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房州うちわ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
房州うちわ

房州うちわ(ぼうしゅううちわ)は、千葉県南房総市館山市特産のうちわ。千葉県の伝統工芸の一つ。京うちわ京都府京都市)、丸亀うちわ香川県丸亀市とその周辺地域)と並ぶ日本三大うちわの一つである。

特徴

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  • 地域に自生する女竹(細い篠竹)を原料に用い、先端を48~64等分に細く割いた骨[1]と一体となった丸柄を特徴[注釈 1]とする。
  • 全ての製作工程が手作業による。工程数が21と多いため、工程ごとに分業して製作する。
  • 千葉県指定伝統的工芸品である。
  • 経済産業大臣指定伝統的工芸品(千葉県では唯一の指定)である。平成15年に指定された。

歴史

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江戸時代関東でうちわが生産されるようになる。女竹が自生しする房総地方は、うちわに適した竹材の産地として知られ、江戸時代から竹材の出荷が行われていた[2][3]江戸への積出港としては、那古港(現在の館山市那古)が使われていた。

1877年明治10年)頃から那古港周辺で、うちわの骨づくりがはじまった。房州うちわ振興協会は、『地方資料小鑑』(1911年(明治44年)千葉県刊行)における、1877年(明治10年)に那古町でうちわ生産が始まり近隣に広まった、という記述を紹介している[3]。『房総町村と人物』(1918年(大正7年)刊行)によれば、1884年(明治17年)に那古の岩城惣五郎(竹材の出荷を行っていた岩城庄七の子)が東京からうちわ職人を招き、うちわ骨の生産を始めたのが房州うちわの起源であるとする[4][3]。ただし、当初は当地で生産したのはうちわ骨だけであり、東京で「江戸うちわ」として仕上げていた[4]

当地でのうちわ生産については、1887年(明治20年)頃[注釈 2]から那古の忍足信太郎が竹を加工した半製品(割ぎ竹[5])を出荷するようになったことや[2]、1907年(明治30年)に岩城庄七が本格的な割ぎ竹の加工・出荷を始めたこと[2][5]を、その始まりとして位置づける叙述もある。

1923年(大正12年)の関東大震災により、東京のうちわ生産は大きな打撃を受けた[4]。東京のうちわ問屋が那古港に近い船形地区(現在の館山市船形)へ移住し、房州でのうちわ生産が本格化した[1](東京のうちわ問屋・横山寅吉は、震災前の1921年(大正10年)に船形町に移転し[5][注釈 3]、うちわ骨から完成品まで生産する一貫生産を開始していた[4][2]という)。震災後には、県による産業育成指導もあり、町を挙げてのうちわ生産も行われるようになった[5]。これが「房州うちわ」としてのブランド確立に至った[4][2]。那古・船形・富浦といった漁師町では、うちわづくりが女性の内職として歓迎された[5][3]。最盛期には年産800万本に達したという[1]

1984年昭和59年)、千葉県指定伝統的工芸品に認定された。

2003年平成15年)、経済産業大臣指定伝統的工芸品に認定された[6]

脚注

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注釈

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  1. ^ 京うちわは骨に木製の柄を別個に取り付ける。丸亀うちわは平たく削った男竹(真竹)を用いる。
  2. ^ 1890年(明治23年)と年代を特定する記述もある[5]
  3. ^ 移転の時期を震災後とする叙述もある[2]

出典

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  1. ^ a b c (モノごころヒト語り)うちわ/装い・広告…多様な役目『日本経済新聞』夕刊2017年7月8日
  2. ^ a b c d e f 門前のまちと港のまち -那古・船形- (10) 房州うちわ生産地(那古・船形地区)”. たてやまフィールドミュージアム. 館山市立博物館. 2018年12月5日閲覧。
  3. ^ a b c d 房州うちわの歴史”. 房州うちわ振興協会. 2018年12月5日閲覧。
  4. ^ a b c d e 22.房州うちわ今昔”. 千葉県教育委員会. 2018年12月5日閲覧。
  5. ^ a b c d e f 伝統工芸としての房州うちわ”. 館山市. 2018年12月5日閲覧。
  6. ^ “房州うちわ 国の伝統的工芸品に指定”. 房日新聞社. (2003年3月18日) 

関連項目

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外部リンク

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