ジョセフ・ミクルスウェイト (初代ミクルスウェイト子爵)
初代ミクルスウェイト子爵ジョセフ・ミクルスウェイト(英語: Joseph Micklethwaite, 1st Viscount Micklethwaite、1680年頃 – 1734年1月16日)は、グレートブリテン王国の政治家、アイルランド貴族。
生涯
[編集]ジョセフ・ミクルスウェイト(Joseph Micklethwait[1])とコンスタンティン・ミドルトン(Constantine Middleton、庶民院議員トマス・ミドルトンの娘)の次男として、1680年頃に生まれた[1]。
第3代シャフツベリ伯爵アントニー・アシュリー=クーパーの部下としてオランダで働いた後、1709年に第2代準男爵サー・ジョン・クロプリーの紹介状を得て在スペインイギリス特命公使のジェームズ・スタンホープの秘書として働き、スタンホープが帰国した後もその部下として働いた[1]。
1718年3月18日、兄トマスが陸軍支払副官(Lieutenant Genearl of the Ordnance)に就任したため、議員を一旦辞任して補欠選挙が行われることとなったが、トマスは補欠選挙が行われる前の3月28日に死去[2]、ジョセフは同日に兄の遺産を継承した後、翌日の補欠選挙で当選してアランデル選挙区の議員になった[1]。議会では与党の一員として投票し[1]、1724年8月14日にアイルランド貴族であるクイーンズ・カウンティにおけるポータリントンのミクルスウェイト男爵に叙された[3][4]。
1727年にジョージ2世が即位すると、同年6月6日にアイルランド貴族であるロングフォードのミクルスウェイト子爵に叙された[3][5]。1727年イギリス総選挙ではキングストン=アポン=ハル選挙区に鞍替えして再選した[1]。
1734年1月16日に生涯未婚のまま死去、26日に埋葬された[3]。爵位は全て廃絶[3]、遺産は愛人であるアン・ユーア(Anne Ewer、1738年没、第3代シャフツベリ伯爵の姉妹にあたる)が継承、アンの死後は遺産がシャフツベリ家に渡った[1]。
出典
[編集]- ^ a b c d e f g Newman, A. N. (1970). "MICKLETHWAIT, Joseph (c.1680-1734), of Swine, nr. Hull, Yorks.". In Sedgwick, Romney (ed.). The House of Commons 1715-1754 (英語). The History of Parliament Trust. 2020年1月18日閲覧。
- ^ Newman, A. N. (1970). "MICKLETHWAIT, Joseph (c.1680-1734), of Swine, nr. Hull, Yorks.". In Sedgwick, Romney (ed.). The House of Commons 1715-1754 (英語). The History of Parliament Trust. 2020年1月18日閲覧。
- ^ a b c d Cokayne, George Edward, ed. (1893). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (L to M) (英語). Vol. 5 (1st ed.). London: George Bell & Sons. p. 307.
- ^ "No. 6292". The London Gazette (英語). 4 August 1724. p. 1.
- ^ "No. 6585". The London Gazette (英語). 27 May 1727. p. 1.
グレートブリテン議会 | ||
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先代 ヘンリー・ラムリー トマス・ミクルスウェイト |
庶民院議員(アランデル選挙区選出) 1718年 – 1727年 同職:ヘンリー・ラムリー 1718年 – 1722年 トマス・ラムリー 1722年 – 1727年 |
次代 サー・ジョン・シェリー準男爵 ゲージ子爵 |
先代 ナサニエル・ロジャース ジョージ・クロール |
庶民院議員(キングストン=アポン=ハル選挙区選出) 1727年 – 1734年 同職:ジョージ・クロール |
次代 ジョージ・クロール ヘンリー・マイスター |
アイルランドの爵位 | ||
爵位創設 | ミクルスウェイト子爵 1727年 – 1734年 |
廃絶 |
ミクルスウェイト男爵 1724年 – 1734年 |