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タシュケント

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
タシケントから転送)
タシュケント
Toshkent
Тошкент
ウズベキスタンの旗
タシュケント市内の夜景(2019年撮影)
タシュケント市内の夜景(2019年撮影)
タシュケントの市旗 タシュケントの市章
市旗 市章
位置
タシュケントの位置(ウズベキスタン内)
タシュケント
タシュケント
タシュケント (ウズベキスタン)
タシュケントの位置(West and Central Asia内)
タシュケント
タシュケント
タシュケント (West and Central Asia)
タシュケントの位置(西南アジア内)
タシュケント
タシュケント
タシュケント (西南アジア)
地図
座標 : 北緯41度18分 東経69度16分 / 北緯41.300度 東経69.267度 / 41.300; 69.267
行政
ウズベキスタンの旗 ウズベキスタン
 行政区画 タシュケント特別市
 市 タシュケント
市長 Rakhmonbek Usmonov
地理
面積  
  市域 334.8 km2
標高 455 m
人口
人口 (2012年現在)
  市域 2,197,907人
  備考 [1]
その他
等時帯 UTC+5 (UTC+5)
市外局番 +998 71(2)
公式ウェブサイト : http://www.tashkent.uz/

タシュケントウズベク語: Toshkent, Тошкент [tɒʃˈkent]ロシア語: Ташкент, Tashkent, [tɐʂˈkʲent])は、ウズベキスタン首都。人口219万人は中央アジア最大級である。ウズベキスタン北東部、シルダリヤ川の支流であるチルチク川の流域に位置する歴史的なオアシス都市。

名前の由来

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都市名はテュルク語で「石の町」という意味である。ペルシア語表記では تاشكند (Tāshkand) である。タシケントと表記されることも多い。

地理

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地区

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タシュケントの地区
タシュケントの通り
ヤッカサライ地区にあるタシケント抑留日本人墓地

タシュケントは現在以下の地区(ウズベク語: Tuman)に分かれている。

番号 地区名 人口
(2009)[2]
面積
(km2)[2]
人口密度
(人/km2)[2]
地図
1 ベクテミール地区英語版 27,500 20.5 1,341
2 チランザール地区英語版 217,000 30.0 7,233
3 ヤシュナバード地区英語版 204,800 33.7 6,077
4 ミラバード地区英語版 122,700 17.1 7,175
5 ミルザ・ウルグベク地区英語版 245,200 31.9 7,687
6 セルゲリ地区英語版 149,000 56.0 2,661
7 シャイハンターフル地区英語版 285,800 27.2 10,507
8 アルマザール地区英語版 305,400 34.5 8,852
9 ウチュテパ地区英語版 237,000 28.2 8,404
10 ヤッカサライ地区英語版 115,200 14.6 7,890
11 ユヌサバード地区英語版 296,700 41.1 7,219

トルキスタン総督府が置かれていた時代は4つの地区 (daha) から成り立っていた。ベシュヤグハチュ、ククチャ、シャイハンターフル、セブザール。

1940年に地区 (ロシア語: район) の見直しが行われ6地区に再編された。オクティアブルキーロフスターリンフルンゼレーニンクイビシェフ

1981年までに現在のような11地区に改編された[3]

人口

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人口統計

1983年時点において、タシュケント256km2圏内に住む人口は約1,902,000人であった。1991年には約2,136.600人へと増加した。タシュケントはソビエト連邦時代にはモスクワ、レニングラード(サンクトペテルブルク)、キエフに続く第4の都市であった。現在でもタシュケントはCIS諸国バルト三国の中で第4の都市の地位を維持している。 2012年1月1日時点のタシュケントの人口は約2,309,300人であった[4][5]。 (これには一時的な居住者が含まれていると推定されている[1]。)

現在のタシュケントの民族構成はウズベク人が多数を占め、2013年の調査では65.0%となっている。一方、ロシア人は1970年当時は40.8%を占めていたが2013年には18.0%まで急減している。これは、ウズベク人の流入や高出生率による人口増加と独立以降のロシア系住民の流出や低出生率によるものである。

また、民族調査ではウズベク人としてカウントされているタジク人も相当数いると見込まれる他、ウクライナ人タタール人クリミア・タタール人ウイグル人アルメニア人高麗人カザフ人などで構成される多民族都市となっている。タシュケントではウズベク語を理解しない人も少なくなく、ウズベキスタンでは独立時にロシア語は公用語から排除され、ウズベク語への一本化が図られたもの、ロシア系住民の多いタシュケントではロシア語は広く共通語として用いられている。タシュケントのロシア人人口は最盛期には70万人に達していたが、2013年には42万人に減少した。それでもロシアウクライナ国外の都市の中で、カザフスタンアルマトイに次ぐ人口規模となっている。

民族 1970年(人) (%) 1989年(人)[6] (%) 2008年(人) (%)[7] 2013年(人) (%)
ウズベク人 - - 907,842 44.2% - 63.0 % 1,528,000 65.0%
ロシア人 564,880 40.8%[6] 699,262 34.0% - 20.0 % 423 000 18.0%
タタール人 - - 128,790 6.8% - 4.5 % 105,000 4.5%
その他 - - - 15.0% - 12.5 - 12.5%

歴史

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古代

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タシュケントはソグド語での古名をチャーチュ (c'c : Čāč)、またはチャーチュカンドともいい、ペルシア語でもチャーチュ( چاچ Chāch)と称し、アラビア語ではシャーシュ( شاش Shāsh)と呼ばれた。『シャー・ナーメ』でもそのように記されている。チルチク川の形作るタシュケント・オアシスの主邑として、またカザフ草原天山山脈北麓の遊牧地帯とマー・ワラー・アンナフルのオアシス定住農耕地帯を中継する商業都市として古代から繁栄した。 康居の中心地であったと推定される。

国際交易では中国にまで名を知られ、『後漢書』以来石国と呼ばれた。また「チャーチュ」の音写として「者舌」(『魏書』)や時代の「柘支」、玄奘三蔵の『大唐西域記』では「赭時」と書かれた。ソグド人が中国地域で用いた一字姓では、チャーチュ出身者は「石」姓を名乗った。750年にはの将軍高仙芝が石国に侵攻したためにシャーシュ(チャーチュ)はイスラムのアッバース朝に支援を求め、タラス河畔の戦いのきっかけをつくった。その後、さまざまなイスラム王朝と北方の遊牧民の支配を経て次第に都市住民のイスラム化・テュルク化が進展した。サーマーン朝時代にはBinkathとも呼ばれた。

中世

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カラハン朝10世紀末頃から「タシュケント」の名も現れる。1214年にはホラズム・シャー朝に、1219年にはチンギス・カンに、それぞれ破壊される。しかし、ティムール朝そしてシャイバーニー朝によって町は再建される。『西域番国志』によると、15世紀初頭、永楽帝の命を受けた陳誠が、陸路でこの地(「達失干」と記録されている)を訪れている。

モンゴル帝国時代にはペルシア語の「チャーチュ」やアラビア語の「シャーシュ」で呼ばれるのが一般的であったようだが、ムガル朝の始祖バーブルは自伝である『バーブル・ナーマ』において「タシュケンドは書物には“シャーシュ”または“チャーチュ”と書かれて」いると述べており、彼が中央アジアで活躍した16世紀頃には既に「タシュケント」の方がティムール朝の王族たちなどではより一般化していたらしいことが窺える。都市の名前が「チャーチュ(シャーシュ)」から「タシュケント」へ変化した原因は、恐らく「チャーチュ」の音写に由来する「石国」をウイグル地方などのテュルク語で直訳した形だと思われるが、これが現地でも使われるようになったのはウイグル地方とマー・ワラー・アンナフル双方を領有していたチャガタイ・ウルスの影響が考えられる。

近代

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1865年当時の街の区画
1917年当時の街の様子を描いた絵

タシュケントは、1809年にはコーカンド・ハン国の支配下に入った。当時、人口は10万人を越えてロシアとの交易で栄える経済都市となった。 1865年帝政ロシア軍が夜間攻撃で侵攻、防御が堅固で激しい戦闘となったが制圧に成功、ロシアはタシュケントを直轄領に組み入れ、1867年トルキスタン総督府が設置され、ロシアの中央アジア支配の拠点となった。旧市街の外側にロシア人の住む新市街ができ、ロシア人商人などが続々と移住してきた。また、中央アジアをめぐるロシアと英国の衝突で、スパイの暗躍する町となった。1874年トルキスタン軍管区設置や1889年カスピ海横断鉄道延伸などの新事業に従事する労働者階級のロシア人は、やがてロシア革命の中央アジアでの担い手となっていった。

ロシア革命が起こると、トルキスタン自治ソビエト社会主義共和国の首都となり、再び中央アジアをめぐるロシアと英国が衝突し、英国のフレデリック・ベイリー英語版らスパイの暗躍する町となった。1924年にはウズベク・ソビエト社会主義共和国に編入され、1930年サマルカンドに代わって首都となった。

第二次世界大戦が起こると、ナチス・ドイツの侵攻を受けたヨーロッパ・ロシアから工場が疎開され、市の工業化が進み、ロシア人の割合も急増していった。 戦後、第386収容地区(ラーゲリ)が設置され、日本人のシベリア抑留の対象地のひとつとなった[8]。日本人捕虜は、中央アジア最大のバレエ・オペラ劇場たるナヴォイ劇場の工事などに従事した。犠牲となった者の日本人墓地も残る。

戦後から現代

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1966年4月26日、大地震に見舞われ、78000棟の家屋が倒壊した。地震後、計画的な都市作りが行われたため、非常にソ連的な町並みとなった。ソ連時代、ウラル山脈の東で最大の都市であった。アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)ではソ連の軍事的拠点となった。ウズベキスタン独立後の今日でも大きなロシア人社会を抱えているが、町並みからロシア色は消えつつある。

経済

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屋内中央市場 内部

商業

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古来より、タシュケントはシルクロードの中継都市として多くのものが集まる物流の中心地として発展していた。現在でも大規模なチョルスー・バザールが所在するなど国内最大の商都である。

都市開発

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情報通信

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マスメディア

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放送局

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また、中央アジアでは最も早く2008年デジタル放送が導入され、2015年を目処に完全移行する予定である[10]。(その後、トルクメニスタンでは2011年[11]カザフスタンでは2012年にデジタル放送が導入された[12]キルギスタジキスタンでは2015年までにデジタル放送が導入される予定である[13][14]。)

新聞社

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  • ウズベク語による新聞9紙が発行されており、その他に英字新聞4紙、ロシア語新聞9紙が発行されている。

教育

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ウェストミンスター国際大学タシュケント校のキャンパス

タシュケントには、ウズベキスタン科学アカデミーのような国内でも重要とされる科学研究所が設置されている。タシュケントには大学や研究所をはじめとする複数の高等教育機関がある。

大学

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主な大学

研究機関

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主な研究所

その他の教育機関

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交通

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タシュケント国際空港
タシュケント駅
タシュケント地下鉄路線図
※現在4号線としてイエローラインを計画中

市内交通は、地下鉄路線バスなどがある。タシュケント地下鉄は、中央アジア初で、ソ連時代にソ連で7番目の地下鉄として1977年に開業した(着工のきっかけとなったのは、1966年の地震である)。現在3路線で29駅。

空港

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  • タシュケント国際空港が12km南東にある。ウズベキスタンのみならず中央アジア最大の空港である。ウズベキスタンとアジア、ヨーロッパ、北アメリカ大陸を結ぶ空の玄関口となっている。

鉄道

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代表となる駅
主な路線

バス

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路線バス

気候

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ケッペンの気候区分では地中海性気候に属する。夏は、7月の平均気温が27.8℃で、最高気温は40度に達する日も多く、暑さと乾燥が厳しいが朝晩は涼しくなる。冬は降水量が多く、1月の平均気温は1.9度と寒さはそれほど厳しくないため雨の場合が多いが、寒気による影響で積雪となることもある。年によってはマイナス15度前後まで下がることもあり、過去には-28.0度を記録している。年間平均気温は14.8度。年間総降水量は440mmである。

タシュケント (1981-2010)の気候
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
最高気温記録 °C°F 22.2
(72)
25.7
(78.3)
32.5
(90.5)
36.4
(97.5)
39.9
(103.8)
43.0
(109.4)
44.6
(112.3)
43.1
(109.6)
39.8
(103.6)
37.5
(99.5)
31.1
(88)
27.3
(81.1)
44.6
(112.3)
平均最高気温 °C°F 6.8
(44.2)
9.4
(48.9)
15.2
(59.4)
22.0
(71.6)
27.5
(81.5)
33.4
(92.1)
35.7
(96.3)
34.7
(94.5)
29.3
(84.7)
21.8
(71.2)
14.9
(58.8)
8.8
(47.8)
21.6
(70.9)
日平均気温 °C°F 1.9
(35.4)
3.9
(39)
9.4
(48.9)
15.5
(59.9)
20.5
(68.9)
25.8
(78.4)
27.8
(82)
26.2
(79.2)
20.6
(69.1)
13.9
(57)
8.5
(47.3)
3.5
(38.3)
14.8
(58.6)
平均最低気温 °C°F −1.5
(29.3)
0.0
(32)
4.8
(40.6)
9.8
(49.6)
13.7
(56.7)
18.0
(64.4)
19.7
(67.5)
18.0
(64.4)
12.9
(55.2)
7.8
(46)
4.1
(39.4)
0.0
(32)
8.9
(48)
最低気温記録 °C°F −28
(−18)
−25.6
(−14.1)
−16.9
(1.6)
−6.3
(20.7)
−1.7
(28.9)
3.8
(38.8)
8.2
(46.8)
3.4
(38.1)
0.1
(32.2)
−11.2
(11.8)
−22.1
(−7.8)
−29.5
(−21.1)
−29.5
(−21.1)
降水量 mm (inch) 53
(2.09)
64
(2.52)
69
(2.72)
61
(2.4)
41
(1.61)
14
(0.55)
4
(0.16)
1
(0.04)
6
(0.24)
24
(0.94)
44
(1.73)
59
(2.32)
440
(17.32)
平均降水日数 13.7 12.3 13.8 12.9 10.2 5.1 2.9 1.9 3.2 8.1 10.2 12.8 107.1
湿度 73 68 62 60 53 40 39 42 45 57 66 73 56
平均月間日照時間 124.0 112.0 155.0 240.0 310.0 360.0 403.0 372.0 300.0 248.0 150.0 124.0 2,898
出典1:Pogoda.ru.net[27], World Meteorological Organisation (number of precipitation days)[28]
出典2:Hong Kong Observatory (sun only)[29]

観光

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ウズベキスタン外務省迎賓館
ナヴォイ劇場
ウズベキスタン国立応用美術館
チャルヴァク湖

1917年のロシア革命で一旦古い町並みが破壊され、さらに1966年タシュケント地震で古い建物はほとんどが破壊されたため歴史ある建物は数少ない。しかし、タシュケントはソビエト連邦時代に建設されたモニュメントなどの像が多く街に残っている。ウズベキスタンの首都、および中央アジア最大の都市ということもあり、観光施設も多い。[30]

観光スポット

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主な観光施設

アミール・ティムール広場に設置されていたロシア正教会1898年に建設されたが、2009年に取り壊された[33][34][35]

また、タシュケント郊外のチャルヴァク湖は行楽地として有名で、マリンスポーツウィンタースポーツを楽しむことができる。

文化・名物

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スポーツ

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国立競技場、パフタコール・マルカジイ・スタジアム

サッカー

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サッカーはタシュケントで最も人気の高いスポーツであり、タシュケントを本拠地とするサッカークラブ、FCパフタコール・タシュケントPFCロコモティフ・タシュケントFCブニョドコルが国内最上位リーグのウズベク・リーグに参加している。FCブニョドコルは2008年にAFCチャンピオンズリーグの決勝トーナメントにまで進出、2012年にはAFCチャンピオンズリーグ2012でベスト4にまで進出した。サッカー選手のピーター・オデムウィンギーサンジャール・トゥルスノフもまたこの街の出身である。

アイスホッケー

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フモ・タシュケントは将来KHL加盟を目指すアイスホッケークラブで、2019年に発足。同市内のフモ・アリーナが本拠。

テニス

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世界でも有名な自転車競技選手ジャモリディネ・アブドヤパロフはこの街の出身である。また、テニス選手のデニス・イストミンはこの街で育った。 アクグル・アマンムラドワイロダ・ツルヤガノワもまたタシュケント出身のテニス選手として名高い。

新体操

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新体操選手のアリーナ・カバエワ体操選手のアレクサンデル・シャティロフ英語版はこの街の出身である。

カヌー

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カヌー競技のカヤック一人乗り500mスプリント前世界王者でオリンピック銅メダリストのミカエル・コルガノフ英語版もまたタシュケント出身である[36]

対外関係

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姉妹都市・提携都市

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ギャラリー

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出典

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  1. ^ a b Uzbekistán: Las ciudades más grandes con estadísticas de población”. 2012年7月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年3月19日閲覧。
  2. ^ a b c (ロシア語) Statistics of the subdivisions of Tashkent アーカイブ 2015年2月7日 - ウェイバックマシン
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  30. ^ UZBEK friends(ウズベクフレンズ)[リンク切れ]
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  32. ^ タシケント抑留日本人墓地 | 中央アジアのクロスロード-ウズベキスタン
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  36. ^ Sports-reference.com”. 2013年12月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年5月4日閲覧。
  37. ^ 名古屋市とウズベキスタンのタシケント市が「パートナー都市協定」締結

関連項目

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外部リンク

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