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隅田 (伏見型砲艦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
涪江 (砲艦)から転送)
隅田
艦歴
計画 ③計画
起工 1939年4月13日
進水 1939年10月30日
就役 1940年5月31日
除籍 1947年5月3日(大日本帝国海軍)
1960年代(人民解放軍)
性能諸元(竣工時)
排水量 基準:304t 公試:350t
全長 50.3m
全幅 9.80m
吃水 1.20m (公試平均)
主缶 ホ号艦本式混焼缶2基
主機 艦本式タービン2基2軸 2,200hp
速力 17.0kt
航続距離 1,400NM / 14.0kt (重油54t)
乗員 61名
兵装
(竣工時)
短8cm単装高角砲1門
25mm連装機銃1基

隅田(すみだ)は、日本海軍砲艦伏見型砲艦の2番艦である。艦名は先代隅田の襲用で、この名を持つ日本海軍の艦船としては2隻目。

艦歴

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藤永田造船所で建造され、1940年5月31日に竣工、砲艦に類別された。

支那事変では長江流域の哨戒活動に従事。太平洋戦争においても、長江流域の警備に従事した。1944年10月1日に軍艦から除かれ艦艇の砲艦に類別が変更された。

終戦時には航行不能の状態で上海にあった。その後、中華民国に接収され国府海軍の「江犀 Chiang-Hsi」となるが、1949年中華人民共和国に投降し「涪江 Fu jiang」と改名、1960年代に除籍。

艦長

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艤装員長
  1. 藤牧美徳 中佐:1939年11月20日[1] - 1940年5月31日[2]
艦長/砲艦長
  1. 藤牧美徳 中佐:1940年5月31日[2] - 1940年10月15日[3]
  2. 門田一治 少佐/中佐:1940年10月15日[3] - 1941年8月20日[4]
  3. 山崎嘉吉 少佐/中佐:1941年8月20日[4] - 1942年6月22日 戦死、同日付任海軍大佐[5]。以後7月10日まで艦長の発令無し。
  4. 橋本正雄 少佐:1942年7月10日[6] - 1943年11月3日[7]、以後11月5日まで艦長の発令無し。
  5. 大西勇治 少佐:1943年11月5日[8] - 砲艦長 1944年10月1日[9] - 1944年10月10日[10]
  6. 神尾彪一 大尉/少佐:1944年10月10日[10] - 1945年1月10日[11]
  7. 鈴木正雄 大尉:1945年1月10日[11] - 1945年8月15日[12]

同型艦

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脚注

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  1. ^ 昭和14年11月20日付 海軍辞令公報 (部内限) 第405号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072076900 
  2. ^ a b 昭和15年5月31日付 海軍辞令公報 (部内限) 第485号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072078100 
  3. ^ a b 昭和15年10月15日付 海軍辞令公報 (部内限) 第543号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072079000 
  4. ^ a b 昭和16年8月20日付 海軍辞令公報 (部内限) 第695号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072081800 
  5. ^ 昭和17年7月2日付 海軍辞令公報 (部内限) 第893号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072086200 
  6. ^ 昭和17年7月13日付 海軍辞令公報 (部内限) 第898号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072086200 
  7. ^ 昭和18年11月5日付 海軍辞令公報 (部内限) 第1256号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072094200 
  8. ^ 昭和18年11月10日付 海軍辞令公報 (部内限) 第1257号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072094300 
  9. ^ 昭和19年10月1日付 海軍大臣官房 官房人機密第1805号。
  10. ^ a b 昭和19年10月13日付 秘海軍辞令公報 甲 第1618号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072101500 
  11. ^ a b 昭和20年1月17日付 秘海軍辞令公報 甲 第1695号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072103000 
  12. ^ 昭和20年8月27日付 秘海軍辞令公報 甲 第1897号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072107000 

参考資料

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関連項目

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