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秋月橘門

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水筑竜から転送)
 
水筑大可
時代 江戸時代後期、明治時代
生誕 文化6年(1809年
死没 明治13年(1880年4月26日
改名 水筑周一、青木周馬、水筑大可、水筑竜、秋月橘門
別名 通称:小相、諱:之竜、字:伯起、号:大可、得生軒、桜水、牛門等[1]
主君 内藤政義毛利高泰毛利高謙
延岡藩佐伯藩
氏族 秋月氏支流水筑氏
父母 水筑逍遥
兄弟 寛、時、則
秋月新太郎
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秋月 橘門(あきづき きつもん)は江戸時代後期の儒学者、医者、明治時代の地方官。広瀬淡窓儒学難波抱節に医学を学び、延岡藩医を経て佐伯藩四教堂教授。維新後、鎮守府[要曖昧さ回避]弁事、葛飾県知県事

生涯

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儒学修学

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文化6年(1809年)、日向国諸県郡本庄村(宮崎県東諸県郡国富町)に医者水筑逍遥の二男として生まれた[2]

文政7年(1824年)4月2日荒木平八を介して日田咸宜園に入門し、広瀬淡窓に学んだ[3]文政11年(1828年)11月22日、日田代官塩谷正義に秘書役の誘いを受けたが、自分が学問をするのは人のためではないとしてこれを断り、貧困のため僧侶の格好をして托鉢したため、代官の怒りを買い、日田を追放された[1]佐伯の同門中島子玉宅に身を寄せ、天保2年(1831年)青木周馬と変名して筑前国亀井昭陽の門に入った[4]

医学修学

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天保元年(1830年)島原藩で私塾を開いたが、天保2年(1831年)5月下旬帰郷した[2]。天保3年(1832年)島原に戻ったが、天保4年(1833年)再び帰郷、天保4年(1833年)備前国に移り、難波抱節古医方派内科、華岡流外科、賀川流産科を学んだ[2]

天保7年(1836年)江戸京都大坂を巡り、高松多度津経由で帰郷し、天保8年(1837年)本庄で結婚、開業した[2]

佐伯藩

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天保14年(1843年)延岡藩産物奉行赤坂四郎太夫、筆頭侍医早川図書の推挙で町医として招聘され[2]延岡城下博労町に住んだが[1]佐伯藩の黒田慎吾、高妻芳洲に招かれ[4]、2月10日家禄を受けたまま佐伯に出張した[1]。天保15年(1844年)家老上田但馬に薬草収集の話を持ちかけられると、8月12日島原時代以来親交があった賀来飛霞に手紙を書き、延岡に呼んでこれを任せた[1]

弘化2年(1845年)7月8日佐伯藩藩校四教堂教授となり、弘化3年(1846年)2月25日帰郷して両親と姉を佐伯に呼んだ[2]。弘化4年(1847年)5月28日給人格となり、嘉永6年(1853年)書物奉行を兼任した[2]。嘉永6年(1853年)、江戸幕府黒船来航の対応について諸藩に意見を求めた際には、長崎に回送させ、石炭のみ交易を許すべきと上申している[5]文久3年(1863年)4月4日毛利高謙侍講となった[2]

佐伯藩で反射炉建設が計画されると、宇佐郡佐田で反射炉を手掛けた飛霞に協力を求め、賀来惟舒を呼び寄せた[6]明治元年(1868年)4月長州に派遣され、5月1日給人本格、5月19日弁事局諸侯掛[2]

上京

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明治元年(1868年)7月20日新政府に徴士として三河知県事に任命されるも[7]、9月19日京都で待機中[5]鎮守府[要曖昧さ回避]出仕を命じられ[8]、12月19日下総県知県事[5]。明治3年(1870年)、郡代町奉行として地方行政に通じていた矢野光儀を後任に呼び、1月12日辞職し[5]、2月帰藩した[2]

晩年は牛込神楽町一丁目3番地(現東京理科大学内)に退隠し、明治4年(1871年)頃俎橋玉川亭で咸宜園出身者等と玉川吟社を結び、毎月16日に漢詩を応酬した[9]

明治13年(1880年)4月26日死去した。明治18年(1885年)2月旧弟により養賢寺松雨台に石碑が建てられ、本堂横墓地、寺境内に移された[3]

著書

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親族

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先祖は高鍋藩秋月氏の分家として秋月家に仕えたが、高祖父水筑西信が讒言で追放され、野に下った。

  • 父:水筑逍遥
  • 母:湯地氏[3]
  • 兄:寛 - 2歳で没[3]
  • 弟:時[3]
  • 弟:則 - 17歳で病没[3]
  • 姉妹:長 - 緒方氏に嫁ぐ[3]
  • 姉妹:父に従って侍養[3]
  • 長男:秋月新太郎 - 官僚、貴族院議員。

脚注

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  1. ^ a b c d e f 柳(1990)
  2. ^ a b c d e f g h i j 山本等(2005) p.278-283
  3. ^ a b c d e f g h i 石川(1983) p.109-113
  4. ^ a b 若山(1934) p.255-256
  5. ^ a b c d 小野等(2001)
  6. ^ 大隈(1976) p.13-14
  7. ^ 水筑竜ヲ徴士三河知県事ニ任ス (PDF) - 国立公文書館デジタルアーカイブ
  8. ^ 水筑竜ノ三河知県事ヲ罷メ鎮将府出仕ヲ命ス (PDF) - 国立公文書館デジタルアーカイブ
  9. ^ 秋月橘門と牛込神楽坂
  10. ^ 梶(1964) p.198

参考文献

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  • 石井正雄「日高耳水一族と秋月橘門」『宮崎県地方史研究紀要』第7輯、宮崎県立図書館、1983年
  • 大隈米陽「秋月橘門と賀来飛霞 : 豊後佐伯藩に於ける佐田式大砲の鋳造について」『佐伯史談』第104号、佐伯史談会、1976年1月、11-14頁、NAID 120003558459 
  • 山本郁男, 岩井勝正, 井本真澄, 宇佐見則行「日向薬(くすり)事始め (その1) : 秋月橘門(あきづききつもん)とその業績」『九州保健福祉大学研究紀要』第6号、九州保健福祉大学、2005年3月、277-285頁、doi:10.15069/00000606ISSN 1345-5451NAID 110004633176 
  • 梶完次稿、藤井尚久校補「明治前日本産婦人科史」『明治前日本医学史』第4巻、日本学術振興会、1964年
  • 小野将・杉本史子・箱石大・保谷徹宮地正人・横山伊徳「大分県下幕末維新期史料の調査」『東京大学史料編纂所報』第36号、2001年
  • 柳宏吉「秋月橘門」『柳宏吉著作集』第2巻、鉱脈社、1990年(初出:宮崎日日新聞「再発見・ふるさとの跡」1968年12月3日-5日)
  • 若山甲蔵「賀来飛霞先生の日向採薬記」『日向文献史料』日向文献資料発行会、1934年