コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

徐悲鴻

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
徐悲鴻
生誕 徐寿康
(1895-07-19) 1895年7月19日光緒二十一年乙未夏月廿七)
清の旗 無錫宜興県屺亭橋鎮
死没 1953年9月26日(1953-09-26)(58歳没)
中華人民共和国の旗 中華人民共和国北京市
国籍 中華人民共和国の旗 中華人民共和国
著名な実績 油画水墨画
代表作 《九方皋》、《愚公移山》、《奔马图》
運動・動向 写実主義写意中国語版
配偶者

元配:未公開
後妻:

蔣碧微中国語版
(結婚 1919年、死別 1945年)

後妻:
廖靜文中国語版
(結婚 1946年、s 1953年)
(情婦轉正)
伴侶:孙韵君中国語版
テンプレートを表示

徐 悲鴻(じょ ひこう、中国語:徐悲鸿、1895年7月19日 - 1953年9月26日)とは、中国の画家である[1]

経歴

[編集]

1916年に復旦大学法文系に入学。1917年に日本に留学。1919-1927年、国費留学生としてフランスのパリ国立高等美術学校へ留学し、西洋の絵画を学び、その後は2年間ドイツで、そのほかのヨーロッパ各国へも修業に赴き、その中にはベルリン美術学院院長のカンボフの下にいた[2][1]。1927年に中国へ帰国後、上海南国芸術学院や北京芸術学院、重慶の中央大学芸術学部の教授となり芸術の教育を行った[2]。1946年、北平芸術専門学校中国語版(北平は、北京の旧名)の校長となった[2]。1949年7月、中華全国美術工作者協会中国語版主席に選ばれた[2]。設立間もない中華人民共和国国旗国章国歌の制定に関わった[2]。1950年、中央美術学院の初代院長に就任[2]

1953年9月26日、脳溢血により死去[2]

作品

[編集]

関連する建物

[編集]
  • 徐悲鴻記念館中国語版 - 一周忌に開設された[2]。元は北京にあった徐悲鴻の住居であったが、老朽化などにより幾度も再建されている。

出典

[編集]
  1. ^ a b 徐悲鴻https://kotobank.jp/word/%E5%BE%90%E6%82%B2%E9%B4%BB 
  2. ^ a b c d e f g h 『人民中国』中国絵画の改革を推進 徐悲鴻”. www.peoplechina.com.cn. 2023年10月24日閲覧。

関連項目

[編集]