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島田喜蔵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
嶋田喜蔵から転送)
島田 喜蔵
教会 カトリック教会
聖職
司祭叙階 1886年3月17日
個人情報
別名 トマス(洗礼名)
出生

1856年3月15日
肥前国 五島列島中通島江袋

(現・長崎県南松浦郡新上五島町
死去 1948年3月27日
日本の旗 日本 長崎県長崎市
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島田 喜蔵(しまだ きぞう、旧字体島田 喜藏1856年安政3年)3月15日 - 1948年(昭和23年)3月27日)は日本カトリック教会司祭洗礼名は「トマス」。キリスト教禁教令下の江戸時代五島列島隠れキリシタンとして生まれ、司祭叙階後は九州各地のカトリック教会で布教にあたった。

生涯

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島田は、迫害を逃れて大村藩から五島列島に移住した隠れキリシタン一家の末子として中通島北魚目村の江袋(現在の長崎県南松浦郡新上五島町)で生を受け、父・文作、母・自勢(ジセ)のもと、特に母から厳しい教育によりキリシタンとして育てられた[1]

1867年慶応3年)頃、五島にカトリックの司祭が来ているという話が江袋のキリシタンたちにも伝わり、密かにクーザン司祭に会いに行って、島田も母に連れられて初めてミサにあずかった。その後、江袋のキリシタンたちは相次いでカトリックの洗礼を受け、彼も姉・千代のあとを追って長崎で受洗した[注釈 1]。家族全員が受洗し、母は偽装のために使用した神棚を破壊した。このことが世間に知れ渡り迫害を受けたが、島田は母の助けにより難を逃れた[注釈 2]。母から「神父(司祭)になるように」と言われた島田は、長崎の大浦天主堂横の司祭館に身を寄せて司祭になる勉強を始め、1868年(慶応4年)開始の キリシタン検挙による迫害から久賀島のキリシタン古老宅への逃避を経て、再び大浦天主堂に避難。1869年明治2年)、ドイツ汽船で香港に向かった[注釈 3]。途中、髷を切り落とし神学生としての生活を送り、1870年(明治3年)12月、プティジャン司教がローマから帰日する際に同行し横浜に着いた[2]

1873年(明治6年)に禁教令が解かれ、島田をはじめ日本人神学生は本格的に東京麹町の堀端三番町、さらに神田猿楽町に移った神学校で神学を修め、島田は、1875年(明治8年)、長崎の大浦神学校に移る。1887年(明治20年)3月17日に司祭に叙階された。五島出身者では初めての司祭であった。故郷の江袋教会で初ミサを挙げ[注釈 4]、その後は大分高田臼杵などへ布教して教会を開設した。1890年(明治23年)より鹿児島布教[注釈 5][注釈 6][注釈 7]1896年(明治29年)より高島小教区司牧[注釈 8]1899年(明治32年)より久留米地区に布教。1902年(明治35年)より五島の奈留島小教区司牧。1919年大正8年)より五島の久賀島永里小教区司牧。1928年昭和3年)五島の玉の浦井持小教区司牧。1936年(昭和11年)より長崎県大島太田尾小教区司牧。1939年(昭和14年)より大浦天主堂にて静養。1944年(昭和19年)より五島の鯛ノ浦教会司牧。1948年(昭和23年)、最後の司牧地である鯛ノ浦教会で死去、同地に埋葬された[注釈 9][3]

脚注

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注釈

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  1. ^ 大浦天主堂のポアリエ神父による。『人物による日本カトリック教会史』池田敏雄著、中央出版社、1968年、p.170
  2. ^ 長崎本原の高木仙右衛門宅に身を寄せた。高木宅には聖ヨゼフ堂なる秘密礼拝堂があり、大浦天主堂ローカニュ神父がときどき密かに訪れてミサを挙げていた。『人物による日本カトリック教会史』池田敏雄著、中央出版社、1968年、p.170
  3. ^ 香港の神学校ではチョンマゲを切り、かんかん帽をかぶり、中国人に変装した。『人物による日本カトリック教会史』池田敏雄著、中央出版社、1968年、p.171
  4. ^ 江袋は上五島。その後、下五島の水の浦の天主堂、中五島の大平天主堂でもミサを挙げた。『隠れキリシタンから司祭に―トマス島田喜蔵神父の生涯』中田秀和著、中央出版社、1981年、p.86
  5. ^ 鹿児島における布教開始時期を評して、池田敏雄は「西南戦争後の混乱状態にあった」と説く。『人物による日本カトリック教会史』池田敏雄著、中央出版社、1968年、p.170
  6. ^ プロテスタント信者や漢学者と教義に関する問答を行った。また、浪人たちが教会におしかけてくることがあったが島田は怯まなかった。『隠れキリシタンから司祭に―トマス島田喜蔵神父の生涯』中田秀和著、中央出版社、1981年、pp.111-117、pp.120-123
  7. ^ 1891年(明治24年)、鹿児島市山下町(現在の照国町)の槍術指南梅田九右衛門屋敷跡を教会用地として購入。のちに聖フランシスコ・ザベリオ聖堂敷地、さらに現在の鹿児島カテドラルザビエル教会敷地となる。『聖堂再生』松山ちあき編、NPO法人文化財保存工学研究室、2007年、p.27
  8. ^ 高島の教会を本拠に、神の島、伊王島、蔭の尾等を巡回。『隠れキリシタンから司祭に―トマス島田喜蔵神父の生涯』中田秀和著、中央出版社、1981年、p.136
  9. ^ 安政時代から第二次世界大戦後まで生き延びて「百歳神父」とも呼ばれた。『人物による日本カトリック教会史』池田敏雄著、中央出版社、1968年、p.170

出典

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  1. ^ 『人物による日本カトリック教会史』池田敏雄著、中央出版社、1968年、p.170
  2. ^ 『人物による日本カトリック教会史』池田敏雄著、中央出版社、1968年、p.171
  3. ^ 島田神父年表:『隠れキリシタンから司祭に―トマス島田喜蔵神父の生涯』中田秀和著、中央出版社、1981年、p.164

参考文献

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関連項目

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