天野良太郎
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天野 良太郎(あまの りょうたろう、1864年7月19日(元治元年6月16日) - 没年不明)は、日本の医師。専門は内科[1]。広島市医師会会長[1]。族籍は広島県平民[2]。
人物
[編集]広島県・天野環の長男[2]。本籍・広島市西魚屋町[3][注 1]。広島藩校の流れをくむ私立浅野学校(現:修道中学校・高等学校)に学び[5]、のちに医を志して上京し東京医科大学別課を1887年5月に卒業した[1]。広島甲種医学校教諭に任じられ広島病院司療医を兼任した[1]。1889年、尾道病院長に栄転し5年余在職し[1]、監獄医を兼ねた[3]。
1894年、家督を相続した[2]。同年広島市西魚屋町で医院を開業した[1]。天野医院長として名声を馳せたという[2]。広島市医師会長を務めた。『広島県紳士名鑑』では「性謹直、才気溌剌であり英智群れを抜いていた」と評価されている[1]。処世の信条は、至誠一貫[3]。趣味は読書[3]。
家族・親族
[編集]- 天野家
- 父・環[2]
- 妹
- 弟・進作(1883年 - ?、医師[2][6]、天野精神病院長[2]、宗教は真宗[6]、分家[2])
- 男・勲[2](1890年 - ?、医師、医学博士[3][7]、大阪医科大学卒業[2]、市立衛生試験所長、舟入病院、畑賀病院各院長[3][6])
- 二男・顕二[1][8](1898年 - ?、1924年に明治大学商学部卒業[8]、高田商会員[8])
- 孫[6]
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f g h 『広島県紳士名鑑』163頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2017年10月13日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『人事興信録 第7版』あ77-78頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2017年10月13日閲覧。
- ^ a b c d e f 『広島県紳士録 昭和8年版』75 - 76頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2017年10月13日閲覧。
- ^ 廃止町名と現在の町の区域、広島市公式サイト。
- ^ 富士川英郎編『富士川游著作集第10巻「天野良太郎君」』思文閣出版1982年
- ^ a b c d 『大衆人事録 第12版 近畿・中国・四国・九州篇』広島2頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2017年10月21日閲覧。
- ^ 『学位大系博士氏名録 昭和10年版』100頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2017年10月13日閲覧。
- ^ a b c 『明治大学校友会会員名簿 大正13年7月』467頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2017年10月13日閲覧。
参考文献
[編集]- 『広島県紳士名鑑』国民教育普及社、1917年。
- 『明治大学校友会会員名簿 大正13年7月』明治大学校友会本部、1924-1925年。
- 人事興信所編『人事興信録 第7版』人事興信所、1925年。
- 大日本博士録編輯部編『学位大系博士氏名録 昭和10年版』発展社出版部、1931-1935年。
- 『広島県紳士録 昭和8年版』西日本興信所、1933年。
- 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第12版 近畿・中国・四国・九州篇』帝国秘密探偵社ほか、1938年。