コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「エレーナ・ベクマン=シチェルビナ」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Cewbot: ウィキ文法修正 2: <br/>タグの違反
 
1行目: 1行目:
{{Infobox Musician <!--Wikipedia:ウィキプロジェクト 音楽家を参照-->
{{Infobox Musician <!--Wikipedia:ウィキプロジェクト 音楽家を参照-->
| Name = エレーナ・アレクサンドロブナ・</br>ベクマン=シチェルビナ
| Name = エレーナ・アレクサンドロブナ・<br />ベクマン=シチェルビナ
| Img = У пансиона Погодиной.jpg
| Img = У пансиона Погодиной.jpg
| Img_capt = [[クリミア半島]]のアルプカで馬にのるベクマン=シチェルビナ
| Img_capt = [[クリミア半島]]のアルプカで馬にのるベクマン=シチェルビナ
6行目: 6行目:
| Landscape = <!-- 画像の横幅が広く、高さが小さい場合に“yes”を記入 -->
| Landscape = <!-- 画像の横幅が広く、高さが小さい場合に“yes”を記入 -->
| Background = classic
| Background = classic
| Born = {{生年月日|1882|1|12}} </br>{{RUS1858}}[[モスクワ]]
| Born = {{生年月日|1882|1|12}} <br />{{RUS1858}}[[モスクワ]]
| Birth_name =Елена Александровна Каменцева
| Birth_name =Елена Александровна Каменцева
| Alias =
| Alias =
| Blood = <!-- 個人のみ -->
| Blood = <!-- 個人のみ -->
| School_background = [[モスクワ音楽院]]
| School_background = [[モスクワ音楽院]]
| Died = {{死亡年月日と没年齢|1882|1|12|1951|9|30}}</br>{{SSR}} [[モスクワ]]
| Died = {{死亡年月日と没年齢|1882|1|12|1951|9|30}}<br />{{SSR}} [[モスクワ]]
| Origin =
| Origin =
| Instrument = [[ピアノ]]
| Instrument = [[ピアノ]]

2024年9月11日 (水) 01:10時点における最新版

エレーナ・アレクサンドロブナ・
ベクマン=シチェルビナ
クリミア半島のアルプカで馬にのるベクマン=シチェルビナ
基本情報
出生名 Елена Александровна Каменцева
生誕 (1882-01-12) 1882年1月12日
ロシア帝国モスクワ
死没 (1951-09-30) 1951年9月30日(69歳没)
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦 モスクワ
学歴 モスクワ音楽院
ジャンル クラシック音楽
職業 ピアニスト・音楽教師・作曲家
担当楽器 ピアノ

エレーナ・ベクマン=シチェルビナロシア語: Елена Александровна Бекман-Щербина, Yelena Alexandrovna Bekman-Shcherbina, 1882年1月12日モスクワ - 1951年9月30日)はロシアピアニスト・音楽教師・作曲家

経歴

[編集]
ワシーリー・サフォーノフとモスクワ音楽院の彼の生徒たち(左から右に): ロジーナ・レヴィーン、ワシーリー・サフォーノフアレクサンドル・ゲディケ、エレーナ・ベクマン=シチェルビナ、オリンピアーダ・ダルダショワ、アグライダ・フリードマン

1882年、ロシア帝国モスクワで生まれた。旧姓カメンツェヴァ(ロシア語: Каменцева, Kamentseva)。母親が亡くなったために母方のおばの養女となり、感謝の気持ちでおばの姓を名のるようになった。6歳でニコライ・ズヴェーレフピアノを師事し、スクリャービンラフマニノフの妹弟子となる。その後パヴェル・パプストワシーリー・サフォーノフに師事し、1899年にモスクワ音楽院ピアノ科を金メダルを得て卒業した。

1900年、ロシア音楽協会のコンサートでヤン・フジマリーアルフレッド・グレン(Alfred von Glehn)とトリオを組んで演奏家としてデビュー。1912年に音楽教室を開くが、1918年に閉鎖。

エレーナ・シチェルビナは、同時代の音楽の演奏に興味を持ち、とりわけスクリャービンやロスラヴェッツの作品の擁護者となった。スクリャービン自身が(手の小ささを理由に)演奏を諦めた《ピアノ・ソナタ第6番》《第8番》の初演者として歴史に名を残している。また、当時あまりロシアの聴衆に親しまれていなかった、ドビュッシーイサーク・アルベニスのピアノ曲の紹介にも意欲的であった。ラヴェルの《ピアノ三重奏曲》のロシア初演でピアノ・パートを受け持ってもいる。

1940年になってモスクワ音楽院教授に任命され、亡くなるまで教鞭を執っていた。1951年、モスクワで死去。

受賞・栄典

[編集]

演奏とその特徴

[編集]

ベクマン=シチェルビナの演奏は、帝政期末期のサロンにさかのぼる、洗練された優雅さに満ちており、特徴的な響きの輝かしさや透明感はにおいても曇ることがなかった[1]。同時代の、型に嵌ったピアニストとは対照的に、彼女のルバートの感覚は、彼女のスクリャービンやラフマニノフの録音が証明しているように、音楽の首尾一貫性を犠牲にすることがなかった。

作曲家として

[編集]

作曲家としては、童謡などの児童向けの作品を数多く手懸けたが、「緑の森の樅の樹」が正月の唄として親しまれているに過ぎない。

家族・親族

[編集]
  • 夫:レオニード・ベクマン(Леонид Карлович Бекман)(1871-1939)は生物学者、農学者。ロシア帝国の貴族。
  • 曾孫:エレーナ・ソコロフスカヤ(Елена Анатольевна Соколовская)(1969-)はイスラエル在住の作曲家

脚注

[編集]