山内政豊
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時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 慶長3年(1598年) |
死没 | 寛永6年4月8日(1629年5月30日) |
改名 | 吉兵衛(幼名)→政豊 |
別名 | 良豊 |
戒名 | 玉照院殿前武衛浄林叢大居士 |
墓所 | 高知県中村市の妙因寺 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川秀忠、家光 |
藩 | 土佐中村藩主 |
氏族 | 山内氏 |
父母 | 父:山内康豊、母:水野氏娘 |
兄弟 | 与祢(津田平八郎室→稲葉正成継々室)、忠義、慈教院(松下方綱室→西園寺公益室)、政豊、深尾重昌、一唯、郷(山内吉佐室) |
山内 政豊(やまうち まさとよ)は、江戸時代前期の大名。土佐国土佐中村藩の第2代藩主。
略歴
[編集]慶長3年(1598年)、山内康豊の次男として遠江国掛川にて誕生した。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、伯父・山内一豊が徳川家に味方したため政豊が人質となり、身柄は徳川家の重臣である大久保忠隣に預けられた。慶長19年(1614年)の大坂の陣では兄・忠義に従って出陣する。
生来病弱だったため、慶長14年(1609年)には疱瘡にかかっており、寛永6年(1629年)4月8日、嗣子無く32歳で死去し、土佐中村藩は断絶した。