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ノン・ルフールマン原則

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ノン・ルフールマン原則(ノン・ルフールマンげんそく、: Non-refoulement)とは、生命や自由が脅かされかねない人々(特に難民)が、入国を拒まれあるいはそれらの場所に追放したり送還されることを禁止する国際法上の原則である。追放及び送還の禁止(ついほうおよびそうかんのきんし)とも。

個人の社会集団や階級の所属に基づく迫害の明らかな証拠のあるおそれに当てはまるアジールと異なり、追放の禁止は包括的な本国送還を扱い、一般に戦争地域と災害地域の難民のことである。

概要

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ノン・ルフールマン原則は個人が再び迫害を受けかねない地域への難民の排除を禁ずる国際法の強行規範であり、1951年の難民の地位に関する条約と1967年の議定書で成文化された。第二次世界大戦中、ナチス体制のせいで疑う余地のないジェノサイドから逃れた難民に安全な場所を提供することに、世界が失敗したとの記憶から発展している。今日ではノン・ルフールマン原則は、表面上は1951年の協定や1967年の議定書に署名した国から追い出されないように難民と認定された人々を守っている。しかし、難民や亡命者として認めないことでこの原則を回避しようとする国が実際には多いことが指摘されている。

ルワンダの1994年のジェノサイドにおけるタンザニアの行動は、この原則を侵害したと主張されている。難民が「大量出国」の段階に達した危機の最高潮の時期に、タンザニア政府はジェノサイドから逃れようとする5万人以上のルワンダ難民に対し国境を閉鎖した。1996年、ルワンダが安定したといえる状態に達しないうちに約50万の難民は、ザイールからルワンダに送り返された。

条約加盟国間で激しく議論の的になっている規定の灰色部分の一つは、第33条の解釈である。難民の可能性のある人々が公海を船で渡航することを禁ずるのは、特にアメリカ合衆国政府が公然と行ってきたことで、第33条が難民の入国を要請するものであるか、狭義の追放のみを禁じているだけであるのか疑問が呈されている。国際連合難民高等弁務官事務所 (UNHCR) は「大量流入の事態における庇護希望者の保護」に関する執行委員会で入国拒否の禁止がノン・ルフールマンの原則に含まれることを確認し、厳正に遵守されるべきであると結論している[1]

1951年以降、追放禁止の原則が規定された難民条約を140ヶ国が署名し、批准している。

歴史

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ノン・ルフールマン原則は、公式には1951年の難民の地位に関する条約に盛り込まれ、1984年の拷問等禁止条約第3条にも盛り込まれている。

ナチス・ドイツによって占領されたチェコスロバキアから逃れてきたユダヤ系難民。イギリス、クロイドン空港に空路で入国したが、書類不備を理由に警察に連行されている。彼らは後日、ヨーロッパへ強制送還された。1939年5月31日撮影

この原則は、第二次世界大戦中、ナチス・ドイツによる大量虐殺から逃れてきた難民に対し、受け入れ国側が安全な避難場所を提供できなかったという国際社会で共有された経験から生まれた。第二次世界大戦後、国際社会において、難民に対する国家の主権を多国間でチェックする必要性が明らかになった。戦時中、いくつかの国家はホロコーストから逃れてきたドイツやフランスのユダヤ人を、強制的に帰還させたり入国を拒否したりしていた。戦後、ソビエト連邦から逃れた何百万人もの難民や囚人が、送還後にソ連政府によって報復を受ける懸念があったにもかかわらず、強制的に帰国・帰還させられた。

ノン・ルフールマン原則は、国家が持つ、自らの国境とその中に住む国民を管理する権利を侵害するため、国家主権とは本質的に相容れない。第二次世界大戦直後の法的手続きにおいては、1951年に結ばれた難民の地位に関する条約第33条「追放及び送還の禁止」2[2]に見られるように、ノン・ルフールマン原則は特定の状況下においては制限されるものと認識されていた。

1960年代欧州人権委員会(ECHR)によってノン・ルフールマン原則は拷問の禁止の補助手段であることが認められた。拷問の禁止は強行規範(ユス・コーゲンス)であったため、拷問の禁止とこの原則の結びつきによって、追放と強制送還の禁止が絶対的な原則[3]とされたほか、国家による安全保障を目的とした強制送還に対して合法性が問われるようになった。1980年代ゼーリング判決英語版チャハル判決英語版といった判例や、様々な国際条約の解釈を通じ、欧州人権委員会は国家主権の維持よりも送還されうる個人の保護が優先されると判断するようになった。この解釈においては、たとえその難民がテロリストであったり受け入れ側の国家に対する差し迫った脅威であったとしても、その個人からノン・ルフールマン原則による保護は剥奪されない[3]

1990年代以降、アメリカ合衆国やヨーロッパで発生したテロリストからの攻撃を受けて、これらの国々からは、信憑性の高い脅威とされた難民に効率的に対処できる方法である強制送還は国家安全保障の観点から認められるべきだという声が高まっている。 その一方で、新規に締結された国際条約では一般的に、どのような状況であっても強制送還を認めない具体的な義務が盛り込まれるようになってきている。これらの要因は、各国やEUに対し、安全保障と人権のバランスの間を揺れ動きながら、どうノン・ルフールマン原則と向き合うかを模索させている[3]

こんにち、ノン・ルフールマン原則は、表向きには、1951年の「難民の地位に関する条約」、1967年の「難民の地位に関する議定書」、1984年の「拷問等禁止条約」のいずれかに加盟している国からの難民の追放・送還を防ぐため機能している。しかしながら、実際には、国際法の原則を無視した特定の署名国による難民の本国への送還・追放と、彼ら難民が潜在的な迫害者の手に渡っている状況を防ぐことはできていない[4]

事例

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ノン・ルフールマンの原則に関する一例は、西部スーダンダルフール紛争の難民320名を拘束した2007年のイスラエルである。この地域の反ユダヤ環境からイスラエルを守るために制定された法律のためにダルフール紛争からイスラエルに逃れた難民は、敵性国民とされ公安の対象として投獄された。200人は「脅威がない」とされ不追放原則の適用を受けず強制送還された。残りは紛争が静まり帰国できるまで働くためにキブツモシャブと呼ばれるイスラエルの集団農場へと釈放された[5]

脚注

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  1. ^ 第22号 (XXXII) 1981 大量流入の事態における庇護希望者の保護、UNHCR.
  2. ^ 難民の地位に関する1951年の条約”. UNHCR. 2021年5月17日閲覧。
  3. ^ a b c Bruin, Rene; Wouters, Kees (2003). “Terrorism and the Non-derogability of Non-refoulement”. International Journal of Refugee Law 15 (1): 5–29. doi:10.1093/ijrl/15.1.5. 
  4. ^ Zieck, Marjoleine (1997). UNHCR and Voluntary Repatriation of Refugees: A Legal Analysis. Martinus Nijhoff Publishers, 1997; p. 147. ISBN 9041104097
  5. ^ ロイターアラートネット - イスラエル・スーダン:イスラエルのNGOは、拘束された難民を釈放するために努力している。

外部リンク

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