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内堀保

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
内堀 保
1955年撮影
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 長崎県長崎市御船蔵町
生年月日 (1917-03-12) 1917年3月12日
没年月日 (1997-01-30) 1997年1月30日(79歳没)
身長
体重
170 cm
64 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手
プロ入り 1935年
初出場 1936年7月1日
最終出場 1951年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
  • 読売ジャイアンツ (1952 - 1957, 1959 - 1961)

内堀 保(うちぼり たもつ、1917年大正6年〉3月12日 - 1997年平成9年〉1月30日)は、長崎県長崎市御船蔵町出身[1]プロ野球選手捕手)・コーチ二軍監督スカウト

来歴

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長崎商業では、1933年春の甲子園に出場[1]1935年に捕手陣強化が課題であった大日本東京野球倶楽部から「アメリカに連れて行く」と口説かれ、学校卒業前に入団する[2]。学校側は入団を許可したものの、学業途中でNPBに入ったことから文部科学省から長崎商業に通達があり、内堀は卒業を取り消された。なお、1980年になって卒業が認められている[3]

1935年2月からの第一次アメリカ遠征に参加する。巨人入団当初は中山武の控え捕手であったが、中山の応召を受けて1937年に正捕手となる。沢村栄治ヴィクトル・スタルヒンらとバッテリーを組む一方[1]打撃でも秋季シーズンでは打率.264を打って打撃成績17位に入った。また、同年の東西対抗戦に選出されている。

1938年に応召し、1941年の一時的な復員を挟んで、北支ビルマを転戦する[1]ビルマ戦線では、内堀のあとの正捕手を継いだ吉原正喜と面会を果たし、戦後の巨人再建を誓い合ったという[4]

戦後、8年のブランクがあった上に戦地でを痛めていたが、1946年に巨人に復帰。捕手から投手コンバートした多田文久三の後釜として、1947年から2年間正捕手を務める。1949年からは急映フライヤーズから移籍入団した藤原鉄之助に正捕手を譲ってコーチ兼任となり[1]1951年に現役引退した。

1952年から二軍監督・コーチを歴任。1962年からスカウトとなり[1]、のちにスカウト部次長を経て、1984年まで務めるなど[1]、裏方として巨人を支えた[2]。スカウト就任後も巨人の宮崎キャンプユニフォームを着て参加し、「ONノック」の名ノッカーとして知られた[2]

1997年1月30日、死去。79歳没。1998年に現役時代のユニフォームが地元の長崎県に寄贈され、長崎県営野球場の資料展示室に展示されている[1]

逸話

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全盛期の沢村栄治の投球を受けた生き証人で、沢村の語り部としての発言が残っている。

  • 「沢村のカーブは三段階に亘って曲がり、ドスンと落ちる。しかも三段階目の時は、球が一瞬止まったものだ。」[5]
  • 「沢村は慰めて、おだてる。スタルヒンは怒鳴りつけて気合いを入れる。これが二人の大投手をリードするコツやった。」[3]

映画『不滅の熱球』では、千秋実が内堀を演じた。また、沢村栄治役の池部良には吹き替えなしで投げることを薦め、沢村の投げ方を一ヶ月半かけて教えた[6]

映画『エノケンのホームラン王』には多くの巨人軍選手と一緒に本人役で出演している。

詳細情報

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年度別打撃成績

[編集]
















































O
P
S
1936春夏 巨人 2 4 4 0 1 0 0 0 1 1 1 -- 0 -- 0 -- 0 2 -- .250 .250 .250 .500
1936 10 24 22 3 2 1 0 0 3 2 1 -- 0 -- 2 -- 0 4 -- .091 .167 .136 .303
1937 53 210 179 17 31 4 0 0 35 15 3 -- 6 -- 25 -- 0 12 -- .173 .275 .196 .470
1937 39 148 129 17 34 2 0 0 36 19 4 -- 4 -- 15 -- 0 11 -- .264 .340 .279 .619
1946 6 18 17 2 3 0 0 0 3 0 0 0 0 -- 1 -- 0 2 -- .176 .222 .176 .399
1947 87 268 253 22 56 5 1 0 63 15 4 4 2 -- 13 -- 0 22 -- .221 .259 .249 .508
1948 95 244 217 20 41 2 1 2 51 12 2 9 13 -- 14 -- 0 15 -- .189 .238 .235 .473
1949 5 4 3 1 1 0 0 0 1 2 0 0 0 -- 1 -- 0 0 -- .333 .500 .333 .833
1950 6 6 6 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 -- 0 -- 0 2 0 .000 .000 .000 .000
1951 2 2 2 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 -- 0 -- 0 1 0 .000 .000 .000 .000
通算:8年 305 928 832 83 169 14 2 2 193 66 15 13 25 -- 71 -- 0 71 0 .203 .266 .232 .498

記録

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背番号

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  • 20(1935年)
  • 11(1936年 - 1937年、1941年)
  • 5(1946年 - 1952年)
  • 50(1953年 - 1957年途中)
  • 31(1957年途中、1959年 - 1961年)

著書

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  • 『ニックネームはジャイアンツ―我が青春の巨人軍 (ヒューマン・ドキュメント)』誠文堂新光社、1986年 ISBN 978-4416886076

関連項目

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g h 森岡浩編著「プロ野球人名事典 2003」83頁(日外アソシエーツ、2003年4月)
  2. ^ a b c 『ジャイアンツ栄光の70年』37頁
  3. ^ a b 『巨人軍の男たち』54ページ
  4. ^ 『巨人軍の男たち』55ページ
  5. ^ 『日本プロ野球 歴代名選手名鑑』145ページ
  6. ^ 池部良『心残りは…』文藝春秋、2001年。ISBN 4163570101  p.166〜168

参考文献

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外部リンク

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