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利用者:Haydar/下書き2

※練習用(イルハン朝用下書き)

  • いわゆるタラス会盟でジョチ家やバラク麾下のチャガタイ家がカイドゥを、「クビライに対抗するモンゴル皇帝(カアン、大ハーン)に推戴した」、などという事実は資料的根拠からして全く無い俗説のたぐいなので、これは明確に訂正しておくべき。

初期のイルハン朝

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アイン・ジャールートの戦い

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フレグはシリアから引きかえした時、シリアには遠征軍の前衛軍司令キト・ブカ麾下の1万2000騎を駐留させ、マムルーク朝側に降服勧告を行っている(マムルーク朝の歴史家ヌワイリーはキト・ブカの発令としている)。キト・ブカは残留モンゴル軍を用いダマスクス以南の地域を劫略を続けていたようだが、1260年9月3日にカイロから北上して来たマムルーク朝スルターンクトゥズマムルーク軍団の長バイバルスが率いるムスリム(イスラム教徒)の軍にアイン・ジャールートの戦いで敗れてダマスクスを奪取された。この敗北によってバールベックハマー、そしてついにはアレッポといった主要諸都市が離反し、シリア北部に駐留していたフレグの幕僚イルゲイ・ノヤンなどは小アルメニア王国ルーム・セルジューク朝が領有していたアナトリア南部まで撤退せざるを得ず、フレグ遠征軍はシリア地方を完全に喪失した。以来マムルーク朝とは対立関係が続きシリア北部は両王朝が互いに争奪を繰り返す事になる。また、なし崩し的に西アジア地域を占拠して自立したため、隣接するジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)とは同じモンゴル帝国内の政権ながらホラズムアゼルバイジャンチャガタイ・ウルスとはマーワラーアンナフルの支配権を巡って対立することになる。

ジョチ・ウルスとの戦い

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『集史』によるとアイン・ジャールートの戦いの直後に、遠征軍に参加していたジョチ家の王族バラカンが急死し、これを毒殺と疑った親族トタルがフレグを呪詛したという罪で処刑されるという事件が起きた。このためジョチ・ウルスの当主となっていたベルケは激怒してトタルの従兄弟ノガイを3万騎とともにアゼルバイジャン地方へ派遣して1262年12月にフレグはこれを迎え撃って激しい戦闘になった。フレグらは一時ノガイの諸軍を撃破しテレク川以北へ駆逐したが、フレグ軍が戦勝の宴会中にノガイの逆襲にあい、フレグはタブリーズへ撤退すると言う惨敗を喫している。遠征軍中のジョチ家の諸軍はこの対立に四散を余儀無くされ、一部はマムルーク朝に亡命したりアフガニスタン方面の駐留軍に合流している。ジョチ・ウルスがマムルーク朝と友好を結んでイルハン朝挟撃の構えを見せたのはこのような状況に起因していた。この対立は次代のモンケ・テムルの治世まで続く。1264年7月アリクブケが投降し、翌8月クビライが改元して統一クリルタイの開催をフレグ、ベルケ、チャガタイ家の当主となったアルグに使節を送って呼び掛けた。フレグ、ベルケ両人はこの召集に応じたものの、フレグは翌1265年2月8日に没した。ベルケは、これを好機と見てカフカスを越境してアゼルバイジャンへ親征したが、クラ川渡河のためティフリスまで遡上したところで彼もまた没している。こうして一旦ジョチ・ウルスとの対立は膠着した。

チャガタイ家・バラクとの戦い

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1265年6月19日に葬礼と服喪の後にアバカはフレグの後を継いで即位したが、直後にノガイ軍の南進を受けたが、弟君ヨシムトを派遣するなどしてこれを撃退し、ベルケの親征もその死によってこの難局を凌ぐ事が出来た。しかし、今度は東方のチャガタイ家との紛争を迎えることになる。クビライの後援によってチャガタイ家の当主位を従兄弟のムバーラク・シャーから奪取したバラクであったが、クビライの支配を嫌って離反し、さらにオゴデイ家カイドゥともマーワラーアンナフルの領有を巡って対立していた。カイドゥはバラクを危険視し、ジョチ・ウルスの当主モンケ・テムルと和約を結びオルダ家の当主コニチ率いる5万騎を援助させることに成功して、これを牽制した。三者はタラスで会盟してマーワラーアンナフルの三分の二をバラクの管轄として合意したが、なおもバラクは領土を欲したため、アバカ率いるフレグ遠征軍を母体とするイルハン朝の統治下にあったホラーサーンを奪取する事で不足分を補うよう妥結した。バラク軍はヘラートまで進攻したものの、アバカもアゼルバイジャンから急行して迎撃に出て、またアバカと内応していたクルト朝のシャムスッディーン・クルトがヘラートの開城を拒否し、アバカ自身もヘラートに到着した直後敗走を偽りバラク軍を油断させた。こうして1270年7月21日、ヘラート南郊のカラスゥの野で両軍は会戦し、バラク軍は壊滅した。

クビライの勅許

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1270年11月6日にモンゴル皇帝クビライから使節が到着し、王冠と賜服、冊封を認める勅書がもたらされ、フレグからのイラン方面における支配権が追認され、改めて即位式が行われいている。また、同時にこのカラスゥの戦いの勝利によって、モンケ・テムル、カイドゥからも使節が祝賀に訪れジョチ・ウルスとの友好を回復させ、チャガタイ・オゴデイ両家とも不可侵協定を結んだ。これによってイルハン朝はモンゴル帝国のうちで正式な王家の所領としてモンゴル皇帝(大ハーン)の認可を得たことになる。


第5代大ハーン、クビライに対抗して、かえってクビライの大元ウルスとの深い友好関係を保った。さらに対抗してイルハン朝はビザンツ帝国と友好を結んでいた。イルハン朝がビザンツと結んだのには、フレグの母ソルカクタニ・ベキや、フレグの子で1265年に第2代ハンとなったアバカネストリウス派キリスト教徒で、キリスト教に対して親しみがあったためであるとも言われる。

イルハン朝は、フレグの征西のためにモンゴルの各王家に分与されていた全部族の千人隊から一定割り当てで召集された遊牧民と、モンゴル帝国の従来からのイラン駐屯軍の万人隊全体からなる寄せ集めの軍隊からなっていた。さらに、遠征軍がアムダリヤ川をにそのためイルハン朝の政権構造はモンゴル帝国全体のミニチュアと言っていい形をとっており、帝国本体全部族の在イラン分家の首領でもある将軍たちの力が入り混じり、さらに農耕地への行政を担う在地のペルシア人官僚の派閥争いもあって、複雑な権力関係にあった。ハンは本来フレグ家の直属部隊とは言えない各部族へと惜しみなく金品を分配し、部族をまとめる力を期待され、また部族にとって都合の良い者がハンの座に望まれたため、1282年のアバカの死後、将軍たちの対立抗争も背景としてたびたび激しい後継者争いが起こった。

その結果、国家財政の破綻、新世代のモンゴル武将たちのモンゴル政権構成員としての意識の喪失といった、ウルスそのものの崩壊の危機に見舞われるに至った。