アシュラフ・カーンスーフ・ガウリー
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アシュラフ・カーンスーフ・ガウリー الأشرف قانصوه الغوري | |
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ブルジー・マムルーク朝第24代スルターン | |
アシュラフ・カーンスーフ・ガウリーの肖像画( パオロ・ジョヴィオ筆) | |
在位 | 1501年 - 1516年 |
死去 |
1516年8月24日 |
王朝 | ブルジー・マムルーク朝 |
アシュラフ・カーンスーフ・ガウリー(アラビア語:الأشرف قانصوه الغوري 転写:al-Ashraf Qānṣūh al-Ghaurī、? - 1516年8月24日)は、ブルジー・マムルーク朝の第24代君主(在位:1501年 - 1516年8月24日)。
生涯
[編集]1501年に即位したガウリーは斜陽の途にあったマムルーク朝を再建するため、弱体化して役立たずになっていたマムルークに代わってアビード(黒人奴隷)やズール(ヤクザ)などを徴兵してマムルーク軍団からの脱却を図った[1]。また銃砲など新たな装備も行なったりして諸改革に着手した。
しかしマムルーク朝はすでに外圧に苦しめられていた。インド洋にはポルトガルやサファーヴィー朝の進出が行なわれ、オスマン朝もキリキアを支配下に置いてマムルーク領のシリア北部を脅かし出した。しかし財政的にも苦しかったマムルーク朝では有効な手立てを取れずにいた。
オスマン朝のセリム1世はマムルーク朝の衰退を見てシリア遠征を決意。ガウリーもこれを迎え撃つためシリアに進出した(マルジュ・ダービクの戦い)。兵力ではガウリーの方が優勢だったが[2]、交戦中に味方の寝返りが起こって大敗[3]。ガウリーは敗走中に戦死した[4]。
この戦いでマムルーク軍は7万の兵力を失うという致命的な大敗を喫し[5]、マムルーク朝は翌年にセリム1世によって滅ぼされた。