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熊野別当

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
熊野別当家から転送)

熊野別当(くまのべっとう)は、9世紀から13世紀後半にかけて、現地において熊野三山熊野本宮大社熊野速玉大社熊野那智大社)の統括にあたった役職。役職名自体は14世紀前半まで存続したが、熊野三山の統括職としての内実は13世紀後半までのことであり、14世紀にはその職は実態を失っていた。

概要

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熊野信仰の中心として一体のものと観念される熊野三山であるが、各々成立事情を異にし、当初は別個に発展してきたと考えられている[1]長寛元年(1163年)に書かれた『長寛勘文』所収の「熊野権現垂迹縁起」が伝えるところによれば、10世紀前半頃から、熊野本宮でそれまではっきりした神格があげられていなかった主祭神を家津御子神(けつみこかみ、本地仏阿弥陀如来)と呼ぶようになった。また、同時期の新宮では、神倉社を経て阿須賀社に結神(熊野牟須美大神)・早玉神(熊野速玉大神)と家津御子神(熊野坐神)を祀ったとの記述が同じく「熊野権現垂迹縁起」に見られ、この時期に熊野三所権現の起源が成立したことが分かる。そして、12世紀に入ると、藤原宗忠の参詣記(『中右記』)の天仁2年(1109年)条にあるように、三山が互いの主祭神を祀りあうようになっており、宗教思想上の一体化がなされ、現在に繋がる形での熊野三所権現が成立していたことが判明する[2]

三山を統括する役職としての熊野別当の名称は、「熊野別当代々記」によると、前述の宗教思想上の一体化にやや先行し、9世紀に初見される[3]。この時期の熊野山は、依然として地方霊山の一つでしかなかったが、白河院寛治4年(1090年)の熊野御幸後、事情は一変する。熊野御幸から帰還した後、白河院は、先達を務めた園城寺の僧侶・増誉熊野三山検校補任すると同時に、熊野別当を務めていた社僧の長快法橋に叙任した[4]。これにより、熊野三山の社僧達は中央の僧綱制に連なるようになった[4][5]。このとき設けられた熊野三山検校の職位は確かに熊野三山を統べるものとされたが、検校は熊野には居らず、統轄実務を担ったわけではなかった。宗務は無論のこと、所領経営、治安維持、さらに神官・僧侶・山伏の管理にあたったのは熊野別当とそれを補佐する諸職であり[6]、当初その財政基盤となったのは、白河院から寄進された紀伊国内2ケ郡の田畠百余であった[7]

熊野別当を世襲した熊野別当家は、後に新宮に本拠を置く新宮別当家と本宮と田辺を拠点とする田辺別当家に分裂しつつ、別当職を務めた。承久3年(1221年)に起こった承久の乱において、別当家は鎌倉幕府方と上皇方に分裂しその勢力を衰退させたが、それ以後も熊野別当による熊野三山統轄体制は続き[8]、南北朝時代中頃(14世紀中頃)に熊野別当の呼称が消えると共に終焉を迎えた[9]

系図

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以下に15代長快以後の熊野別当家の略系図を示す[10]。別当就任者はボールド体とし、代数および各分家名を示す。

新宮別当家

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長快15
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
湛快18長兼17
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
長範16
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(※)田辺家略系図
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
範智20行範19
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
行遍
 
 
 
 
 
 
範命23
 
 
 
行快22範誉
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
覚遍快命26良範定範琳快25尋快28
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
覚増
 
 
 
 
良智長政俊快浄快30
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
定増
 
 
 
 
湛智長真32快覚
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
定有37
 
 
 
 
湛誉38長慶33, 35快全
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
定遍40
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
宮崎家滝本家高坊家鵜殿家新宮大門家
 
 
 
那智執行家
 
 
 
 
 
 
 


田辺別当家および石田家

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長快15
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
湛快18長兼17長範16
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
湛政24湛増21
 
 
 
 
(※)新宮家略系図
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
湛真27湛顕
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
定湛29湛順快実
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
尭湛34正湛31, 36
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
慶湛
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
宗湛39
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
小松家田辺蓬莱家小松家石田家
 
 
 


歴史

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史実としての熊野別当の初見は、『権記』の長保2年(1000年)正月20日条である。この条で言及されている人物は、別当増皇である[6]。それによると、長保元年(999年)、熊野の修行僧・京寿が、解文を太政官に送り、自らを別当に補任するよう訴えたという。これに藤原説孝が加担し、増皇について偽りの罪状を奏上した。こうしたことから、中央政庁では増皇の解任と京寿の別当補任に議論が傾いたが、熊野の衆徒が事前にこれを察知し、こうした動きを差し止めるべく中央政庁に申し立てを行った。その結果、京寿の解文が偽りであることや、説孝の奏上が事実に反することが明らかになり、京寿の別当補任が撤回された[11]

こうした記述から、熊野別当の職が、熊野の衆徒の推挙をもとに勅旨によって任命されていたことが分かる。半世紀後、別当に補任された15代別当長快(1037年 - 1122年)にしても、こうした三山衆徒の推挙によってその職に就いたものであり、熊野別当は衆徒のなかの第一人者としての性格を帯びていたのである[11]

熊野別当家の「系譜」

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熊野別当は長快をはじめとして妻帯して一家を構えていた。そのことからして、長快が法橋に叙階されたことは、長快の家系の格式が公的に認められたことと受け止められた。白河院から田畠の寄進を受けたことや、その後、元永2年(1119年)には50烟の封戸を寄進されたこと(『中右記』)は、長快の政治力をも示すものとされた[12]

しかし、これらの事のみでは、長快自身はともかく、長快の死後も別当を重代職とすることは難しい。そこで、別当家を貴種に結びつけ、別当家による職位の世襲を正統化することが図られた。そのために熊野別当家の系図が作成され、別当職が長快以前から代々世襲されてきたとの主張がなされた[3]。そのような事情から作成された熊野別当家系図は数種が今日に伝えられている。熊野別当系図は、系図所載の人物やその事跡を種々の文献や同類系図の記述にてらして比較検討するという考証学的視点から試みられてきたほか、熊野別当系図を熊野詣、僧綱補任、寺社、庄園などの記録にてらして吟味し、別当家の成立や在地領主家をあとづけたり、熊野詣などの際の別当の働きを分析する研究が進められたことによる虚像と実像の両面が解明されてきている[13]

熊野別当家の系図には数多くものがあるが、中世末までに熊野三山で成立した主要なものを挙げると、「熊野別当代々次第」、「熊野別当代々記」などのように、歴代別当について補任年、在任期間、親子兄弟など続柄などを付記した歴代記の形式を取るもの、罫線で親子兄弟関係を図示した「熊野別当系図」(『群書類従』6下「那智系図」「目良系図」〈東京大学史料編纂所影写本〉)、歴代別当やその在位年数を簡潔に書き記した「熊野山本宮別当次第」(「諸山縁起」『寺社縁起』、岩波書店日本思想大系20〉)といった形式のものが見られる[14]

一般に系図においては、中興の祖が実在の創始者で、系図上初代や初期の人物として挙げられる人物や人物に関する記述は系譜の権威を高めるために付け加えられることが少なくない。熊野別当系図においてもそうしたことは当てはまり、熊野別当の熊野三山支配の正統性を人々に認めさせる為に、いくつもの虚構を含む系図が鎌倉時代初期に作られており、別当家の出自が熊野支配の正統性を根拠付けるものとなるための工夫が凝らされている[13]

最も広く知られている『紀伊続風土記』所収の「熊野別当代々次第」では、熊野別当家の初代を弘仁3年(812年)10月18日に補任された快慶としている。快慶は、左大臣藤原冬嗣榎本道信の嫡女の子とされた。この他、10代の泰救が、9代の殊勝の娘と藤原北家出身の左近衛中将藤原実方を両親としたとしており、初代と10代の2度にわたり藤原氏の血統に連なるとして、貴種の家柄を強調している[3]。「熊野別当代々次第」には、複数の伝本が知られるが、新宮に伝来したことを示す記述が見られる(『熊野速玉大社古文書古記録』所収本、『続群書類従』本)[15]

しかし、「熊野別当代々次第」では、これらの記述と同時に14代の宗賢について、快慶の血筋を引かないにもかかわらず別当職に就任したがために、三山衆徒の不満を買い、殺害されたともしている。この記述や前述の増皇の事件を併せて考えると、こうした系図により熊野別当家による重代の正統性が主張されはしたものの、重代はあくまで三山衆徒の推挙と支持を得られる限りという限界の中にあったことを示している[3]

こうした別当家側の主張に対し、同時代の反応はどうであったろうか。鎌倉時代初期に熊野修験によって編纂された『諸山縁起』所収の「熊野本宮別当次第」では、熊野別当の初代として、熊野権現の御宝前で初めて勤行を行った禅洞を初代別当とし、そこから2代を隔てて増皇の名を挙げ、次いで殊勝から長快に至る系譜(宗賢を除く)を示している。また、鎌倉時代末に京都で編纂された『二中歴』所収の「熊野別当」では、最初に増皇の名を挙げ、殊勝から長快までの名を列挙している(ただし宗賢は別当ではなかったとされる)。いずれの系図も、藤原氏との系図上の結びつきには言及しておらず、別当家側の貴種とのつながりの主張は容れられていない事が分かる。とはいえ、両者とも殊勝以下の系図と別当職の世襲は認めていたようである[16]

新宮別当家と田辺別当家

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保安4年(1123年)に長快が死去すると、新宮にいた次男の長範1089年 - 1141年)が別当職を継承し、弟の長兼(長憲)を権別当として田辺近くの岩田(上富田町岩田)に配し、新宮には子の行範1115年 - 1173年)を置いた。長範は、父の長快に続いて法印の地位に上った。さらに、天承元年(1131年)には宣旨により那智別当を兼ねるようになり[17]、本宮・新宮に対し強い独立性を保持していた那智山を掌中に収めて熊野三山の統括組織を一体化するべく努めたが、那智山では大衆による自治運営が強力であったため、この時点では成功を収めるには至らなかった[18]

長範の死後、康治元年(1142年)に長兼が別当となり、弟の湛快1099年 - 1174年)を権別当としたがその在任は4年の短期に終った[注釈 1]。長兼の死後、別当職を受け継いだ湛快は、田辺に新熊野三所権現(闘雞神社)を勧請したことで知られる。湛快は、長兼が進めていた石田庄付近での王子社や宿舎設置といった在地支配を引き継ぐ[17]と同時に、大治2年(1127年)には牟婁郡芳益村(田辺市中芳養芳養町)に見作田五町所官物を得て、所領経営に努め[17]、これによって田辺別当家の財政基盤が確立された[19]。これと並行して、新宮でも行範が新宮在庁として別当の代行者の職務に励む一方で在地支配を進めた。こうして、熊野別当家の勢力は熊野全域に拡大[20]すると同時に、新宮と田辺に別当家の2つの家系が対峙する構図が出来上がっていった[19]

こうした熊野内部での別当家の勢力伸張の一方、外部に眼を向けると、湛快の在任期間中は、保元・平治の乱の時期でもあり、湛快は激動の時代を乗り切る舵取りを任されることになった[20]。湛快は引き続き院や貴族の熊野参詣を受け入れ続けるとともに、平氏政権との結びつきを強めて、多くの荘園や所領を獲得して熊野三山の勢威を高め、日高郡にまで勢力を広げた[20]

また、この時期の特筆する事件として、甲斐国八代荘でおきた熊野本宮領荘園を国衙の官人が侵犯した事件がある。この一件は『長寛勘文』に詳しく記されたところであり、断罪の論争の過程で熊野三山が伊勢とは独立した祭神をもつことが公式に確認された点で意義深い[21]

こうして、12世紀を通じて熊野別当家は新宮家(長快次男流長範家)、石田家(長快三男流長兼家)、田辺家(長快四男湛快家)、佐野家(長快五男流範快家)、さらに那智執行家(行範次男流行誉家)といった分家を牟婁・日高両郡の熊野参詣道沿い各地に成立させると同時に、在地領主化を進め、別当権力を増大させていった[22]

展開

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田辺・新宮の両別当家はそれぞれの地歩を確立していったが、それと同時に職位や種々の利権をめぐって両家が対立・抗争するようにもなっていった。

田辺・新宮両家の対立を避けるため、湛快は新宮家出身で長範の子・行範を19代別当としたが、行範は別当就任1年で死去した[23]。そのため行範自身の事績は乏しいが、その次男範誉から始まる那智執行家は、本宮・新宮に対し独立性を保持していた那智山を一貫した統括組織のなかに組み込むことに成功した点で注目される。なお、「熊野別当系図」は、12世紀末期から13世紀末期にかけて、那智執行に範誉を始めとする行範の家系(新宮別当家系)に連なる人々が就任しているとしている[24]

また、行範は、妻が源為義の娘の鳥居禅尼(または、立田腹の女房〈たつたはらのにょうぼう〉)であることに加え、為義の子・行家の勧めもあって源氏に与し、新宮別当家の影響が強い新宮や那智の衆徒もそれにしたがっていた[23]。行範死後、新宮家は別当職を田辺家に譲らず、承安4年(1174年)、行範の弟の範智が20代別当に就任した[23]。範智は、権別当に湛増を迎え、京都と田辺を往来したことで政略に長ずるようになった湛増の助言と新宮家嫡流の行命の補佐を得て、治承5年(1181年)まで在任することができた。

治承・寿永の乱以来、平家方に与していた田辺家出身の湛増1130年 - 1198年)は、本宮・田辺勢を率いて、源氏方に味方していた新宮・那智勢と新宮で合戦したが、敗退した。 権別当となった湛増は自らと対立する弟の湛覚を攻め滅ぼしたのを手始めに、熊野における政治的主導権を一気に掌握するべく内乱を引き起こし[25]、平氏政権による太平洋・瀬戸内海航路の支配に不満を抱く海賊衆の組織化に成功したこと[26]もあって、東は尾張から西は阿波までの地域を反平氏・親源氏に一挙に塗り替えることに成功した[27]。これにより、熊野別当家は完全に源氏方に味方することとなった[28]

寿永3年(1184年)、湛増は21代別当になり、鳥居禅尼の子・行快1146年 - 1202年)が権別当となった。寿永4年(1185年)、湛増は熊野水軍を率いて源氏軍に合流し、壇ノ浦の戦いで源氏の勝利に貢献した。この功績によって湛増は、源頼朝から、上総国に広大な所領をもつ領家に任じられた。これにより、以前からの所領とあわせて田辺家の財政はおおきな収入を得るようになった[29]。また、行範の妻であった鳥居禅尼も同じく地頭に任命され、鎌倉将軍家の一族として厚く遇された[29]。これら地頭職だけでなく、鎌倉幕府は熊野三山の功績を重んじ、全国に守護地頭の設置を試みた際(文治元年〈1185年〉)も、熊野には御家人を置かず、承元元年(1207年)には、院の熊野詣に便宜を図るために紀伊・和泉両国の守護職を停止し、さらには熊野神領の維持運営にも配慮を示した[30]

衰退から終焉へ

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承元2年(1208年)、24代別当に湛政が就任すると、京都と鎌倉の対立により、熊野の内外が不安定化していった。まず、湛政のもとに置かれた権別当が相次いで失脚・交代した。また、西国への足がかりとして熊野に隣接する伊勢を利用しようとする動きを鎌倉幕府が見せたことへの反発から事件が相次いで起こった。承久元年(1219年)2月に志摩国への熊野山衆徒の侵入事件が起きたが、これは新宮家の人々による鎌倉幕府に圧力をかける試みであったと考えられている[31]。さらに紀伊国における親幕府派の中心にいた湯浅宗光が、熊野山衆徒の強訴により配流される事件が起きた。紀伊国を親上皇・反幕府でかためようとするこれらの動きが顕著になるにつれ、幕府との間の関係に緊張が漂いだした[31]

承久3年(1221年)に承久の乱が起こり、後鳥羽院が倒幕の兵を挙げると、田辺家の快実湛顕の嫡男)と新宮家の尋快(行快の嫡男)が上皇方に参加した。しかしながら、熊野三山の統治体制と深い関わりをもつの挙兵に際し、熊野は統一した態度と行動を示すことが出来なかった[32]。湛政は静観に努めたが、田辺・新宮の両家から上皇・幕府両陣営への参加者が出ており、別当家一族が互いに戦うことこそ避けられたが、湛政ら中立派を含めて三派に分裂してしまった[33]

加えて、戦いは幕府の一方的な勝利に終り、多くの荘園・所領・所職が失われた。特に田辺家は快実をはじめ次代を担う人材を数多く失ったばかりか、近接する南部庄や芳養上庄に幕府が地頭を送り込んできたことで、財政基盤が損なわれるにとどまらず、幕府の監視下におかれるようになった[34]。新宮家の損害はそれに比べれば小さく、佐野庄地頭職などの一定の既得権益を確保することに成功したばかりか、幕府の御家人によって間近で監視されることも回避することができた[35]。この他にも、宇治川での敗北後に捕縛・刑死・配流に処せられた者、逃亡を余儀なくされた者もおり[32]、新宮・田辺を問わず別当家の勢力は弱まった[36]

さらに、鎌倉幕府は、和泉国・紀伊国の両国で停止していた守護職を再設置し、逃亡者の探索に当たらせた。また、鶴岡八幡宮の別当であった定豪を新熊野検校に任じ、三山の直接掌握を図った[32]。こうした中、承久の乱のあいだ静観につとめた湛政が安貞3年(1222年)に死去すると、承久の乱に関わらなかった琳快(りんかい)が25代の別当に就任し、湛顕の弟湛真が権別当に就任した。しかしながら、琳快は、上皇方に加担した元羽黒山別当尊長をかくまった疑いをかけられて下野国足利に配流された[37]。政治力のある後ろ盾を得られなくなった熊野別当には、こうした鎌倉幕府の介入を斥けることはもはや出来なかったのである[32]

26代別当の快命、ついで27代別当の湛真以後、新宮家と田辺家はあらためて交互に別当職を努めることになった。その後、承久の乱の処罰や追及が弛緩したのか、上皇方で戦った後、姿を隠していた尋快が28代の別当に就任する一幕も見られた。31代別当には田辺家嫡流の正湛が就くが、正湛が弘安7年(1284年)9月に還俗し、宮崎姓を称したことにより熊野別当職を担う家系としての熊野別当家は断絶したと『熊野年代記』は伝えている[36]。しかし、田辺(小松)家嫡流の正湛が新宮行遍家の通姓である宮崎を名乗るのは不自然に過ぎるし、信憑性に欠ける[38]。しかも、これ以後も熊野別当の名は確実な史料中に確認されている[36]ので、熊野別当家は断絶せず、続いていたと見なすべきであろう[38]

ところで、熊野別当家勢力が衰え始めた13世紀末期になると、那智山は那智執行滝本執行宿老在庁との合議制によって一山運営をおこなうようになり[24]、熊野三山の中で半ば独立した存在になっていった。

熊野別当の終焉

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例えば、『二中歴』所収の「熊野別当」には、正湛以後、1330年代に至るまでの間に、32代から40代まで、長真長慶尭湛、長慶(再任)、正湛(再任)、定有湛誉宗湛定遍らのべ9人の別当の名前が記されている[39]が、その性格はもはや定かではなく[36]、任期すら不確かである[39]

なお、弘安11年(1288年)2月付けの「土佐長徳寺氏人連署状」[40]によると、熊野別当は熊野三山検校のもとで先達の補任・身分保証に関与するようになっていたようである[41]。残された史料から知られる限り、この時期の熊野別当は熊野三山に対する支配力を失い、多くの衆徒の力を無視できなくなっていたのみならず、熊野水軍に対する統制力をも失っていたと見られ、その結果、徳治3年(1308年)、「西国および熊野浦々海賊」が蜂起し、太平洋航路の権益[注釈 2]をめぐって鎌倉幕府と7年近くにわたる争いを繰り広げた[43]。この争いが終る頃には、もともと熊野水軍を構成していた熊野地方の武士勢力は、もはや熊野別当の統制に服することなく独自の行動をとりはじめ、加えて熊野制圧のために鎌倉幕府が派遣していたとみられる小山氏・安宅氏などの武士団が土着化して勢力を拡大しつつあり、熊野地方の政治状況に熊野別当は影響を及ぼすことができなくなっていた[9]

この後も、高知県長徳寺旧蔵の文書2通(13世紀末期)に記載された熊野別当[40]、兵庫県英賀神社所蔵梵鐘名(14世紀前期)に明記された熊野別当定有[44]、さらには『太平記』や『園太暦』などにも正湛以後の熊野別当やその名前が散見されることから、熊野別当による統括体制はこの時点でただちに解体せず、南北朝時代中頃(14世紀中頃)に「熊野別当」の呼称が消えるまでは形式上は存続したものと推定される。『園太暦』の観応元年(1350年)10月15日条に熊野別当として熊野新宮山西御前の託宣を京の熊野三山奉行所に注進した快宣が、確実な史料で確認される最後の熊野別当である[45]

熊野衆徒中の第一人者であった熊野別当は、白河院による補任や所領の寄進を通じて、権力基盤を確立し、院や藤原貴族、後には平氏や源氏の権力を背に、職を世襲しつつ熊野三山の統治にあたってきた。しかしながら、新宮・田辺の両別当家の間での内紛や、承久の乱において上皇側に与したことに対する鎌倉幕府の報復により、熊野別当勢力は徐々に衰退していった。14世紀以降には衆徒のみならず熊野水軍に対する統制力も失い、特に、熊野水軍を構成する熊野在地の地方武士勢力が、個別もしくは互いに連帯して自律的に自らの権益を脅かす鎌倉幕府と争うようになるにおよんで、すでに形骸化していた熊野別当家は完全に熊野の在地支配者としての地位を失い、田辺を含めて熊野三山はそれぞれに独自の道を歩み始めたのである[46]

脚注

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注釈

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  1. ^ 長兼家による12世紀の富田川中流域支配の実態については、阪本[2005: 215-219]を参照。
  2. ^ 熊野は乾元2年(1303年)以来、遠江国を知行国とし、さらに阿波国安房国をも知行国としていた。これらの国々と熊野を結んだのは太平洋上の航路であって、熊野は太平洋航路に重大な権益を有していた[42]

出典

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  1. ^ 宮家[1992a: 1]
  2. ^ 宮家[1992a: 2]
  3. ^ a b c d 宮家[1992a: 18]
  4. ^ a b 宮家[1992a: 5-6]
  5. ^ 小山[2000: 24-25]
  6. ^ a b 宮家[1992a: 16]
  7. ^ 宮家[1992a: 15]
  8. ^ 阪本[2005: 36-37、428-437]
  9. ^ a b 阪本[2005: 437]
  10. ^ 阪本[2005: 418]および宮家[1992a: 20]による。
  11. ^ a b 宮家[1992a: 16-17]
  12. ^ 宮家[1992a: 17-18]
  13. ^ a b 宮家[1992b:354-355]
  14. ^ 宮家[1992b:355-356]
  15. ^ 宮家[1992b:357]
  16. ^ 宮家[1992a: 19]
  17. ^ a b c 阪本[2005: 420]
  18. ^ 阪本[2005: 52-53]
  19. ^ a b 宮家[1992a: 20]
  20. ^ a b c 阪本[2005: 421]
  21. ^ 宮家[1992a: 98-99]
  22. ^ 阪本[2005: 422]
  23. ^ a b c 宮家[1992a: 20-21]
  24. ^ a b 阪本[2005: 72]
  25. ^ 阪本[2005: 423]
  26. ^ 高橋[1995]
  27. ^ 阪本[2005: 423-424]
  28. ^ 宮家[1992a: 21]
  29. ^ a b 阪本[2005: 424]
  30. ^ 宮家[1992a: 100-101]
  31. ^ a b 阪本[2005: 427]
  32. ^ a b c d 宮家[1992a: 22]
  33. ^ 阪本[2005: 356]
  34. ^ 阪本[2005: 354]
  35. ^ 阪本[2005: 354-355、428]
  36. ^ a b c d 宮家[1992a: 23]
  37. ^ 阪本[2005: 429]
  38. ^ a b 阪本[2005: 432]
  39. ^ a b 阪本[2005: 433]
  40. ^ a b 高橋[1991: 24-25]
  41. ^ 長谷川[1992: 40]
  42. ^ 網野善彦、1992、「太平洋の海上交通と紀伊半島」、森浩一ほか『伊勢と熊野の海』、小学館(海と列島文化8)
  43. ^ 高橋[1995: 79-81]、阪本[2005: 434-435]
  44. ^ 阪本[2005: 436]、『「紀伊山地の霊場と参詣道」世界遺産登録記念特別展「祈りの道~吉野・熊野・高野の名宝~」』[2004: 337-338]
  45. ^ 阪本[2005: 436-437、444]
  46. ^ 阪本[2005: 434-438]

参考文献

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  • 小山 靖憲、2000、『熊野古道』、岩波書店〈岩波新書〉 ISBN 4-00-430665-5
  • 阪本 敏行、2005、『熊野三山と熊野別当』、清文堂出版 ISBN 4-7924-0587-4
  • 高橋 修、1991、「中世前期の熊野三山検校をめぐる一考察」、『くちくまの』(87) pp. 19-28
  • ―、1995、「別当湛増と熊野水軍 - その政治史的考察」、『ヒストリア』(146)、NAID 40003247647 pp. 59-84
  • 立花 秀浩、1987、「熊野別当家の成立」、安藤精一先生退官記念会(編)『和歌山地方史の研究』、宇治書店
  • 長谷川 賢二、1992、「修験道本山派形成の動向と四国地方の山伏 - 土佐・阿波の場合」、『四国中世史研究』(2)
  • 宮家 準、1992、『熊野修験』、吉川弘文館〈日本歴史叢書〉 ISBN 4-642-06649-7
  • 宮家準、1990、「熊野別当系図の社会的意味」、『哲学』91号(1990年12月号)、三田哲學會、ISSN 05632099NAID 110007409246 pp. p353-374

関連項目

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