなくなり、少なくとも西暦1世紀後半の頃にはユダヤ人たちから「名前以外不明の滅んだ民族」という認識をされていた(『ユダヤ古代誌』第I巻vi章2節[9]など)。

歴史

ヒッタイト人 (Hittites) は、クルガン仮説による黒海を渡って来た北方系民族説と、近年提唱されているアナトリア仮説によるこのアナトリア地域を故郷として広がって行ったという2つの説が提唱されているが、決着していない。

近年、カマン・カレホユック英語版遺跡(トルコ共和国クルシェヒル県クルシェヒル)にて鉄滓が発見され、ヒッタイト以前の紀元前18世紀頃(アッシリア商人の植民都市がアナトリア半島一帯に展開した時代)に鉄があったことが明らかにされた。その他にも、他国に青銅を輸出或いは輸入していたと見られる大量の積荷が、海底から発見された。

ヒッタイト古王国

紀元前1680年頃、クズルウルマック("赤い河"の意)周辺にヒッタイト古王国を建国し、後にメソポタミアなどを征服した。なお、ヒッタイト王の称号は、ラバルナであるが、これは古王国の初代王であるラバルナ1世、また、ラバルナの名を継承したハットゥシリ1世の個人名に由来し、後にヒッタイトの君主号として定着したものである。ヒッタイト王妃の称号はタワナアンナであるが、これも初代の王妃であるタワナアンナの名を継承したといわれている。 紀元前1595年頃、ムルシリ1世率いるヒッタイト古王国が、サムス・ディターナ率いる古バビロニアを滅ぼし、メソポタミアカッシート王朝が成立した。

ヒッタイト中王国

紀元前1500年頃、ヒッタイト中王国が成立した。タフルワイリアルワムナによる王位簒奪が相次ぎ、70年間ほど記録が少ない時代が続いた。

ヒッタイト新王国

エジプトの壁画に表現されたヒッタイト軍の戦車

紀元前1430年頃、ヒッタイト新王国が成立した。 紀元前1330年頃、シュッピルリウマ1世ミタンニを制圧する。この時、前線に出たのは、王の息子達(テレピヌとピヤシリ)であった。 紀元前1285年頃、古代エジプトシリアカデシュで衝突(カデシュの戦い)。ラムセス2世のエジプトを撃退する。ラムセス2世は、勝利の記録を戦いの様子と共にルクソールなどの神殿に刻んでいるが、実際にはシリアはヒッタイトが支配を続けた。エジプトのラムセス王の寺院の壁に、3人乗りの戦車ラムセス2世と戦うヒッタイト軍(ムワタリ2世の軍)のレリーフが描かれている。この際に、世界最古の講和条約が結ばれた。ハットゥシリ3世の王妃プドゥヘパ(英 Puduhepa)作とされる宗教詩は、現在発見されている最古の女性の文芸作である。ヒッタイトの宗教は、強くフルリ人の宗教の影響を受けていることが分かっており、その文化にもフルリ文化が色彩強まった。

紀元前1190年頃、通説では、民族分類が不明の地中海諸地域の諸種族混成集団と見られる「海の民」によって滅ぼされたとされているが、最近の研究で王国の末期に起こった3代におよぶ内紛が深刻な食糧難などを招き、国を維持するだけの力自体が既に失われていたことが明らかになった(前1200年のカタストロフ)。

滅亡後

ヒッタイト新王国が滅びたあと、遺民は南東アナトリアに移動し、紀元前8世紀頃までシロ・ヒッタイト国家群英語版(シリア・ヒッタイト)と呼ばれる都市国家群として活動した(紀元前1180年-紀元前700年頃)とされる。ただし、この都市国家群の住民はかなりの程度フルリ人と同化していたと考えられている。

歴代君主

ヒッタイト王の具体的な在位期間や年代は特定する資料が乏しく、復元には周辺諸国の編年との比較に頼っている。

例えばムルシリ1世がバビロニア王サムス・ディタナを倒してバビロン第一王朝を滅ぼした時期については先代のバビロニア王アンミ・サドゥカの治世に記された金星の観測記録から紀元前17世紀頃と推定されるが、より明確な年代については紀元前1650年頃とする高位年代説の他、およそ60年の間隔で中位年代説(紀元前1595年頃)、低位年代説(1530年頃)などがある。

またシュッピルリウマ1世以降の年代はエジプトとの紛争や外交の記録から大まかな年代が推測されている。

古王国以前の支配者

古王国

年代(Kuhrt, Bryce説) 年代(Freu説) 備考
ラバルナ1世 前1680年頃 - 前1650年頃 前1650年頃 - 前1625年頃
ハットゥシリ1世 前1650年頃 - 前1620年頃 前1625年頃 - 前1600年頃
ムルシリ1世 前1620年頃 – 前1590年頃 前1600年頃 – 前1585年頃
ハンティリ1世 前1590年頃 – 前1560年頃 前1585年頃 – 前1570年頃
ツィダンタ1世 前1560年頃 - 前1550年頃 前1560年頃 - 前1550年頃
アンムナ 前1550年頃 - 前1530年頃 前1550年頃 - 前1530年頃
フッツィヤ1世 前1530年頃 - 前1525年頃 前1530年頃 - 前1525年頃
テリピヌ 前1560年頃 - 前1500年頃 前1550年頃 - 前1530年頃

中王国

年代(Kuhrt, Bryce説) 年代(Freu説) 備考
アルワムナ 前1500年頃 - ? 前1530年頃 - 前1515年頃
ハンティリ2世 前1515年頃 - 前1505年頃
タフルワイリ 前1505年頃 - 前1500年頃
ツィダンタ2世 前1500年頃 - 前1485年頃
フッツィヤ2世 前1485年頃 - 前1470年頃
ムワタリ1世 前1430年頃
前1400年頃
前1470年頃 - 前1465年頃

新王国

中位年代(Kuhrt説) 低位年代(Bryce説) 高位年代(Freu説) 備考
トゥドハリヤ1世 前1430年頃‐前1410年頃
前1420年頃 - 前1400年頃
前1400年頃 - ? 前1465年頃 - 前1440年頃
ハットゥシリ2世 前1410年頃‐前1400年頃
前1400年頃 - 前1390年頃
前1440年頃 - 前1425年頃
トゥドハリヤ2世 前1400年頃‐前1390年頃
前1390年頃 - 前1370年頃
前1425年頃 - 前1390年頃
アルヌワンダ1世 前1390年頃‐前1380年頃
前1370年頃 - 前1355年頃
前1390年頃 - 前1370年頃
トゥドハリヤ3世 前1380年頃‐前1370年頃
前1355年頃 - 前1344年頃
前1370年頃 - 前1350年頃
シュッピルリウマ1世 前1370年頃‐前1330年頃
前1344年頃 - 前1322年頃
前1350年頃 - 前1322年頃 前1350年頃 - 前1319年頃
アルヌワンダ2世 前1330年頃‐前1330年頃
前1322年頃 - 前1321年頃
前1322年頃 - 前1321年頃 前1319年頃 - 前1318年頃 シュッピルリウマ1世の息子
ムルシリ2世 前1330年頃‐前1295年頃
前1321年頃 - 前1295年頃
前1321年頃 - 前1295年頃 前1318年頃 - 前1295年頃 シュッピルリウマ1世の息子
ムワタリ2世 前1295年頃‐前1272年頃
前1295年頃 - 前1282年頃
前1295年頃 - 前1272年頃 前1295年頃 - 前1272年頃 ムルシリ2世の息子
ムルシリ3世 前1272年頃‐前1264年頃
前1282年頃 - 前1275年頃
前1272年頃 - 前1267年頃 前1272年頃 - 前1265年頃 ムワタリ2世の息子
ハットゥシリ3世 前1264年頃‐前1239年頃
前1275年頃 - 前1245年頃
前1267年頃 - 前1237年頃 前1265年頃 - 前1240年頃 ムルシリ2世の息子
トゥドハリヤ4世 前1239年頃‐前1209年頃
前1245年頃 - 前1215年頃
前1237年頃 - 前1209年頃 前1240年頃 - 前1215年頃 ハットゥシリ3世の息子
クルンタ
アルヌワンダ3世 前1209年頃‐前1205年頃
前1215年頃 - 前1210年頃
前1209年頃 - 前1207年頃 前1215年頃 - 前1210年頃 トゥドハリヤ4世の息子
シュッピルリウマ2世 前1205年頃‐前年頃
前1210年頃 - 前年頃
前1207年頃 - 前年頃 前1210年頃 - 前1185年頃 トゥドハリヤ4世の息子

后妃

系図

文献[10][11]を参考に作成。双方の記述で異なる場合は、各王の記事と矛盾しないものを採用した。

 
ハットゥシリ1世
 
 
 
 
 
 
 
 
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ムルシリ1世
 
ハラプシリ
 
ハンティリ1世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ツィダンタ1世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アンムナ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
フッツィヤ1世
 
イシュタパリヤ
 
テリピヌ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ハラプシリ
 
アルワムナ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ハンティリ2世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ツィダンタ2世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
トゥドハリヤ1世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アシュムニカル
 
アルヌワンダ1世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
トゥドハリヤ2世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
トゥドハリヤ3世
 
シュッピルリウマ1世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アルヌワンダ2世
 
ムルシリ2世
 
ザンナンザ
 
テリピヌ
ハルパ副王
 
ピヤシリ
カルケミシュ副王
 
シャル・クシュフ
カルケミシュ副王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ムワタリ2世
 
 
 
 
 
ハットゥシリ3世
 
プドゥヘパ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ムルシリ3世
 
クルンタ
タルフンタッシャ副王
 
トゥドハリヤ4世
 
ネプテラ
(マートネフェルラー)
 
ラムセス2世
エジプト王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アルヌワンダ3世
 
シュッピルリウマ2世
 

遺跡

ハットゥシャ遺跡

関連作品

映像作品

漫画

脚注

  1. ^ 2006-05-02 Hittite” (7 July 2004). 3 February 2017時点のオリジナルよりアーカイブ。19 December 2016閲覧。
  2. ^ Ardzinba, Vladislav. (1974): Some Notes on the Typological Affinity Between Hattian and Northwest Caucasian (Abkhazo-Adygian) Languages. In: "Internationale Tagung der Keilschriftforscher der sozialistischen Länder", Budapest, 23.-25. April 1974. Zusammenfassung der Vorträge (Assyriologica 1), p. 10-15.
  3. ^ Muhly, James D. 'Metalworking/Mining in the Levant' in Near Eastern Archaeology ed. Suzanne Richard(2003), pp. 174–183
  4. ^ Waldbaum, Jane C. From Bronze to Iron. Göteburg: Paul Astöms Förlag (1978): 56–58.
  5. ^ 'Irons of the Bronze Age'(2017), Albert Jambon.
  6. ^ Hittites”. British Museum. Trustees of the British Museum. 7 November 2014時点のオリジナルよりアーカイブ。7 November 2014閲覧。
  7. ^ Ancient History Encyclopedia. "Sea Peoples." September 2009. Sea Peoples Archived 18 June 2018 at the Wayback Machine.
  8. ^ Erimtan, Can. (2008). Hittites, Ottomans and Turks: Ağaoğlu Ahmed Bey and the Kemalist Construction of Turkish Nationhood in Anatolia Archived 22 September 2018 at the Wayback Machine., Anatolian Studies, 58, 141–171
  9. ^ フラウィウス・ヨセフス 著、秦剛平 訳『ユダヤ古代誌1』株式会社筑摩書房、1999年、ISBN 4-480-08531-9、P64。
  10. ^ 下津清太郎 編 『世界帝王系図集 増補版』 近藤出版社、1982年、p.145, 146
  11. ^ ジョン・E.・モービー 『オックスフォード 世界歴代王朝王名総覧』 東洋書林、1993年、p.60, 61

関連項目

外部リンク