ノート:ヤーセル・アラファート
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記事名について
お急ぎの方は#記事名について(仕切りなおし)からご覧になってください。また、Wikipedia‐ノート:外来語表記法でも関連する議論が行われています。
ヤーセル・アラファートなる表記が記事名および記事本文中で使われていることについて補足しておきます。アラビア語は短母音と長母音を厳密に区別する言語であり、学術的には国名など、日本語によほど定着した固有名詞を除き、これに厳密に従うことが慣例化しております。もっともアラファトという人名は慣例化しているという反論があるかもしれませんが、ウィキペディア日本語版については、人名に関しては報道等の慣例よりもアラビア文字の長短母音を尊重することがWikipedia:記事名の付け方で慣例として提案されています。また、日本語としてより正しい表記(そんなものがあるとすれば、ですが)という観点についていえば、アラファートという表記はわりあいに使われていると思いますし[1]、ヤセルとヤーセルは表記者によって揺れが大きく[2][3]、どれが「正しい日本語表記」であるかを断定することはできません。Safkan 2004年11月14日 (日) 10:12 (UTC)
Safkan氏の意見を支持します。やはりヤーセル・アラファートとすべきでせう。kahusi - (會話) 2004年11月14日 (日) 13:46 (UTC) % 日本語でもオバーサンとオバサンでは違ふし。
Kahusiさんに同じく、Safkan氏の見解を支持します。先ほど、失礼ながら本文をreveertさせていただきました。Miya 2004年11月14日 (日) 13:54 (UTC)
「アラファートという表記はわりあいに使われている」とのことですが、ウェブ上の検索結果を見ても「アラファート」は「アラファト」の1%も用いられていません。記事名において珍表記を採られるのでしたら、多く用いられている表記の併記に頑なに反対されないよう お願い致します。Sh 2004年11月14日 (日) 15:38 (UTC)
- 僕、併記してたんですけど…[4]。ヤーセル・アラファートが日本語として誤った「珍表記」であるならば、私が表記の参考にしている『岩波イスラーム辞典』や平凡社『新イスラム事典』は日本語の文献として誤った「珍事典」なのでしょうか。また、「アラファト」は「アラファート」の1%も用いられていないかもしれませんが、それでしたら現在の記事名「ヤーセル・アラファト」は「ヤセル・アラファト」の1%強でしかないので、日本語表記の多さで言うならばヤセル・アラファトに移動されるべきではないでしょうか。つまり、このような不合理が存在する上に、何故ヤーセル・アラファートが日本語表記として正しく、ヤーセル・アラファートは併記も許されない珍表記であると断定可能なのか、合理的な説明がなければ納得できません。
- 以上はこの記事名に関する具体的な問題についてです。しかしこの問題は一般論としてのアラブ人名についての以下の3点の問題でもあります。
- 学術的な論文、参考書、事典で広く使われているアラビア語原音重視の慣用音は、それが一般に膾炙していない珍しい表記であるならば、日本語表記ではない珍表記として排除することが可能なのでしょうか。
- 1年前から使われている現行のアラブ人名に関する慣用的なルールは、ノート:マッカおよびノート:ムハンマドの論争を参考につくられたもので、少なくとも人名に関しては、「正しい日本語表記は何か」という水掛け論に陥る前にとりあえず『岩波イスラーム辞典』や平凡社『新イスラム事典』の方式を参考にして、一般の日本語としては多少無理があっても機械的に原音重視主義を採用しようというものでした。Shさんのようにこれに不満を持つ方はもちろん少なからぬと思いますが、では機械的な当てはめを排した場合、日本語表記の揺れが大きいアラブ人名に関して、誰がどれを正しい表記であると判定する権能をもつのでしょうか。
- 整合性の問題。上述の慣用的ルールはこれまで1年以上にわたって特に反論がなかったと記憶します。そのため、既にかなり多くのアラブ人関係の記事やそのリンク元がShさんのおっしゃるところの珍表記で埋め尽くされています。ウィキペディアが百科事典としての信頼性を将来にわたって保つには特定の分野の記述のルールに整合性があるべきと私は考えます。従って、ヤーセル・アラファートが珍表記として排除されるのであれば、先行する様々な記事も極力遡って直すべきではないでしょうか。もっとも、そのときは、私の自分で把握している限りは著名なムスリム一覧にリストアップしてますから、遡って正しい日本語表記に直してやればある程度作業可能ではあると思います。
- 私個人の問題意識としては、この1年間自分のわかる分野においては、できる限り学術的な事典で見られる表記を優先し、外見だけでも学術的な百科事典の記述らしくできればと思ってウィキペディアに参加してきましたが、今回それを「珍表記」と断ぜられ排撃されてしまったため正直なところ困惑しています。別にShさんがヤーセル・アラファトが絶対に正しいとおっしゃるのでしたら、私は長々と反論してノート:マッカの二の舞を演じるのは嫌ですから、早いうちにShさんの説得を諦めるだろうと思います。しかし、ウィキペディアがいくらばかりか学術系の表記を意識した記事名の基準よりも「多く用いられている日本語表記」を優先するものとなっていくのならば、この1年に編集に参加したアラブ人関係の記事は無意味だったのかもしれないと、(自分の編集参加に関して傲慢な意見ではありますが)寂しく思いました。しかし、件のルール提案の内容もほとんど私ひとりで考えて十分に意見を募っていないところではありますし、いま1年越しで是非を判ずるのは私の任ではないですから、別に悲喜を感じることではないのですが。Safkan 2004年11月14日 (日) 16:31 (UTC)
こんにちは。原音を無理やり日本語表記にしているので、矛盾が発生するのは仕方のないことです。Wikipedia:記事名の付け方において原音忠実主義、つまり新聞・報道等で使用されている呼称を無視して、あくまで原音にこだわるという合意形成がされているのでしょうか?アルフレート・ヴェーゲナーという、地学分野の人たちからすると珍表記にしかみえないものもあるので、ウィキペディア自体はその方向にいってるのかもしれませんが。これは、ヤーセル・アラファトだけの問題ではないので、井戸端か、投票で広く意見を募集するべきかもしれません。Ligar 2004年11月14日 (日) 17:02 (UTC)
「珍表記」?・・・正直なところ、たしかに耳慣れない表記ではありますね。ただ、アラブ人名のように揺れのある人名表記の場合、遠からず、世間がウィキペディアにあわせるようになるでしょう。またWikipedia:井戸端で合意を図るのには賛成します。Ligarさん、よろしくお願いします。Miya 2004年11月14日 (日) 22:22 (UTC)
- Miyaさん、水をさすようで申し訳ないのですが、それはどうでしょうか。確かにイスラムはイスラームに、マホメットはムハンマドに、メッカはマッカにというようにより専門家に好まれるアラビア語原音重視主義が一般に広がっている傾向は認められます。しかし、現在的な人名や地名については必ずしもそうはなっていかない可能性が高いのではないでしょうか。多くの人が現代アラブ人の名前に触れるのはマスコミの報道ですが、マスコミでは国際記事の取材は大概が英語経由で行われており、記事を書く人もアラブ人名についての知識が乏しいといって差し支えない状況ですから、(私たちアラビア文字に関する若干の知識がある者から見れば)「珍表記」であるような表記は現に蔓延していますし、これからもそうなるでしょう。でも、ヤセル・アラファトが珍表記とは思いません。ここでいうのは例えばイラン革命当時の報道における「コメイニ師」の類です。それと、今論じていることとは一寸外れますが、表記の揺れに関しても、ウサーマ・ビン・ラーディンのような超有名人ですら未だに新聞各社によって表記に微妙な違いがあったりします。そういう混沌とした状況であるにもかかわらず、「将来はこうなるから」などの根拠の曖昧な議論を繰り返してはノート:マッカの論議内容と同じ結果になりやしないかと危惧します。日本語として正しいかおかしいか、将来一般的になるからいいのか今一般的な表記が大事か、そういう論点では水掛論に陥りかねません。
- これに対して、今回の問題は、より学術的な文献では原音尊重主義があることを踏まえて多くの日本語話者にとっては聞きなれない表記であってもあえて原音尊重でいくか、それとも、そのような多くの日本語話者が聞きなれない表記を珍表記と斬って捨てて記事名の選択基準から排除するのか、二者択一を迫ってるんじゃないかと私は思っています。私は純粋に百科事典としては前者が好ましいと思い、かつ後者には上にあげた3点の問題があると考えていますが、あくまで私見に過ぎず、別の考えもありえるでしょう。今回の議論では、私以外の方はどのように考えておられるのか、勉強させて頂きたいです(ここで意見をうかがいたいのは、ウィキペディア日本語版におけるアラブ人名の取り扱いについてです。日本語版全体における外国人名・地名取り扱いに関する一般論はWikipedia:井戸端#外来語の表記についてのほうにお任せします)。Safkan 2004年11月15日 (月) 09:45 (UTC)
昨日ヤセル・アラファトとヤーセル・アラファートの両ページに、このページへのリダイレクトを貼った者です。その理由は昨日メインページの「最近の出来事」訃報欄下部から「ヤーセル・アラファート」のページを見た時、そこが「ヤセル・アラファト」「ヤーセル・アラファート」間の堂堂巡りになっていましたので、記事の書いてあるページでは無いと軽率に判断してしまったためです。表記に関する議論が起きているとは知らず、より話をややこしくさせた私の不明を恥じお詫びするとともに、私はアラビア語の門外漢であるため、このページの表記を含めてこの人名の表記に関するどのような意見も持たない事を宣言させて頂きます。このページの表記を特別支持することもしませんし、表記の議論が決着したらそれに従う所存です。先のリダイレクトはこの表記への支持ではありません。今回はややこしいことをして済みませんでした。それでは失礼いたします。Kiev 2004年11月15日 (月) 14:29 (UTC)
記事名について(仕切りなおし)
自分が忙しいことを良いことにご意見をお待ちしますとしてこの議論を1週間以上寝かせておいたのですが、私が自分の意見をぐだぐだと下手な文章で書いたせいかどうも進展がないようなので、仕切りなおしとして論点を整理しなおして箇条書きにしてみます。
コメントをいただけないとこのまま問題未解決で膠着してしまいますので、別に気軽な意見でよいので、どなたでも意見をいただきたく思います。論に不明瞭な点がありましたらご指摘いただければ補足なり訂正なりいたします。
判断材料
- アラビア語の一般的特徴と日本語転写
- アラビア語は短母音と長母音(アとアー)を厳格に区別し、しかも一見よく似た単語であっても長母音であるかそうでないかで単語の意味が全く変わってくる場合も珍しくない言語である。
- アラビア語の正則語(文語およびアラブ諸国の共通語)では、短母音はa,i,uの3つ、長母音はā,ī,ūの3つしかなく、日本語の母音ではア、イ、ウ、アー、イー、ウーにほぼ相当する。
- 従って、アラビア語・アラビア文字に知識のある人はアラビア語・アラビア文字を日本語に写すにあたって母音を厳格に転写することを好む傾向がある。
- アラファトとアラファート
- アラビア文字を標準語で読むとYāsir ‘Arafāt(ヤースィル・アラファート)である。しかし、口語の発音上では短母音のi,uはe,oになることが多く、実際の発音はむしろヤーセル・アラファートと聞こえる。
- この人名の一般的な英語表記はYasser Arafatである(sが重なっているのは、Yaserと表記するとアラビア語の知識がない人がヤゼルと発音する恐れがあるため)。
- 日本の報道では、例えばひどい例では当初イランのホメイニーがコメイニ、トルコのエルドアンがエルドガンと呼ばれていたように、中東の人名は英語の表記・発音にもとづくことが多い。しかもほとんどの場合長母音の転写を省略するため、「ヤセル・アラファト」がほぼ定着している。アラビア語に関する知識のない多くの著者・訳者による著作も同様である。
- 平凡社の『新イスラム事典』、岩波書店の『岩波イスラーム事典』など事典類ではアラファートとする。これは、こういった事典が原則として人名はアラビア語の原音重視により表記することを凡例で定めているためである。
- 日本の外務省は折衷的に「ヤーセル・アラファト」とする。
- アラビア語の知識のある著者、研究者は原音重視主義を厳格に適用する場合(アラファート)が多いが、報道慣用を重視する場合(アラファト)も決して珍しくはないと思われる。特に新書などの概説的著作については出版社の方針や概説としての性格から報道慣用を重視するケースが多いようである。
- 全般的な傾向として、イスラムがイスラーム、マホメットがムハンマドとされるように研究者の推進するアラビア語の原音重視主義は一般に浸透しつつあり、歴史上の人物についてはほとんど原音が好まれるようになった。しかし、報道にあらわれる現代の人物については長母音省略の大勢に変化はない。
当初記事名がヤーセル・アラファートとされていたことに対する反論
- 正確な日本語表記を決定する上で権威のある外務省が「ヤーセル・アラファト」としている。これを採用するのがよいのではないか。
- 新聞やパレスチナに関するほとんどの著作ではアラファトとしている。アラファートなどほとんど耳にも目にもしない珍表記を使うのはおかしいのではないか。あるいは、アラファトとするのがウィキペディア日本語版の記事名のつけ方としてルール化されている「正しい日本語表記」ではないのか。
Safkanの主張
- 世界史の教科書などを見ると歴史上の人物では原音重視主義がほぼ貫かれており、百科事典としてアラブ人名全体の整合性を取るには原音重視主義をとってアラファートとしたほうがよいのではないだろうか。
- ウィキペディア日本語版では2003年の早い時期からオサーマ、サッダームなど、現代アラブの人物について極力原表記を重視しつつ口語の発音を汲んだ表記が採用されており、アラブ人の人名についてはこの方式がウィキペディア日本語版の慣例として既に定着しているとみなしてよいのではないだろうか。
- 上記に関連して、Safkanは既に1年以上前にノート:ムハンマドにおいてウィキペディア日本語版におけるアラブ人の記事名のとり方について上のやり方をルール化することを提案したが、これまで特に大きな反論はなく、またSafkan以外の方の手でWikipedia:記事名の付け方にも転記されていたためこれまでそれをウィキペディアの慣用ルールとみなして使ってきてしまった。アラファトだけ慣用主義に変えるのはウィキペディア全体の整合性に背くのではないか。
- アラファートというのは決して珍表記ではなく、既にある程度の使用例はある。専門家が使っていることもあるし、確かに使用例は報道慣例のアラファトに比べれば圧倒的に少ないが、別に全くないわけではない。使っても差し支えはないのではないか。慣用については併記や注できちんと説明すればよいと思う。
あと感想ですが、外務省が使っているからといってそれを基準として判断に利用してよいものか。外務省はつい最近までヨルダンをジョルダンとしていたのを、一般的な表記にあわせるとしてヨルダンに改めたということもありました。また、もしアラファートが慣用としてアラファトが日本語として正しいという観点から記事名をヤセル・アラファトないしヤーセル・アラファトとするのであれば、上で既に述べた整合性という観点から、他の数多くのアラブ人・イラン人・パキスタン人などの記事名も慣用として正しいものを確定し、記事名を変更しなおす作業をすべきだと思いますが、その作業の手間を費やしてまでこれを断行すべきでしょうか。僕はめんどくさいからヤだなあ…。Safkan 2004年11月22日 (月) 22:10 (UTC)
- 私はそもそも原音表記主義なのですが、ヤセル・アラファトないしヤーセル・アラファトを項目名にする利益はないと考えます。以下その理由。
- ヤセル・アラファトで引く人にはリダイレクトがあるので対処できる。
- ヤセル・アラファトで引いた人がヤーセル・アラファートが別人であると思う可能性は少ないように思われる。
- 資料性・学術性を考えると原音表記主義を基本とすることが望ましいと考える。とくに、専門家の間で原音表記が行われている場合、一般の報道などもそれに追随することがあるのに対して、逆はほとんど起こらないため、報道慣行に倣う理由は余り内容に思われる。
- 報道で長短の区別を無視するのはひとつには紙面の節約という理由があると思われるが、ウィキペディアではそのような制約はあまり考えなくてよい。
- リダイレクトで対処可能なヤセル・アラファトについて、それをウィキペディア内で確立しているアラブ人名表記の慣行を揺らしてまで、項目名とする理由はあまりないように思われる。
- こんなところで。--[[利用者:Aphaia|Aphaea*]] 2004年11月22日 (月) 22:55 (UTC)
アラビア語は門外漢なのですが、私の方も韓国・朝鮮人の人名でドメスティックな(つまり日本国内でしか)通用しないような表記・発音を優先、乃至並立させることは果たして適切なのかという問題に突き当たっています。正直に言って原音表記主義か慣用主義かは平行線を辿って永遠に交わることはない気すらしているのですが、「整合性」という観点はどちらを採用するかに当たって重要な要素となると思います。つまり、他の記事にも適用し得るような転写法を持った、より普遍性の高い方を選ぶべきです。Safkanさんの説明された「ヤーセル・アラファート」は明確なプロセスで導かれた転写結果であるのに対し、「ヤーセル・アラファト」ないし「ヤセル・アラファト」という転写はどういったプロセスで導かれたかは不明です。今後何十年、何百年というロングスパンで考えたときに、ブラックボックス的転写法を採用するのは「整合性」にとって非常に危険であると思います。従って、私は原音表記を支持したいです。また、利便性への配慮はAphaiaさんのおっしゃったようにリダイレクトや
>報道等ではヤセル・アラファトの表記が多い。
の一文で片付いていると思います。Cinnamon 2004年11月22日 (月) 23:33 (UTC)
私自身は慣用名表記(及び記事本文での原音に関する説明)でよいと思っていますが、原音表記を採用するならばその前提として、「適切なリダイレクト」と、「記事冒頭での慣用表記の明記(及び強調)」が必須と考えます。しばしばこれらがおろそかにされ、2つの記事名の並立やリバート合戦などの混乱の種となっているようです。原音表記で記事を立てた方が一番詳しいのですから、この辺を記事を立てる際の手順としてルール化しておいてはどうでしょうか。 けんち 2004年11月23日 (火) 00:56 (UTC)
報道は、一般的に普及しているかどうかという点では根拠になるかもしれませんが、必ずしも適切な翻訳かどうかの根拠にはなりません。報道機関は、確かに報道のために、一時的には外国語を一定の訳に調整しますが、長期的に変わらないことを保証されません。翻訳の例としては参考にならないでしょう。(イラク戦争時には、バグダード→バグダッド(多国籍軍進行後は英語読み)、ティクリート→ティクリット(多国籍軍進行時は英語読み)→ティクリート(戦後)、解説にきている専門家の人は一貫して現地読み、他の例では、正式名称の決まってない地震の名称、なんらかの事件を起こした芸能人の呼び方、などの表記の揺れ)。外国での報道は、本人を表す本質的な事項ではないでしょうし、日本語版として、事件当時、日本語の報道ではそういう呼び方が一般的だった、という補足があれば充分でしょう。 教科書の歴史的な人物の名前の付け方は参考になるでしょう。ウィキペディアの性格からしても適当かとおもいます。教科書でカエサル、ムハンマドと最初に聞いた時は、あまり馴染みのない名前でしたが、既にきちんと定着してると思います。将来の歴史の教科書に「アラファト」が載らないことはまずないでしょうし。 私の場合、全くアラビア語の知識のないので、無理に記事をつくろうとすれば「アラファト」と伸ばさないで記事をたててしまうでしょうが、詳しい人がいて「アラファート」などのウィキペディア内で確立した表記法があれば、そのように編集・変更されることを期待します。Tcyiswalk 2004年11月23日 (火) 01:11 (UTC)
- むちゃくちゃ素人議論になりますが、平凡社大百科(オンライン版)でPLOを見てみると、アラファートという表記になっています。マイペディアやエンカルタでさえも「アラファート」でした。私はウィキペディアがそれらより俗っぽい(=学問的に劣る)と見られたくありません。よって、原音重視主義を支持します(軽薄な意見ですみません)。miya 2004年11月23日 (火) 04:33 (UTC)
アラファトさんの話から外れますが、学術分野での原音主義は理解できるんですが、いざ自分の分野で慣例になっている言葉を変更されると黙ってられないですね。(笑)この問題は記事名の付け方が、いまだドラフト段階で議論も進んでいないことが端を発していると思い、外来語関係に手をつけてなかったのですが、私の意見は「英語版記事名の付け方」にのっています。部分訳をしたので、私のノートをみてください。Ligar 2004年11月23日 (火) 05:03 (UTC)
- 「ヤーセル・アラファート」支持
何ともお恥ずかしいことに、僕は先週本文を読むまで同じものと知らず「アラファトって何だろう。アラファートなら知ってるけど」と思っていました。
かの言葉ではSafkanさんのおっしゃるように長母音と短母音は別のものですし、日本語はそれらを区別する表記法を持っている(逆にアラビア語版では難しそうですが)わけですから、「音引き有り」を支持します。
※僕のように半端な知識だと、上述のような誤解をする可能性もあると考えます。FeZn 2004年11月23日 (火) 06:52 (UTC)
- 「ヤーセル・アラファート」支持
- 「ヤーセル・アラファート」さんについては、他の全ての検索エンジンにおいて最多検索語でウィキペディアがトップにきていないということから「ヤセル・アラファト」さんを推します。Ligar 2004年11月23日 (火) 07:21 (UTC)
- 「ヤーセル・アラファート」に一票。既に言われていますが、原音表記に報道が合わせる事はあってもその逆はまず無いという事で、スパンを長くして考えれば原音表記に従うべきだと考えます。あまりにもリンクに手間がかかるようになる場合は別として。らりた 2004年11月23日 (火) 14:38 (UTC)
自分なりに考えてみようと思ったのですが、かなり見識不足なので、^^;)いくつか質問してもよいでしょうか。。
- Safkanさんのまとめを読むと、ヤーセル・アラファートはアラビア語のカナ転記としては正確であっても、日本語としては不正確、という議論の成り立つ余地があるということを意識しているような気がしましたが、その理解でよいでしょうか? 日本語として不正確なら、日本語版では採用できない、という論もありうると。
- ノート:ムハンマドを見ると、イスラム・アラブの地域研究、文化研究などの学界についても、正確な転記をしないことが慣例になっている(原音を尊重しない)場合がある、と言えるように思うのですが、それでよいでしょうか?
- コメイニなどの表記とは違って、ヤセル・アラファトという表記は、明らかに変だというほどではない、というのがSafkanさんのとりあえずの感触でしょうか。ただ、同時に、ヤーセル・アラファートも、日本語として使われているし、明らかに変ということはないと思う、と。
- この件については、中立性の観点からの検討は特に加えなくていいという理解でいいでしょうか? 例えば、英語風のなまった(?)発音で表記することがそもそも失礼に当たるという可能性があるでしょうか? ノート:マッカにも関係した議論がありますし、釈迦が自らをどう呼んだかを考慮に入れるべきかという議論も以前ありましたし、転記の問題に限らなければ、北朝鮮が自国をどう呼ぶかについて国名の表記を選択する際に考慮に入れるべきかとか、ノート:言語で出た話で、話者が自分たちの言語をある別の集団の言語と同じ・ないし方言関係にあると考えているか独自の言語と考えているのかを下手に判断すると当事者に対して失礼にあたることもある、というようなこともあったと思いますが、そういう類の、(あるいは別の種類のでもいいんですが)呼び方や表記の選択がある種の政治性を帯びてしまう、というようなことは基本的にはないと考えていいでしょうか? (ちょっと考えてみて、なさそうに思ったのですが、念のため。)
- Safkanさんは、とりあえず、今回の件は外来語表記一般とは切り離して考えたい、ということですが、その前提は、イスラム関係の学術用語の表記はおおよそ原語に忠実な表記になっているという現状があるからだ、ということでいいでしょうか。例えば、学界でもやっていないような原語主義の徹底については、また別の問題として議論しなければならないという気がしている、というようなことでしょうか。
僕の意見は、原音主義対慣用主義という枠で考えた場合の一般論としては、Cinnamonさんの意見と一番近いように思いました(慣用主義と原音尊重主義は相容れないが、どちらかといえば、体系性に優れた原音主義の方がよさそう)。また、これもほぼCinnamonさんの繰り返しかも知れないですが、慣用主義を採用した場合、どの表記がよりポピュラーであるかについて論争になると決着のつけ方に困りそうですが、原音表記については何がより原音に近いか妥協点が見出しやすそう、という気もしています。(間違っているかも知れません。。)
記事名は両論併記が完全にはできませんし、原音、慣用それぞれに分があるので、どちらを採用するにしてもどうも腑に落ちないという方が必ず出てくるし、また、原則賛成だけどもこの件については例外にした方がいいのでは、というような件もどちらの場合にもきっと出てくるし、その時の言い分についても、容易に却下できないということなのではないかと思います。そうすると、ウィキペディアのプロジェクトとしての都合を考えると、少しでも記事名選択の議論の決着がつけやすそうな原音主義がいいのかな、と思います。これは通称・俗称と正式名称がある場合には正式名称を優先させるという風にしておくとよさそう、というのと同じような考え方です。
ただ、あれこれ考えてみて、ここで「原音主義で行きましょう」と合意が出来てしまうと、例えば学界の慣行にもメディアの慣行にも反した原音主義を採用することになるのかが気になりました。アルフレート・ヴェーゲナーはそれにほぼ相当するわけで、人名表記についてドイツ語に忠実であることを重視しているわけではないであろう地学の学界の人が記事を書き、主な読者もそういう人になるかも知れません。にも関わらず、何故か記事名だけは(あるいはことによったら文中の表記も)そうした人たちには馴染みのない原音主義が貫かれているとしたら、ちょっと奇妙な感じです。
それから、もし原音主義に何か制限を加えるということになると、結局「学界慣行優先主義」がよいという話になるのではないか、という可能性もあるように思って迷いました。常に学界を優先させるというのは、まあそれほどひどい案ではないかも知れませんが、ちょっと中立性の観点にひっかかりそうな気もするので。そう思ってSafkanさんの文章(特にこのページの冒頭)を読んでみると、要するに、イスラム系の人名については、学界の慣行と原音に忠実な表記とが(幸いにも)ほぼ一致している現状にあるので、原音に忠実にしても問題はないんじゃないか、でもヴェーゲナーをどうするかについては同じような事情が存在しないのでまた別に考えるということでいいんじゃないか、というのがSafkanさんの想定している一つの落としどころであるように思えました。更に言えば、マスコミが原音に忠実な表記をとっていて、学界がそれとは異なる独自の慣行を維持していた場合にも、また別の類型として考えるということでいいんじゃないか、と。(別の類型として考えた結果、結局どれも原音で通そうということになるかも知れませんし、マスコミも学界も原音に忠実でない表記を共有していたら原音は不採用にしようということになるかも知れませんし、その辺りはまあ議論してみないとわからないわけですが。)
こう考えてくると、原音主義が学界で採用されていて、メディアでの表記は英語の影響だということがほぼわかっているような件については、原則原音と学界優先、ということでいいんじゃないかと思いました。
最後に、この件についても、アラファト議長はイスラム研究には疎い人の間でも広く議論されてきた人物なので、イスラム学界の慣行を優先させていいのかどうか、という考え方もあると思いました。これを重視すると、原則としてはイスラム系の人名についてはこれまで通りの方法でいい(記事名の付け方にあるものを継続する)けれども、今回のようにアラファト氏がトップニュースに頻出する間だけは、しばらくは記事名を変えて、より多くの読者をひきつけられるようにもし、ほとぼりが醒めた頃にまた原音に忠実な表記に戻す、というような暫定的な妥協の仕方でもいいんじゃないかと思いました。(ちょっと面倒なやり方ですが。)
ちなみに、ヤーセール・アラファートで検索するとウィキペディアと並んであらびあ語ちゃんねるさんのサイトが上位に来るようですが、読者と同じく執筆者も常に募集しているウィキペディアとしては、わざわざヤーセール・アラファートで検索をかける人の注意をひくことができれば、そのメリットもあるんじゃないかと思いました。(Safkanさんも実際そういう風にしてウィキペディアの存在を認識したんだったと思いますし。)ただ、まあ、この点は、こういう考え方もできる、というだけで、広く普及した表記でイスラム語に馴染みがない読者を広くひきつけておいて、その読者が得意とする別の分野への参加につながることを期待する、という風に考えることもできますし、どちらがよりプロジェクトにとってメリットがあるのかはそれこそあれこれ実証的な調査でもしないと結論が出なさそうな気もします。
いろいろ(上記の質問したような点について)憶測に基づいて書いているので例によって的が外れているかも知れないですが、また、僕はShさんやSafkanさんと比べてこの件に特有の事情を考察するための関連知識がずっと乏しいので、いろいろ汲み取れていない点もあると思うのですが、とりあえず考えたことは以上です。Tomos 2004年11月24日 (水) 06:52 (UTC)
- みなさんコメントありがとうございました。僕としてはいつも様々な判断材料がある上で事態を単純化して落としどころを探せるよう勘案して自分の考えを述べているつもりですが、長文になってしまって議論が追えないとお怒りの方がいらっしゃるようなので、極力簡略化するよう箇条書きを多用しますがお許しください。また、以下には#争点のまとめのセクションにおける議論も踏まえたつもりですが、お答えになっていない部分があったらご指摘ください。あと、長くなってしまったのでお急ぎの方は「次に、Tomosさんのご質問ですが」のところから先だけ読んじゃってください。
- まず、このセクションの議論において、セクション冒頭でSafkanの提示した以外のヤセル・アラファトを採るべきとする根拠と、ヤーセル・アラファートを採るべき根拠を整理させてください。できるだけ単純化してかきますので、Safkanの解釈が間違っていたらご指摘ください。
- ヤセル・アラファトを採る説
- 世間一般で広まっているアラファトの語で検索したときにウィキペディアのアラファトの記事が上位に来やすくなるメリットがある。これはウィキペディア英語版の記事名のつけ方のルールであり、説得力がある。(Ligarさん)
- アラファト議長単独についてみると、この記事は必ずしも中東・イスラム地域研究の専門分野から論じられる内容であるとは限らないので、イスラム地域研究学界の慣行を優先すべきではない、という考え方もある。(Tomosさん)
- 以上に対するSafkanの意見
- まずLigarさんのご意見について。実は、同じことを長いこと私も漠然と原音主義の欠点だなあと認識していたのですが、併記とリダイレクトをきちんとやるとガマル・ナセルもアンワル・サダトもムアンマル・カダフィも意外と上位に来るのでいいんじゃないかなあとこれまで考えていました。とはいえ、確かに私も検索など様々な便を考えると慣用をとる有利性はよく理解できます。しかし、いざ自分の慣れ親しんでいる分野で原音主義が慣例になっているケースを根拠に薄い「珍表記」という主張で移動されてしまうと非常に腹が立ってしまいますね。記事を私物化しているようで、よくないとは思いますが。
- Tomosさんの述べられたヤセル・アラファトとすべき根拠について。これは私が「記事名は原音主義の割り切りが駄目なら専門性を重視して決めるべき」とする考えを適用した場合、十分理があると思います。こういったケースは個別の記事のノートで議論していくべきでしょう。ここでは、私は中東研究の分野に拠っている一編集参加者として、このように二つのケースがバッティングした場合は、アラブ人名全体の整合性という観点から、原音主義をとってアラファートが良いのではないか、という考えになります。
- ヤセル・アラファトを採る説
- ヤーセル・アラファートを採る説
- ヤセル・アラファトで引く人にはリダイレクトがあるので問題ない。(Aphaiaさん)
- カナ表記として極端に違わないのでヤセル・アラファトという名前で知っている人がヤーセル・アラファートという記事名を見ても別人であると思う可能性は少ないのでは。(Aphaiaさん)
- 報道が学術的表記に倣うことはあっても専門家が報道慣例に倣うことはないのだから、報道慣例を重視する必要はない。(Aphaiaさん)
- 慣用表記には一意の転写方式がなく、ウィキペディア全体からみて説得性に欠ける。(Cinnamonさん)
- 報道の表記が将来も固定している保証はないので報道慣例に従う理由はない。(Tcyiswalkさん)
- 現代の人物も将来歴史上の人物として教科書に載った場合、原音重視主義表記になっているかもしれない。(Tcyiswalkさん)
- 平凡社大百科(オンライン版)はアラファートになっている。(miyaさん)
- アラビア語では‘arafatと‘arafātは意味が違ってくるせいで、アラビア語にある程度知識があってヤーセル・アラファートに詳しくない人は混乱する可能性がある。(FeZnさん)
- アラファートでヒットさせやすくすることで、アラビア語方面に知識のある人に「ウィキペディアは専門的だ」という認識を持ってもらいやすくする効果があるかもしれない。(Tomosさん)
- 以上に対するSafkanの意見
- Aphaiaさんの1点目について。これはリダイレクトが多すぎるとウィキペディアが重くなるとか、そういう批判がありえると思います。ただ、それは定期的に気づいた人がリンク元を直す努力を払うことである程度回避できると思います。アラファトについてはShさんの記事名変更は、リンク元からヤーセル・アラファートへの直接リンクに貼りなおす作業をぼちぼち進めている途中でした。
- Aphaiaさんのご意見の2点目。これはアラファトに関する個別的な問題ですので、アラブ人名についての一般化はできません。アラファトについては適用できますが、外来語一般についてはあてはめることは難しそうです。
- Aphaiaさんのご意見の3点目。これについてはアラブ人名に関しては否です。専門家だって報道慣例に倣うケースはいくらでもあります。これは、既に触れましたが一般には新聞と違う原音重視的表記に拒否反応を起こす人が多いため妥協しているのかもしれませんし、あるいは専門的に勉強した人だって二十歳そこそこまでアラビア語のアの字もしなかったのですから現代人名に関しては当人が報道で繰り返される表記のほうが良いと考えることだってあります。私があたった専門的な事典では、おそらく事典としての全体の整合性の観点から凡例で原音重視をうたっているだけだと思いますし、私もそれを真似するのが適当だろうと考えているだけです。
- Cinnamonさんのご意見。これは既に私がノート:ムハンマドで行ったルール化と、暫定ルールとして現状適用されているものを踏襲することに対する賛成と受け取ってよろしいですね。
- Tcyiswalkさんの2点、アラファートというこの記事それ自体に問題を限った場合、その通りとはいえません。まずアラファートは既に30年以上日本の新聞に載るような舞台で第一線に立ちつづけている人物であり、30年前からアラファトという表記は変っていないので十分固定した報道慣例と認められると反論できますし、エジプト元大統領のナギーブやナーセルやサーダートは今の教科書を見てもナギブにナセルにサダトと書いてあるはずです。ただ、10年後100年後は保証できませんので、長いスパンで見ると原音重視主義が有利な根拠とは思います。
- miyaさんのご意見。それは、平凡社大百科は中東関係の項目を同社のイスラム事典・新イスラム事典から流用しているからです。
- FeZnさんのご意見。実は私もアラファートの記事を立てるために下調べするまでアラファトの人名とアラファート山は別の綴りの単語だと思ってました。ただこれはFeZnさんや私のような人にしか適用できない少数意見ですから、無視しても良いという意見もありますよね。
- らりたさんのコメントに対する想定反論は既に書きました。
- ヤーセル・アラファートを採る説
- 次に、Tomosさんのご質問ですが、全てTomosさんのお考えのとおりであっています。
- 確かに、日本語としては不正確、という議論の成り立つ余地がありますし、不正確なら排除しても良いという議論もありえると考えていますが、誰がどうやって決められるのか明確にしないとそれは無理だとも思っています。
- アラファトが間違い、非中立的ということはありませんが、慣用とか日本語としての正しさを根拠とする場合、どうしてアラファトが慣用と断言できるか、ないし正しい日本語表記といえるのか、納得のいける根拠が欲しいとかきました。Googleの多い少ないで決めるのは避けて欲しいです。なぜなら、多い少ないで決めると明確に学界では間違いであるとか、やめたほうが良いと言われているような表記や用語が是とされる恐れがあるからです(私の専門にひきつければ、イスラム原理主義、オスマン・トルコ等)。
- 学界でもやっていないような原語主義の徹底、というより学界でも事典の凡例によって相違のあるような原語の取り扱いについては個別に議論すべきと思います。全体的なルールとしては、原語主義が優勢なことを踏まえて決めるべきというのはWikipedia‐ノート:外来語表記法で書きました。
- 個別的な議論については以上なんですが、全般的な落としどころについてはTomosさんの指摘されたところが私の考えているところをまさに完結に要約しています。このノートで決めたいことは個別記事とアラビア語人名一般と外来語全体のうちとりあえず個別記事について、できればアラビア語人名一般まで含めた前2者についてであって、外来語全体をどうするかについて話し出すと議論が拡散するのでWikipedia‐ノート:外来語表記法で話し合いましょうと繰り返し書き、落としどころも提案しました。
- ところで、Ligarさんのご指摘に出た英語版の慣用音主義について、私がもっとも違和感を感じたところは(再び持ち出しますが)「整合性」です。私は記事の編集に参加するほうが好きですし、議論は苦手なので種々のルール策定作業にはこれまでほとんど関わっていないので事情がよくわからないのですが、ウィキペディア日本語版では、記事名の付け方におけるこの問題が早い時期に十分に議論されてこなかったという理解でよいでしょうか。しかし、このために原音主義を標榜する声の大きなウィキペディアンによるルール無しの記事立てが続いてしまい、アルフレート・ヴェーグナーのように専門性のある人から見ても違和感があるらしい表記すら蔓延しているという現実があります。正直言って、今更「記事名は慣用音重視のほうが検索でヒットやすいからいいんだよ、英語版もそうなってるよ」といわれても、1年半近く原音主義がウィキペディア日本語版の事実上の慣例とて作業されてきた蓄積がパーになってしまうなあという気がします。既に触れたようにアラブ人名の書き換えだけでもリダイレクトの回避作業まで勘案するとおそらく相当な労力を要しますが、そこまでして断行すべきなのでしょうか、という疑問があります。正直なところ、感情的には、私も今まで1年以上原音主義がウィキペディアの事実上の慣例と信じ込んでアラブ人名にルールを立て、それに従って記事立てやリンク元の整理を行ってきたので、それを途中から無碍に崩されることにはかなりの苛立ちを感じます。
- しかしこういう風に頑な過ぎると議論が収束しない恐れがあるので、もうひとつありえる落としどころとして、英語版で採用されている慣用重視主義をウィキペディアに適用する作業を行い、整合性という点もこれからみんなで直していけばいいじゃないかということで、Ligarさんのおっしゃったようにする場合について、ひとつの妥協案として私が納得できるやり方を考えてみました。つまり、
- 記事名は報道や日本の省庁、教科書における用例を勘案して日本語上の慣例としてもっとも認められそうなものを採用する。
- 記述の本文では、専門性を確立するためにその分野で行われている表記を採用しても可とする。
- というものです。具体的には、FeZnさん初版執筆のイスラム銀行を想定しています。アラファートの場合、以下のようになります。
- つまり、Shさんのこの編集のような表記をスタイルマニュアルに正式なルールとして取り入れることを望みます。そうしないと例えば私が妥協を受け入れてヤセル・アラファトが記事名になったことがあったとしても、今回議論になったことを知らない人が本文内でアラファートとなっているのを記事名にあわせるとしてアラファトに戻してしまう可能性が残ってしまいますんで。
- 正直議論下手な私はこれ以上他所のノートに出向いて記事名に参加する気力はありませんし、もし他所の議論で多くの人が納得した末に記事名の付け方で慣例主義がルールに策定されるのであれば、そのときは改めてこの記事もそれを踏まえるべきだと思います。Safkan 2004年11月24日 (水) 17:00 (UTC)
- ありがとうございました。Shさんにもコメントをいただければと思いましたが、お返事がないようです。Safkanさんのアラビア語人名での整合性も分かりますので、ごく一部の場合のみ譲っていただいて、すべての記事を変更するような行動は控えるべきだと考えます。また、その場合、記事名と本文の表記がちがっても、その旨本文に明記してわけることも可能だとすることに賛成します。なお、一般に記事名を変更しようとする人は、記事名は最初に作成されたものを基本的に尊重して、すぐ変更することなく、まずノートで議論されること、つまりWikipedia:ページ名の変更を読まれることを提案します。合意形成されたかどうかの判断はTomosさんにお任せし、この議論からは引かせていただきます。Ligar 2004年11月26日 (金) 10:37 (UTC)
争点のまとめ
繰り返しになりますが、「記事名の付け方」すら合意に達していない状態では、議論は平行線をたどりそうです。最初にSafkanさんが見抜いたとおり、”記事名”をできるかぎり正確なものにするというポリシーと、アクセサビリティーを優先してより多くの人に検索してもらおうとするポリシーの対立となっています。すばらしい記事には正確なタイトルをという立場と、すばらしい記事をより多くの人に知ってもらうために一般的なタイトルをという立場の対立です。
私は最初コーディネーターの立場に立とうと思いましたが、アクセサビリティの立場から議論に加わる人が意外と少ないので、反対の立場にたっています。私がウィキペディアにたどり着いたのも、たまたまある言葉の検索で最上位だったからというものなので、英語版のポリシー(記事名に関しては他の検索エンジンに最適化する)にかなり納得しています。
ところで、外来語表記でも、記事名の付け方でも議論が続いていかなかったので、コーディネーターにコメントを依頼したいとおもいます。
私が考える争点は以下のとおりです。
- 記事には正確なタイトルをつけるというポリシーを優先させる。(一般に使われている用例とわずかに異なるぐらいなら良い)
- アクセサビリティを優先するというポリシーを優先させる。(できるかぎり検索語としてヒットさせる)
Ligar 2004年11月23日 (火) 16:22 (UTC)
アクセシビリティ(見つけ易さ、かな)とユーザビリティ(同使ひ易さか)では、Redirectがあるので問題無いでせう。といふか、Wikipediaが一位では駄目なのでせうか。(Googleに於いて「ヤセル・アラファト」の語では一位に来ない) kahusi - (會話) 2004年11月23日 (火) 21:01 (UTC)
できれば、利用者:Ligar/記事名の付け方を見てください。Redirectページでは、検索エンジンの上位にリストアップされないことが問題です。「ヤセル・アラファト」で1位にこないのは当然で、記事名が「ヤーセル・アラファト」だからです。ちなみに11月21日のキャッシュで「アラファト」では1位にランクされました。この問題は、Wikipedia‐ノート:記事名の付け方、Wikipedia‐ノート:外来語表記法およびWikipedia:井戸端/臨時分室2に議論が分散してますので、参考にしてください。Ligar 2004年11月24日 (水) 03:00 (UTC)
記事名の付け方を日本語訳された内容は、Wikipedia自身の方針ですから、尊重すべき事項です。ただ、ここでの議論は、「アラファト」のみならず、整合性の問題から、一般的なアラブ人・イラン人・パキスタン人の人名に波及することを懸念してるように思うのです。多くのアラブ人の人名について、日本語での、一般に使われている用例というのは、多少の揺れがあるように感じます。また、少なくとも学術的な表記や、世界史教科書での人名の扱いなどに、原音主義なるものがあるそうで、一定の表記方法があり、それらの分野が一般的でないとは言えないと思います。この場合の争点をまとめるのでしたら、「上記記事名の付け方に反してるかどうか」ではなく、「多くのアラブ人の表記にウィキペディア内で整合性を求めるか、個々の記事ごとに、一般的に普及しているかを勘案するか」という差だと思います。Tcyiswalk 2004年11月24日 (水) 06:41 (UTC)
Tcyiswalkさんは、英語版のポリシーも尊重した上で、アラビア語表記の整合性から発言されているのですね。私はここでの議論をもとに、この機会に記事名関係のルール整備を行いたいと考えています。アラファトさんのケースだけ特殊化する意見はこれまでのところないので可能かなと思っています。個人的には慣例主義を強硬に主張する気はないので、Tcyiswalkさんのようなルール整備に役立ちそうなコメントはありがたいです。ところで、この議論に関してTomosさんにコーディネーターとしてコメントをお願いしました。SafkanさんとShさんからの、Tomosさんへの返信を期待します。Ligar 2004年11月24日 (水) 10:38 (UTC)
- (今回の「アラファト」の件についてもそろそろお手上げ状態、言いたい事はだいたい言ったので、あとは議論の推移を見守りたいと思います。)外国語や記事名の問題についてあまり詳しくなかったので、今まで、記事名は曖昧にとらえてました。無意味な編集合戦を避けられるならある程度のルールは必要かもしれないですね。記事名については、たぶん、国や言語、時代によっても、事情も変わってくるのでなかなか大変な作業かと思いますが、うまく合意が形成できたなら、今後の編集の際に参考にさせていただきます。Tcyiswalk 2004年11月24日 (水) 12:22 (UTC)
全くの初心者ですが、ウィキペディア統一ルールみたいな物で決めちゃったほうが早いと思います。一般的な名称でも検索できるので、本ページは原音優先でいいと思います。DIGITAL 2004年11月26日 (金) 16:07 (UTC)
合意内容のまとめ(素案)
これまでの議論をまとめると、以下のような点が落としどころだと考えてよいでしょうか。
この件について:
- このページの表記は、ヤーセル・アラファートでよい。
- もしもウィキペディア一般の原則として、広く普及している表記を採用すべきだ、ということに合意が形成されれば、その時にはこの記事についても記事名を変える可能性がある。
- 国際政治など、異なる学術分野ではヤセル・アラファトが一般的な表記だ、というような事情がある場合には、個別的に議論の余地があり、この件についてもそういう検討の余地があるかも知れない。(これまでのところはそれほどない。)
アラビア語の人名一般について:
- 原則として、従来のウィキペディアの慣行に従う。
- もしもウィキペディア一般の原則として、広く普及している表記を採用すべきだ、ということに合意が形成されれば、その時にはアラビア語の人名についても記事名を変える可能性がある。
外来語の記事名・表記一般について:
- この件が最終的に好みの問題ということであれば、これまでのところ原音主義が多いように見える。
- 原音主義を推す意見の中にも、広く普及した表記を優先させることのメリットを認める意見もあるので、一般論としては、まだ議論の余地はある。
- 具体的に理由を見てみると、原音主義の問題として、学界もメディアも原音と離れた表記が一般的である場合がある。が、そのような件についてもあくまで原音尊重をすべきなのかについては、原音主義を推す人からも特に議論がなく、むしろ意見の前提として、学界=原音、メディア=それ以外、と考えて述べられた意見もある。そこで、学界でもメディアでも採用されていないような原音主義をウィキペディアとして採用するかどうかについては、別途議論すればいい。(記事名の付け方のノートで議論が現に行われているわけですが。)
- 学界では原音に忠実であり、メディアは英語の影響を受けている、という事情がなく、仮に何かの事情で逆だったり、原音に忠実でない表記で学界もメディアも一致していたりする場合にどうするか、も、別途議論すればいい。
不正確な点、誤解などあれば、是非ご指摘お願いします。Tomos 2004年11月26日 (金) 22:14 (UTC)
付記:僕は特に何かの権限・資格があってまとめ役に就いているというようなことではなくて、Ligarさんにお願いされたから自分にできる範囲でやってみた、というだけです。ので、他にもっとうまくまとめてくださる方がいらっしゃれば、もちろんその方にやっていただくのがいいと思います。自明だとは思いますが念のため。Tomos 2004年11月26日 (金) 22:33 (UTC)
- まとめていただきありがとうございました。論争当事者であるShさんからの議論がない現状ではそうなるかと思います。一点だけ。(Tomosさんにケチをつけているわけではありません)記事名議論を最終的に好みの問題にしてしまうのは危険です。英語版のSubpageでの議論en:Wikipedia talk:Do not use subpagesのように、ポリシーを背景にした論理でどちらかを選択しなければならないと思います。Ligar 2004年11月27日 (土) 04:24 (UTC)
- 僕のほうから追加・補足することというと、
- 国際政治など、中東地域研究と異なる学術分野では原音に忠実な表記とは別に分野内で定着した表記がある、というような事情がある場合には、改めてノートで記事名を議論する余地がある。しかし、今回はとりあえずヤーセル・アラファートとして問題なさそう。
- 異論をできるだけ吸収するために、リダイレクトを考えられる限り張り、極力表記の様々な例の併記を行う(Shさんのご意見では、併記する場合でもボールドにしないと併記とはいえないということのようなので、異論を吸収するという意味では今後はそうしていくべきでしょう。究極的にはケースバイケースですが)。ただ、その際、「日本語表記では…」とか、「正規の表記は…」とか、どの表記がより日本語として正しいかどうかの価値判断を含むような表現は避ける。
- あとは今回の議論をWikipedia‐ノート:記事名の付け方、Wikipedia‐ノート:外来語表記法の議論に反映させていければよいと思います。Safkan 2004年11月27日 (土) 16:13 (UTC)
- お返事、ご指摘ありがとうございました。いずれの指摘もその通りだと思いました。
- 好み、という言葉が誤解を招きやすそうなので、僕の意図していた点を補足します。次のようなことを意識していました。
- 例えば原音主義と、慣用主義と、2つに1つというところでは意見がまとまるけれども、その両者についてはそれぞれ長短があって、議論をしても片方がもう片方を論破できるということもなさそうだ、というようなことがあるかも知れません。もしそうだとしたら、あとは誰がどの程度どういう点を重視するか、投票にかけるというのがいいかと思います。これは参加者の間でどちらが好まれるかということか、と言う問題であって必ずしもどちらかが他方よりも優れていることを論証するということではないのかな、と思いました。一般に、投票は好みの問題を解決するために用いると有効な合意形成手段だと思います。(よく考えると好みでも論証でもない場合もあるので、不適切な表現だったと思いました。)ただ個々の記事名を関係者の好みで場当たり的に決めるのは問題があるので、明確な方針を決めるべき、という意見は僕も持っています。Tomos 2004年11月28日 (日) 00:16 (UTC)
アラビア語における原音主義
質問なのですが、アラビア語の方言差が、人名、地名、重要概念に表記揺れをおこす可能性はあるのでしょうか。ないとすればそれは、方言差が無視できるほど小さいせいでしょうか。それとも標準語に従えば良いということでしょうか。Kinori 2004年12月1日 (水) 17:10 (UTC)
- アラビア語は方言のバリエーションが大きいので差異はいくらでもあります。詳しくないですが短母音は揺れが大きくてマッカがメッケと聞こえたりするようです。短い母音の揺れに留まらない顕著なところでは
- エジプト方言
- シャジャルッドゥッル→シャガラットゥッドッル(13世紀の女王)
- ムハンマド・ナジーブ→ムハンマド・ナギーブ(初代大統領)
- ジャマール・アブドゥンナーシル→ガマール・アブドゥンナーセル(第2代大統領)
- チュニジア方言
- ブールキーバ→ブルギーバ(初代大統領)
- などが思いつきます。ただ、慣例として歴史上の人物や概念などについては正則アラビア語を取り、現代の人物は方言の発音を尊重することが普通ですし、一応今までの人物名のルール案もそうすることにされています。まあ、新聞などではナギブ、ナセルとかかれ、Nagib, Nasser という英語表記をもつ人たちをナジーブ、ナースィルと書いたら誰だかわからないので当然かもしれません。ここのところはかっちりとしたルール化は難しいので、各種の資料における表記を勘案して突飛なものにならないよう気をつけつつケースバイケースで判断するしかないようです。つまり、現代人名については紛れがない程度に確立された一意な転写法というのは難しいかもしれません。Safkan 2004年12月3日 (金) 05:56 (UTC)
- わかったような気がします。さらにまた無知な質問ですみませんが、Safkanさんがウィキペディアで使おうと考えている方言は、国単位の大きさのグループなのでしょうか。異なる方言間のうちどれを採るかで悩むことはありますか。Kinori 2004年12月5日 (日) 08:41 (UTC)
- 繰り返しになりますが私はアラビア語の専門家ではないので、その質問に明確な回答を提示することはできません。私自身は、第一に専門事典類、第二に各国の政府・政党の発信する情報源における英語・フランス語綴りを参考に判断するしか方法をもっていないです。上でのお答えはその範囲内の理解を出るものではありません。その点、採用される表記が恣意的になる余地があり、個々のケースにおいて異論を併記し、問題がある場合はノート等で慎重に検討する必要があると思っています。
- ただ、もしかしたら、このやり方の先達であるアラビア語ちゃんねるさんは何か確立した判断基準をお持ちかもしれませんが…。Safkan 2004年12月6日 (月) 04:16 (UTC)
- そうですか。お返事が遅れたことも含めすみません。アラビア語のような歴史が古く広い範囲で使われている言語で、機械的に転写すれば原音どおりで問題ないということがあるのか、もしそうならよほど強い言語政策があるのかと思ったのでした。一つにまとまっているのは日本の学界慣行であって、アラビア語の原音はもっと複雑な様相をもつということですね。Kinori 2004年12月22日 (水) 07:03 (UTC)
- えっと、強い言語政策みたいなものがないわけではないのです。コーランの言葉であるアラビア語の正則語(フスハー)は7世紀に当時のアラビア語で神が語ったのと同じ言葉ということから強い拘束力がありまして、今もコーランの言葉そのままの発音で文語として、あるいは口語としても報道などのお堅い場面や国籍の違うアラブ人同士の会話などに使います。なので、外国人、特に日本人は正則アラビア語の厳格な転写を好みますし、事典類では現に厳格な転写方式が確立されています(いくつかの方式がありますが)。
- ところが、実際にはコーランの時代から1000年以上を経過しているわけですから、各地のアラビア語は今はばらばらです(コーランの時代には既にばらばらだったんであたりまえなんですけども)。だから、アラブ諸国はどこでも日常会話では口語を使っているわけで、話し言葉に文語やアカデミックな言葉である正則語を使うとかえって変な感じがするそうです。イメージとしては、アラブ人にとっての正則アラビア語は、15世紀くらいのフランスやスペインやイタリアの人が文語ラテン語を使っているようなものだということみたいです。しかし、例えば15世紀のフランスならば、文書にはCARLVS VIIと書いてある国王も、実際に話言葉で聞いてみるとシャルル・セトと発音しているわけで、だから「シャルル7世」と書かないと違和感がありますし、普通はそう書きますよね。同じように、アラビア語であってもいくらなんでも現代の人物まで発音を無視して正則語を厳格にあてはめのもそれにはそれなりの違和感があって、エジプトの初代大統領を正則語でナジーブと書くことはほとんどないです。だから、正則語をもとにしつつも口語を勘案してナギーブとしたほうが良いのではないか、という考えになるわけです。Safkan 2004年12月25日 (土) 00:25 (UTC)
- 結論が抜けました。概念は多くの場合、正則語で処理されるからいいんですが、人名や地名は方言に引きずられる表記のほうが一般的なことも多いので、まずどこまでを正則語にするかという統一的な基準(ノート:ムハンマドで提案しているもの)が必要でしょう。そして正則語の機械的な転写方式が適用できないと判断されるケースでは、他の情報源との整合や関連を判断しつつ個別に判断が必要なのではないかと思います。Safkan 2004年12月25日 (土) 00:33 (UTC)