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柴田勝敏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

柴田 勝敏(しばた かつとし、永禄11年(1568年[1] - 天正11年5月12日1583年7月1日[1])は、安土桃山時代武将柴田勝家の養子とも実子ともされる人物で、通称は権六。勝家の嫡子(家督継承予定者)であったという見方もある。諱については勝久(かつひさ)ともされる[1]

記録と生涯

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江戸時代に旗本柴田家[注釈 1]から提出された家譜に基づいて編纂された『寛永諸家系図伝』(以下『寛永譜』)および『寛政重修諸家譜』(以下『寛政譜』)によれば勝家の養子(実父は不明)で、通称「権六」(諱は不明)として兄弟の先頭[注釈 2]に掲載されている[2][3]。『寛政譜』編纂時に提出された家譜では、幼名が「於国丸」、通称が「権六郎」で、「勝敏」[注釈 3]とも名乗ったという[3]

養子説では、母は勝家の妹とされる[1]。実子とする見解もある[注釈 4]。後述の通り天正11年(1583年)に16歳で没したとするならば、永禄11年(1568年)生まれとなる。天正9年(1581年)に北ノ庄を訪問したルイス・フロイスが、人々が「勝家を上様と称し、勝家の子を殿様と呼んでいる」と伝えている[5]が、和田裕弘はこの勝家の子を「権六」のこととしている[6]

滝川一益の娘が妻になったとされる[6][7][注釈 5]。和田裕弘は、フロイスの書簡に「信長の娘が勝家の嫡子に嫁いだ」とあるのは、滝川一益の娘が信長の養女となったのであろうとする[6]

賤ヶ岳の戦いでは、突出した佐久間盛政を説得するために勝家から派遣された[1]。その後、秀吉軍の攻撃を受けて捕らえられたという[1]

天正11年(1583年)5月12日に斬られ、16歳で没したという[1]。『寛政譜』では、16歳で京都において自殺とあるが、時期の記載はない[3]

子孫

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立花宗茂に仕えた柴田勝春(柴田善右衛門、中務)は柴田勝家の縁者とされており、『旧柳川藩史』では勝春は勝敏の子であるとする[8]

ただし柳川藩士となった柴田家によれば善右衛門勝春は勝家の実子であるといい、落城時に乳母に抱かれて筑後国に落ち延びたという[9]。著名な勝家の肖像画(紙本著色柴田勝家像)は柳川柴田家に伝わっていたもので、北ノ庄籠城中に描かれた姿と伝承されている[9]。「柴田善右衛門」という人物が慶長5年(1600年)の江上合戦小野鎮幸の与力として出陣し戦死したことは一次史料で確認される[10]

脚注

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注釈

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  1. ^ 柴田勝政の子である柴田勝重の子孫。
  2. ^ 『寛永譜』では柴田権六・柴田勝政・柴田勝豊(いずれも養子)の順で配列されており、『寛政譜』では末尾に養女(中村文荷斎の娘、高城胤則室)が加わる。
  3. ^ 大正期の活字本(国民図書版)では「勝俊」になっているが、『新訂寛政重修諸家譜』で「勝敏」と校訂されている。
  4. ^ 和田裕弘『織田信長の家臣団―派閥と人間関係』(中公新書)では、「柴田権六」を実子としている。ほかに、庶子の柴田勝里(庄左衛門・茂左衛門。典拠は『士林泝洄』)、塙直政室(のち原元次室)を実子として記しており、家臣を手討ちにしようとして殺された「庄之助」(権六の兄)、勝家没時に幼少であった「作次郎」が引用・伝聞表現(「~という」)で触れられ、ほかに勝家の子が落ち延びたという「伝説の家系」があることを挙げている[4]菊池浩之は『織田信長家臣団の謎』掲載の「柴田家系図」に、柴田勝家の実子として、勝敏および塙直政室(のち原元次室)を図示している。
  5. ^ 和田裕弘は典拠に『滝川系図』『池田氏家譜集成』を挙げ、一益の娘の名を「於伊地」としている[6]

出典

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  1. ^ a b c d e f g h 柴田勝久”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 2021年9月1日閲覧。
  2. ^ a b 『寛永諸家系図伝』五(八木書店、1982年)p.176
  3. ^ a b c d 『寛政重修諸家譜』巻第三百七十二、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.1104、『新訂寛政重修諸家譜 第六』p.316
  4. ^ 和田裕弘 2017, kindle版位置No.3025/5031.
  5. ^ a b 越前の国割”. 『福井県史』通史編2. 2021年9月1日閲覧。
  6. ^ a b c d 和田裕弘 2017, kindle版位置No.3004/5031.
  7. ^ 菊地浩之『織田信長家臣団の謎』(角川選書)、kindle版位置No.2891
  8. ^ 『旧柳川藩史』P.932
  9. ^ a b 足立尚計 1993, p. 17.
  10. ^ 足立尚計 1993, p. 18.

参考文献

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関連項目

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