大宮時元
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大宮 時元(おおみや ときもと、生年不詳 - 永正17年〈1520年〉)は、戦国時代の官人。初名は頼敏。出雲国人・佐波元連の子。治部卿・大宮長興の養子。官位は正四位下・左大史。
経歴
[編集]出雲国人・佐波元連の子であったが、大宮官務家の大宮長興の子息である大宮寔包が早世したためか[1]、時元は長興の養子となった。
文明9年(1477年)従五位下に叙爵。文明12年(1480年)大蔵少輔に任ぜられた際、頼敏から時元に改名する。のち、文明18年(1486年)従五位上、延徳3年(1491年)正五位下、明応3年(1494年)正月に正五位上と昇進し、同年12月に養父の長興の後押しを受けて、壬生官務家の壬生雅久に代わって官務となった。
その後は、官務を務めながら、明応5年(1496年)従四位下、永正13年(1516年)正四位下と昇進、明応10年(1501年)には算博士を兼ねる。明応8年(1499年)に養父の長興が没したのちも、壬生家を抑えて20年以上の長きに亘って官務の地位を守った。
永正17年(1520年)卒去。官務の地位は壬生家の壬生于恒が継いだ。
官歴
[編集]『歴名土代』による。
- 文明9年(1477年) 9月5日:従五位下
- 文明12年(1480年) 3月29日:大蔵少輔、頼敏から時元に改名
- 文明18年(1486年) 4月21日:従五位上
- 延徳3年(1491年) 7月2日:正五位下
- 明応3年(1494年) 正月6日:正五位上。12月:官務
- 明応5年(1496年) 12月30日:従四位下
- 明応10年(1501年) 正月20日:兼算博士
- 永正10年(1513年) 正月8日:従四位上
- 永正13年(1516年) 12月19日:正四位下
- 永正17年(1520年) 日付不詳:卒去
系譜
[編集]『系図纂要』による。
脚注
[編集]- ^ 文正2年(1467年)従五位上に叙せられて以降の叙位任官記録なし(『歴名土代』)
参考文献
[編集]- 湯川敏治編『歴名土代』続群書類従完成会、1996年