林聖子
はやし せいこ 林 聖子 | |
---|---|
『風紋五十年』出版記念パーティーでの林聖子 | |
生誕 |
1928年3月16日 日本 東京府豊多摩郡代々幡町(現:東京都渋谷区)笹塚 |
死没 |
2022年2月23日(93歳没) 日本 東京都 |
死因 | 老衰 |
親 | 林倭衛(父)秋田富子(母) |
家族 | 1929年生まれの異母兄弟・ジョルジュ |
林 聖子(はやし せいこ、1928年〈昭和3年〉3月16日 - 2022年〈令和4年〉2月23日)は、日本の飲食店経営者。文壇バー「風紋」の元マダム。
来歴
[編集]東京・笹塚[1]に生まれる。太宰治の小説『メリイクリスマス』のモデルとなる。生前の太宰治に会ったことがある数少ない証言者である。聖子が太宰治と始めて会ったのは、1941年(昭和16年)の夏、高円寺[2]。
戦後、新潮社、筑摩書房勤務、舞台芸術学院、劇団青俳所属を経て、1961年(昭和36年)、新宿に「風紋」を開店。 2018年(平成30年)6月28日閉店。閉店した風紋の所在地は、東京都新宿区新宿5丁目[3][4]。
2022年(令和4年)2月23日、老衰のため死去[5][6]。93歳没。
人物
[編集]洋画家の林倭衛の娘として生まれた。倭衛は1921年(大正10年)にパリに旅立ち、文化人がたむろするモンパルナスの一角に住み、刺激的な日々を送っていた。1923年(大正12年)の夏にイヴォンヌと出会い、『婦人の肖像』を描く。その女性と恋に落ち、聖子にとっての異母弟・ジョルジュが1929年(昭和4年)に生まれるが、その子を置いて日本に帰国する[1]。
しばらくは一家三人で小石川武島町に住むが、聖子の母・秋田富子(1909年(明治42年) - 1948年(昭和23年)12月23日)[7]が肺湿潤に侵されて入院したため、1931年(昭和6年)、伊豆の静浦に移り住む[1]。その後、点々とした後、倭衛は朝鮮にスケッチ旅行に行こうと向かった博多で、芸者の高橋操と恋愛関係になり、聖子の異母妹・葉子と異母弟・木平(もくべえ)が生まれる[8]。
母・富子は、太宰治の三鷹時代に深く親交する。太宰の『水仙』や遺作となった『グッド・バイ』などのモデルとなった。若い時分から体を壊し、腎臓結核や脊椎カリエスにも罹患し[9]、耳が不自由となる。『水仙』の文中にある「雨の音も、風の音も、私にはなんにも聞えませぬ。サイレントの映画のようで、おそろしいくらい、淋しい夕暮です。」は、富子が太宰治に宛てた手紙の一部がそのまま使われている。また、『グッド・バイ』では富子をモデルとした「かつぎ屋」が登場している[10]。聖子も『メリイクリスマス』の中でモデルとなっている。
著書
[編集]- 『風紋五十年』パブリック・ブレイン、2012年、ISBN 978-4-434-16699-0。
脚注
[編集]- ^ a b c 『東京人』2018年7月、117頁。
- ^ 『東京人』2018年9月、126頁。
- ^ “文壇バー「風紋」閉店のお知らせ”. パブリック・ブレイン. 2019年10月15日閲覧。
- ^ "名物ママは太宰治が描いた少女 文壇バー、また一つ終幕". 朝日新聞デジタル. 14 June 2018. 2019年10月15日閲覧。
- ^ “林聖子さん死去 文壇バー元店主”. 日本経済新聞. (2022年2月25日) 2022年2月25日閲覧。
- ^ “林聖子さん死去 文壇バー「風紋」経営、太宰治と親交 93歳”. 毎日新聞社. (2022年2月25日) 2022年2月26日閲覧。
- ^ 『東京人』2018年6月、120頁。
- ^ 『東京人』2018年8月、116-123頁。
- ^ 『東京人』2018年9月、119頁。
- ^ 『東京人』2018年7月、24-26頁。
参考文献
[編集]- 林 聖子『風紋五十年』パブリック・ブレイン、2012年。ISBN 978-4-434-16699-0。
- “文壇バー「風紋」閉店のお知らせ”. 2018年6月3日閲覧。
- "名物ママは太宰治が描いた少女 文壇バー、また一つ終幕". 朝日新聞. 14 June 2018.