「ポルトガルの奴隷貿易」の版間の差分
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日本人の奴隷に焦点をあてた最初期の史学研究は[[岡本良知]]「十六世紀日欧交通史の研究」(1936年、改訂版1942-1944年)とされている{{efn|奴隷に関する記述は[[姉崎正治]]や[[レオン・パジェス]]の著作にもあるが[[WP:RS]]ガイドラインに準拠しない。}}<ref name="kenkyushi" />。日本の労働形態の歴史と、ポルトガル人の奴隷貿易との関連性については[[C・R・ボクサー]]「Fidalgos in the Far East (1550-1771)」(1948年)<ref>BOXER, Charles R. Fidalgos in the Far East (1550-1771). The Hague: Martinus Nijhoff, 1948, p. 234</ref>が指摘しており、奴隷という用語に隠蔽されていた多様な労働形態(例えば傭兵や商人)の存在を明らかにした。その後、この問題に新たな視点から取り組む動きはなく、[[牧英正]]「人身売買」 (1971年) <ref>MAKI Hidemasa. Jinshin Baibai. Tokyo: Iwanami Shinsho, 1971, pp. 53-74</ref>、[[藤木久志]]「雑兵たちの戦場中世の傭兵と奴隷狩り」(1995年)<ref>FUJIKI Hisashi. Zōhyōtachi no Senjō: Chūsei no Yōhei to Doreigari. Tokyo: Asahi Shinbunsha, 1995 (new edition in 2005).</ref>などによって日本側の資料から解明しようとする試みが行われた<ref name="kenkyushi">Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan、Rômulo da Silva Ehalt, p.40-47</ref>。 |
日本人の奴隷に焦点をあてた最初期の史学研究は[[岡本良知]]「十六世紀日欧交通史の研究」(1936年、改訂版1942-1944年)とされている{{efn|奴隷に関する記述は[[姉崎正治]]や[[レオン・パジェス]]の著作にもあるが[[WP:RS]]ガイドラインに準拠しない。}}<ref name="kenkyushi" />。日本の労働形態の歴史と、ポルトガル人の奴隷貿易との関連性については[[C・R・ボクサー]]「Fidalgos in the Far East (1550-1771)」(1948年)<ref>BOXER, Charles R. Fidalgos in the Far East (1550-1771). The Hague: Martinus Nijhoff, 1948, p. 234</ref>が指摘しており、奴隷という用語に隠蔽されていた多様な労働形態(例えば傭兵や商人)の存在を明らかにした。その後、この問題に新たな視点から取り組む動きはなく、[[牧英正]]「人身売買」 (1971年) <ref>MAKI Hidemasa. Jinshin Baibai. Tokyo: Iwanami Shinsho, 1971, pp. 53-74</ref>、[[藤木久志]]「雑兵たちの戦場中世の傭兵と奴隷狩り」(1995年)<ref>FUJIKI Hisashi. Zōhyōtachi no Senjō: Chūsei no Yōhei to Doreigari. Tokyo: Asahi Shinbunsha, 1995 (new edition in 2005).</ref>などによって日本側の資料から解明しようとする試みが行われた<ref name="kenkyushi">Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan、Rômulo da Silva Ehalt, p.40-47</ref>。 |
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最新の日本人奴隷の研究成果については、ルシオ・デ・ソウザの著作「The Portuguese Slave Trade in Early Modern Japan」(2019年)がある<ref name="kenkyushi" /><ref>Lúcio de SOUSA, The Portuguese Slave Trade in Early Modern Japan. Merchants, Jesuits and Japanese, Chinese, and Korean Slaves, Leiden / Boston, Brill, 2019, ISBN |
最新の日本人奴隷の研究成果については、ルシオ・デ・ソウザの著作「The Portuguese Slave Trade in Early Modern Japan」(2019年)がある<ref name="kenkyushi" /><ref>Lúcio de SOUSA, The Portuguese Slave Trade in Early Modern Japan. Merchants, Jesuits and Japanese, Chinese, and Korean Slaves, Leiden / Boston, Brill, 2019, ISBN 978-90-04-36580-3</ref>。野心的な研究として高く評価される一方で、ポルトガル人の逸話、発言や報告にある信頼性の低い記述を貧弱な説明と共にそのまま引用していること、どこで得られた情報なのかを示す正確な参考文献を提示しないために検証不可能であり、書籍中での主張に疑念を抱かさせるといった批判を受けている<ref>(書評)The Portuguese Slave Trade in Early Modern Japan: Merchants, Jesuits and Japanese, Chinese, and Korean Slaves, written by Lúcio De Sousa, Harriet Zurndorfer, Journal of early modern history, 2020, pp. 181-195, "This is a deeply unsatisfactory book. The author has a penchant for writing in the first-person plural, which results in an almost child-like storytelling mode of exposition, peppered with a certain conspiratorial tone, rather than giving a systematic and intelligible analysis of the data. Much data cannot be verified because the author does not offer the exact references from where the information may be found, and thus his claims may raise suspicion. The feeble narrative cannot absorb the anecdotal, curiously pompous details of testimonies, remarks, and judgements of the Portuguese rapporteurs.</ref>。デ・ソウザが西洋圏の一次資料や二次資料に焦点を当てる一方で、日本における中世末期から17世紀までの奴隷制の慣行に関する膨大な研究成果を利用しなかったことで、依存と服従の形が隷属と見分けがつかないようなポルトガル人来航以前の日本の社会状況を知ることができず、日本における隷属の歴史から見たポルトガル人の特殊性への考察が欠けているとも論評されている<ref name="Carre">Guillaume Carré, « Lúcio de Sousa, The Portuguese Slave Trade in Early Modern Japan. Merchants, Jesuits and Japanese, Chinese, and Korean Slaves », Esclavages & Post-esclavages (En ligne), 4 | 2021, mis en ligne le 10 mai 2021, consulté le 26 août 2024. URL : http://journals.openedition.org/slaveries/3641 ; DOI: https://doi.org/10.4000/slaveries.3641, "En revanche, on peut regretter que, se focalisant sur des sources primaires, mais aussi secondaires, en langue occidentale, l’auteur n’ait pas plus exploité les résultats d’une recherche japonaise déjà longue, sur les pratiques esclavagistes dans l’archipel ou à ses marges à la fin de la période médiévale et au XVIIe siècle. Il en cite pourtant certains représentants dans sa bibliographie : on y lit ainsi le nom de Murai Shōsuke, qui a étudié cette question dans le cadre de la piraterie japonaise, mais on s’étonne de ne pas trouver plus de mentions de travaux sur l’asservissement et la vente de captifs lors des guerres féodales dans l’archipel (comme ceux de Fujiki Hisashi, par exemple). L’auteur reste allusif sur ces pratiques locales ; pourtant, les exposer plus précisément aurait permis aux lecteurs peu au fait de l’histoire sociale japonaise, de se familiariser avec un contexte insulaire initial où la vente des êtres humains ne semble pas avoir été rare, et où les relations de dépendance et de sujétion se distinguaient souvent mal de la servitude, avant que l’emploi salarié et la domesticité à gage ne prennent leur essor sous les Tokugawa : bref des conditions qui, jointes à l’anarchie politique, offraient aux trafiquants d’esclaves portugais un terreau favorable pour leurs affaires. "</ref>{{efn|「The Portuguese Slave Trade in Early Modern Japan」については単純な誤りも指摘されている<ref>Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan、Rômulo da Silva Ehalt, p.218, p.493</ref>が、ミスはあり得ることなので重大な問題とは言えない。}}。 |
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2024年9月11日 (水) 01:18時点における版
ポルトガルの奴隷貿易(ポルトガルのどれいぼうえき)では、主に16世紀以降のポルトガル人によるアジア人の奴隷貿易について述べる。ポルトガルにおいては古くから奴隷制が存在し、古代ローマ、ウマイヤ朝など時代を通じてそのあり方が変化してきた。15世紀以降の大航海時代になると、黒人を奴隷とする大西洋奴隷貿易が盛んになるが、ポルトガル人のアジアへの進出に伴い、アジア人を奴隷とする奴隷貿易も行われるようになっていった。
概要
ポルトガルにおける奴隷の定義
戦国時代に来航したポルトガル商人は主従関係などにより一時的にでも自由でない労働者を奴隷と考えており、ポルトガル商人の理解する奴隷には様々な労働形態があったことが指摘されている[1][2]。
それでは彼らが日本人の奴隷と考えたのは日本のどのような身分の者であったのか。……『日葡辞書』をみると、奴隷を意味する criado, servo とか captivo の語は、Fudaino guenin(譜代の下人)、Fudaino mono(譜代の者)、Fudasodennno mono(譜代相伝の者)、Guenin(下人)、Xoju(所従)、Yatçuco(奴)等の語にあてられている。彼等が日本の奴隷と解した譜代の者とか譜代相伝とか称せられた下人や所従は、農業その他の家庭労働に使役されていたし、実際国内では習慣法上売買の対象となっていた[1]。 — 人身売買 (岩波新書)、牧 英正、1971/10/20, p. 60
奴隷という用語が労働形態、社会集団を隠蔽することで、ポルトガル人が理解していた奴隷の概念の詳細が把握されてこなかった。
ポルトガル語で「奴隷」という語は一般的に「エスクラーヴォ escravo」と表される。日本でポルトガル人が「エスクラーヴォ」と呼ぶ人々には、中世日本社会に存在した「下人」、「所従」といった人々が当然含まれる。しかし、日本社会ではそれらと一線を画したと思われる「年季奉公人」もまた、ポルトガル人の理解では、同じカテゴリーに属した[2]。 — 日本史の森をゆく - 史料が語るとっておきの42話、東京大学史料編纂所 (著)、 中公新書、2014/12/19、p77-8.
ポルトガル人は日本で一般的な労働形態である年季奉公人も不自由な労使関係として奴隷とみなすなど、多くの日本人の労働形態はポルトガル人の基準では奴隷であり、誤訳以上の複雑な研究課題とされてきた[2]。ポルトガルでは不自由な労使関係、主従関係における従属を奴隷と理解することがあり、使用される傭兵や独立した商人冒険家も奴隷の名称で分類されることがあった[3]。
またポルトガル人は日本の社会での使用人や農民のことを奴隷と同定することがあった。1557年、ガスパル・ヴィレラは日本には貴族と僧侶、農民の社会階層があると論じ、貴族と僧侶は経済的に自立しているというが、農民は前二者のために働き、自分たちにはごくわずかの収入しか残らない奴隷状態にあると述べている[4]。コスメ・デ・トーレスは日本の社会について以下のように語っている。
コスメ・デ・トーレスは日本人の地主は使用人に対して生殺与奪の権力を行使することができるとして、ローマ法において主人が奴隷に対して持つ権利 vitae necisque potestas を例証として使い、日本における農民等の使用人を奴隷と変わらない身分とした[7]。
中世の日本社会では、百姓は納税が間に合わない場合に備えて、自分や他人を保証人として差し出すことができたという。税金を払わない場合、これらの保証は売却される可能性があり、農民と奴隷の区別をいっそう困難にした[8]。
奴隷の購入
ポルトガルでは新たに奴隷を購入する際、以下の5つが正当な事由とされ、それ以外の理由で奴隷とされたものは解放されることが求められた[9][10]。
- 犯罪の刑罰[9]
- 正戦[注釈 1](聖戦とは区別され、防衛戦争を指す[12][注釈 2][11])による虜囚[注釈 3][9]
- 志願奴隷(英: voluntary servitude)[9][注釈 4](または年季奉公人[20])
- 極端な貧困など[21] により親がやむを得ず子を売る[注釈 5][注釈 6][9]
- 奴隷の相続[注釈 7][9]
中世日本では人身永代売買が広く行われており、年季奉公が一般的になったのは江戸幕府以降だが[24]、ポルトガル人が日本で購入した奴隷については、志願奴隷(数年で契約期間が終了する年季奉公人[20][注釈 3])が記録されている[25]。
カスティーリャ王アルフォンソ10世の時代に編纂された法典、ラス・シエテ・パルティーダ(Las Siete Partidas)によると志願奴隷[20]を購入するには5つの条件を満たす必要があった[26][27]。
日本人の志願奴隷制度[注釈 4](年季奉公制度[20][注釈 3])では、マカオへの渡航のみを希望したり、ポルトガル人に雇われることができず、自らを売った者などがいたという[28]。日本人の志願奴隷[注釈 4](年季奉公人[20][注釈 3])の中にはマカオに上陸するなり、明の管轄する領土に移動して労働契約を一方的に破棄する事例が続出した[29]。この結果、多くのポルトガル人は以前と同じ量の日本人奴隷を買わなくなったという[28]。
日本の社会情勢はこうした奴隷貿易に有利であった。内戦の資金を求めて軍事指導者が要求した増税は、国民の貧困化を招き、多くの日本人が奴隷制を生き残るための代替戦略として捉えた[30]。
奴隷貿易の規制
1520年に制定された「インド法(スペイン語:Ordenações da Índia)」では王室の所有する船や、インドからポルトガルに香辛料を運んで来る私船では、たとえ船長や財務監督の許可があっても、男性奴隷および女性奴隷の乗船を禁じている[31]。1520年3月のインド総督ディオゴ・ロペス・デ・セケイラへの書簡では、例外として船の安全のために必要であれば、男性奴隷である限り20人までの乗船を認めると定めている。男性奴隷は船の航行を助けるのに十分な能力と知識を持つ限りにおいて乗船を許可された[32][33]。
奴隷の出身地
16世紀のポルトガルにおいて中国人奴隷(人種的な区別の文脈であるため日本人奴隷も含む)の数は「わずかなもの」であり、東インド人、改宗イスラム教徒、アフリカ人奴隷の方が圧倒的に多かった[34]。フィリッポ・サッセッティ(Filippo Sassetti)はリスボンにいた奴隷の大部分が黒人だったものの、幾人かの中国人を目撃したと証言している[35]。
フィリピンからアカプルコに送られた奴隷の出身地をデータベース化した歴史学者タチアナ・セイジャスによると、アジア人奴隷はインドやベンガル等のポルトガルが進出していた地域の出身が多かった[36]。
奴隷の出身地 | 人数 |
---|---|
スペイン領フィリピン | 62 |
イスラム系フィリピン | 17 |
インド | 68 |
ベンガル | 30 |
インドネシア | 15 |
マレーシア | 9 |
スリランカ | 6 |
日本 | 4 |
マカオ、中国 | 3 |
ティモール | 2 |
不明 | 9 |
奴隷貿易に使用されたナウ船
船倉内に可能な限り多くの奴隷を入れることを可能とした複層区画の奴隷船が登場するのは17世紀以降である。1570年、セバスティアン1世 (ポルトガル王)は300トン以下、450トン以上の船の建造を禁止している[37][38]。ポルトガルは最盛期でさえも300隻以上の船を保有しておらず、1585年から1597年までにインドへ出航した66隻のうち無事に戻ってきたのは34隻だけであった[39]。16世紀から17世紀を通じてポルトガル―インド間を運行したナウ船の中でも最大級のものは載貨重量トン数600トン(現代の計算方法で換算すると排水量1100トン[40][38])にもなり乗組員、乗客、奴隷、護衛の兵士を含む400-450人を乗せることができたという[41]。載貨重量トン数900トンのナウ船は77人の乗組員、18人の砲兵、317人の兵士、26の家族を乗船させることができた[42][注釈 8]。
日明間の航路については、貿易風の性質上、1年周期に限定されており、ナウ船1隻だけを使用することで利益を最大化した[43][注釈 9]。ポルトガルのナウ船は毎年1000〜2500ピコ(1ピコ=60キログラム)の絹を運んだという[45]。3000ピコは180トンの絹に相当するため船倉容積は250から400立方メートルと推定でき、それに武装、備品、乗組員、乗客、兵士、食料と水が加わっていたと推測される。硫黄、銀、海産物、刀、漆器等の日本特産品の入荷量によって乗船できる人数は上下したと考えられる。ルシオ・デ・ソウザはポルトガル船の奴隷の積載能力を評価しているが、ギヨーム・キャレは十分に正確で実質的な情報に欠けており、断片的なデータでは信頼できる推定値を再構築することはできないと批評している[46] 。
アジア
研究史
デボラ・オロペザ・ケレシーの2007年の博士論文以降、メキシコ人やアメリカ人の歴史家の間でアジア人奴隷についての関心が高まっている。ケレシーの論文はメキシコの一次資料と二次資料から中央アメリカへのアジア人奴隷の流入を明らかにしており、現時点で最も正確な研究として評価されている[47][48]。翌2008年にはタチアナ・セイジャスがエール大学に博士論文を提出した[49][47]。
日本人の奴隷に焦点をあてた最初期の史学研究は岡本良知「十六世紀日欧交通史の研究」(1936年、改訂版1942-1944年)とされている[注釈 10][47]。日本の労働形態の歴史と、ポルトガル人の奴隷貿易との関連性についてはC・R・ボクサー「Fidalgos in the Far East (1550-1771)」(1948年)[50]が指摘しており、奴隷という用語に隠蔽されていた多様な労働形態(例えば傭兵や商人)の存在を明らかにした。その後、この問題に新たな視点から取り組む動きはなく、牧英正「人身売買」 (1971年) [51]、藤木久志「雑兵たちの戦場中世の傭兵と奴隷狩り」(1995年)[52]などによって日本側の資料から解明しようとする試みが行われた[47]。
最新の日本人奴隷の研究成果については、ルシオ・デ・ソウザの著作「The Portuguese Slave Trade in Early Modern Japan」(2019年)がある[47][53]。野心的な研究として高く評価される一方で、ポルトガル人の逸話、発言や報告にある信頼性の低い記述を貧弱な説明と共にそのまま引用していること、どこで得られた情報なのかを示す正確な参考文献を提示しないために検証不可能であり、書籍中での主張に疑念を抱かさせるといった批判を受けている[54]。デ・ソウザが西洋圏の一次資料や二次資料に焦点を当てる一方で、日本における中世末期から17世紀までの奴隷制の慣行に関する膨大な研究成果を利用しなかったことで、依存と服従の形が隷属と見分けがつかないようなポルトガル人来航以前の日本の社会状況を知ることができず、日本における隷属の歴史から見たポルトガル人の特殊性への考察が欠けているとも論評されている[55][注釈 11]。
背景
1514年にポルトガル人がマラッカから中国と貿易を行って以来、ポルトガル人が初めて日本に上陸した翌年には、マラッカ、中国、日本の間で貿易が始まった。中国は倭寇の襲撃により、日本に対して禁輸措置をとっていたため、日本では中国製品が不足していた[44]。
当初、日本との貿易は全てのポルトガル人に開かれていたが、1550年にポルトガル国王が日本との貿易の権利を独占した[44]。以降、年に一度、一隻に日本との貿易事業の権利が与えられ、日本への航海のカピタン・マジョールの称号、事業を行うための資金が不足した場合の職権売却の権利が与えられた。船はゴアを出航し、マラッカ、中国に寄港した後、日本に向けて出発した[44]。
南蛮貿易で最も価値のある商品は、中国の絹と日本の銀であり、その銀は中国でさらに絹と交換された[44]。金、中国の磁器、ジャコウ、ルバーブ、アラビアの馬、ベンガルの虎、孔雀、インドの高級な緋色の布、更紗、フランドルの時計、ヴェネチアガラスなどのヨーロッパ製品、ポルトガルのワイン、レイピアなどが、日本の銅、硫黄、漆器、武器(日本刀等)と交換された[57]。日本の漆器は、ヨーロッパの貴族や宣教師を魅了した[58]。
ポルトガル船の主要品目に硝石は含まれない[57]が、古い家屋の床下にある土から硝酸カリウムを抽出する古土法、主にカイコの糞を使う培養法による硝石製造が五箇山等の各地で行われ国産化が進んだ。
一方でポルトガル人、アジア人、アフリカ人の船員は戦乱で捕獲され奴隷となっていた日本人を買うことがあり、ときにはアジア人奴隷、アフリカ人奴隷が日本人の奴隷を購入し所有した。こうして売られた奴隷の多くが日本人女性であり、故郷から離れた乗組員や奴隷に妻・家族、妾をもたせ懐柔するために奴隷の購入は許容された。ポルトガル領の奴隷の大部分はアフリカ系だったが、少数の中国人、日本人の奴隷の存在が記録されている[59][60][34]。
ポルトガルの人口は小規模であるため、ポルトガルの海外進出は大量の奴隷を獲得して初めて可能になった。また奴隷の人種についてはアフリカ系が好まれた。15世紀後半から16世紀にかけて、ポルトガルの奴隷への依存度が問題視されることはなかった。奴隷は稼いだお金を貯めて自由を買うか、代わりの奴隷を買うことを許されれば、自由になることができた。女性の奴隷は、主人が結婚することを選べば、自由になれた[61]。
アフリカ人奴隷はマカオの戦いで命をかけて勇敢に戦い、ポルトガルへの忠誠心をヤン・ピーテルスゾーン・クーンに称賛されるほどだった。
ポルトガル人来航以前の奴隷貿易
アジア人の奴隷貿易については倭寇に遡り、ポルトガル商人は新参者だった。前期倭寇は朝鮮半島、山東・遼東半島での人狩りで捕らえた人々を手元において奴婢として使役するか、壱岐、対馬、北部九州で奴隷として売却したが、琉球にまで転売された事例もあった。後期倭寇はさらに大規模な奴隷貿易を行い、中国東南部の江南、淅江、福建などを襲撃し住人を拉致、捕らえられたものは対馬、松浦、博多、薩摩、大隅などの九州地方で奴隷として売却された[62]。1571年のスペイン人の調査報告によると、日本人の海賊、密貿易商人が支配する植民地はマニラ、カガヤン・バレー地方、コルディリェラ、リンガエン、バターン、カタンドゥアネスにもあった[63]。倭寇の人狩りに加えて、古来から日本の戦場では戦利品の一部として男女を拉致していく「人取り」(乱妨取り)がしばしば行われており、乱妨取りや文禄・慶長の役(朝鮮出兵)により奴隷貿易はさらに拡大、東南アジアに進出し密貿易も行う後期倭寇によりアジア各地で売却された奴隷の一部はポルトガル商人によってマカオ等で転売され、そこからインドに送られたものもいたという。数少ないポルトガル商船の輸送力や奴隷の需要、食料供給、九州の人口を考慮するなら、日本人奴隷の取引量自体がそれほど大きかったとは考えられないが、奴隷貿易のネットワークはポルトガル、アフリカ、ゴア、マカオにまで及び地理的には大規模だった[64][65][66][注釈 12]。
日本
1537年のスブリミス・デウスにおいて教皇パウロ3世はアメリカ先住民の奴隷化を無効だと宣言していたが、1541年のポルトガル船来航以降にも奴隷貿易が行われてきた。中世後期、ポルトガル船の来航以前は密貿易商をしていた倭寇等の海賊が東アジアにおける奴隷貿易を独占していた。
ポルトガル人が日本人に1543年に初めて接触したのち、16〜17世紀を通じ、ポルトガル船の乗員の取引の一部に日本人奴隷も含まれるようになり、ポルトガル本国を含む海外の様々な場所に売却された。[68][69]。多くの文献において、日本人の奴隷交易の存在が述べられている[70][71][72][73][74][75][76][77][78][79]。実際に取引された奴隷数については議論の余地があるが、反ポルトガルのプロパガンダの一環として奴隷数を誇張する傾向があるとされている。記録に残る中国人や日本人奴隷は少数で貴重であったことや、年間数隻程度しか来航しないポルトガル船の積荷(硫黄、銀、海産物、刀、漆器等)の積載量の限界、九州の人口、奴隷の需要、海賊対策のための武装、奴隷と貴重な貨物を離す独立した船内区画、移送中の奴隷に食料・水を与える等の輸送上の配慮の問題から、ポルトガル人の奴隷貿易で売られた日本人の奴隷は数百人以上の規模と考えられている[65][64][注釈 13]。16世紀のポルトガルの支配領域において東アジア人の奴隷の数は「わずかなもの」で、インド人、アフリカ人奴隷の方が圧倒的に多かった[66]。
歴史家の岡本良知は1555年をポルトガル商人が日本から奴隷を売買したことを直接示す最初の記述とし、これがイエズス会による抗議へと繋がり1571年のセバスティアン1世 (ポルトガル王) による日本人奴隷貿易禁止の勅許につながったとした。岡本はイエズス会はそれまで奴隷貿易を廃止するために成功しなかったが、あらゆる努力をしたためその責めを免れるとしている[80]。
日本人の奴隷たちはヨーロッパに流れ着いた最初の日本人であると考えられており、1555年、ポルトガル人は日本人の奴隷の少女を買い取ってポルトガルに連れ帰ったと教会によって告発が行われている[81]。日本マカオ間の定期航路の開通により規模が大きくなっていた奴隷貿易に対してイエズス会の宣教師たちは日本での奴隷貿易禁止の法令の発布を度々求めており、国王セバスティアン1世はカトリック教会への改宗に悪影響が出ることを懸念して、1571年に日本人の奴隷交易の中止を命令した[72][82]。1571年の人身売買禁止までの南蛮貿易の実態だが、1570年までに薩摩に来航したポルトガル船は合計18隻、倭寇のジャンク船を含めればそれ以上の数となる[83][注釈 12]。ポルトガル国王の勅令は遠隔地での法執行の困難さから、効果的に禁止令は執行されず事実上野放し状態となった。その一方でイエズス会士は禁止令以降も奴隷貿易禁止の執行や奴隷解放のロビー活動を続けた[81]。
ポルトガルの奴隷貿易で数百人以上の日本人、特に故郷から遠く離れた異国で働く水夫等を懐柔するための奴隷として女性が売られたとされている[64]。日本人の女性奴隷は、日本で交易を行うポルトガル船で働くヨーロッパ人水夫だけでなく、黒人水夫に対しても、妾として売られていた、とポルトガル人イエズス会士ルイス・セルケイラ (Luís Cerqueira) が1598年に書かれた文書で述べている[84]。ポルトガル人がマレー人やアフリカ人の奴隷を所有し、その奴隷が日本人の奴隷を所有するというように、他の奴隷の奴隷になった者もいたという[59][60]。
天正十四年(1586年)『フロイス日本史』は島津氏の豊後侵攻の乱妨取りで拉致された領民の一部が肥後に売られていた惨状を記録している[注釈 14]。『上井覚兼日記』天正14年7月12日条によると「路次すがら、疵を負った人に会った。そのほか濫妨人などが女・子供を数十人引き連れ帰ってくるので、道も混雑していた。」と同様の記録を残している。天正十六年(1588年)8月、秀吉は人身売買の無効を宣言する朱印状で
豊後の百姓やそのほか上下の身分に限らず、男女・子供が近年売買され肥後にいるという。申し付けて、早く豊後に連れ戻すこと。とりわけ去年から買いとられた人は、買い損であることを申し伝えなさい。拒否することは、問題であることを申し触れること — 下川文書、天正十六年(1588年)8月
と、天正十六年(1588年)閏5月15日に肥後に配置されたばかりの加藤清正と小西行長に奴隷を買ったものに補償をせず「買い損」とするよう通知している。同天正十六年(1588年)、同様のことを島津家にも命じている。こうした乱妨取りによって拉致された奴隷の一部がポルトガル商人、倭寇に転売された可能性はある。
1587年(天正15年)6月18日、豊臣秀吉は九州平定の途上で、当時のイエズス会の布教責任者であった宣教師ガスパール・コエリョとの夕食後、重臣達の御前会議で施薬院全宗が寺社破壊や奴隷貿易等を行っていると讒言をし高山右近に棄教をせまったが殉教を選ぶと拒否されたため、コエリョを詰問した[85]。翌6月19日、キリスト教の布教を禁じる『吉利支丹伴天連追放令』(バテレン追放令)を発布した[86][87]。バテレン追放令で奴隷貿易を禁じたとされるが、実際に発布された6月19日付けのバテレン追放令には人身売買を追求する文が(6月18日付けの覚書から)削除されており、追放令発布の理由についても諸説ある[85][88][89][90][91][92][93]。バテレン追放令後の1591年、教皇グレゴリー14世はカトリック信者に対してフィリピンに在住する全奴隷を解放後、賠償金を払うよう命じ違反者は破門すると宣言、在フィリピンの奴隷に影響を与えた。
デ・サンデ天正遣欧使節記では、同国民を売ろうとする日本の文化・宗教の道徳的退廃に対して批判が行われている[94]。
日本人には慾心と金銭の執着がはなはだしく、そのためたがいに身を売るようなことをして、日本の名にきわめて醜い汚れをかぶせているのを、ポルトガル人やヨーロッパ人はみな、不思議に思っているのである。 — デ ・サンデ 1590 天正遣欧使節記 新異国叢書 5 (泉井久之助他共訳)雄松堂書店、1969、p232-235
デ・サンデ天正遣欧使節記はポルトガル国王による奴隷売買禁止の勅令後も、人目を忍んで奴隷の強引な売り込みが日本人の奴隷商人から行われたとしている[94]。
また会のパドレ方についてだが、あの方々がこういう売買に対して本心からどれほど反対していられるかをあなた方にも知っていただくためには、この方々が百方苦心して、ポルトガルから勅状をいただかれる運びになったが、それによれば日本に渡来する商人が日本人を奴隷として買うことを厳罰をもって禁じてあることを知ってもらいたい。しかしこのお布令ばかり厳重だからとて何になろう。日本人はいたって強慾であって兄弟、縁者、朋友、あるいはまたその他の者たちをも暴力や詭計を用いてかどわかし、こっそりと人目を忍んでポルトガル人の船へ連れ込み、ポルトガル人を哀願なり、値段の安いことで奴隷の買入れに誘うのだ。ポルトガル人はこれをもっけの幸いな口実として、法律を破る罪を知りながら、自分たちには一種の暴力が日本人の執拗な嘆願によって加えられたのだと主張して、自分の犯した罪を隠すのである。だがポルトガル人は日本人を悪くは扱っていない。というのは、これらの売られた者たちはキリスト教の教義を教えられるばかりか、ポルトガルではさながら自由人のような待遇を受けてねんごろしごくに扱われ、そして数年もすれば自由の身となって解放されるからである。 — デ ・サンデ 1590 天正遣欧使節記 新異国叢書 5 (泉井久之助他共訳)雄松堂書店、1969、p232-235
デ・サンデ天正遣欧使節記は、日本に帰国前の千々石ミゲルと日本にいた従兄弟の対話録として著述されており[94]、物理的に接触が不可能な両者の対話を歴史的な史実と見ることはできず、フィクションとして捉えられてきた[95]。遣欧使節記は虚構だとしても、豊臣政権とポルトガルの二国間の認識の落差がうかがえる[注釈 15]。伴天連追放令後の1589年(天正17年)には日本初の遊郭ともされる京都の柳原遊郭が豊臣秀吉によって開かれたが[101][注釈 16]、遊郭は女衒などによる人身売買の温床となり、江戸幕府が豊臣秀吉の遊郭を拡大して唐人屋敷への遊女の出入り許可を与えた丸山遊廓を島原の乱後の1639年(寛永16年)頃に作ったことで、それが「唐行きさん」の語源ともなっている[103][104]。秀吉が遊郭を作ったことで、貧農の家庭の親権者などから女性を買い遊廓などに売る身売りの仲介をする女衒が、年季奉公の前借金前渡しの証文を作り、性的サービスの提供を本人の意志に関係なく強要することが横行した。元禄時代(1688-1704)の頃に唐人屋敷では中国人が日本人の家事手伝いを雇うことは一般的だったが、日本人女性は中国人が帰るときについていき大半のものが騙されて売春宿に売られたという[105]。日本人女性の人身売買はポルトガル商人や倭寇に限らず、19世紀から20世紀初頭にかけても「黄色い奴隷売買」、「唐行きさん」として知られるほど活発であり、宣教師が批判した日本人が同国人を性的奴隷として売る商行為は近代まで続いた[106][107]。
1596年(慶長元年)、長崎に着任したイエズス会司教ペドロ・マルティンス (Don Pedro Martins) はキリシタンの代表を集めて、奴隷貿易に関係するキリシタンがいれば例外なく破門すると通達している。[108]
日本におけるポルトガルの奴隷貿易を問題視していた宣教師はポルトガル商人による奴隷の購入を妨げるための必要な権限を持たなかったため、永代人身売買をやめさせて契約期間を定めた年季奉公人とするように働きかけが行われた[109][110]。一部の宣教師は人道的観点から隷属年数を定めた短期所有者証明書(schedulae)[111]に署名をすることで、より大きな悪である期間の定めのない奴隷の購入を阻止して日本人の待遇が永代人身売買から年季奉公に改められるよう介入したとされている[109][112]。マテウス・デ・クウロス等の宣教師らによって、人道的介入であっても関与自体が誤りであったとの批判が行われ、1598年以降、ポルトガル商人の期間奴隷(または年季奉公人)購入への宣教師の人道的介入は禁じられた[113]。
16世紀から17世紀への転換期、イベリア同君連合の第2代支配者であるポルトガル国王フィリペ2世(スペイン国王フェリペ3世)は、イエズス会の要請により、1571年の勅許を再制定して日本人の奴隷貿易の交易を中止しようとしたが、彼の政策はポルトガル帝国の地方エリートの強い反対に会い、長い交渉の末、イエズス会のロビー活動は失敗に終わった[100]。
1603年、イエズス会の嘆願を受けてフィリペ2世は、1571年にセバスティアン1世 (ポルトガル王) が制定した日本人奴隷の貿易禁止令を執行する勅許を公布した[97][98]。禁止令を根拠に日本人奴隷の取引を停止させようとした司教に従わないポルトガル商人が相次いだため、同内容の勅令が1603年、1604年、1605年に通達された[96]。禁止令を受けて混乱した市民はゴア市議会に集まり、インド副王アイレス・デ・サルダーニャに陳情をしたが相手にされなかったため、判事達が国王に書簡で真実を説明をするまでの間は法律の執行を停止する騒動が起きた。アイレス・デ・サルダーニャが停止を認めなかったため、判事は副王が法律を無視し力づくで押し通していると主張した。判事はフィリペ2世に書簡において、ゴアのポルトガル市民、判事は、いかなる神聖な法も市民が資産を失うことを認めることはないとし、以下のように禁止令執行に反対する理由を述べた[99]。
- 日本人奴隷だけが武器を扱うことに慣れており、ゴアの防衛に欠かすことができない。
- 日本人奴隷については隷属期間を限定した購入だけが許可されており、事実上の年季奉公人として期間が過ぎると解放されてポルトガル国王の忠実な臣民となるため、ポルトガルの法律では合法である。
日本人奴隷の購入禁止令と奴隷解放令への苦情を申し立てた上で、合理的な理由があるならば国王の命令に従うとしたが、国王はゴア市民の頑強な抵抗に屈して勅令は骨抜きにされ執行されなかった[99]。
朝鮮
文禄・慶長の役では、臼杵城主の太田一吉に仕え従軍した医僧、慶念が『朝鮮日々記』に
日本よりもよろずの商人も来たりしたなかに人商いせる者来たり、奥陣より(日本軍の)後につき歩き、男女・老若買い取りて、縄にて首をくくり集め、先へ追い立て、歩み候わねば後より杖にて追い立て、打ち走らかす有様は、さながら阿坊羅刹の罪人を責めけるもかくやと思いはべる…かくの如くに買い集め、例えば猿をくくりて歩くごとくに、牛馬をひかせて荷物持たせなどして、責める躰は、見る目いたわしくてありつる事なり — 朝鮮日々記
と記録を残している[114]。渡邊大門によると、最初、乱取りを禁止していた秀吉も方向転換し、捉えた朝鮮人を進上するように命令を発していると主張している[115]。多聞院日記によると、乱妨取りで拉致された朝鮮人の女性・子供は略奪品と一緒に、対馬、壱岐を経て、名護屋に送られた[116]。薩摩の武将・大島忠泰の角右衛門という部下は朝鮮人奴隷を国許に「お土産」として送ったと書状に書いている[117][118]。こうして乱妨取りされた朝鮮人の一部は、日本人の奴隷商人からポルトガル商人に転売されたという[119][120]。 欧米の一部歴史家は、秀吉はポルトガル人による日本人奴隷売買を阻止した一方で、秀吉自身も乱妨取りによって拉致した朝鮮人の国内外での人身売買を誘発した面があることを指摘している[注釈 17][121][122]。
中国
スペインにいる中国人奴隷の中には、少年の頃にポルトガルのリスボンに連れてこられて売られた後、スペインにたどり着いた者もいる。トリスタン・デ・ラ・シーナはポルトガル人に奴隷として連れて行かれた中国人であり[123]、まだ少年だった1520年代にリスボンのクリストバール・デ・ハロに所有権がうつり、セビリアやバリャドリードで生活するために移送された[124]。1525年のロアイサ遠征では通訳として報酬を得ていた[125][126]。
ポルトガルの首都リスボンには少なくとも1540年には中国人の奴隷がいた複数の記録がある[127]。現代の歴史家によると、中国人が初めてヨーロッパを訪れたのはポルトガル人侵入者によって、おそらく中国南部の沿岸で奴隷にされた中国人の学者がポルトガルに連れて行かれた1540年(あるいはその数年後)という。その中国人はポルトガルの歴史家ジョアン・デ・バロスに購入され、共に中国語の文書をポルトガル語に翻訳する作業に従事したという[128]。 中国人の子供たちはマカオで誘拐され、まだ幼いうちにリスボンで売り払われた[129][130]。フィリッポ・サッセッティ(Filippo Sassetti)はリスボンの大規模な奴隷集落において、大部分の奴隷が黒人だったものの、幾人かの日本人、中国人の奴隷を見かけたと報告している[35][131][132][133][134]。
1595年にポルトガルにおいて中国人及び日本人奴隷の売買を禁ずる法律が制定された[135]。
マカオおよび中国沿岸部
16世紀以降、ポルトガルは中国の海岸部に交易のための港と居住地を確保しようとした。しかしながら基地を確保しようとする初期のこのような活動は、例えば寧波や泉州において行われたが、中国人に壊滅させられてしまった。引き続いて今度はポルトガル人入植者が暴力的な侵入を行い、略奪をし、ときには隷属化させた[136][137][138][139][140]。 ポルトガル人のこのような振る舞いに対する不満が中国側の省の長官に届き、ポルトガル人の居住施設の破壊とその居住者の一掃が命じられた。1545年に、6万人の中国兵がポルトガル人が住み着いていた場所を急襲し、1,200人の居住者のうち800人が殺害され、25艘の船と42艇のジャンクが破壊された[141][142][143][144]。
マカオでは、ポルトガルの初期植民地時代にあたる17世紀中葉までに、約5千人の奴隷が居住していた。さらに2千人のポルトガル人と、増え続ける中国人がおり、中国人は1664年には2万人に達した[145] [146]。 奴隷の数はその後数十年の間に千人から二千人の間へと減少した[147]。ほとんどの奴隷はアフリカ出身であった。しかしアジア一帯からの出身の奴隷も含まれていた。すなわち、中国人、日本人、マレー人、インドネシア人そしてインド人である。そのほとんどが女性で、多くはポルトガル人の現地妻となっていた[145] [148]。
1622年6月24日、オランダ共和国がマカオの戦いにおいてマカオを攻撃した。目的はこの地域をオランダ領にすることであった。オランダ軍はコルネリス・ライエルスゾーン(Kornelis Reyerszoon)隊長に率いられた800名の強力な侵略軍であった。数的に劣勢であったポルトガル側はオランダ軍の攻撃を撃退し、攻撃が繰り返されることはなかった。ポルトガル側の大多数はアフリカ人奴隷であった。そしてわずか2〜30人のポルトガル人の兵士と司祭が支援したが、この戦いの犠牲者の大多数はアフリカ人奴隷であった[149] [150] [151] [152]。敗北の後、オランダの総督のヤン・クーンはマカオの奴隷たちについて「我々の民を打ち負かし追い出したのは彼らだ」と述べている [153] [154] [155] [156]。 1800年代の清朝の時期に、イギリス領事は、ポルトガル人が未だに5〜8歳の子どもを人身売買していると記している[157] [158] [159]。
1814年に嘉慶帝が大清律例・礼律・祭祀の「禁止師巫邪術」の項に1つの条文を付け加えた。これは1821年に改訂が行われ、1826年に道光帝によって公布された。その条文により、ヨーロッパ人、すなわちポルトガル人キリスト教徒で、キリスト教への改宗を反省しない者については新疆にあるイスラームの都市に送り、奴隷の身分にするとされた[160]。
各国奴隷の評価
1562年10月23日に記録された遺書には、エヴォラに住んでいたドナ・マリア・デ・ビリェナ(Dona Maria de Vilhena)という上流階級の婦人が保有するアントニオという名前の中国人奴隷について記載がある[161][162][163][164][165][166][167][168][169][170][171][172][173][174]。アントニオという名前はエヴォラにおいて男性奴隷に付けられた3つのありふれた名前の1つだった[175]。D. マリアは奴隷の中で特にアントニオを重用していたが、それは彼が中国人だったからである[176]。D. マリアが保有していた15人の奴隷のなかで中国人が1人、インド人が3人、改宗イスラム教徒が3人であったことは彼女の社会的地位の高さを表している。なぜなら中国人奴隷、改宗イスラム教徒奴隷、インド人奴隷は評価が高く黒人奴隷より高価であったからである[177]。D. マリアが死んだ時、その意思と遺言により12人の奴隷を自由の身分とし、さらに合計1万〜2万ポルトガルレアルのお金を彼らに遺している[178]。マリア・デ・ビリェナの父親は上流階級出身の探検家のサンチョ・デ・トバル(Sancho de Tovar)でありソファラの提督であった。D. マリアは二回結婚し、一回目の結婚相手は探検家のクリストバン・デ・メンドンサ(Cristóvão de Mendonça)であり、二回目はディーウの提督のシマン・ダ・シルベイラ(Simão da Silveira)であった[179][180][181]。
ポルトガル人は中国人や日本人などのアジア人奴隷をサハラ以南アフリカ出身の奴隷よりもずっと「高く評価していた」[182][183]。ポルトガル人は知性や勤勉さといったものを中国人や日本人奴隷の特質であると見なしていた。このことが奴隷としての高い評価に繋がった[184][185][186][187]。
奴隷の取扱い
黒人奴隷の生活は、多くの点で白人の下層階級の生活と似ていた。白人と同じ服装、食事、仕事をし、同じ言葉を話し始め、ファーストネームで呼び合う等、ほとんどの奴隷は自分たちの状況に納得していたようである。しかし彼らは同じ法律、宗教、道徳の規範に従うことを期待されていた[188]。奴隷の所有者は取得から6ヶ月後に洗礼を受けさせる義務があったが、10歳以上の奴隷(年季奉公人を含む)は洗礼を拒否することができた。洗礼は社会的包摂の一形態であり、洗礼をうけることでポルトガル王室と教会法の管轄に服し保護をうけることができた[189][190]。
ポルトガルへの輸送の途上では、黒人奴隷たちは縛られ、手錠・南京錠および首輪によってお互いにつなぎ合わされることがあった[191]。一部のポルトガル人の所有者らは、黒人奴隷たちが死なない限り、奴隷を鞭で打ったり、鎖で縛り付けたり、高温に熱した蝋や脂肪を奴隷の皮膚に注ぎかけて奴隷に罰を加えた[192]。一部のポルトガル人は奴隷が自分の財産であることを示すために人間用の焼き印も用いていられることもあったという[193]。
ポルトガルでは、このような残酷な行為は非常にまれであり、全体として公平に扱われていた。そのため、黒人奴隷が主人のもとから逃げ出すことはほとんどなかったと考えられている。ポルトガルにおける奴隷制度は、同化のしやすさや衣食住を含めた公平な待遇をうけ、また多くの黒人奴隷は、長年の忠実な奉仕と引き換えに自由を手に入れることができたが、外部からの雇用で得た賃金の一部で自由を購入する法的権利を行使することが一般的であった[194]。
ポルトガルの奴隷制度では、奴隷は時には粗末に扱われることもあったが、ほとんどの場合、奴隷は公平に扱われ、多くの場合、自由民よりも良い扱いを受けていた。奴隷はカトリックに改宗し、言葉を覚え、クリスチャン・ネームを名乗ることによって、すぐにポルトガル社会の一員となった[195]。ポルトガルには多くの奴隷がいたが、彼らの経済的役割は非常に小さく、反社会的団体に組織されてプランテーションで働くということはほとんどなかった[195]。
最新の研究ではアジア人の奴隷は南米のプランテーションで働く黒人奴隷に比べて、より穏やかな家事奴隷として見直す動きがある[196][197]。
奴隷制の禁止
奴隷交易を非難する声は大西洋奴隷貿易が行われたかなり初期から挙がっていた。その期間のヨーロッパにおいて奴隷制に対する非難を行った初期の人物の1人がドミニコ会のガスパル・ダ・クルス(Gaspar da Cruz)(1550- 1575)であり、彼は奴隷交易業者たちの「自分たちはすでに奴隷にされていた子供らを「合法的に」買っただけだ」という言い分を退けた人物である[198]。
大西洋奴隷貿易が行われた初期の時期から、国王はアフリカ人以外の奴隷貿易を止めさせようと考えていた。ポルトガル人に珍重された中国人奴隷の取引は[183]中国当局の官吏の要請に応じる形で取り組まれた。もっとも彼らは一般的に行われてもいたマカオや中国領内における人々を奴隷化する行為について特に反対していたわけではなかったが[199]、何回かに渡って奴隷を領外に運びだすことを止めさせようと試みられた[200]。1595年にポルトガルで民族的に中国人である奴隷の売買を禁止する布告が出された[130][199][201]。そして1744年に清の乾隆帝が中国人の取り扱いを禁止した。さらに1750年に繰り返して命令を出した[202][203]。しかしこれらの法律は奴隷貿易を完全に止めさせることはできず、16世紀には少人数の中国人奴隷がポルトガル南部のポルトガル人奴隷主によって所有されており(29〜34人)[要出典][130]、1700年代まで続けられていた。アメリカ大陸の植民地では、ポルトガル人は中国人、日本人、ヨーロッパ人及びインディアンを砂糖のプランテーション農場で奴隷として働かせるのを中止した。[いつ?] それはアフリカ人奴隷に限定された。[要出典]
ポルトガル本土およびポルトガル領インドにおけるあらゆる形態の奴隷制の廃止はポンバル侯爵セバスティアン・デ・カルヴァーリョの布告を通じて1761年に行われた。続いて1777年にマデイラで行われた。大西洋奴隷貿易はイギリスの圧力の結果、1836年にはポルトガルおよび他のヨーロッパ勢力にとって確実に違法なものとなっていた。しかしながらアフリカのポルトガル植民地においては奴隷制が確実に廃止されたのは1869年であり、米国およびイギリスとの奴隷交易の抑制のための協定に続くものであった。1822年にポルトガルから独立したブラジル帝国では、奴隷制は最終的に1888年に廃止された。
注釈
- ^ 1555年に「A Arte da Guerra do Mar」(海戦術)を出版したポルトガル人ドミニコ会修道士フェルナン・デ・オリヴェイラは異教徒との戦争であっても、キリスト教徒のものであった領土を侵略した国々に対してのみ行えるとした[11]。1556年に出版され、ジョアン3世 (ポルトガル王)宛に書かれたと見られる「Por que causas se pode mover guerra justa contra infieis」では、異教徒に対する正戦を宗教的なものでなく完全に政治的な行為とし、共同体の領地を占領したり、犯罪をしたものを罰するために行われるとしている[12]。
- ^ ヴァリニャーノは文禄・慶長の役を正戦とは考えなかった[13]。1594年に日本のイエズス会からヨーロッパに送られた質問状によると、日本の紛争では正戦の概念に従わず、弱肉強食の原理で領地を占拠する慣習が認められているため[14]、合法的で自然な領主を見つけることができないとした。宣教師達は日本における唯一の合法的な土地所有者は天皇だと考えていた[15]。キリシタン大名に征服した領地を返すよう戒めたとしても、彼らは合法的な所有権を持つと考えるために返還は失敗するであろうと警告し、問題をごまかして見てみぬふりをすべきか問うている[16]。宣教師達は戦争について自由に助言すれば、キリスト教の教義と日本の慣習との間に対立する状況が生まれると考えていた[17]。
- ^ a b c d 日本人や中国人の奴隷は正戦の虜囚(iustae captivitas)でも、一般的な奴隷にも該当しなかった。日本人の奴隷は期限付きの隷属(temporali famulitium)のみが許容されていた[18]。
- ^ a b c 「volunteer servitude」の和訳[19]、ポルトガル人イエズス会士ルイス・セルケイラは年季奉公(英: indentured servitude)の意味で言及している[20]。
- ^ 父親が極度の必要性に迫られて子供たちを奴隷として売らなければならなかった場合[21]
- ^ セルケイラは日本の領主の課す重税によって親が子を売るよう強いられていたと述べているが、極限状況でない場合でも子供が売られていたことを問題視していた[22]。
- ^ 奴隷身分の継承のこと。ポルトガルはローマ法の奴隷の母の子供は奴隷身分を母親から相続する法理(partus sequitur ventrem)を修正せずに採択・継続していた[23]。
- ^ 一般に排水量が増えるほど必要とされる乗組員数は多くなる。
- ^ 毎年一隻に日本と中国の間での貿易事業の権利が与えられ、日本への航海のカピタン・マジョールの称号が与えられた[44]。
- ^ 奴隷に関する記述は姉崎正治やレオン・パジェスの著作にもあるがWP:RSガイドラインに準拠しない。
- ^ 「The Portuguese Slave Trade in Early Modern Japan」については単純な誤りも指摘されている[56]が、ミスはあり得ることなので重大な問題とは言えない。
- ^ a b イエズス会は倭寇を恐れており、1555年に書かれた手紙の中で、ルイス・フロイスは、倭寇の一団から身を守るために、宣教師たちが武器に頼らざるを得なかったことを語っている[67]。
- ^ 大量の奴隷を船内に押し込めるための設備、積層型区画のある奴隷船が登場するのは17世紀以降である。
- ^ 「薩摩の兵が豊後で捕らえた人々の一部は、肥後へ売られていった。ところが、その年の肥後の住民は飢饉に苦しめられ、生活すらままならなかった。したがって、豊後の人々を買って養うことは、もちろん不可能であった。それゆえ買った豊後の人々を羊や牛のごとく、高来に運んで売った。このように三会・島原では、四十人くらいがまとめて売られることもあった。豊後の女・子供は、二束三文で売られ、しかもその数は実に多かった。」ルイス・フロイス 著、松田毅一・川崎桃太 訳『完訳 フロイス日本史』 8巻、中央公論新社〈中公文庫〉、2000年、268頁。
- ^ 天正遣欧使節記の目的をヴァリニャーノはポルトガル国王やローマ教皇に対して政治的、経済的援助を依頼するためと書き残している。天正遣欧使節記はポルトガルの奴隷貿易に関連して引用されることがあるが、イエズス会は1555年の最初期の奴隷取引からポルトガル商人を告発している[81]。イエズス会による抗議は1571年のセバスティアン1世 (ポルトガル王) による日本人奴隷貿易禁止の勅許公布の原動力としても知られている[80]。日本人奴隷の購入禁止令を根拠に奴隷取引を停止させようとした司教に従わないポルトガル商人が続出、非難の応酬が長期に渡り繰り返される事態が続いた[96][97][98]。ポルトガル国王やインド副王の命令に従わず法執行を拒否して騒動を起こすポルトガル商人や裁判官等も数多くいたという[99]。宣教師によって記述された情報は「ポルトガル王室への奴隷貿易廃止のロビー活動」[100]として政治的な性質を帯びており、宣教師側がポルトガル王室から政治的援助を受けるため、さらにポルトガル商人を批判して奴隷売買禁止令の執行実施を促すために生み出した虚構としての側面からも史料批判が必要と考えられる。
- ^ 豊臣秀吉は「人心鎮撫の策」として、遊女屋の営業を積極的に認め、京都に遊廓を造った。1585年に大坂三郷遊廓を許可。89年京都柳町遊里(新屋敷)=指定区域を遊里とした最初である。秀吉も遊びに行ったという。オールコックの『大君の都』によれば、「秀吉は・・・・部下が故郷の妻のところに帰りたがっているのを知って、問題の制度(遊廓)をはじめたのである」やがて「その制度は各地風に望んで蔓延して伊勢の古市、奈良の木辻、播州の室、越後の寺泊、瀬波、出雲碕、その他、博多には「女膜閣」という唐韓人の遊女屋が出来、江島、下関、厳島、浜松、岡崎、その他全国に三百有余ヶ所の遊里が天下御免で大発展し、信濃国善光寺様の門前ですら道行く人の袖を引いていた。」[102]のだという。
- ^ 元和二年(1616年)江戸幕府は高札で人身売買を禁止、元和四年に禁制を繰り返し、元和五年(1619年)12箇条の人身売買禁止令を発布、寛永四年(1627年)正月にも人身売買禁止令をだすなど、人身売買の禁令は豊臣秀吉以降も繰り返し行われているため、秀吉が日本人の人身売買を阻止したとは考えられない、丹野勲『江戸時代の奉公人制度 と日本的雇用慣行』、2011。
出典
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- ^ a b Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. p. 86, "Oliveira states that not all non-Christians could become objects of a just war. He declares that Christians could not declare war against those who were never Christians themselves, and who did not take territories from Christians or performed any detrimental act against Christianity. In this group, Oliveira includes Jews, Muslims and gentiles who never heard of Christ, and who should not be converted by force, but rather be persuaded to conversion, via example and justice. He goes on to classify as tyranny the act of taking their lands, capture their possessions and any aggression against those who do not proffer any blasphemy against Christ or do not resist to their own evangelization261. In effect, Oliveira distinguishes non-Christians from Northern Africa from those of other areas, such as India, thus pragmatically arguing that wars were just only against those who in fact occupied formerly Christian territories262."
- ^ a b Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. pp. 86-87, "Traditionally dated as written in 1556, it compiles the necessary conditions upon which an authority could declare just war against the non-Christians, and more specifically how the Portuguese crown was to deal with the natives in Brazil264....Based on Aristotle and Aquinas, it states that a perfect community had the power necessary to punish those who occupy the community’s territory or make any offense against it267....As for just war, the document repeats there were two main reasons that could justify warfare: to make justice and take back what has been unjustly taken, and to address an offense made against the community. Once more, there is no religious justification, and the argument is entirely political."
- ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. p. 404, "All the Christian daimyō became involved in the conflict because of their subjection to a tyrannical ruler: Toyotomi Hideyoshi. Valignano justifies that they were dragged into war because of the risks that refusing to enter the battlefield represented to the security of their republics. They were good Christians but forced to enter in an unjust war because they were responsible rulers of their kingdoms, according to the Visitor’s justification.126"
- ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. p. 445, "In Japan there is the universal custom, accepted since ancient times, according to which those who are more powerful attempt to eliminate those of less power, and take over their land and put under their dominion. Because of this [custom], we can hardly find true and natural lords in Japan.1400"
- ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. pp. 444-445, "According to it, analysis of Japanese practices using European civil and canonical law results in a fruitless effort, and all Japanese lords would be taken as illegitimate according to any legal principle. Because of the custom of overtaking militarly lands without following European notions of just war, it was impossible to find “ueri et naturales domini” [legitimate and natural lords]. It is interesting to notice that the missionaries concluded that even natural law was useless to justify Japanese military territorial conquests. They also suggest that, because of the political structure of Japanese society, no lord could achieve the power of the Emperor, here referred as the descendant of the first king of Japan, and which he understands to be the only legitimate land owner in the archipelago."
- ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. p. 445, "The issue raised by the questionnaire is whether land possessions could be retained in good conscience. Of course, its concern with the conscience of the lord means that the missionaries were in reality worried with local Christian lords and their territorial conquests – whether converts could be forgiven for conquering land militarily or if they should be admonished to return these. In fact, it warns that any attempt to make them restitute an illegitimate conquest would fail, as they themselves considered these to be legitimately owned and conquered. The problem, thus, is whether Jesuits should dissimulate and pretend to ignore this issue."
- ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. p. 450, "If the missionaries were to advice local lords on matters of war, considering they were following their customs and, therefore, acting in good faith, the only option for the Jesuits was to act deceitfully, avoid the issue and offer non-answers that could not compromise their mission and the souls and consciences of Japanese Christians. The main problem here to the Japan Jesuits was the control they exerted on the level of knowledge Japanese converts had regarding Christian doctrine. If the priests spoke freely about all religious matters, they would create a situation of conflict between local Japanese customs and Christian dogmas."
- ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. pp. 522-523, "The Spanish jurist thus registers that the enslavement of Japanese and Chinese was admitted as far as it was temporary, and that their servitude was fundamentally different from perpetual slavery. This difference is reinforced by the wording of his Latin text: while Asian slavery is called iustae captivitas, Japanese and Chinese servitude is expressly referred as temporali famulitium, temporal servitude. These were not people enslaved as a result of captivity in war, nor were to be understood as common slaves...Also, the legitimacy of these servants is provided by the understanding that local customs and laws were just according to European standards. This shows a line of interpretation close to what Valignano defended until 1598 in his idea of Japanese slavery’s tolerability."
- ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. p. 146
- ^ a b c d e f Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. p. 473, "Next, Cerqueira deals with the issue of voluntary servitude, which here most probably refers to the practice of nenkihōkō 年季奉公 in Japan. The bishop makes it clear that the Japanese fulfilled all the conditions prescribed by moral theology for voluntary servitude, as for example the six points defined by Silvestre Mazzolini.1446"
- ^ a b Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. p. 148, The fourth enslavement method declared legitimate by the Synod in Goa was when a father who, forced by extreme necessity, had to sell his children as slaves.
- ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. p. 472, "While at the same time safeguarding the honor of Japanese Christian lords, Cerqueira said that these parents would be led to subject their children to slavery because they could not pay taxes demanded by non-Christian Japanese lords. However, the problem he had in Japan was that gentile rulers were creating this situation...On the other hand, the problem of definition of necessity also permeates this discussion. Cerqueira indicates that some children were sold not out of extreme necessity, but rather of great necessity. The issue here is relativism: given the local living standards, the Japanese were supposedly able to live in conditions that could be deemed extreme in other areas but were rather ordinary in the archipelago"
- ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. p. 146
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- ^ a b c d e f Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. p. 147, "According to the fourth Partida, anyone could sell him or herself into slavery if: 1) he or she freely agreed with being enslaved; 2) he or she received part of the agreed price; 3) the individual was aware of his or her own freedom; 4) the buyer believed the servile condition of the enslaved individual; and 5) the sold person was 20 or more years old45"
- ^ a b Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. p. 473-474, "Cerqueira indicates other failures of the Japanese voluntary servitude system: some would not receive any share of the price paid for their services, which was against the precepts of moral theology; others sold themselves into servitude because were not able to be hired in exchange of wages by the Portuguese, wishing only to pass to Macao. As result of these devious practices, Cerqueira declares that many Portuguese would not buy slaves in the same amount they did before."
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- ^ Guillaume Carré, « Lúcio de Sousa, The Portuguese Slave Trade in Early Modern Japan. Merchants, Jesuits and Japanese, Chinese, and Korean Slaves », Esclavages & Post-esclavages (En ligne), 4 | 2021, mis en ligne le 10 mai 2021, consulté le 26 août 2024. URL : http://journals.openedition.org/slaveries/3641 ; DOI: https://doi.org/10.4000/slaveries.3641, "En revanche, on peut regretter que, se focalisant sur des sources primaires, mais aussi secondaires, en langue occidentale, l’auteur n’ait pas plus exploité les résultats d’une recherche japonaise déjà longue, sur les pratiques esclavagistes dans l’archipel ou à ses marges à la fin de la période médiévale et au XVIIe siècle. Il en cite pourtant certains représentants dans sa bibliographie : on y lit ainsi le nom de Murai Shōsuke, qui a étudié cette question dans le cadre de la piraterie japonaise, mais on s’étonne de ne pas trouver plus de mentions de travaux sur l’asservissement et la vente de captifs lors des guerres féodales dans l’archipel (comme ceux de Fujiki Hisashi, par exemple). L’auteur reste allusif sur ces pratiques locales ; pourtant, les exposer plus précisément aurait permis aux lecteurs peu au fait de l’histoire sociale japonaise, de se familiariser avec un contexte insulaire initial où la vente des êtres humains ne semble pas avoir été rare, et où les relations de dépendance et de sujétion se distinguaient souvent mal de la servitude, avant que l’emploi salarié et la domesticité à gage ne prennent leur essor sous les Tokugawa : bref des conditions qui, jointes à l’anarchie politique, offraient aux trafiquants d’esclaves portugais un terreau favorable pour leurs affaires. "
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関連項目
- 婦人及児童ノ売買禁止ニ関スル国際条約
- 奴隷条約
- 人身売買及び他人の売春からの搾取の禁止に関する条約
- 奴隷制度廃止補足条約
- 奴隷貿易
- 人身売買
- 人買
- 手配師
- 女衒
- 丁稚奉公
- 年季奉公
- イエズス会
- 奴隷制度に対するキリスト教徒の見解
- 人買・ 女衒
- 神隠し
- バテレン追放令
- ポルトガル海上帝国
- クリストファーとコスマス (航海者)
- 乱妨取り
- 性的奴隷
- ジャパゆきさん
- からゆきさん