カタリーナ・アヴ・スヴェーリエ
カタリーナ・アヴ・スヴェーリエ Katarina av Sverige | |
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出生 |
1584年11月10日 スウェーデン、ニシェーピング、ニシェーピング城 |
死去 |
1638年12月13日(54歳没) スウェーデン、ヴェステロース |
埋葬 | スウェーデン、ストックホルム、リッダーホルム教会 |
配偶者 | プファルツ=クレーブルク公ヨハン・カジミール |
子女 | 一覧参照 |
父親 | スウェーデン王カール9世 |
母親 | アンナ・マリア・フォン・デア・プファルツ |
カタリーナ・ヴァーサ・アヴ・スヴェーリエ(Katarina Vasa av Sverige, 1584年11月10日 - 1638年12月13日)は、スウェーデン王カール9世とその最初の妃でプファルツ選帝侯ルートヴィヒ6世の娘であるアンナ・マリアの間の娘。グスタフ2世アドルフの異母姉、カール10世グスタフの母親。プファルツ=クレーブルク公ヨハン・カジミールに嫁いだ。
生涯
[編集]カタリーナは幼くして実母を亡くしたが、継母のクリスティーナとは非常に仲が良く、腹違いの弟妹たちにも慕われていた。1611年に父王が亡くなり、弟グスタフ・アドルフが即位すると、カタリーナは若い新王の腹心にして助言者となった。1615年6月11日、カタリーナはドイツのプファルツ=クレーブルク公ヨハン・カジミールと結婚した。夫妻は結婚後2年間はスウェーデンに滞在し、1617年にドイツに移った。
1622年、グスタフ・アドルフはドイツで三十年戦争が深刻化していくのを憂慮し、姉カタリーナとその家族にスウェーデンへ避難するように申し出た。クレーブルク公爵夫妻はこれを承諾し、国王が住まいとして用意したエステルイェートランド地方のステゲボリ城に移り、カタリーナはステゲボリ伯爵夫人(Grevinna av Stegeborg)を称した。1632年にグスタフ・アドルフが戦死し、王妃マリア・エレオノーラが悲嘆にくれて子育てを放棄すると、カタリーナが幼い姪のクリスティーナ女王の母親代わりとなった。カタリーナは1631年から1633年、1636年から1638年のあいだクリスティーナの公的な保護者だったが、クリスティーナは伯母に育てられた時期を非常に幸福だったと述懐している。
1695年に完成したストックホルムのカタリーナ教会は、カタリーナの名に因んだものである。また、1654年のクリスティーナ女王の退位後、3人(フレドリク1世、カール14世ヨハンとその息子オスカル1世)を除いて歴代のスウェーデン王はすべてカタリーナの血筋を引いている。
子女
[編集]夫のヨハン・カジミールとの間に8人の子女をもうけた。
- クリスティーネ・マグダレーナ(1616年 - 1662年) - 1642年、バーデン=ドゥルラハ辺境伯フリードリヒ6世と結婚
- カール・フリードリヒ(1618年 - 1619年)
- エリーザベト・アマーリア(1619年 - 1628年)
- カール・グスタフ(1622年 - 1660年) - プファルツ=クレーブルク公、スウェーデン王カール10世
- マリー・オイフロジーネ(1625年 - 1687年) - 1645年、マグヌス・ガブリエル・ド・ラ・ガルディ伯爵と結婚
- エレオノーレ・カタリーネ(1626年 - 1692年) - 1646年、ヘッセン=エシュヴェーゲ方伯フリードリヒと結婚
- アドルフ・ヨハン1世(1629年 - 1689年) - プファルツ=クレーブルク公
- ヨハン・グスタフ(1630年)
参考文献
[編集]- http://www.historiesajten.se/visainfo.asp?id=402 (in Swedish)
- http://runeberg.org/sqvinnor/0102.html (in Swedish)
- Marie-Louise Rodén: Drottning Christina (Queen Christina) (2008) (in Swedish)
- http://runeberg.org/nf/ (in Swedish)