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湯原春綱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
湯原春綱
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 永正11年(1514年
死没 天正19年8月26日1591年10月13日
別名 又七郎、次郎左衛門(通称)、入道楽心(法名)
官位 右京進豊前守
主君 尼子晴久義久毛利隆元輝元
氏族 源姓湯原親王湯原氏
父母 湯原信綱尼子国久
兄弟 宗綱春綱定綱氏綱
富永元安
元綱富永安綱広綱児玉元良継室
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湯原 春綱(ゆはら はるつな)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将尼子氏毛利氏の家臣。出雲国佐陀江の満願寺城主。水軍の将でもある。

生涯

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湯原氏は出雲島根郡秋鹿郡内に本領を持つ国人永正11年(1514年)、湯原信綱の次男として誕生。

天文9年(1540年9月26日池ノ内の戦いで、兄の宗綱が討死したため、翌天文10年(1541年)1月に湯原氏の家督を継いだ。

尼子氏毛利氏の圧迫を受けて劣勢に追い込まれると、永禄5年(1562年)1月に天野隆重大谷元親桂元忠児玉元実の勧誘により毛利氏に降り、同年9月27日毛利元就隆元父子と起請文を交わした。これ以後は毛利家臣として吉川元春に従い、月山富田城攻めに加わった。

永禄6年(1563年3月6日、出雲意宇郡大草村における合戦で尼子方の黒田藤右衛門尉を自ら討ち取り[注釈 1][1]、嫡男の元綱と共に元就から感状を与えられた[2]

出雲や伯耆国を始めとして中国地方各地を転戦した。この間、吉川元春からの偏諱を受けたと推測される。また、永禄10年(1567年)から永禄11年(1568年)にかけては瀬戸内海を越えて毛利氏の伊予出兵にも従軍した。

永禄12年(1569年)に尼子勝久を首領に戴く山中幸盛率いる尼子再興軍が隠岐国より出雲国へと侵入すると、元亀年間の初めに末次城に在番し、元亀2年(1571年)からは加賀城の在番も務めたが、春綱の叔父・米原広綱らが尼子再興軍に呼応して寝返ったことで春綱も離反を疑われた。そのため春綱は、同年7月23日に毛利氏への忠誠を誓う起請文を吉川元春に提出し、以後も毛利氏に従って尼子再興軍の撃破に貢献した。また、湯原春綱は水軍の武将でもあったので、隠岐島に渡海して尼子方の隠岐氏を降伏させた。

毛利氏織田氏との戦いが始まると、天正7年(1579年)12月に美作国医王山城(祝山城)の在番を命じられ、天正8年(1580年)の医王山城攻防戦では、福田盛雅塩谷元真小川元政らと共に籠城し、織田方についた宇喜多氏の攻撃から城を死守した。この功により、同年1月に美作国の300貫の所領、3月24日豊前守受領名、4月には伯耆国で200石の所領を毛利輝元から与えられた。また、同年6月には織田信長の命を受けた羽柴秀吉から出雲一国を与える条件で寝返ることを求められたが、春綱はこの誘いを輝元に報告して忠節を示し、7月には輝元から因幡国と美作国で1000貫の知行宛行を約束された。しかし、医王山城の出城を守備していた米原景儀が毛利氏を離反したことで春綱離反の風説が流れ、9月に再び毛利氏への忠誠を誓う起請文を輝元に提出した。

天正13年(1585年)の四国攻めに従軍し、天正19年(1591年8月26日に死去。享年78。家督は嫡男の元綱が継いだ。

系譜

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脚注

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注釈

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  1. ^ この時の合戦で春綱の軍は尼子軍の首級をいくつも挙げており、木村五郎兵衛野嶋助五郎を、黒崎弥市郎黒田助八郎を、岩内弥十郎が黒田助八郎の被官である黒田七左衛門を、湯原慶綱山下左内をそれぞれ討ち取った。また、木村忠三郎が敵兵の首を2つ挙げ、石橋左京谷孫兵衛谷孫七山本九郎左衛門吉岡清空入道がそれぞれ敵兵の首を1つずつ挙げている[1]

出典

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  1. ^ a b 『閥閲録』巻115「湯原文左衛門」第4号、永禄6年(1563年)3月28日付、児玉元良桂元忠宛て湯原春綱頸注文。
  2. ^ 『閥閲録』巻115「湯原文左衛門」第3号、永禄6年(1563年)3月6日付、湯原春綱・湯原元綱宛て毛利元就感状。

参考文献

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